専門性。

▶ビジネス系の過去のAサイドのエントリーをこちらで少し固めてみる。

こういった仕事で、個人のキャリアにおける成果をあげようと思えば、「専門バカ」にならなければならない。「専門バカ」なんて言い方は何かと誤解を招きがちだが、ここで言いたいのは、一度は「専門バカ」にまで降りていくといった経験がないとだめだということだ。そのときの分野は問わない。コピー・ライティングでもいいし、WEBでもいいし、編集でもいい。もちろん、カスタマー・インサイトでもいいし、プロジェクト・マネジメントでもいい。特定の分野における製品知識でもかまわない。また、キャリア形成において時間的余裕があり、しっかりバカといわれる領域まで降下できて、かつそこから浮上できるのなら、べつに一度でなくても、何度でも専門バカになったっていい。さらに、そこで特定の専門性の魅力に気づいたのであれば、ジェネラルの世界に浮上できなくなったって、そのひとつの道にまい進することを心から応援する。ただし、いま、その領域に踏み入れたことのない人にとってみれば、気の遠くなるような勤勉が必要になるのは言うまでもない。

なぜ「専門性」が必要なのか。ひとつは、そこまで大量の情報を身の回りにおき、そのことだけを集中して何時間も何日も、寝食を惜しんで、深く深く考え続けてはじめて見えてくるものがきっとあるはずだし、逆に、そこまでしなければ見えないものも必ずある。そこで見えたものでなければ、自家薬籠中のものとして語れない。自家薬籠中のものとして語れなければ、オフィシャルの場で語る意味はまったくない。そして、そこまでしなければ見えないものしか世の中では通用しない、というぐらいに思っておく必要がある。コミュニケーション産業の周辺はかなり高度化している。

「我々としては、そういうことは概念だけ知っていればよく、あとはプロに任せたらいいのだ」とう人もいる。もちろん、そういう生き方もある。しかし、この箴言には慎重に向きあわなければならない。まず、そういう言い方をする以上は、引っ張りだしてくるプロを質的にも量的にも大量に抱えているメタプロにならねばならない。しかし、仲良し倶楽部ではないわけだから、自分自身にある程度専門的な知見がない限りは有効なネットワークはついてこない。最強のメタプロでもないのに、あれもこれもプロに任せすぎたため、結局は自分の中で、より実践的な専門性がひとつも形成されず、人がいなければ、結局なにもできなくなってしまった、という人を私は何人も見てきている。

いやいや、こういった仕事は人の塊というチームでやるもので、そこでのリーダーシップがうまく発揮できればいいんだろ、という声も聞こえてくる。先の「概念だけ…」にしても「チームで…」にしても、いまや美談としてセオリー化しているが、その美談の影に隠れた意味にしっかり気づく必要がある。チームというのは原則として、目的にむかって合理的にことをなす集団である。トレーニング中のジュニアを除いて、その目的達成に対しなんらかの知見のあるメンバー、つまり専門性のあるメンバーで形成されていなければチームを組んでいる意味がない。そして、そういったメンバー5人で、2×3×5×2×4の相乗的な力が発揮されたとしても、最終的にそこに0が乗算されれば0になるのだ。このことを忘れてはならない。チームを組むときに、あいつはこの分野の専門としていれておきたい、という評判が社内外で囁かれる程度の専門性は身につけアピールしておきたいものだ。ジェネラルなリーダーではあるが、じつはあの分野とあの分野についてはかなり深い、といわれるディレクターなりプロデューサーというのが、というのが理想的ではある。

「専門性」が必要な二つ目の理由。正確に言うと「専門性」を何が何でも身につけなければならない二つ目の理由は、これまで専門的と思われていたことが、加速度的にコモディティ化しているからだ。総表現時代。総学習時代というのもあるかもしれない。

