カズンズ

その日、午前四時。
電話の着信音で僕はふいに眠りから呼び戻された。相方の結城らんなからのコールだった。
「まりのさん、死んじゃったんだって!? 今、友達からメールが来たんだけど…」
「……ええ?」
仕事場で横になって一時間も経っていなかった。頭が一気に覚醒した。
慌ててネットを繋ぎあちこちの関係サイトを開いていき、まりのさんのユニット「NURK TWINS」のBBSに辿り着く。
一緒にユニットを組んでいた後藤さん(松本惇)が書き込んでいた。
事実だった。前日、病院で息をひきとったという。
正直、ショックは無かった。ここ数年の彼を見ていて、覚悟をしていたからだ。

平成16年、10月12日。
西崎まりのが死んだ。
僕にとって、兄のように慕っていた存在だった。



いったいいつ頃まりのさんと知り合ったのか、ということになると記憶がはっきりしない。
当時、司書房にMという編集アルバイトがいた。彼は西崎まりのや松原香織など「ラム」に執筆している作家のところに出入りしていた。(早瀬たくみの作品中『ぷよ太』というキャラクターでも登場している。)彼は高塚さのりと意気投合、高塚邸にも顔を出すようになる。
そのMからの紹介だったのか、或いは編集長・山田さんからだったのかは既に記憶が定かではないのだが、僕が司書房で描くようになるよりも前には既に紹介されていたのは事実だと思う。
十月革命Ⅱ』という同人誌を出したあの年の夏コミの時には既知だったはずだ。
あの当時のまりのさんは「ラム」でも描いていた速水裕氏の師匠的存在で、同じ夏コミで出た同氏の同人誌『PLASTIC TRIP』の装幀デザインを手がけていた。その直後五反田のまりのさんのマンションでその本の在庫の山を見た記憶がある。
    *   *   *   *
僕の記憶の中の『ストーリー』では、いつもの様に編集部に遊びに行った折、そこに居たまりのさんを山田編集長から
「あ、こっち西崎まりのさん。西崎さん、彼、森林林檎くんのトコでアシをやってる浦島くん」
といった紹介をされたのだと考えている。
昭和63年。おそらくは、初夏。すでにその頃になると高塚さのりと共に編集部で晩飯にありつく程入り浸っていたので、そんな機会もあったのだろう。
もちろん当時は僕のほうはファンであっても、まりのさんにとっては一介のアシスタントに過ぎない。

直後くらいから先のMの仲介でまりのさん宅「五反田雀荘」に高塚が面子合わせで通うようになる。山田編集長、早瀬、いぶきのぶたか辺りがメンバーだった。僕は麻雀をしないので、せいぜい付いて行くだけ。
やがて僕はその「ラム」に拾われデビューするが、暫くはそんな関係だった。

その頃、僕は「ロリポップ」の川瀬さんから「えっちなんだけど、少女まんがの様な心理描写のあるお話を」という要請を受ける。ラム本同人誌『十月革命』で、当時は殆ど存在しなかったそうした描写を武器に「目立つ」戦略をした自分にとってはまさに打ってつけの素材だった。当時、エロ漫画商業誌でそんな漫画はほぼ皆無だったと云っていい。白倉由美はより少女漫画的であり、所謂「男がヌける」漫画というものとは違った。
平成元年、春。短編「ハンサム・ガール」を経て、全三回の中編「カズンズ」を僕は執筆する。
正直あの時代、誰でもデビューすれば「描けば載る」ような状況だった。出版社もいったい何が受けるのか手探りだった。その中で明確に「こんなものを」という編集の指針を示した川瀬氏を僕は評価している。
と同時に、この「カズンズ」のような、こういった世界が僕の描くべきもの、読者に提供していくべきものなのだ、ということをはっきりと自覚させてくれた。デビュー半年足らずで己れの立ち位置を自覚させてもらえたことは後の自分に大きな力となった。
もっとも、あの時代がそのような作品を描かせてくれることを許さなくなっていったが。各雑誌は「当たり障りの無い軽いラブコメタッチのエロ」を求めるようになる。
そんなセンチメンタリズムを前面に出した作品が認められるのは、田中ユタカの登場まで待たなくてはならなかった。

望まれるまま僕は他の作家たちと同様の「軽いタッチのラブコメエロ」を量産するようになる。

が、作家とは我儘なものだ。
僕は自分の作家性を押し出した作品を描きたいと考えるようになっていく。
それは、「カズンズ」とはまた違う、凌辱的な作品だった。
「奴婢訓(ぬひくん)」というタイトル。僕はその企画を司書房に持っていった。