成長

かなり間が空いてしまった。私もとうとう就活に突入。不安は的中して、私は今、ESを書くのもままならないという、最悪の状態にある。本当にいつからこんな風になってしまったんだろう。よもや自分が、人並みに物事をこなせなくなるとは夢にも思っていなかった。子どもの頃に想像していた自分。県内トップの進学校に行って、某国立大学に行って・・・。どんどん、かけ離れていく。
それとは反対に、BOOは立派に成長してる。もし、発達障害の小さなお子さんをお持ちの方がいらしたら、どうかあまり、悲観的にならないでください。スピードは違えど、子どもは成長していくものです。根本原因が取り除かれることはないけれど、子どもたちは自分なりの意思をもって、ゆっくり成長していきます。それが、どんなに小さなものでも、彼らを知る私たちなら、それがとても大きなことに感じられるはずです。私は弟の成長を見るたび、本当に心から嬉しく思うし、また尊敬の念さえ抱くようになりました。
これは先日母から聞いたBOOの武勇伝。父とBOOがスーパーで買い物を終え、車に戻ろうとしたところ、一台の車がスピードを出して逆走してきた。危なかったので、父が注意したところ、車が止まり、中から男が出てきた。父にいちゃもんをつけようとしたのです。父が殴られると思った弟は、咄嗟にその男を背後から羽交い絞めにしたそうです。そうして、ひと悶着していると、警備の人が出てきて、その男を注意して追い払ってくれたそうです。弟は、男が殴ろうとしたら、自分から殴って倒すつもりだったそうです。
この話を聞いた時、ちょっと感動してしまいました。今は父にも反抗するようになったけど、でも父が大好きなんです。だから、父を守らなきゃと思ったよう。昔から優しい子だったけど、その気持ちは、どんどん大きくなっている気がする。・・・つづく・・・

“きょうだい”としてのわたし1

気づいたら2ヶ月も更新無しの状態・・・。この2ヶ月忙しかった・・・。忙しかったせいなのか、精神的にもうだめ、という状態になって、病院にかかろうと思った矢先、本当に病気になって寝込んだ。それが10月に入ってすぐのことで、それからもうつ状態が続いたけれど、やっとこうして文章を書けるほど回復してきました。精神的にも大分良い状態になってきて、自分でも一安心・・・。

もう限界っ!と思って以来、大学のカウンセラーの先生にお世話になっている。私の悩みは、自分でもはっきりとはわからないのだけれども、とにかく自分自身の性格に関するものだった。いつも覇気が無くて、不真面目で、自分に甘い自分が嫌いだった。カウンセリングでは必ず家族のことを聞かれるので、うつ病の母のこと、発達障害の弟のことを言うと、先生は、私のこの精神的に疲労した状態は、一時的なものではなく、もうずっと長く続いてきたもので、それは私の家庭環境が影響して形成された性格に起因してる、と思われているようだった。私も以前精神科にお世話になったことがあるので、この手の判断は非常に難しいことはわかってる。だから、先生の仰ることを鵜呑みにはしてはいない。
先生の話を聞いていて、なんとなく感じたのは、私が“きょうだい児”であるということを知って、私に対する見方に何らかのバイアスがかかったのでは?ということである。私が“きょうだい”という言葉を知ったのは、5ヶ月程前のこと。つまり、私が私自身のことを“きょうだい児”であると認識したのはつい最近のことだった(私の20年の人生のうちの5ヶ月と考えれば)。“きょうだい”に関するHPやブログをみていると、どうやら“きょうだい”たちに共通する性格的な傾向があるということがわかったが、勉強不足なので具体的にどういう傾向があるのかは把握していないのだけども、少なくとも、自分が親の負担にならないように「良い子」になろうと意識していたということは全くなかった。もちろんだからと言って不良だったわけではないが、まあ勉強は高校に入ってからしなくなった。浪人しても予備校をサボり、今結果的に自分の大学に非常に満足してはいるけれども、学業の面では、親からみたら本当に張り倒したくなるような不真面目な子だったと思う。性格だって、お世辞にも「良い子」なんて言えるようなものじゃなかった。それは今もそう。
では、私が本当の意味でぱっぱらぱーだったかというと、そんなこともないと思う。特に弟のことに関しては、自分はまるで第三(第二?)の保護者のような気持ちで、弟のことを考えてきた。「本当にうちの親はダメだ」と思って「自分がしっかりしなきゃ」と思っていた時期もあった。今では両親も弟のことで大分成長したけれども。
私は“きょうだい”たちが抱える問題を全然知らない。それはきっと、弟の障害が軽いということも関係していると思う。母が弟につきっきりで私は放置されていた、ということはないから。いや、母はそういう思いを持っているらしいのだが、少なくとも私自身がそう感じたことは一度も無い。
でも、確かに思い起こせば、母はよく「あの子(私)は一人でもちゃんと考えてやっていけるからいいの、でもBOOは傍にいてあげなきゃいけないし、何かあれば守ってあげなきゃいけない」ということを言っていた(BOOがいじめをうけていた頃の話)。これを聞いて私は何も思わなかった。それが当然だと思った。つい先日も母と話していたら、こんなことを言っていた。BOOのことを夫婦で話していたら、財産相続の話になったらしい。そこで父は「この家も土地もBOOに残して・・」私のことには全く言及されなかったらしい。これは祖父母たちも一緒で、「ここの土地はBOOに」と口を揃えて言っている。で、財産管理が私の役目だと。正直今の気持ちとしては、私は何にもいらないから、BOOにちゃんと財産残してやってくれ、それが私の精神安定につながる、という感じなので、僻みとかは全く無い。まあ、実際いざ相続するとなったら、どういう気持ちになるのかはわからないけど・・苦笑。
まだ調子が悪いのか、単に頭が悪いだけなのか、何を書きたいのかわからなくなったのでここらへんでひとまず終了・・。
なんとなく思うのだけれども、私は“きょうだい”として他の人々に何かを訴えるとか啓蒙するということには今のところ興味が無い。「『きょうだい』としての想いを綴っています」なんて書いてるから、矛盾しているようだけど、でもこのブログを書くという行為は、単に、私が生きてきた中で“きょうだい”ゆえに感じたこと・体験したことを抜き出すという作業に過ぎないのだ。同じ“きょうだい”とは言っても、五万といるきょうだいを一般化するなんて不可能だ。というかそんなのは無意味だ。“きょうだい児度”があるとしたら10段階中私はいくつなんだろう。1か2ぐらいかな。だから私はこれからも淡々とvosineとしての体験を綴っていくことにする。(本当に脈絡無いな・・ぼそ)
そうそう、このvoisineというHNはフラ語で“隣人”を意味します。このブログを見た方に、私はあなたの隣人です、という意味を込めてこのHNにしました。この隣人というのは「仲間です」という意味ではなくて、そのまんまの隣人という意味で。