顕著なのは、コピーライティングか。ちょっとした巧みな文章をかける人は、ほんとうにたくさんいる。そういったなかで、専門性の高いコピーとはどういったものなのか。定義はもとより、具体的な技術で総表現を凌駕するようなコピーライティングを鍛錬していかなければならない。ある商品を前にして、ヘッドラインはもとよりボディコピーにおいても誰でもが書けるような自動化された文章を書いてしまうことにつねに恐れを感じなければならない。
差別化のためにどうすればいいのか。悟性的なるものは重要だ。しかし、感性的なるものも欠かせない。前者については、ファクト収集力・把握力、仮説力そして構造力に磨きをかけることだ。つまり、こういったことを伝えなければならないからこのコピー要素が必要なのだ、ということをしっかり議論できるコピーでしか、競合他社とも一般人とも差別化できない、ということだ。後者については、気のきいた語彙をたくさんストックしておく、というのは確かにある。もちろんそれはテレビで誰かが言っていたようないかしたクリシェではない。テレビ漬けになっていると、無意識のうちに盲従的に、そういった言葉を使ってしまうので注意が必要だ。
もはや、こたえは一つしかない。この日本において書かれたものを読みまくるしかないのだ。そして、普段から書きまくる習慣をつけるしかない。しかし、なにより重要なのは(「何を言う」かは揺ぎなく論理づけたうえで、かつリーダビリティは前提として)、「どう言うか」の部分について、自分らしさを出してみたいという意志に徹底して執着することだ。なにか流されずに(「なにか」の中での、いちばんのエネミーは自分だ)、新しいファクト、新しい仮説、新しい表現に固執することを繰り返すことでしか、差別化できるコピーは生まれないし、それがないとそもそもコピーライティングなんて、まったく面白くない。

マーケティング知識なんていうのも同じだ。たとえば、クライアントのマネージャーの元には、そういった知識は、受動的とはいえ、彼のもとに集う広告代理店、マーケティング会社、経営コンサルタントからまるで上納されるかのようにたくさん集まってくる。私たちが学習の手綱を緩めれば、あっという間にクライアントと話ができなくなる。つねに、能動的に新しい理論を仕入れること。それを実践できるフレームワークにオリジナリティを加味してブレイクダウンしておくこと。もし、ある程度の高みを目指すなら、こういったことをストレスをかけて実行していかなければならない。
私が、よく言う「つねに、新しいものを目指すべきだ」という号令の真意はこういうことだ。

もちろん、どの分野で専門的になるのか、ということを発見し意志を固めるのはかなり難しいとは思う。しかし、探す意志、目指す意志をつねにもたなければ、いつまでたってもことは進まない。肩肘をはらずに、波に乗るような気分で、そういった専門性へのアンテナを張ることができて、見つけたときは一気に深みに入っていける。そんなふうなのが理想なのだけれど。

やるって言ってたことはやる。

どうやら『新潮』の2008年1月号は、CD付らしい。「古川日出男朗読による日本近現代詩名作選「詩聖/詩声」が収録された史上初のCD付き文芸誌」。さすが編集長。やる、っていってたことは必ず実現する!もちろん、リッピングするけれど、これを機会に、podcast新潮なんかが始まればソースをマルチに使えて面白いんじゃないだろうか。

ダメなものはダメ。

▶『ダ・カーポ』の最終号か、『SHIGT』(今年も怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー)を迷いながら、でもどちらも選ばずに、『東京人 1月号  2008年版 神田神保町の歩き方 』を。ひとつの正解。いずれも値は嵩むものではないのでまとめて購えばいいのだろうけれど、この1週間の間で、文芸誌の新年号や、『ローリングストーン 日本版』(ブルース・スプリングスティーン大特集)がでることもあり、物理的に嵩むため。
ただ、そんな嵩高さをものともせずに買わないのは、やはり両方ともダメだからなんだろうな。『ダ・カーポ』は、せっかくの哀悼号なのに普段着のままだし、ブック・オブ・ザ・イヤーの高橋/斉藤選の作品もほとんど読んでいて新味がない。この手のブックガイドは、数年前の『リテレール』のように、読んではいないけれどたくさんの識者が推薦している本、たとえばあの頃で言うと『エッフェル塔試論』のような本の発見がないことにはあまり読む意味がない。

