牧田真有子「踏み越えた人たち」―連載〈泥棒とイーダ〉第8回

 激しくも繊細に全身でリズムをとりながら、イヤホンからの音楽に陶酔している彼に切り出すのは、つらい仕事だった。
「沼男、すごく言いにくいんだけどリュックの底からお茶ふうのものが流れ出てる。いま流れ終わるとこ」
 彼は「おお亜季」と言いながらあわただしく荷物を体の前に回し、水筒を取り出しながら覗きこんだ。
「なんと切ねえ。ノートがお茶漬けに」
 人が通らないときはひっそりと閉じていそうな裏庭だが、今日は梅が、灯るように咲いていた。以前史乃が私の体操着を沈めた池のふちに、私たちは腰掛けた。沼男のリュックサックの中身を出して水気を切り、拭いた順にふちに並べていく。長いあいだ底に堆積していたらしいプリント類、黒い唇の形のバッジがついた生成りのペンケース、単語帳。通りがかった眠そうな顔の同級生が、経緯を察して「沼男ー、ちゃんと蓋して生きようや」と揶揄した。
「これは草木染めだ! 考えようによっては」
 沼男は条件つきで語気を荒げた。
「染色家への道ひらけたな」
 同級生は眠そうに笑って、挨拶の類いはなしでぶらぶら歩き出した。
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牧田真有子「「個性の目録化、始まる」―連載〈泥棒とイーダ〉第7回

 個性提供者第一号として、私はふだん利用しない系統のバスを乗り継いでその街に着いた。待ち合わせ場所は小学校の前だ。土曜日なので校門はとざされている。門扉は塗り替えたばかりらしくきつい水色だった。風が吹くたび黄土色の落ち葉が、乾燥した波のように中庭から打ち寄せて、門扉の下をくぐり抜けてくる。
「勝見亜季さんですよね」
 張りのある声に顔を上げると、蔓がモザイク模様の眼鏡をかけた女の人が立っていた。カーキ色のコートにくしゃくしゃの短髪だ。発注者第一号の渡会さんは、離婚歴のある三十代半ばの年長メンバーである。予備校講師で、小学生の娘がいる。会合にはめったに参加しない彼女と、私は面識がなかった。
「はい、大きく丁寧に書きはしますが別にきれいな字ではない、勝見です」
 ことわっておかねばと頭の中で準備していたメッセージが転がり出てしまい、脅すような自己紹介になった。渡会さんは大げさに笑った。私は洟をすすった。彼女の住むマンションに向って歩きながら、渡会さんは言った。
「セッちゃんの新しい試み、協力したくてね」
 ええ、と頷くべきだったがくしゃみが出た。でもくしゃみくらいの返事が、自分の実感にはふさわしいみたいだ。
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牧田真有子「彼の見知らぬ顔」―連載〈泥棒とイーダ〉第6回

 天へとまっすぐ伸びる竹藪の底に美術館は沈んでいる。平らな屋根の二階建てだ。菱形の壁タイルに不規則にはめ込まれたガラスブロックは透明なのに重たげで、時が静止した館内を隠しているような感じがした。だが一歩内部に入ると、温かくてすみずみまで手入れが行き届いている。
 カーペットは佐原さんと私の足音を次から次へと吸った。来館者は我々だけだ。第二展示室を出て階段へ至る小さなスペースには何も載っていない黒い石の台座があり、一枚の紙が貼られている。
『こちらの作品は心ない者によって盗難に遭いました。皆様からの情報をお待ちしております。お心当たりのある方はお知らせくだいますようお願いいたします』
「『さ』が抜けてる」
佐原さんは十四年の間に色褪せた貼紙へ囁くような声で校正した。キャプションには「『無題V』黒井澄華」とある。すらりとした長い光が窓から差し込み、空っぽのガラスケースと、佐原さんの頑なそうな横顔を照らす。彼が肩からななめに掛けているショルダーバッグの中に、『無題V』は入っている。
 咳払いしたくなったが我慢して秒を数えた。彼は両手をウィンドブレーカーのポケットに突っ込んだまま九秒佇んでからぶらぶらと歩き出した。心ない者という文句は佐原さんにうってつけである。
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牧田真有子「ここに居てもいい資格」―連載〈泥棒とイーダ〉第5回

 翌朝史乃と顔を合わせてようやく、そういえば彼女はどこまで見ていただろうと思った。あのあと、対岸の手すりにぶつかるようにして摑まった私が、腰を抜かしそうになりながら柵の内側へ戻ると彼女の姿はなかったのだ。足ががくがくしてまともに歩けなかった。屋上の真ん中まで這っていった私は、冷えたコンクリートの上にしばらく寝転んで体がまとまるのを待ち、家に帰った。
 飛び移る最中の、自分の裏側の一点にすっと吸いとられて全部が閉じるような感覚。一晩経った今も、ややもするとよみがえってくる。
 一時限目は英語だった。私は机の端に辞書を置いて着席していた。忘れてきたらしい史乃が、私の目の前で悠々と私の辞書を持ち去ろうとした。その手首を摑み、辞書を奪い返して私は言った。
「ありがとう、もういいの」
 は? と史乃は少しかすれた声で言った。悠然として見せていても気持ちはやはり、昨日の出来事に引っ張られているのがわかった。もう一度彼女は辞書に手をかけた。私は辞書から手を離さなかった。史乃は一度力を緩めてから全力で引っ張るというフェイントめいた行為にまで出た。私はするりと手のひらから抜けそうになった辞書に、空中で追いついて両足を踏ん張り、相手の十本の指からもぎとった。机の定位置に辞書を戻して言った。
「ありがとう、もういいの。史乃に借りを作ったことは絶対覚えておくから」
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雅雲すくね「ゆでだこ」―連載〈蛸親爺〉第10回

