南の島〜超大物編〜

今回の遠征は、実は以前の借りを返すための雪辱戦。一度この島に来たことがあったのですが、あまりの獲物の大きさに自分たちの道具がまったく役に立たず悔しい思いをしたのです。ということで今回ものすごい道具を用意しました。



今までこんなでかいリールを使ったことはありません。買うとものすごく高いのですが、たまたま昔父親が使っていたものがあることを思い出し、実家から取り寄せました。ただし糸(というよりヒモ?)は巻き直したのですが、それだけで2万円しました…。



でも竿は買いました。必殺のクエ竿。リーサルウェポンとしか思えません。原付買えます。とてもじゃないけど手に持って釣りなどできないので、通常岩やコンクリートに金具を打ち付けて固定して釣るのですが、僕はこれでも自然を大切にする男。むやみにドリルで穴をあけて土木工事をしたくありません。ということで考えに考え抜いて、軽トラに固定することを思いつきました。



釣る時はこんな風に釣ることになります。餌を食ったらすぐ岩穴に潜り込もうとするやつもいるので竿先に神経をとがらせます。



竿は固定されているので仕掛けは手で投げいれます。ちなみに仕掛けの先についているのは餌の魚です。釣れた魚ではありません。これが釣れても結構うれしいくらいのクラスの大きさです。



仕掛けを投げ入れてしばらくすると、早速あたりがありました!大興奮で力の限りリールを巻きます。しかし!



僕は今回の遠征に向けて周到な準備をし、仕掛けに使う糸も厳選してかなり強いものを選んできたつもりです。しかし、化学繊維の中で最強とうたわれていたこのどうやっても切れそうにない糸がズタズタにされてしまいました…。でも落ち込んでばかりもいられません。前を向かなければ。こんなときのためにと、ナイロン最強の糸も持ってきていました。柔軟性に優れ、縄跳びもできそうなそのナイロンに切り替えることにしました。しかし、その後すぐまたあたりがあったのですが、またもやいとも簡単に切られてしまいました…。こうなったら最後の手段、ワイヤー仕掛けです(最初から使えっ!)。文字通り金属の繊維を編み合わせたこの仕掛け。これがだめなら万事休すです。


そして粘ること数日。


あたりに合わせ遅れ、根に潜ってしまったためにどうにもならない状況で1時間が経ってしまい、途方に暮れていました。仕掛けが切れないのはいいのですが、こうなると逆に仕掛けを切りたくても切れないのです…。困り果てた挙句、しばらく糸を張るのをやめて、その後一気に巻いてみる作戦に出ました。


えい!


すると!なんと上がってきます。しかも魚がついている感触があります。魚もさすがに油断したのでしょうか?そして、



でぃえーーーー!!巨大うつぼが釣れました…。水面から7〜8メートルのところで釣っていたのでタモに入れてから持ち上げるのが一苦労。なんとか上げてみるとものすごい巨体で超肉厚。自分の体を動かすのも大変そうです。



顔アップは放送禁止かも。ちなみに噛みつかれると大変です。針を外すのも時間がかかりました。でも普通のウツボと違って体が大きすぎるので、少しはやりやすかったですが。



改めて大きさを見てみると、大体人間と同じくらいの大きさでした。まあ何か釣れたのは良かったけど、ウツボとは…。結局毎晩同じ釣りを繰り返しましたが、釣れたのはこれだけでした。