▶おびえず話せ。話さないことにおびえよ。パラノイドであれ。これじゃあダメだと思え。勤勉であれ。謙虚であれ。かっこつけるな。ジェスチャーするな。台詞を捨てるな。退屈がるな、面白がれ。執着せよ。でもこだわるな。

▶増田の「あなたの「思考停止レベル」はいくつ?は、面白い問題提起ではあるけれど、ようは探究心を弁証法的に発揮できる楽観性があるかないかということだろう。これはかなり大事な話だ。第一声が、否定形だったり、言い訳だったりするとがっくりするよなあ。なあ。

▶「テキスト力、写真力、動画力、構成・編集力をベースにしたWEBサイト構築力」。これ来年の部門方針のひとつに決定。あとは「話そう」とか「3Cで勝つ」とか「自分らしさのクリエイティブ」とか。もう少し考える必要はあるけれど、おおむねこんなところだろう。最後のやつは異論があるかもしれないけれど、ぼくとしては、自社のミッションを理解できないことより、なんか面白くしてやろうという気概が欠如していくことのほうに著しい危機とダメさを感じるため。

▶紅白はやっぱりダメだな。
迎合の見本。批評性もウィットもなーんもない。がんばってエスタブリッシュメントの構造を壊してみようとしたものの、その壊し方があまりにもブロックバスター的で、これじゃあ、音楽版の『恋花』っていわれても仕方がないよ。もっとも、まじめに論じるような話ではないし、まじめに毎年見ているわけではないけれど。やっぱり野球日韓戦の再放送でいいよ。

