山陰を旅する人

 ここのところ毎年楽しみに見ておりました「こころ旅」でありますが、今年の

春は出演の火野正平さんの体調不良(腰痛とのこと)のせいで、旅は急遽中止

となり、昨年の旅の様子が再放送されています。

 本日は、北海道にお住まいの方のこころの風景を求めて、鳥取と兵庫の県境

にある岩美町を訪れることなりです。

 岩美町というだけでピンとくる人もいるとのことですが、ここはアニメ「Free!」

の舞台となったところで、ファンにとっては聖地となっているのだそうです。本日

の番組で、火野さんはこのアニメの聖地のいくつかを巡るのでありますが、どこ

に行きましても、巡礼者と遭遇することになりです。アニメファンたちの、行動力の

すごいことであります。 

 そんなことで「山陰を旅する人」としてみたのですが、当方の場合はアニメでは

なく、編集工房ノアからでた上村武男さんの「山陰を旅する人たち」のという本の

ことが頭にあったものです。

編集工房ノア 山陰を旅する人たち 上村武男

 この本の帯にありますが、「山陰ゆかりの作家、芸術家の故里を旅し、風土を

さぐる評伝紀行」となります。旅するのは著者の上村さんでありますが、ゆかりの

文学者も旅人であったりします。

 岩美町にゆかりの人は取り上げられていないかと思って見ておりましたら、隣

町となる浜坂町の前田純孝さんがあがっていました。(最初、この方の名前を目に

した時に、これは富士正晴さんが小説で描かれた人であるなと思ったのですが、

そちらの方は、鹿児島生まれの前田純敬さんでありまして、まるで違いました。)

 上村さんは、次のように書いています。

「ただ、諸寄といっても、なんにもない海辺の寒村である。車を三時間も四時間も

飛ばしてわざわざ訪ねていくことはない村である。・・・

 兵庫と鳥取の県境に近い、漁業以外には何の産業とてないこの諸寄という

山陰の一村に、しかしわたしは遥かな関心を抱いて数年になる。前田純孝とい

う、ひとりの悲劇的な夭折詩人がそこで生まれ、そこで死んだ土地であるからだ。」

 この夭折詩人のことは、この上村さんの文章ではじめて知ることになりました。

没後に歌集が編まれ、その序文を与謝野鉄幹石川啄木とあわせて悼んでいる

ということから、期待されていたことがわかります。

 今は、前田純孝の生誕の地には、歌碑がたっているとのことで、この文章では、

この歌碑のことを詳しく紹介し、この歌碑を絶賛しています。

「その全身の立ち姿が背後の岬の遠景、青らむ海の水平線と交わる。繊細で

優しく、しかも鋭く知的である。誰の設計になるものか、この清潔な知性は純孝の

哀しい情念をくるんで充分なものだ。この歌碑はいい。」

 NHKのドラマ「新・夢千代日記」で純孝の歌が取り上げられて依頼、湯村温泉

からここを訪ねてくる観光客がぽつぽつあるそうですが、アニメの聖地にはほど

遠い人気でありましょう。

www.artm.pref.hyogo.jp

 

なんとか予定とおりで

 本日は朝から「マルクスに凭れて六十年」を読んでおりました。合間に

すこしトレーニングにでかけ、庭仕事などもちょっとであります。

そんなことで、ちょっと集中してではなかったのですが、夕刻にはこの本の

最後のページにたどりつくことにです。

 この本の刊行は1983年でありまして、この本が世に出たのを見届けて

著者の岡崎さんは奥様と一緒に姿を消すのでありますが、もちろん、この

時代の読者は、そのことを知らずであります。

 その昔の図書館本(この図書館だけなのかな)には、新聞書評が貼り付け

られていて、この本を山田宗睦さんが評したものがありました。(どこの新聞で

ありましょう。)

 当方はマルクスの翻訳書は読んだことがありませんでしたので、岡崎次郎

さんという名前にはなじみがありませんでした。たぶん、83年当時であっても、

熱心にマルクス文献を読まれている人以外で知る人は多くはなかったので

ないのかな。

 そんなこともありまして、山田宗睦さんの書評は、岡崎さんの紹介からはいり

ます。(貼り付けられている書評から引用です。)

