阿良々木暦的な文章を真似て架空の化物語シリーズの出だしを書いてみた

 彼女の記憶は雪と共にあり、凍えそうな寒さと差すような彼女の眼差しを僕は鮮明に思い浮かべることができる。
 しかし、彼女と僕が出会ったのは真夏のうだるような暑さの中だったし彼女と別れたあの日も、アスファルトが蜃気楼に揺れてすべての輪郭があやふやだった。
 あの夏、勘違いに勘違いを重ねて走り回った挙句にたどり着いた答えはあまりに救いようがなく、きっと僕は夏の暑さに浮かされてあのような大失態を犯してしまったのだ――僕の失敗に巻き込まれた彼女には本当に申し訳なく思う。
 彼女と僕の物語は初夏に始まり、秋を待たずして終わる。それはひと夏の気の迷い。どこからが失敗かと聞かれれば始まりから失敗であり、彼女と出会ってしまったことが僕の犯した最大のミスだったと言える。
 雪に覆われたアスファルトの上を歩きながら彼女のことを思う。儚くて、溶けてしまいそうなくらい、あやふやな存在なのに、すべてを覆い尽くす圧倒的な白。
 僕との物語はきっと彼女にとっては何もなかったと同義。白紙も同然。だから本当は僕は失敗さえまともに出来なかったのだ。
 だから、彼女に謝ることも、感謝することも今の僕にはできない。再び出会うことがあっても僕が「あの阿良々木暦」だと彼女は認識することさえできないから。
 今から語るのは白紙の物語だ。何の意味もなさないただの虚言だ。僕は夏の日に雪のような女の子に出会った。でも女の子は端から僕と出会ってなんていなかった。そんな滑稽な物語だ。

終わった事のように語ると気が楽になる。

 「日本の政治は腐敗し行き詰まっている」「日本経済が破綻しそうである」と言われると何か複雑で難しい現実がそこに横たわっているような気がするが、100年後の教科書に「日本国は1990年以降傾き始め衰退の一途を辿り、2050年の世界恐慌を起に崩壊した」などと書かれるのだと想像すると、なんてことない単純なことのように思える。
 戦後からの起承転結の中の一つのプロセス。聡明期から過渡期へと移行し衰退し国は滅びる。歴史上で繰り返して来たことの焼き直しであると捉えれば何やら単純なこと用に思える。複雑で大きすぎて自分の手に負えないことは他人ごとのように距離を置いて悟ったふりをすれば良い。
 第二次世界大戦もいい加減遠い昔の歴史にしてしまえばいいのに。「日本は負けちまったんだな。なんだか悔しいな」とほんのり寂しい気持ちになり、活躍した英雄を称えるドラマに打ち震え、しかし、結局は負け戦なんだとやはり悲しくなり、それならばと栄光の記憶、日露戦争などを省みて東郷平八郎に思いを馳せたりすれば良い。
 などと言うと一部の人に怒られるのだろうか?政治も経済も歴史もよく分からん。よく分かる話をしよう。
 ライトノベルの話をしよう。
 僕はそもそもライトノベルの伝道者としてインターネットに颯爽と登場したのだ。僕の使命はライトノベルの伝導にある。
 ライトノベルとはなんだ?、ライトノベルは普通の小説と何が違うんだ?その境界線は何?とかいろいろ昔は考えたものだが、ライトノベルの何処がライトかってまず値段がライトだよね。
 他の小説は基本ハードカバー。だいたい1500円くらいで出てその後に文庫化されてリーズナブルなお値段になるわけだけど、ライトノベルは最初から文庫で500円くらい。ようするに出す方も買う方もリスクが少ない。
 「仲間たちには売れるはずないと反対された。流行りの設定でも、テーマでもない。果たしてこの本を出版して売れるだろうか?しかし、俺は自分の感性を信じる!絶対この作品は売れる!どうにかねじ込んで大量に刷ってやる!」
 ともし編集者が決断したとして、その時の値段が1000円違うなると、その覚悟の程もやはり1000円分違うのではないだろうか?
 買う側のリスクもそれは同じ。「500円ならまぁ外れてもいいか」と僕は結構適当にライトノベルを買う。
 ライトノベルがただただ消費されていくだけものなのか、そうでないのか。文章として、物語として低俗か否か。散々語られてきたが、圧倒的事実として値段が安い。故に軽い、安い、薄っぺらい、他の小説より劣っている。とか言い出す奴がいても良かったのではないだろうか。
 そう考えると講談社BOX星海社がかっこよく思えてきた。
 「クソみたいな箱に詰めて値段を上げてリスクを負って俺たちは戦う。それでも売れる作品を作る。俺たちはライトノベルの地平線を超える!」
 そんな太田さんの思いを僕は受け止めたい。