素人の神保町日記。

▶12/1、7:30起床。▶コインランドリー。▶洗濯中にシャルマン(本店?)でモーニング。バイトもいなく、ちゃきちゃきのおばちゃんが忙しそうにあたふたしていた。二ヶ月ほど前にきたときは、モーニングもジャムか?バターか?みたいな選択肢があったような気がしたんだけれど、今日は有無をいわさずバタートースト&ハードボイルドエッグがでてきた。店に置いてあった読売と日経を読み比べ。圧倒的に日経のほうが面白い。雑誌の広告も充実している。▶コインランドリーに戻って乾燥40分。その間、矢作の『ロング・グッドバイ』。面白いことは面白いのだが、ときに文意がつかめなくなる余計な一文二文が挿入されているところがあり話がイメージできない。やっぱり『ららら科學…』なんかに比べて、書き飛ばしているからだろうか。▶いったん帰宅。宅配便をまちながら、仕事の整理。アウトラインプロセッサでTODOリストを作ってみると、少なくとも「連絡」しなければならないことはたくさんあることがわかる。▶宅配便が到着するも、2小口が泣き別れになっているようで、分かれたほうは15:00くらいの到着になるとのこと。時間指定をしていたので、これが例えば、ビジネスの場だと大クレームになるわはずだけれど、ドライバーがあまりにも気弱な感じで、泣きそうな顔をしてわびていたので、「困りましたねえ」以外の文句は言わず了承する。▶しかし、泣き別れをまっていられないので外出する。文化村通り店ブックファーストを通過し、神保町リベンジ。当然だけれど、土曜日はだいたいの店が開いている。▶とりあえず、日本特価書籍から。ほんとうに買いたい本は、新刊書店で新刊で、ほぼ発売されたタイミングで購入するので、この店に求めるのは2番手の本。たとえば島田雅彦の『佳人の奇遇』とか、高山文彦の『エレクトラ中上健次の生涯』とか。しかし、それが50円安程度なら、なにも、今日、いま、ここで、買わなくても、だよな。▶山陽堂、長嶋書店。もし、いま読み物が溜まっていなければ、みすずのなんかとかとか法政のなんとかとか、は買うのだろうけれど、気力体力の脆弱さを考えスルー。しかし、この2つ書店は要チェックです。▶矢口書店で『ユリイカ』のバックナンバー眺める。古書センターのワゴンながめる。▶靖国通りを渡り、めざすところは、初体験の「ダイバー」。ああ、こんな店だったんだ。なんかいい感じのような気もするが、10分くらい眺めるもなにがなんでもというような決定打はなくスルー。▶そろそろ、昼時。カレーか?と思っていたが、神保町素人がマップの準備もなくカレー屋を探すのは難作業であるため白山通りのわき道を徘徊せざるをえない。▶結局カレー屋よりビストロ的なところが目に付いたので、そういった店に入ろうかと思ってまさにドアをあけようとしたそのとき、蕎麦屋ふうの店を発見。結果的にこれが正解。蕎麦蔵「結」。大庄のチェーン店のようだけど牛とトントロの炭火焼定食のようなものはまあふつうに美味かった。蕎麦やのわりについていたミニ冷蕎麦は人並だったけれど。カウンターだったので、目の前でいろいろ炭火焼いていたが、さわらの西京焼みたいなのが油がボタボタ落ちてちょっと食べたくなったよ。昼焼酎なんか飲みながら、とも思ったけれど、ここ最近の酒への脆弱さを思いあきらめる。▶靖国通りを渡りなおして、しばしぶらぶら。店名は思い出せないが、いつもワゴンに、岩波文庫とか講談社学術文庫とかちくま&学芸文庫、講談社文芸文庫平凡社ライブラリーとか並べている店。シュタイナーの『人智学・心智学・霊智学』や『アフリカの印象』なんかを手にとり、まあきっと読めないだろうと思いあきらめる。▶三省堂書店。昨日から気になっていた『BRUTUS』のギター特集。この企画の着眼点に賛辞をおくりつつ、例によっての「中身薄さ懸念」からスルー。▶スピッツの本『旅の途中』がでていた。「『フェイクファー』はいまでも聞き返したくないアルバム…」なんて面白そうな記述もあり、ちょっとこれは買いかもしれないが、トータルバランスを考え今日はスルー。▶さらに足をすすめ、小宮山書店。スルーばかりもなんなので、結局『世界の十大小説』上下600円。▶〆は@ワンダー。ずいぶん疲れてきたのであっさりと。神保町でチェックすべき店がだいたい見えてきた。ような気がするけれど、まだダメなんだろうな。きっと。▶渋谷に戻りTUTAYAチャットモンチーの『生命力』を掴むも、キャッシャーの行列にうんざりして、あきらめ、いったん帰宅。▶『ロング・グッドバイ』と、貫成人の例のとってもうれしい新刊『ハイデガー』(あいかわらずすばらしい入り口)を読みながら午睡。▶20:00頃。夕食のため神泉方面へ。例の昼喫茶店バーで、カレーとビールとハードな酒を2杯ほど。関西圏出身の常連の人たちと、ああ茨高とか千里とか片山町の話をしながら22:00頃まで。▶帰宅し、バレーボールや初めての『SP』みながら、本読みながら、ネットみながら、うだうだうだうだ……。

雲が晴れない感じ。

仕事は、やっぱりややこしい対話のなかから生まれくるものであって、コミュニケーションをスポイル/遮断して、「べき論」だけで押し切るのには、なんかの拍子で差した後光か、超絶的なプレゼンテーション能力か、神格的な悟性と感性を備えていない限りは無理だと思う。ただし、そうした凡庸で煩雑なコミュニケーションを繰り返すことで、凡庸な俺たちにもティッピング・ポイントが訪れることがあるんだ。
こういうのも雪かき仕事のひとつっていってよいのかもしれない。たいていじたばたしていてかっこう悪いし、自分自身もうまくいえるかどうかまったく確証のないややこしい交渉事を選択しなければならないだろうし、場合によってはひどい叱責を受けるかもしれない。けれど、それでも、ぐいぐい突っ込んでいって、まあうまく往なせることもあるが、ボロボロになっていったりすることもあってほんとうはイヤだなあと思いながらも、そういうやり方を選んでいく、そんな人の道を照せる人間でありたいと思う。

■買った紙

◎『Newton 1月号』:買うのは20年ぶりぐらいか。きっと竹内先生が亡くなって以来始めてだろうと思う。だいたい毎号、面白いのはわかっているのだけれど、だからといってそんなことばっかりやっていると、ほんとうに時間がなくなるので控えていた。しかし、さすがに「5次元」には負けてしまった。そういうのをテコにして、時間を遡行するのは可能なのか?なんてちんたら考える時間はほんとうになくなってしまったなあ。悲しいことだ。