南の島〜マダラタルミ編〜

南の島に行ってきました。だいぶ前のことだけど。



飛行機の後、フェリーに乗りました。タクシー横づけできるのがすごいです。



一日くらい時間をかけてたどり着いた孤島はパラダイス。人口100人程度の小さな島です。



釣り場はこんな感じ。波がすごいので堤防がゆがんでいます。



そして魚が釣れる釣れる。特にこのマダラタルミという魚がたくさん釣れました。最初はメジナかと思ってたんですが、よく見ると全然違います。



これは色違いのホホスジタルミ。南の島に来ないとまず釣れません。



大きさはこんな感じ。一応そこそこの大きさのクーラーボックスを持って行きましたが、入りきりません…。



他にもいろいろ釣れます。これはイスズミ。



これはアイゴの仲間。



これはクロモンガラ。カワハギの仲間です。



ゴマモンガラ。噛まれると危険なファイター。



ロウニンアジの子供。



釣りを終えるとおいしく魚をいただきました。マダラタルミはどうやって食べてもおいしくて、造り、煮付け、塩焼き、フライなどいろんな食べ方をしました。あまりに釣れるので、クーラーボックスの容量も考慮に入れて途中から釣っても逃がしていたのですが、宿の人が「もったいない!冷凍するからこれからは捨てないで!」というほどでした。



それと、宿の人がイセエビ捕りにはまってて、やたらとイセエビが食卓に上がりました。一度一緒にイセエビ捕りに行ったのですが、これはうまく捕れませんでした。宿の人は捕ってたけど。



そして宿のネコもおこぼれにあずかっておいしい魚を食べていました。

ALL #51

ALL #50 - 日記


10月に入り、入院中最後となる骨髄穿刺を受けた。また主治医と話し、2日後に30〜60分程度の退院に際する説明を受け、問題なければ翌日退院ということになった。待ちに待った退院ではあるけれど、自分がこの病棟にいなくなることがなかなか想像できなかった。きっと僕がいなくなっても、次々と患者がやってきて、治ったり死んだりして、どちらにしても医師や看護師は忙しく働くだけなのだろうけれど。


2日後の夜、外泊からいつものように帰った。退院の前日に外泊から帰ってくる人も珍しいかもしれないけど、僕と同部屋の患者たちはさして驚かない。僕はほとんど病院にいない入院患者だとみんなわかっていたから。


そして19時頃、面談室に呼ばれた。廊下側のベッドが嫌で一日中外を見て過ごしたりした面談室。普段はあまり使われていないので解放されている面談室には主治医の男の先生と、もう一人の女の主治医の先生が座っていた。考えてみれば、僕も面談するためにこの場所を使うのは初めてだった。部屋に入り、ドアを閉めると話が始まった。


「半年の治療はとても順調に進みました。当初、移植を前提に治療すると説明しましたが、合併症により2〜3割の方が亡くなります。このタイプの白血病は成人では症例が少なくてなんとも言えないのですが、小児では化学療法のみでも成績が悪くありません。白血病の治療に骨髄移植は有効ですが、天秤にかけると、経過も良かったですし移植ではなく今後も維持療法をしていくべきだと考えています。」


「ありがとうございます。僕も同じ考えです。」


「維持療法は今後2年間。当然入院での治療に比べて用量も低く副作用も少ないですが、白血球数が極端に減るなどすれば入院していただくこともあります。外来には1週か2週に一度きていただくことになります。現時点で白血病細胞がないという可能性もあり、その場合は維持療法に意味はないですが、検査には限界があるので、検出感度より下であるとしか言えません。」


白血病細胞が残っている場合は、維持療法の途中、あるいは2年間の維持療法が終わった後にまた白血病細胞が増えてきて再発するのでしょうか。」


「その辺りはなんとも言えませんが、白血病細胞がある程度少なくなると、白血病細胞が残っていても自己の免疫力で増殖を抑えられるのではないかという風にも考えられています。どんな人でも体内で絶えず突然変異は起こっていて、それを免疫のシステムで防御していますからね。」


「でもそれができなかったから発病したのではないんですか。僕の免疫システムでは対応できないタイプの変異を持つ細胞だとしたら、1つでも残っていればまた増えてしまうのではないのですか。」


「それもそうとは言えません。なんらかの原因でたまたま免疫力が落ちてしまったときに変異を起こした細胞が増殖してしまい、対応できなくなってしまったとも考えられます。白血病細胞をすべて殺してしまえるかというとわからないのですが、でも実際まったく再発しない人もいますからね。なにしろわかっていないことがたくさんあるんです。」