「たーこ、たーこ。たーこ、たーこ、今日も日が暮れるねえ。ゆくりなく川は流る、か」
 河原の堤を丈の低い草が覆い、群がる薄が風の吹くまにまにうねりを打って揺れている。夕日に向かっては、雁が群れをなして去る。蛸は土手の腹に寝そべり、そよ吹く風に靡きあう草に隠れる。手にはカップ酒を持ち、カップの縁を嘗めている。
 堤の上を犬が来た。秋田犬である。
「わん」と一吠え。
「おっ、おめえさんかい。こっちに来な」
 犬は堤を駆け下りて、蛸と並んで坐った。蛸より二回りほど大きく見える。
「わん」
「え。何をしているのかって。こうしてな、たまに河や鉄橋をただ眺めていたくなるのよ」
 堤の上の交通は増すが、土手の叢に寝そべる蛸に気のつく者はない。水際には、眉毛の真っ白な爺さんが畳み椅子に坐って、憂いのないけしきで釣り糸を垂れている。
「ほれ、見ろ」と蛸は鉄橋を指した。
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雅雲すくね「民衆食堂百万年」―連載〈蛸親爺〉第9回

 裏町の短い商店街、民衆食堂と墨で大書きにした暖簾の下では、木枠の入口に曇りガラスをはめ込んで、一枚には仮名で『めし』、一枚には真名で『酒』と派手に書いてある。両脇には大小の植木が鉢も見えぬほどに寄せて置かれているのが、夕日影を受け赤く染まる。
 狭い店は、両側に化粧合板のカウンターが作られ、座面がドーナツ状に穴の空いた扁平な椅子が五、六ずつ並ぶ。左手のカウンターは厨房をかこみ、なかでは古びた白衣を着た親爺が、お玉を手にしたまま腕を組んで、出入口脇の壁につけたテレビを見上げている。テレビは相撲を映す。親爺はテレビに向かって、「よし」だの、「ああ」だの繰り返している。客は蛸のみ。とろりとして奥にあり。
「たーこ、たーこ、たーこたーこ」
 蛸の前には味醂の一升瓶が立つ。飯茶椀に注ぐ。口に含む。
「うめえなあ。本当にうめえなあ。でも味醂だから、おれあ酔ってねえぜ」
「な、そりゃいけるだろ。明るいうちから酒はよくねえからな」
「口当たりが滅法いいね」と蛸は舌鼓を打つ。
「下手な酒よりずっといけるだろ」と鍋を一混ぜすると、縁をお玉で二、三度叩いた。
「おう、部屋に鍵をかけて一人で飲んだら、たいへんな酔い方をしそうだ」と蛸は言いながら体をひねって、水槽へ頭を向けた。底に砂利を敷いて水草が植えてある上に、金魚や目高の類が揺れている。
「昨日よ、店を早めに閉めて荒木町へ飲みに行ったのよ」
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牧田真有子「この向こう側へ」―連載〈泥棒とイーダ〉第4回

 文化祭当日はこれといった理由もなく学校にたどりつけなかった。イベントの一環として美術部がワークショップを行うとかで、部員である史乃とは顔を合わさずに済む日だったのだが、私の自転車はくねくねと遠回りをつづけた挙句、あらぬ方角へ走り去った。十一月も後半だというのに夏のように蒸し暑かった。私がファミリーレストランでざるそばを啜っていたその真昼、沼男は飛び入り参加した演劇部の舞台で喝采を浴びていたらしい。棒読みすぎて大迫力だった、あれほど文化祭を謳歌した人もいまい、とチカが翌日私に教えてくれた。女子からの人気もうなぎのぼりらしいよ。彼女は可笑しそうにそう付け加えた。
 担任が「話し合いましょうか」と小声で誘ってきたのはその二、三日後の放課後だった。
 学期末に行われる個人面談と同じ体裁で、縦に連ねた二つの机を挟んで差し向かいに座った。電灯は消されたままだ。教室は薄茶色い光の底にあった。柿森先生は机の上で両手の指を軽く組み合わせていた。ジャケットの袖の折り返しに長い列車の模様がプリントされている。おとなしいがおどおどしたところがなく、どこへだって一人で行ってしまいそうな彼女に、よく似合っていた。彼女は言った。
「勝見さんは長村さんのことどう思ってるの? 自ら望んで彼女の言いなりになってるように見えるけど」
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