◎『ディアスポリス 6巻』:『PLUTO』の“通常版”が出ているかと思って、ABCを覗いたところ、“通常版”はまだのようで、連綿と続く“豪華版”商売にうんざりしていたろころ、ふいに『ディアスポリス』が出ていたのを見つけて、すべてを許す気になった。ロシア(ンマフィア)がらみの話の続きからの巻で、今回も泣かせてくれる。しかも武術をシステムという、スペツナズが生んだ格闘技「システマ」の詳解もあってかなり楽しめた(ちなみ、ウィキによるとシステマは「徹底した構えの脱力とスピーディかつ柔らかな動作が特徴」。このあたりは、『ディアスポリス』で正確に伝えられている)。なんらかの情報があり、ファクト/取材に基づくマンガはやはり面白い。マンガだけとは限らないけれど。ところでABCでは『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』の全巻がなぜか平積みされていて、きっと最近でたわけではないんろうけれど、その物量は圧巻であった。というか読んでいないので、まとまった資金が調達できたら購っておこうと思った次第。ちらっと6巻の最後だけ見るという悪行により、その決意は確信に変わった。

『ウェブ時代をゆく』−長文の追記。

※思うところあって、二重投稿

世の中には、いかんなくネガティブパワーを発揮する人がいるが、そういう人と2〜3時間ほど打合せをしていると、こちらが瘴気にあてられる。打合せが終わった後、自分がなんともいえないしかめっ面をしているのが、鏡なんかみなくても、そのこわ張り方でわかるし、身体に注入された負のエネルギーは、ひどい場合は1日2日身体から抜けない。場合によっては、その影響力をフィジカル面にも行使することだってある。当のパワーの持ち主自身は、それを自身の生きる源泉として物事を遂行していくことが身体になじんでいて、どんどん拡大再生産を繰り返すわけだが、まわりの人間はたまったものではない。

そんな暗黒面のフォースから逃れたいときに『ウェブ時代をゆく』を開いてみる、というのはあまりに短絡で安直だろうか。「好きを貫けアジテーションへの反応」のように盲目的すぎるだろうか。
しかし、Mr.ChidrenのライブDVDを見たあと『ウェブ時代をゆく』を眺めたとき「おい梅田、なんて小せえんだ」と思い、『ウェブ時代をゆく』を読んだあとMr.ChidrenのライブDVDをみたとき「おい桜井、もっと現実を見よ」と思えるようなオルタナティブなバランス感覚さえもてれば、その盲従は咎められるほどのことでもないだろう。たとえがマズいな。いや、まあそんなややこしいことを考えなくても、斜にかまえていても別になんの得もないわけだから、まずは梅田望夫のコンセプトをしっかり受け止めてみよう。

たしかに、エネルギーを充填できる教えをまとめた本はほかにもたくさんある。それは、精神論的なものであったり、同じ職業や立場として課題をわかちあえたり、問題解決のためのフレームをあたえてくれたりするもので、ぼくの場合は、ビジネス面においてはドラッカーやオグルビーや金井壽宏や伊丹敬之や平川克美であったりする。もちろん、「追認」によりエネルギーを回復できることもあるが、ここにあげたような人たちは、それまであまり考えたこともなかったような「コンセプト」を提示することにより、ぼくを考えさせることも含めて刺激を注入してくれる。
より未知のコンセプト、それはまだ完成しているとはいえないかもしれないが、梅田の思考にはその足がかりがある。完成させるのは、きっと創発された読者ということなのだろう。

もちろん『ウェブ時代をゆく』で紹介されているのは、すべて梅田が発明したコンセプトというわけではないが、梅田フィルターで集められたものも含めて、どちらかというとあまり取りざたされそうもないものを拾っておく。