迷い

 「好きなものがある」それはこの世への未練である。公開を楽しみにしている映画、続きが気になる漫画、好きな小説家の新刊。そういったものが生きる力に繋がる。
 しかし、年を経ると共に、僕の「好きだ」という想いは枯れていった。小説のページを捲る手は重くなり、TVを付けるのが億劫になり、映画館へと足を運ぶのも面倒で気がつけば何をするでもなく一日が過ぎていく。
 眠ることがやけに心地いい。意識がないのは救いだ。思考できないのは救いだ。それはこの世への未練がなくなったことを意味する。終わらせてもいいのではないだろうか?そんな気の迷いを楽しくもないゲームに時間を注ぎ紛らわせる。
 「生きる」ということに確信が持てるしあわせな時間は終わり、「生きるの?」という疑問と付き合いながらこれから僕は歩いて行くのだろう。目的地は確かにあったはずなのに、いまとなっては思い出せない。何処に向かっていくのか分からないままウロウロと彷徨っている。
 それでも、言葉だけは湧いてくるから、僕はやはり詩を書くのだろう。びくびくと怯えながら、弱々しい弾丸を、物陰からこっそりと打ち続けるのだ。世界が変わることをひっそりと祈りながら。 

Calla Soiled氏の曲「もしも星屑が泣いたとして」にポエトリーリーディングの歌詞をつけました。(個人的にやっただけでオフィシャルでもなんでもありません)