「戦後にマルクスを学んだ私たちにとって、岡崎次郎という人は、いくらか不思議

な存在だった。なぜならこの人は、大内兵衛ら労農派とくに向坂逸郎との関係が

深いのに、『マルクスエンゲルス全集』『資本論』『剰余価値学説史』などの

翻訳を、共産党系の大月書店などから出していたからである。

 このごろの読者のために解説をいれると、昭和初年に日本のマルクス主義

二分して、労農派と講座派の二大グループになった。戦後、講座派は共産党

労農派は社会党とくに社会主義協会となったのは、その歴史からくる。

それで岡崎という人のあり方が、いくらか不思議だ、というのである。」

 このごろの読者というのは1983年頃でありますので、すでに四十年くらい前に

は、講座派、労農派というのは説明が必要になっていたのでありますね。

まして、現在であれば、どこまで説明が必要であることかです。

 岡崎さんは流れとしては労農派に近いところにいたのですが、そのグループ

のドンであるところの向坂さんと翻訳の役割分担のことなどで行き違いになると

いうのが、この本を読みどころの一つですが、これが向坂逸郎の存命中に書かれ

ているというところに意義があるようです。

 この本のまえがきには、次のようにありです。

「この本は法政大学出版局から発行されることになっていた。再校の段階まで

きてから出版局は法政大学並びにその教職員や学生を侮辱する文句を書き直せ

と言ってきた。私は侮辱しているとは思わなかったのでそれに応じなかった。話は

物別れになり、出版作業は中止された。」

 これの元版は、結局青土社からでることになり、それから40年ほど経過して、

航思社から増補して復刊し、新たな読者を獲得したことになりです。

 それにしても、その後の岡崎さんのことを思うと、この本を書きあげたときには、

無敵な状態でありまして、もともとの性格もあって、怖いものなしであったので

ありましょう。 

 向坂さんを尊敬する人たちからは、とんでもない男ということになるのでありま

しょう。

他の本に手が伸びていない

 ここ何日か岡崎次郎さんの「マルクスに凭れて六十年」を読んでおりま

して、他の本には手が伸びておりません。まあ、それだけこの本が面白いと

いうことかもしれません。この調子で行きますと、あしたくらいにはおしまい

にたどりつくかもです。

 さて、他の本も読んで前に進めなくてはいけないことです。

図書館から借りている本では、「杉浦康平と写植の時代」が残り少なくなっ

ているのですね。これはずいぶんと時間がかかっているのですが、返却日

までには終わらせなくてはです。

 あとは海老坂武さんの「生きるということ」でありますが、これはゆっくり

時間をかけて読むものでありまして、先を急ぐものではないですね。

これにあわせてモンテーニュも読んでみたく思いますが、そこまでいくことが

できるかな。

 海老坂さんの本を読んでいての楽しみは脇道にそれるところですが、最近

に読んだ本ということで、2017年に読んだ本のタイトルがあがっていますが、

そこにあがっている中井久夫さんの「戦争と平和 ある観察」に関連しての

くだりから引用です。

中井久夫。この本でもおそるべき早熟な少年だったことがわかる。

実は2009年に私は関西学院出版会主催のシンポジウムでこの精神科医

対談したことがある。彼は同じ昭和9年の生まれ、ということで世代的に共通

するものがあると思っていたのだが、とんでもない思い違いだった。

中井は早生まれで学年が一つ上である。つまり私は誰もが入れる新制中学

の第一期生、彼は入試の厳しい旧制中学の最後の世代という制度的断絶

=文化(教養)的断絶があって、教養の幅という点で私は圧倒的に劣るの

だが、それだけでなく、中井個人が恐るべき早熟な少年、好奇心の飛び抜け

て旺盛な少年であったことを知ったのである。」

 中井久夫さんはどのくらいすごいのかと思ったりするのですが、海老坂さん

クラスからみても段違いなんですね。もうひとつ、世代的な断絶というのが、

昭和9年くらいにあるというのは、若い人たちに記憶しておいてもらいたいな。

その昔の人であれば旧制高校と新制高校は、まったく違うものということが

わかっているでしょうが、最近の人は、わかっていないだろうな。

 

そういう時代だよな

 本日も昨日に引き続きで図書館から借りている「マルクスに凭れて60年」を

読んでいます。

 学生時代のところで印象に残るのは、旧制高校の濃密な人間関係でありまし

て、これはほぼほぼ全部の学生が寮で暮らしていたことと関係があるのでありま

しょう。特にいま読んでいるのは旧制一高でのことですから、右にいっても、左に

進んでも日本の社会を背負ってたつというのが染み付いているようです。(もち

ろんなかには、そういうのになじめずで、途中で旧制高校をやめてしまう人も

いたのですが)

 加藤周一さんの「羊の歌」にも旧制高校でのことがでてきますが、加藤さんと

岡崎さんは年齢が15歳ほども違いますし、加藤さんは都会の人でありましたの

で、加藤さんからは気負いのようなものは、あまり感じられないことです。

 こうした教育を受けた人が、戦後に将来の日本のエリートを育てるということ

で、全寮制の学校を作ろうとするのは、不思議でもなんでもないですね。

 岡崎さんの本で一章をさかれている人に西田信春という北海道出身の方が

います。ほとんど無名の方ですが、当方は若い頃に、この方の追悼集がでたとの

記事を見ておりまして、名前のみ知っておりました。(その昔の古本屋には、この

追悼集がけっこう安価でならんでいました。)