ALL #50

ALL #49 - 日記


気がつくと9月。まだまだ暑いけど、少しずつ秋の気配が感じられるようになって来た。入院した頃には半年後のことなんてなかなか想像できなかったけど、僕はなんだかんだで予定の治療をほぼ受け続けることができた。これから始まる5回目の地固め療法が終われば退院できる。なんだか信じられないような気もするけど、僕は入院患者でなくなることができる。


5回目の地固め療法は2回目と同じ内容なので、感じはわかっている。しかも主治医は腕からの点滴で治療をすることを認めてくれた。あと1回なのでなんとか鎖骨の下にカテーテルを入れることは避けたかったからとても嬉しい。


そして月曜日に開始。24時間のメソトレキセートや髄液注射など緊張の続く治療を行う。とにかく水分をとるように心掛け、尿のpHは毎回測ってチェックしてもらう。便秘対策に薬を飲み、液漏れのないよう点滴の刺さっている左腕はなるべく動かさないようにした。


翌日、24時間点滴が終わったので点滴を抜いてもらえるのかと思ったが、何度か行うメソトレキセートの血中濃度の採血結果を見るまでまだ抜けないのだとか。夜からメソトレキセートの解毒剤であるロイコボリンを飲み始める。ロイケリンは3週間飲み続ける。


金曜にはメソトレキセートの濃度が下がったことも確認され、4日間で点滴は抜けた。液漏れもなかったし、2週間後に行う同じ治療にも見通しが立った。これでいける。


この時点で白血球数が1400/μLまで下がっていたが、外泊が許可された。2回目の地固め療法のときの経験から、僕はこの治療では白血球数が極端に下がらないことが予想される。家に帰ると4日間我慢していた風呂に入った。もうカテーテルの跡もふさがったので風呂にも普通に入れる。


そしてこの後、またもや数日に一度病院に行く生活が始まった。一応、採血をして白血球数をチェックしていたが特に外泊に問題はなく、結局2週間後に行う同じ治療が始まるまで外泊の生活を続けることができた。


そして2週間後に全く同じ治療を行い、同じように4日後に点滴がとれた。まだあと1週間ロイケリンを飲まなければならないが、これでほぼ入院が必要な治療をすべて終えることとなった。長かった。この後は白血球数が回復し、骨髄穿刺の結果が問題なければ退院となるのでそれを待つことになるが、その間外泊をすることになるので、外泊をしながら退院を待つというおかしな状態になる。でもなんでもいい。自由な生活はすぐそこだ。


外泊中にはこんなことがあった。スーパーに行った帰りに突然雨に降られ、自然と走ってしまったのだ。実は僕が走ったのはたぶん半年ぶり。入院してしばらくの頃、走ろうとしたら足の力がなくてしゃがみこんでしまって以来走ることを控えていたのだが、僕の筋力は連日の外泊のお陰もあって走れるほど回復していたことを知った。


9月はほとんどの時間を外で過ごす月になった。

ALL #49

ALL #48 - 日記


輸血はしたくなかったけど、グランをうった跡が紫色になってなかなか治らなかったり、体を掻いた跡が残ったりするようになり、粘りすぎて血小板数が11000/μLまで減ってしまった。これは正常な状態の10%にも満たない。最低記録だ。


仕方なく輸血されていると、腕に蚊にさされた跡のようなものが複数あることに気づいた。それは時が進むにつれ増え、さらに合体して大きくなった。気がつくと体中に広がっているそれは蕁麻疹だった。こんなことは初めてで驚いたけど、輸血ではままあることとか。最初は滴下速度を落とすなどしていたけど、ひどくなるばかりだったので途中で中止することになった。幸い数時間後にはほぼ消えたので良かったけど、やっぱり輸血は恐ろしいものだと再認識した。その血の持ち主がどんな体質の人だかわからないし、相性もあるから。