もしも星屑が泣いたとして もしも星屑が泣いたとして
人知れずこぼれ落ちた涙は やがて風のなかで宙に消える

星と星を線で結んで 祈りを込めて歌うとして
人知れず紡がれた音は やがて風のなかで宙に消える
 

誰にも届かない物語を書き続けたとして
声にならない声で未来を訴えたとして
夢を見て偽りの今を描いたとして
孤独の中で愛を叫んだとして

今日も明日もいつまでも サイコロを振り続ける
転び 唾を吐かれ 指を刺され ピエロは一人 踊り続ける 
それでも希望の中で生き続ける 


誰もが可能性を放棄したとして
声の届かない場所で一人置き去りにされたとして
悪夢にうなされ病に侵されたとして
孤独の中でいま死に絶えようとして

苦しみの死の際で サイコロを振り続ける
死んだ後も 恥を晒す ピエロは一人 土に帰りやがて消えていく


もしも星屑が泣いたとして
もしも星屑が泣いたとして
人知れずこぼれ落ちたとして
やがて風の中で宙に消えたとして

今日も明日もいつまでも 星屑は泣き続ける
キラキラと瞬き 地上に落ちて消える 涙の分けを知るものもなく


星と星を線で結ぶとして
祈りを込めて歌うとして
人知れず音を紡ぐとして
やがて風のなかで宙に消えたとして

今日も明日もいつまでも 僕は歌い続ける
夜空へ吸い込まれ 星の中で消える ピエロは一人 その音を知るものもなく 


もしも星屑が泣いたとして もしも星屑が泣いたとして
人知れずこぼれ落ちた涙は やがて風のなかで宙に消える

星と星を線で結んで 祈りを込めて歌うとして
人知れず紡がれた音は やがて風のなかで宙に消える



元の曲のリリースはフリーダウンロードのネットレーベルからなので無料で落とせます。素晴らしい曲なので是非聞いてみください。

http://www.altemarecords.jp/05.html

しあわせはトマトのかたち

 「物事には必ず原因があり、それによって結果である現在が確定する」という考え方を因果律と言うらしいけれど、わたしを取り巻く環境が一体何を原因として成り立っているのか、いくら考えてみても分かりそうにもない。
 冷たい沈黙が降り積もった我家の食卓も、咬み合わない歯車を無理やり回しているような友達との会話も、気がつけばそこにありこれからも永遠にそこにあり続けるような気がしてならない。
 先程からわたしのベッドを図々しくも占領し続ける猫のルカは今日も気持ちよさそうに眠っている。人間たちのしがらみとは無縁の彼女は、ただただ、何をするでもなく毎日を過ごす。 母から与えられた朝ごはんを食べ、夜は父の酒のツマミを分けてもらい、夜はわたしのベッドで眠る。猫は存在するだけで偉いのだ。
 ルカは家族の誰からも愛され、遊びに来たわたしの友達からも可愛がられ、それだけはいまも昔も変わらない。やはり猫の存在は人生において不可欠なのだ。
 窓の外を見れば、見事な円を描いた月が電柱の脇から顔を覗かせている。どうやら今日は満月のようだ。時刻はもう2時を回ろうとしているのに眠くならないわけだ。
 何故かわたしは、昔から決まって満月の夜には眠れないのだ。幼い頃、訳もなく高鳴る胸の鼓動をかき消すように、遠くから聞こえてくる電車の音に耳を傾け続けたことを覚えている。
 いつからか、そんな夜は眠ることを諦め両親に気付かれぬようそっと家を抜け出すようになっていた。夜の街を一人で歩き続けるわたしの頭上には、決まって丸い月があった。
 図書館で調べてみると、なんでも月の重力は体の水分を引っ張り精神にも肉体にも多大な影響を与えるようで、満月の夜は衝動的になりやすく犯罪や交通事故が増えるらしい。
 原因が分かった所で、対応策が見つかるわけでもなく、こんな夜は早々に眠ることを諦め、大音量の音楽で胸の高鳴りを抑えつけてしまうのが最善である。
 ヘッドホンを付け適当に選んだCDをかける。意識を耳に集中し音の一つ一つの流れを追う。先ほどまであんなに高く波打っていた胸の鼓動は次第に遠くなり消えていく。気がつけばいつの間に、わたしはヘッドフォンを外しベッドの上で眠っていた。
 