 岡崎さんの紹介では、次のようになります。

「一高の寮では入学当初の一年間だけは学校側で編成した各部類の生徒約

十人を一組として一室に住まわせることになっていた。私が配属された西寮一番

室には、私の属した文化甲類四人、・・文甲の四人のなかに西田信春がいた。

北海道は新十津川の生まれで、札幌中学の出身だった。明治22年、奈良県十津

川の氾濫で村の大部分約五百戸が移住して生まれたのが新十津川村で、西田

の父はその村長だった。」

 この西田さんは、在学中から左翼運動に身を投じて、若くして拘束されて亡くな

るのでありますが、彼のことを後世に伝えていかなくてはと奔走したのが石堂清倫

中野重治原泉でありまして、1970年に「書簡・追悼」集がだされたのでありま

す。

 それから50年も経過して、この本と西田さんに言及した岡崎さんの文章に出会う

ことになりました。岡崎さんは、このように書いています。

「西田信春は、こんな私が惚れっ放しで飽きなかった数少ない友人の一人である。

・・とにかくいつ思い出してもただ懐かしさだけを覚える友が生涯に一人でもいたと

いうことで十分なのである。」

 西田さんは高校ではボート部にはいり、その関係で大槻文平とも密な付き合い

となるのだそうです。その大槻さんが、西田の追悼集に寄稿しているとありまして、

これにはびっくりであります。

 次は、その大槻さんの文章からの引用です。(引用の引用です)

「大学を出て私は三菱鉱業K・Kに入社し北海道の三菱美唄炭鉱で炭鉱社会の

近代化の為に若い情熱を燃やしていた。忘れもしない昭和四年二月、日暮れの

早い北海道の暗い雪の中を多くの同僚と一列に並んで帰宅の途中、突然『オイ

大槻』という声に驚かされた。それはまぎれもない西田の声であった。彼は一列

縦隊で歩いている中から僕の声を聞きわけて呼びかけたのだった。雪の降りしき

る中に彼は鶏を一羽持って立っていた。その夜は久し振りに私は彼と鶏の肉を

さかなに酒をくみかわして久闊を叙した。」

 岡崎さんは、この大槻さんの文章は昭和45年のものと記しています。

昭和45年といえば、大槻文平さんは三菱鉱業の社長をつとめていて、それから

まもなく日経連の会長となるわけですから、立場は違うのですが、なるほどの人物

でありますね。

 

気分を良くして週末へ

 週末に向かってお天気は良い方へとむかっています。野暮用から戻って

TVで相撲を見物しておりましたら、ひいきの力士が見事に勝利して、連勝を

重ねることに。お天気にあわせて相撲のこの結果はうれしいことであって、

気分があがることです。

 気分を良くして図書館から借りている本を手にすることです。

昨日に借りてきた岡崎次郎さんの「マルクスに凭れて60年」となります。

本日に読んでいたのは岡崎さんが旧制一高から東京帝大文学部に進学する

頃の話でありますが、天下の秀才が集まっている一高ですから、その後に名を

なした有名人たちが登場することです。

 そのなかでも別格の秀才として描かれているのが、次の人でありました。

「私がよく憶えているの成績奇談(と言っても実談)はじつは石田英一郎

関するものである。前にも述べたように、彼はわれわれのなかでずば抜けた

頭脳の持ち主で、一番は常に彼の独占するところだった。そして彼以外の

ガリ勉組が二番以下の一桁順位を争奪し合っていた。ところが、三年生のとき

一学期の試験問題に倫理学安倍能成講師が『階級闘争の道徳的意義を

問う」という問題を出したのにたいして、・・石田は恐らく、この珍問自体が無意

味だという旨の答案を書いたのであろう。石田はこの試験で注意点をもらった。

この一課目の注意点のために石田の成績は六十何番かに急転落してしまい、

試験の順位などなんとくだらないものであるか、を私は実感した。」

 このようなところで、石田英一郎という名前を目にするとは思ってもみません

でした。石田さんが、そのような人であったとは知りませんでした。

 しばらく手にすることのなかった石田英一郎さんについての本を取り出して

なかをペラペラとのぞくことにです。その本には「石田英一郎の生涯」という章

があるのですが、ここには別格の秀才であるというのはありませんですが、学生

時代にマルキシズム接近したらしいとありました。

「石田はこれ以後京大生として獄につながれるまで、いわゆる学生運動の中心

的人物の一人として活躍するが、極端にいえば、これは誰のためでもない、自ら

の穢れをふるい落とすための努力だった。」(この引用は、講談社「日本民俗文

化大系「石田英一郎」からです。)