■Only the Paranoid Survive
「病的なまでに心配性の人だけが生き残る」。インテルアンディ・グローブの言葉。その言葉だけをとってみれば、これは自分と考えを一にしているという点で追認となる。ぼく自身も相当な心配性で、日夜マズいことにならないためには、どうしたらいいのか、どこまでやったらいいのか、というオブセッションに頭を抱え、やらなくてもいいこところまで手間と時間をかけてしまう。そのおかげもあって、大きな成功なんてほど遠いが、まあなんとかやっていけている。
また、これまで、優秀営業パーソンのヒアリングを相当数こなしてきたが、そこで明確になったひとつの共通項も「心配症でビビり」である。彼らは「顧客が、どこか別の競合社と話しているんじゃないだろうか」「顧客と2日間あっていないけれど心変わりしているんじゃないだろうか」「今日、顧客に出した提案書の社内での評価はダメだったんじゃないか」と、まさにパラノイアのように最悪の結果を始終妄想し、(電話では気が引けるので)何か反応を起こすためにメールや手紙を送ったり、用もないのに先方の事務所に行ってみたり、要求もないのに別の切り口の提案書もっていったりと顧客につきまとう。結果的にそれらの行動が、顧客の眼には慮りや熱心さに写ったり、なんやかや対話をおこなう時間がふえたり、提案が勝手にブラッシュアップされていくことで、多くの発注を獲得するにいたる。営業面での成功法則。書かれた言葉だけをとってみれば、そういうことだ。

しかし、梅田はそこに新しい息を吹き込んだ。病的に心配性であるべきなのは「自らのコモディティ化」なのだ、と。最初はすばらしいといわれていたことでも、発注者との関係が数年も続くとごくあたりまえになってくる。コストダウンなども含めて、価値を「月並み化」させていく引力が働くわけだが、これは取引上しかたのないことだ。
そのときに、コストダウンについて防戦をはることも重要かもしれないが、同じエネルギーを新しい技法と思考の開発に振り向けたほうが建設的だし、なにより、企画の受注を生業とするような会社(人)のほんとうの仕事は、クライアントの思考がおよびもしない新しい方法を提起していくところにあるわけで、これを考えれば、少しでもコストダウン要請が働いた瞬間に、価値は終わった、と俊敏に反応する必要があるかもしれない。自分はコモディティ化していないか?自分の作成している企画書はコモディティ化していないか?自分がいつも語ることはコモディティ化していないか?といったことをつねに内省しなければならないし、誰かが知っていて自分が知らないことがあるのなら、自分の知識がコモディティ化しはじめている兆候ではないか、と疑わなければならないだろう。

■「知的生産」の成果とは「書くこと」
「本を読むという高度に知的な行為もアウトプットがないなら「知的消費」に過ぎず「知的生産」ではない」。梅棹忠夫の話。『夜はまだ明けぬか』を最後にもうかれこれ20年以上、梅棹の著作を読み返していない。そういえば『日本語と事務革命』なんて色ものっぽい本も、なにかのタイミングで入手していて放置したきりだった。『情報論ノート―編集・展示・デザイン』なんてわくわくするタイトルの本も、きっとどこかに死蔵されているはずだ。梅棹を思い出させてくれた、梅田に深謝しながら、探して読み返してみよう……。といったような動機づけは、梅田が書いてくれなければ発動されなかっただろうし、ぼくも梅田の本をただ読み流すだけでは、梅棹を再ブックマークすることもなかっただろう。「知的生産」とまでもいかない、ほんのささやかなことに過ぎないが、書くことで生まれることは確かにある。

■新しい職業
自分の職業を人に話すとき、うまく説明できないことが多くなってきた。ぼくの仕事は言ってしまえば、広告・プロモーションやマーケティング周辺のなんでも屋なんだけれど、なんでも屋風情にもかかわらず、十数年なんとかやっていけているのは、それなりの需要価値があるということかもしれないが、一方で、この5年間くらいのスパンでみてみると、市場(需要)にあわせて、それが意図的にか環境に適応するための変態かは別として、仕事の内容は変質し、レンジも大きく広がっている。梅田が言うような仕事ほど、スケールの大きいものではないが、確実に「新しい仕事」化している。きっと、このタイミングで、自分の仕事は何なのかというのを考えてみることが必要なのだろう。仕事の内容を棚卸し、構造化し、定義してみる。その定義がうまくいけば、新しい価値を創り出すことができるかもしれない。もちろん「コンセプター」なんて怪しげで地に足のついていない定義はまったくダメだけれど。