 目が覚めたらルカがいなくなっていた。ベッドの上にも、お気に入りの場所だった本棚の上にも、居間にもキッチンにも玄関にも、どこを探してもいなかった。死期を悟った猫は自ら棲み家を離れ孤独に最後を迎えるという。一瞬目の前が真っ白になった。嫌な想像を必至で振り払う。そもそもルカはまだ生まれてから七年しか経っていないのだ。死期は相当先のはずだ。
 「まだ何も始まっちゃいない。あいつが死ぬのには、まだ早すぎる」
 そんな下らない冗談を呟くほどにはわたしは落ち着いていた。家にわたし以外誰もいなかったので笑ってくれる人がいなかったのは残念だが。
 とにかく探しに行くしかない。身支度もそこそこにわたしは家を飛び出した。高校はもちろんさぼりだ。選択の余地もない。
 裏路地から裏路地へ、公園から団地の裏手へ、わたしは勝手知ったる地元を渡り歩いた。
 お昼をすぎる頃には、家から一キロ圏内はほぼ回りきってしまっていた。猫はいったいどの程度の距離を活動範囲としているのだろう?あてもなく闇雲に探しまわっても見つかる気がしなかった。
 思えば朝から何も食べていない。ちょっとコンビニで何か買ってたべようかな?
 でも、ここで気を抜いて休んだら一生ルカは見つからないかもしれない。そんな根拠のない考えが頭を支配する。不安は何故か確信へと変わりわたしは休むことなく捜索を続ける。
 日が傾き始めた頃、隣町の大きな公園にたどり着いた。小学生の頃、一時期は毎日のように友人たちとこの公園に遊びに来ていた。ひたすら広い芝生の広場がある公園で、バトミントンや縄跳びなどをして遊んだ記憶がある。
 あの頃は何をしても楽しかったし、何があっても友達と一緒にいたかった。家に帰るとそこはいつでも安らぎをくれたし、居間の炬燵でみんなでTV見ながら蜜柑を食べる冬は何よりも暖かかった。
 生憎といまは夏真っ盛りで日差しは容赦なくわたしの肌を差してくるし、あの頃遊んだ友人たちはほとんど離れ離れになり、連絡も取り合っていない。それを寂しくは思うが、自然なこととして受け止めるわたしもいた。
 だからきっと、ルカがいなくなってもいつしか受け入れてしまうのだろう。それがいいことなのか悪いことなのかはわたしには分からない。きっと分からないまま、このもやもやを抱えたままわたしの人生は進んでいくのだろう。
 先程までの焦りが嘘のように、わたしはルカがいなくなったことを受け入れ始めていた。園内の遊歩道をのんびりと歩きながら空を眺める。
 もう帰ろう。公園の出口を目指そうと振り返った瞬間。真っ白な塊が太い木の枝に載っているに気がついた。
 ルカだった。
 「ルカー! ルカー!」
 わたしの声に反応しその白い塊は振り向いた。いつも通り、何事にも興味がなさそうな目でわたしを見ている。
 「おーい!降りてこいよー」
 何事もなかったようにルカは動かない。安心したからかわたしは自分が空腹なことを思い出した。早く家に帰って何か食べたい。
 「お前なー。わたしがどんだけ心配したと思っているんだよ。早く降りてこいよ。家に帰ろ」
 尚も無反応を決め込むルカに痺れを切らしたわたしは自ら捕まえに行くことにした。木のうろに足をかけよじ登る。ルカの座る枝に手を伸ばて掴み体を一気に持ち上げる。
 その瞬間。足をズルリと滑らせたわたしは気がつけば大の字で空を見上げていた。
 夕焼けに染まり始めた空には、奇妙な青白い月が昇っている。雲がものすごい速さで進み、子供たちがはしゃぐ声が反響して聴こえる。
 「なんでだろうね。いつも君は不幸になりきれない。孤独になりきれない。『学校は楽しい?』って聞いたら君は『楽しくない』と答えるだろう。でも『学校に行きたくない?』と聞かれたら君は首を横に振るだろうね」
 非常に珍しいことにルカは興味深そうな目付きでわたしを見ている。
 「おまえ、そんな目もできたんだな」
 「…」
 軽い冗談を飛ばせるくらいには、わたしは猫がしゃべるという奇妙な状況に順応していた。しかし、人語を解しても結局乗りが悪い猫という生き物が残念でならない。
 わたしの言葉を無視して顔を洗いながらルカは上から目線で続ける。
 「今手に入れられる幸せの形というものは、きっと決まっているんだろうね。昔あった幸せの形を取り戻そうとしてもそれは無理なんだよ」
 「そんなことは分かってるよ。そもそもわたしは幸せになりたいなんて思っていない。ただ、曖昧なくせにそこに当たり前のように居座り続け、重たく横たわる軋んだ歯車が気に食わないだけ]
 ルカは顔を洗うのをやめ、少し考えこむように目を細める。その仕草はやけに理知的で、毛並みの白さと相まってまるで化け猫と対峙しているような気になってきた。
 「僕の友達にさ。大学で哲学を勉強している奴が居るんだけど、そいつがいま、夏休みを利用して田舎のほうで農作業しているらしいんだよ。所謂バラボラっていうやつ?」
 いったいどう突っ込んだらいいのかわからなかったので黙っておくことにした。
 「それでね。そいつは『種を植えると芽が生えてくる。分からねぇ。水を上げて肥料を与えると成長する。そして、花が咲いて散って実がなってそれを食べる。分からねぇ。その中の種を植えるとまた芽が生える。分からねぇ』ってずっとボヤいていたんだよ。でも、僕も考えてみたけれど、やっぱり分からなかったんだよね。君なんでそうなるか分かる?」
 「わたしにも分からん」
 「うん。そうだよね」
 満足気に頷き再び顔を洗い始めたルカは最後にひげをピンと前足で上品に跳ねるとドヤ顔で言い放った。
 「僕たちが思っている以上に世界は分からないんだよ! でも、野菜は育てられるし育てた野菜はおいしくいただけるじゃない!だから心配しなくても大丈夫だよ!」
 「トマト食べたいな」
 ルカの熱弁を聞いたあと、わたしの口から出てきた言葉はそれだけだった。
 「うん。家に帰って冷えたトマトをたらふく食べよう」
 颯爽と木から飛び降りたルカはわたしの横を通り過ぎそのまま去っていった。
 家に帰るとルカはいつものように甘えた声で泣きながら父にツマミをねだっていた。
 相変わらず居間には何も会話はなく、父の見るテレビの音と母が包丁で食材を切り刻む音だけが虚しく響く。
 「お母さんお腹すいた」
 「いま作っているんだからちょっと待ちなさい」
 いつも通り、煩わしそうな声が帰ってくる。面倒なら作らなければいいのに世間体を気にして毎晩夕飯はしっかり作る所が母の小さいところだ。その癖、朝ごはんは作ってくれない。わたしがご近所中にそれを漏らしても、夕ご飯はしっかり作っているという事実があればそこまで悪いイメージは持たれないだろう、というこれまた母らしい小さい計算があるのだ。
 「ほら。我慢出来ないのならトマトに砂糖でも振って食べてなさい」
 母が差し出すお皿にはおいしそうな真っ赤なトマトが載っている。砂糖を軽く一振りしてかぶりつく。
 「おいしい…」
 朝から何も食べていなかったせいか、わたしはトマトを丸ごと一個ぺろりと平らげてしまった。
 「母さんわたしにもトマトをくれないか?」
 わたしの食べっぷりを見て触手をそそられたのか父もトマトをご所望のようだ。
 「そんなにいっぱい食べて夕ごはん残したら恨みますからね」
 母は素っ気なくトマトの載ったお皿を父へと手渡した。
 塩を一振りして父はトマトにかぶりつく。
 「お父さんトマトおいしい?」
 「ああ」
 わたしへの父の返事も素っ気ない。本当にどうしょうもない家族だ。
 「なんかあなた達がおいしそうに食べているの見たら私も食べたくなってきちゃったわ」
 そう言い訳しながら母もトマトにかぶりつく。
 無言の食卓にトマトを食べる音だけが鳴っていた。