普通の兄弟

以前母に「BOOが普通だったらねえ。あなたも、あれじゃ兄弟がいていないようなものよね。」みたいなことを言われた。そんなこと言われるまで思ったこともなかった。だって、BOOと私、これが私にとっての「普通」の兄弟関係だから。これが当たり前だと思っていたから、よそと比べたこともなかった。これは多分中学校の頃に言われたと思うけど、その前から、この兄弟関係に関しては、世間一般の「普通」に興味がなかったと思う。当然よその家の兄弟関係を見ていたのだけど、違うとは感じていても「比べるようなものじゃない」と無意識のうちに思っていたように思う。
最近になって、改めてBOOのことについていろいろと考えるようになって、私たちの関係を振り返ってみた。私の周りの友人たちは、兄弟と非常に仲の良い子たちばかりで、会話の中に必ず兄弟の話が出てくる。そんな彼女達の話を聞いていると、母があのように言ったのも理解できる。確かに私とBOOは、お互いいるようでいない存在なのかもしれない。こんなことは別に考える必要のないことなんだけど、客観的にみると、確かにそうかもしれないと思った。
普通とは何か、BOOのことを考える時、よく考えさせられる。私にとっての「普通」は必ずしも世間一般の普通とは一致しない。私が普通だと思えばそれでいいんだ、実態のない「普通」には囚われたくないと思う。

軽度ならいい?

障害児教育について語る(一応看板はそうなってた)チャットルームに入ってみた。「障害児教育との関連性は?」と聞かれ、こうこうこうでね〜とBOOのことを話す。「障害は軽いの?」と聞かれて、「うん」と答えると、「軽いならいいね」と言われた。私は答えた。「軽いとか関係ないよ」
私が接している障害者と言えばBOOだけで、私も知ったようなことは言えない。けれど、現時点で私が感じているのは、問題なのは「障害の有無」であり、「障害の程度」ではないということ。まず障害が有るか無いか、そして「有」ならば、あとは障害の程度の差は語っても意味のないことのように思うんです。例えば今わが家はBOOの就労問題で頭を悩ませています。でも、この悩みは重度の障害者の家族からしたら「贅沢な悩み」「羨ましい悩み」と取られるかもしれない。けれど、軽度発達障害者の就労は本当に難しい問題で、軽度の為決まったライフコースもなく(施設に入るといった)、軽度だからこそ対峙しなければならない問題というのが出てくる。それは重度の人も同じことでしょう。自閉症、知的障害、発達障害、注意欠陥障害などなど、浮上してくる問題は障害の種類によって異なるし、また同じ障害でも個々人によって症状は様々なのだから、問題となるものは個人によって異なってくる。とてもそれを、軽度だから、重度だから、と比べて片付けることはできない。
障害者が抱える問題は、障害者一人一人異なる。軽度だからいい・・そんな単純な話ではなないと感じています。