梅田はさらにたたみかけるように、「新しい職業」に必要なものとしてウェブ・リテラシーを掲げている。ただし、それは一般に想起できるような「リテラシー」なんてものでなく、「ウェブで何かを表現したいと思ったらすぐにそれができるくらいまでのサイト構築能力を身につけている」といった、きわめてハードルの高いものだ。初見では、さすがに「梅田とおれでは完全に脳のつくりが違うや」と本を閉じかけたが、よくよく考えてみれば、ほんの数年前までは、パソコンを前にした記述法なんかは、まったく想像もつかなかったのに、そこそこ使えるようにはなっている。そう考えたとき、ウェブが新しいノートと鉛筆になるんだよ、と言われたなら、これはもう勉強せざるをえない。彼が掲げている4つをすべて習熟することは、無理としても(1)と(2)くらいはなんとかしたいところだ。

■志向性の共同体
梅田自身もこのことについてはややユートピア的に位置づけているように感じる。現実的に、いま居る仕事環境は、おおむね「志向性の共同体」といえなくはない。多くの人がそう感じるだろう。ただし、それが理想的に機能しているか?というと、かなり改善の余地がある。「これが明確に志向性の共同体なんだ」と思えるには、やはり「文系のオープンソースの道具」が欲しい。というか、文系的仕事におけるオープンソースとは、具体的にどういったものなのか、について10個ぐらい事例を固めてみないとならないだろうと思う。社内のブログとかSNSが、なかなか活性化しなかったり、(ぼくだけかもしれないが)仕事において人力検索なんかを積極的につかう気がおきないところみると、道具の完成度に加えて、やはり、理系の場合と同じく「人生をうずめている」仕切りとか目利きみたいな人間が必要なのではないか、と思う。自分が人生うずめろよ、って話かもしれないけれど。

■自助の精神
数年前なら自己責任なんていやらしい言葉に埋没して、発見されることのできなかった発想だ。その当時だって、もちろんいまだって、自己責任に萎える気持ちを軽くしてくれるツールはない。自己責任ってどうすればいいんだ?という質問に対する回答はおおむねネガティブなものしかないだろう。しかし、「自助」ってどうすればいいんだ?という問いには「勤勉の継続」というシンプルで強力で建設的な解がある。これはすばらしい。

■世界の不平等の是正に取り組む新しい仕事
ビル・ゲイツがこんなこと言っているなんて。いや、これはどうころんでも自分には関係のない話なんだけれど、一生に一度くらいは言ってみたいなあ、と思ってメモ。

以上。梅田さん、解釈が違っていたらごめんなさい。

毎日8分。

最近は毎日8分ぐらいしか本読んでない。しかし買う。完全にインフレ。

『新しい星へ旅をするために THE DAY BOOK ?』後藤繁雄
:『くろい読書の手帖』で『彼自身によるロラン・バルト』、『アンダーワールド『ガラテイア2.2』にふれる後藤繁雄の視座がここちよかったので、その後、またいつか後藤の著作を読んでみようと思っていたのだけれど、いかんせん彼の本は高すぎる。なぜなんだ。もう中古でしか買えないよ。
『酔眼のまち-ゴールデン街 1968〜98年』たむらまさき青山真治
青山真治とくれば、とばすわけにはいかない。いまのところ、たむらまさきがカメラマンになるなでの話。ゴールデン街はいつでてくるのかな。地図のようなものはのっているみたいだけれど。
広辞苑第六版のパンフレット2種
:「広辞苑ものがたり」ってやつは、なんか充実している。第四版以来になるけれど、久しぶりに買ってみようかな。使い勝手を考えると確実にDVDなんだけれど、重さフェチなので、普通版も捨てがたい。
◎『UP 11月号』
:あいかわらず、小林康夫とか高山宏がおもしろそうなこといってる。