坂本真綾と菅野よう子 〜1997〜

 「そのままでいいんだ」という曲が坂本真綾のデビューアルバムに入っている。
 これを聞いた当時、僕は16歳だった。
 背伸びしたり、大人ぶってみたり、色んなものに引っ張られたり、そのくせ自己主張だけが強かったあの頃。坂本真綾が不器用に大切にささやく「そのままでいいんだ」という言葉に救われたり憤ったり疑問に思ったりたいそう振り回された。

 作曲は菅野よう子、作詞はGabriela Robinによるもの。当時はまだGabriela Robinの正体は謎だったためそのまんま受け取り外国人が作詞したものなんだろうとか適当に考えていた。
 菅野よう子の変名という事実を知ってから再びこの歌詞を見て二人の出会いにまつわるエピソードを思い出した。
 菅野よう子は初対面の坂本真綾に「反抗期はもう終わった?」と尋ね思いっきり睨みつけられたそうだ。そんな思春期まっさかりの彼女に菅野よう子が贈った始めてのことば。
 あの頃の坂本真綾がよくぞ素直に歌ったものだと思いつつ、やっぱりなんかほっこりしたんじゃないかなぁとも思う。
 そして、いま改めて聞きながらこのエントリーを書いているのだが、なんだか坂本真綾の声は震えて泣きそうなように聞こえるし後半はなんかわくわくしているようにも思える。

 一人の少女の未来をなんの根拠もなく保障する飛んでもない歌詞をよくぞ本人に歌わせたものだと驚きつつ、よく考えたら最後のほうは少年アリスの先の坂本真綾の姿のような気もする。そりゃあ何か感じたから二人はずっといっしょにやっていたんだよな。

 ぶっ飛んだ大人たちと孤独を愛する勝気な少女のコミュニケーションのすべてが収録されていると思うと、改めて坂本真綾のCDはすげぇと思う。

人間は体は冬眠しないけど心は冬眠しているんだ。

 春の柔らかな風に包まれると胸の奥から変なのが大量に湧いてくる。それは受験の前日のような得体の知れない焦燥感で、幼い頃に味わった遠足前のわくわくにも似ている。
 特別な何かが始まる前に感じる。あのよく分からないやつ。
  
 南風は始まりの合図。人や場所、音や言葉との出会いがすぐそこに迫っている。理由はどうでもいい。体がそう言っているのだ。「何かが始まるぞ!」と訴えかけてくるのだ。

 まず僕は心を軽くする。ごちゃごちゃした余計なものはいらない。楽しい!嬉しい!面白い!最高!だいたいそんくらいあればこの季節を生きるには十分だ。
 何かがあって楽しいのではなく、楽しいから何があっても楽しい。しかし、楽しいと思ったからには何かをしないと気がすまない。変なのが溢れて頭まで上り詰めて頭がむずむずしだす。そういう時は自転車に乗る。取り合えずペダルを漕ぐ。
 

 猫のあくび。でっかい雲。ふらふらと笑いながら下校する小学生たち。風に乗って目の中に飛び込んだ埃。
 「楽しい!」 

 変な名前の変な飲み屋の看板。グリコ・チョコレート・パイナップルを自転車に乗りながらやっている変な高校生。公園で漫才の練習をする大学生。
 「面白い!」

 疲れて入った喫茶店のマスターから聞く学生時代に高尾山に自転車で登った話。
 「俺もやりたい!」


 楽しいんだからどこに行っても楽しいし何に出会っても楽しい。
 春はすべてが「楽しい」から始まるんだ。
 春が来たらそれだけで、すべてがどうにかなるんだよ!