重要なのは輸血の効果だけど、途中で止めたにもかかわらず、その後の血液検査では血小板数は増えていたし、おかげで体についていた跡も消えていった。


白血球の数がある程度回復すると再び外泊が認められ、次の治療が始まるまで、なんと今回は2週間ほど時間があった。ということで僕はその間当然外泊を繰り返し、またもやほとんど病院にいない入院患者となった。外泊中の食事は、何か買ってきたり、外で食べたりしていたが、あまりに外泊が多くなっていたので、この頃にはとうとう米を炊いて料理をするようにもなっていた。


長い間使っていなかった調味料や食材などを吟味し、使えるものは使い、捨てるものは捨てた。中には賞味期限が過ぎて久しいものもあった。茶碗を洗ったり、洗濯や掃除もしていたが、これもやはり体にカテーテルが入ってないことが大きかった。


そんなさなか、これまで約4ヵ月の間同じ部屋で過ごしたおじさんが、めでたく退院する運びとなった。


退院の日、僕は外泊に出る前に挨拶をした。いろいろ話したかったけど、相変わらず耳が遠いので僕の声をなかなか聞きとってもらうことができないので多くは話せなかった。でも気持は通じたと思う。もうすぐすると奥さんが来るので、その後支度をして退院するとのことだった。とても嬉しそうだった。


僕は病院を出ると電車に乗り、乗り換えの駅で降りた。すると僕に声をかけてきたおばさんがいた。これから病院に向かう奥さんだった。奥さんは「長かったけど嬉しい」と笑顔で話していた。僕はあまり病院で社交的ではなかったけど、毎日見舞いに来てだんなさんの世話をしていたこの奥さんは、いろいろ話しかけてくれたり、食べ物を差し入れてくれたりした。ときには、病気のことで悩んでいることを相談されたりすることもあって、この人とも会えなくなるのかと思うと少しさびしかった。奥さんは僕の体のことも気遣ってくれた。そして電車が来ると、今までのお礼を言って別れた。


次に病院へ行くと、おじさんのいなくなった窓際のベッドには、少し前に来たおじさんが移動していた。


「やはり明るいですね。」


僕と前のおじさんがずっと窓際にいたので申し訳なかったけど、ようやく窓際に移動してもらって僕も嬉しかった。しばらくは、廊下側のベッドには短期入院の患者が代わる代わる入院してきて、長期入院の患者は入らなかった。


そして骨髄穿刺の結果も良く、とうとう最後の地固め療法5回目を迎えることとなった。

ALL #48

ALL #47 - 日記


少し長めの休薬期間が終わり、地固め療法も4回目に突入した。


4回目と5回目は、それぞれ1回目・2回目と全く同じ内容だったので気が楽だった。一度体験しているのでどんな感じかは大体わかってるし、何より初めて使う薬や処置がないというのが嬉しい。しかも1回目と同じ今回の4回目は、治療自体が3日しかないのでなおさら嬉しい。


ただ問題は、僕の体に薬を投与するための通路がないことだ。


右鎖骨の下から入っていたカテーテルを抜いてから数日。次の治療からどうするかは棚上げにしていたが、僕は再三左鎖骨の下にカテーテルを入れるのを嫌がり、腕に一時的に点滴針を刺して治療することを主張していた。よく体調の悪いときなんかに近所の病院で1時間ほど栄養剤の入った点滴をうってもらう場合みたいな感じだ。でも僕が投与される薬剤はそういう生易しいものではない。


なんでも大静脈など血管壁の分厚いところならいいが、抗がん剤というのはやはりきついらしく、人にもよるが、腕の静脈なんかだとひどい炎症を起こしてしまう場合があるらしい。また、液漏れが起こる危険性が高く、皮膚についてしまうと大変らしい。しかし主治医は腕から点滴することを許可してくれた。


久々に腕に点滴針が刺される。注射に比べるとだいぶ痛い。テープで固定されるとすぐに薬の投与が始まった。そして午後からは髄液注射。髄液注射も慣れたもので、今回は実習に来ていた女子大生に一部始終を見学されてしまった。