夢と現実−実家から離れて

久しぶりの更新。実家から遠く離れた場所で一人暮らしをしているせいか、普段の私は完全に実家とは切り離されている「自由の身」だ。こちらにいると大学生活が非常に充実していることもあって、家のことは忘れてしまう。そう、このブログを立ち上げたことも忘れてしまうほど、何も考えられなくなってしまうのだ。
だから、たまにBOOのことで母からいろいろな話を聞くと、一気に夢から現実に引き戻されたような気がしてしまう。実家に帰ったときも同じだ。こんなことを書いていると、実家が嫌いなんだと誤解されそうだけど、嫌いではないんです。上手く表現できませんが、嫌いだったら長期休暇毎に帰省なんかしないでしょう。「夢と現実」なんて言ってるのを親に知られたら、悲しまれるかな?でも、これは友人も言ってたことなんだよなあ。地方から出てきて、今この大学生という将来が未知数の時期、なんだか自分の将来が無限に広がっているように思える。人生で一番夢がみれる時期なんじゃないのかなあ。こう思ってる大学生も少しはいるんじゃないかな。
夏休み前の私、つまり3月に下宿に戻り3ヶ月以上実家を離れてる今の私は、ある意味最もタフじゃない状態だ。完全に夢の世界の住人だから。もう少ししたら、また現実世界に戻る。そこでまたタフな精神を養わなきゃ。

『発達障害かもしれない』

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子 (光文社新書)

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子 (光文社新書)

昨日たまたま見つけたので買ってみた。まだ途中までしか読んでませんが、読んでいて自分がいかにBOOのことを理解していなかったか、改めて思い知らされました。障害の特徴を把握して初めてBOOの行動が理解できるのに・・・。

比べるということ

うちの親は自助団体には参加していない。情報を得るためにも入ったらどうかと提案してみたら、親もそれについて考えたことはあるけど、そのような場でカミングアウトすることが後々不利にならないか、ということを心配して今まで参加はしなかったと言われた。また、自助団体に入っても、障害の程度によって内部が分かれていたり、揉め事があったりする、ということを実際に関係者から聞いたことがある、とも言っていて、うちのBOOのように軽度だとやっていきづらいのではないかと言っていた。ここで、これが全ての自助団体にあてはまることではないということ、あくまで、たまたま母の友人が知っていた団体がそうであったにすぎないということを強調しておきたいと思います。
私はこれを聞いて首をかしげた。他者と比べるということがいかに無意味なことか、それは障害者をもつ親・きょうだいが一番よくわかっていることなんじゃないのか?少なくとも私は、BOOからそれを教わった気がする。よく、人は比較せずには生きていけないと言われる。言われてみれば確かにと思う。成績だって、受験だって、競争といわれるものは全て比較だし、容姿・出自など例を挙げたらキリがない。私たちは比較をして、そして他者と差異化をはかる。健常者と障害者というカテゴライズもその一つだ。けれど、これらが便宜上都合のいいやり方であるというのは認めることができても、比較のネガティブな面である他者の軽視は決して認めるわけにはいかない。発達障害児をもつ親御さんのブログにいくと、よく「うちの子はうちの子。よその子はよその子」といった感じの文に出会う。障害児をもつ親御さんなら、そうじゃない方たちよりも一層強くこの言葉の意味を噛み締めてみえると思う。皆それぞれ持って生まれたものやとりまく環境は違うし、また成長の仕方も違う。それを比べていったい何になるんだろう。差別をされる側の人間が、さらに他者を軽んじるなんて、悲しいことだ。
でも、こんなこと書いている私だけど、もし誰かが「あの程度の障害ならまだいいわよね。うちなんか・・・」と言ったら、その気持ちはわからなくもない、と思うと思う。精神的にも肉体的にも疲れて余裕がなくなれば、そう思ってしまうのが人間だと思う。でも、それでも、きちんと個々を尊重する気持ちをもっていたと思う。持たなければいけないと思う。もし他者を軽んじるようなことを言ってしまったら、その気持ちが横からすっと出てくるようにしていなければいけないと思う。これは私自身によく言い聞かせていることです。
私も最近自分を周りの友人と無意識のうちに比べてしまう。「皆いいよなー。自分のことだけ考えてればいいんだもんなー。」そしてすぐ、今自分は余裕ないんだな、と冷静に思う。周りと比較してしまう時を、気持ちに余裕がない時なんだ、と一種のバロメーターのように思っている。本当に皆が自分のことだけ考えて生きてるか。そんなわけない。
比べることは無意味だと強く感じる。けど、たまに比べることによって自己陶酔している自分もいる。でも、皆それぞれ頑張っていて、誰の人生も軽んじてはいけないんだということは、これからもしっかり自分に言い聞かせていきたい。(なんか書いてて訳わかんなくなちゃった・・・)