 石田の父は男爵でありまして、父の死後石田は22歳の若さで男爵を継ぐの

でありますが、まさに赤い貴族でありました。ほんとうにユニークな人物である

ことです。

借りてみた

 本日は週に一度の図書館本の入れ替え日でありましたが、この時に予約を

してあった本を借りることにです。いつもでありましたら、棚に並んでいるものを

借りてくるのですが、今回は閉架書庫にありましたので、あらかじめ予約をして

取り出しておいてもらいました。

 先日に「本の雑誌」で取り上げられていた「マルクスに凭れて六十年」となり

ます。「本の雑誌」で紹介の本は、増補新版のほうですが、図書館本はそれの

元版となります。まあ元版で読んでおけば、増補のほうはどこかの大きな本屋

さんで立ち読みということもありでしょう。

 ということで借りてきたのは、岡崎次郎さんの「マルクスに凭れて六十年」で

ありました。

 先日に著者 岡崎次郎さんのことを検索してみましたら、北海道江差の生まれと

あって、このような方が江差出身とはどういうことかなと思っていましたら、この本の

冒頭に生い立ちが書かれていました。

「父は北海道庁の開拓地払下係をしていたので、小樽、江差、網走、帯広と転任を

重ねており、長姉雪江は小樽で生まれ、江差には八年もいて、兄太郎と次姉三千代

と私との三人が江差で生まれている。」

 生まれたのは明治37年とありますので、父上は明治20年代くらいには北海道に

渡って役人をしていたのでしょう

「後に聞いたところでは、当時の官有地の払い下げは中央の官界や民間の有力者

にたいして行われたことが多く、三年以内の開拓が条件だったので、この条件を満

たすために彼らは内地から貧しい農民を呼び寄せて払下地を小作させ、これが北

海道に不在地主の多かった理由だと言われる。」

 岡崎さんはマルキストでありますので、当然のこと不在地主には批判的であるの

ですが、当方のひいじいさんは、北海道に渡って有力者が開いた農場に小作として

入ったのでありますね。 

 このような形で、岡崎さんへの切り口が見えてくるとは、おもしろいことであります。

 

一度返却しよう

 図書館から借りている本で、一番手元に長くあるのは昨年の8月から借り

続けているものであります。いくらなんでも一度返してしまうことにしようかと

思うことで。

 どこかで安価で見つけることができれば、購入するのでありますが、なぜか

この本は品薄であるようで、そこそこの値段がしています。文庫にでもなって

くれればいいのに、なかなかこういう本は文庫にはならないでしょうね。

 昨年の7月に突発性難聴で入院生活を送ったときに持参したのが、この

本の後編でありまして、それが面白かったので、それの前編を図書館から

借りて読むことになったわけです。

 ということで、明日に図書館に返却しようと思っているのは四方田犬彦さん

の「人、中年に到る」であります。

 この本は、2010年の書き下ろしで刊行で、このときに四方田さんは57歳とあり

です。その前年の定期検診で、脳の前頭葉に6センチの腫瘍ができていて、それを

除去する手術を受けたのですが、事前の説明では厳しいことを言われ、かなりの

ショックを受けたとあります。

 幸いにして腫瘍は良性で、摘出手術もうまくいって失明することもなかったので

すが、再発の不安などで、退院してからもは激しい感情の動揺に見舞われたとの

ことです。

 ということで、昔から好きであったモンテーニュの「エセー」のようなジャンルの本

を書いてみたいと思って、集中して自分のことについて書いてみたのだそうです。

 この本から13年後に同様な手法で、「いまだ人生を語らず」を上梓して、そちらを

入院生活で、先に読むことになりました。

 この二冊は、エッセイストとしての四方田さんの本領発揮でありまして、ほんと

心に沁みることであります。

 四方田さんは、「人、中年に到る」のあとがきで、次のように書いています。

「もしこんなことが実現できるならばの話だけど、今から二十年後に77歳になっ

たとき、この本を読み直してみて、頁の余白に感想を書き込んでみたいという

気持ちがないわけでもない。モンテーニュは生涯に二度にわたってそうした書き

込みと加筆を行った。現在の読者としてそれを読むことはとても興味深い。」

 ここに引用したくだりを目にして、これが最近手にした海老坂武さんの「生き

るということ」につながっていくことに気がつきましたです。この本もまた図書館

から借りているものです。

「『エセー』とはいかなる書物か。・・・

 わたしを描くこと、しかしそれは何のためか。モンテーニュは言う、親族や友人

たちに、わたしという人間をよく知ってもらうために、と。」

 海老坂さんのはじめににありました。海老坂さんは今年90歳で、人生を語る

に十分な年齢であります。