その後3日間、吐き気や便秘などおなじみの副作用に耐えつつ、たくさん水分を取って過ごす。そして3日間の治療を終えた翌朝、腕の点滴を抜いてもらった。素晴らしい。しかも腕から点滴をすることにより懸念されたことも杞憂に終わり、僕の腕にはしばらくしたらきれいに治る点滴の跡が残されているだけだった。更にまだ骨髄抑制は来ないので、次の日には外泊の許可が出た。


そして次の週、骨髄抑制が来てしばらくは病院にいることになった。しかしカテーテルの刺さっていない体はとても自由で、特に、何の心配もなく寝がえりをうてるのが大きかった。また、経験を生かそうと地固め療法1回目のときの自分のメモを見ていると、骨髄抑制とともに発熱があったけどそれもなかった。


ちょうどこのときはお盆の時期にあたっていたが、僕の世代の認識とは違って、年配の人たちはとてもお盆というものを重視していたので、人口密度は少なく、いつもより落ち着いた感じで過ごせた。お盆前になると「お盆にはなんとか帰りたいんです。」と主治医に訴える声が聞こえたりしたし、治療のスケジュールをうまく合わせる人が多いようだった。ということもあって、いろいろな意味で比較的快適な入院生活を送ることができた。


ただ、骨髄抑制で血小板が減ったため輸血をすることになったとき、ちょっとしたハプニングがあった。

ALL #47

ALL #46 - 日記


僕はこの頃、外泊しては、数日に一度カテーテルが詰まらないための処理をしに病院に一時的に戻ってくるという日々を10日ほど過ごして次の治療に備えていた。


カテーテルを抜いてからは、詰らない処理をする必要がないので次の治療まで病院に来る必要がないのだが、病院の規定で入院患者が一定以上長い間外泊することはできないらしく、退院扱いにならないために病院に行くという変な状態になっていた。


入院患者にもかかわらず、病院に行くと「久しぶりやね。」と看護師さんに言われたりしたし、「来てもすることないから採血の予定でも入れとこか。」なんて場合もあったが、ひどいときは、外泊の用紙に記入するためだけに病院に行くこともあった。


同じ部屋の患者のおじさんたちは「外出れてええなぁ。」と笑顔で話してくれた。僕が外泊してる間に来た、良性の大腸ポリープで2泊入院した患者がおもらしをして部屋の中が大変だったなんて話も聞いたけど、僕はまるで入院患者を見舞いに来たかのように話を聞くことになってしまっていた。


そんなある日、僕はいつものように一時的に病院に寄って、バイタルを測ったりした後すぐさま家に帰ろうとしていた。僕は自分の病棟のある一番上の6Fから、大体いつも一般用のエレベータに乗って下に降りるのだが、たまたまその時エレベータがなかなか上がって来なかったので患者搬送用のエレベータに乗ることにした。


患者搬送用のエレベータはベッドや移動式のレントゲンなどの機器も載るようになっているのでとても広い。僕は特に調子が悪いわけでもないし普通に動けるけど、正式には長期入院患者である。


何度か途中の階で止まり、患者やスタッフが乗って来たけど、3階でベッドごと移動する人が載せられてきた。僕は脇に寄ってベッドが入るようにスペースを空け、ドアが閉まると再びエレベータは下降を始めた。そしてそのベッドを押してきた看護師さんとベッド越しに向かい合わせになったとき、記憶が蘇った。


HCUの看護師さんだ!


3階と言えばHCUのある場所。僕はここに転院してきた当初、本来いるべき6階の病棟に空きがなかったので、臨時にHCUで10日ほど過ごした。もう5ヵ月も前のことになるけど、とてもよくしてもらったことは忘れないし、6階に行くのが嫌だなと思ったくらいだった。エレベータに乗ってる時間は少ない。僕は声をかけてみた。


「あの…HCUの方ですよね?」


すると驚くことに、その看護師さんの口から出てきたのは僕の名前だった。5ヵ月も会ってなくて、しかも僕は帽子とマスクをしていたのに。


エレベータが止まり、ドアが開くと再びお別れとなった。僕はベッドで搬送する看護師さんにさよならを言って、5ヵ月前のHCUでの出来事を懐かしく思い出しながら家路についた。