余は如何にして ラーズ・ウルリッヒとなりし乎

「8月は一本しか映画観らんなかったよ」と言ったら
「最近映画なんて全然観ないよ。参考になる?」と言われました。
参考になるかどうかでものを観たり聴いたりしてるわけじゃないので新鮮な言葉でした。
なんつーか、ギラついてます。

思えば僕も大学生くらいのときは小津だろうがフロイトだろうが「何かここから吸収しないと」というギラギラした視点で対峙していた気がします。
「作品を作りたい」という切迫した欲望が弱ってきていて、それが作品の弱さにも繋がってるのかも、なんて思ったりもします。
その意味で、学校に通うというのはよいリハビリですねー。
ギラギラした輩がいっぱいいますから。

メタリカマイケル・ジャクソンが好きなことと、現代音楽寄りの曲を作ることの間にどんな関係があるのか」
と聞かれるのですが、それに正確に答えるのは難しい。

こまかいところでは言って言えないこともなくて、例えばこの間作った曲だったら「時間軸のズレというテーマは直接的にヘヴィーメタルの影響を受けているんだ」とかなんとか。
しかし、手法のシミュレートなどどうでもよい。
僕の曲を聴いたときに形式(ジャンル)の違いを超えてメタリカの曲を聴いたときのような感覚を味わえるのでなければ意味がない。

メタリカメタリカでなければならない理由、普通そんなものは言語化不可能なものとして片付けられてしまうわけですが、そこをなんとかして論理化したい。
手法ではなく経験のシミュレートをしたいわけです。
言い換えれば、シミュレートはいかにしてリアルになり得るか、ということです。
そのためにはやはりもっとギラついてないとダメだなぁ、と反省いたしました。

(1)落ちる水 (2) 照明用ガス、が与えられたとせよ

ケージの「偶然性」は、可能性の総体であるとか、決定不能性の概念と関係づけて考えられがちで、それが間違っているとは思わないし、僕もそういう方向で考えて来たのですが、岡崎乾二郎によれば必然性を導入するためのシステムでもあります。


たとえばサイコロを振って3が出たとき、「1でも2でもよかったけど3が出た」と考えるのではなく、「他でもない3がでてしまったこと」の取り替えの利かなさ、変更不可能で決定的なものとしてその3をとらえること。


普通に作曲するときは、ドの次をレにするかミにするかは自分で選びます。
僕は優柔不断でものぐさなので、乱数を使ってそれを選びます。
その二つは一見正反対ですが、「どれを選んでもよい」という一点においては一致します。


それに対してケージのチャンスオペレーションでは、選ぶ行為の次元がなく「すでに選ばれたもの」としてドの次のレが外在的に与えられます。
そこでデュシャンの『遺作』の「…が与えられたとせよ」を思い出してみてもいいかもしれません。


また、三輪眞弘が乱数を使わない理由もそれで理解できます。
初期値が決定すればあとはすべてが自動的に決定されるという「逆シミュレーション」はまさに「与えられたとせよ」をリテラルに表現したものだからです。


はてさて、ここで問題になるのは、ケージや三輪、あるいはデュシャンがなぜそのような「外在性」を必要とするのかです。
カントの『人類の歴史の憶測的な起源』より引用、


「最初の段階では、理性は多かれ少なかれ衝動に奉仕する能力だったが、いまやそのような能力ではないことが明らかになったのである。拒むことは、たんなる感覚的な刺激を観念的な刺激に変え、たんなる動物的な欲望を次第に愛に変えるための技巧だった。この愛によってたんなる快適さの感覚から、美を好む趣味が生まれる。」


簡単に言えば、美あるいは愛には、快適なものをいったん拒むことが必要だということ。これを手がかりに次回もうすこしまとめたいと思います(←おい!)

フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』

もちろん三人の幸福なバカンスや後半のお涙頂戴な話も好きなのですが、僕はカトリーヌが出てくる前、ジュールとジムがテレーズという女の子と過ごすところがとても好きなのです。


テレーズがタバコの煙を吐きながら機関車のまねをして走るシーンで、彼女は意図せずにそこに映り込んでしまったモノ、ストローブ=ユイレの映画の木々のざわめきのようなものとして存在しています。
本来彼女は「主人公二人と偶然出会った女の子」という関係性の中でのみ成立するはずの存在なのですが、そのような関係性や映画のストーリーからするりと逃れて単独で存在してしまっている。
そしてそれは、彼女が二人の元から逃れていく存在であることも同時に示しています。


カトリーヌにはテレーズのような軽やかさはなく、もっとベッタリとして複雑です。
彼女は自分では逃げようとしながらも相手のことはがっちりと捕まえて離そうとしないという矛盾を抱えた存在として描かれています。
このような矛盾を抱えた人間が幸福になれるはずなどなく、後半に向かうにつれて悲劇的な展開を見せることになります。


だからこそ僕は前半の、崩壊を宿命づけられた三人の奇跡的な友情に涙してしまいます(まぁ後半も泣いてますけど)
突然現れた女神に恋をしているジュール、カトリーヌに魅かれつつもそれよりも友情を楽しんでいるらしいジム、まるで無意識にその場の感情しか存在しないカトリーヌ、性格も違えばお互いに求めるものも違うまるっきり噛み合ないはずの三人が、まるで三人で一つであるかのように画面を運動しているという奇跡です。


舞台を山荘に移してからはラストのカフェのシーンまで三人で画面に映ることはなかったように思います(記憶が正確ではありませんが)
三人一緒のシーンでもアルベールかサビーヌがいるか、もしくは誰か一人が欠けている状態…一度狂ってしまった歯車は二度と元には戻らないのです。


テレーズが去ったときの「女はいくらでもいるさ」という台詞が、取り替えのきかない関係を失った悲劇を際立たせます。
全員が互いを深く愛しながらも友情が壊れていくのをなす術もなく眺めるしかなかった悲しみが前半の友情の美しさを際立たせ、その美しい友情が後半の悲劇をよりいっそう悲しみの深いものにしているのです。


関係ないけど。
ドン・キホーテサンチョ・パンサ」という台詞にあるように、ジュールとジムの関係にはホモセクシャルの匂いが濃厚に漂います。
カトリーヌは実は一貫してジュールを愛しており、ジュールの欲するもの(ジム)に嫉妬し、自分もそれを欲望し、最後にはそれをジュールの手から奪った、と解釈することもできるかもしれません。

菊地成孔『聴き飽きない人々』

バンドネオンの奏者は、日本の民謡界における三味線だとか琴だとかと同じで、ものすごい愛憎がバンドネオンに対してあるんだってことですね…(略)…そういう愛憎入り乱れてるポストモダニストの作品を聴いてもひとつも面白くないんですよ。それで、バル・スールとかに行って、60、70歳くらいのおじいさんがやってる普通のアルゼンチン・タンゴを聴くと、死ぬほど感動するんです(笑)。ヤだなっていう。日本で邦楽を解放/発展させようとして一生懸命がんばってる人がいるのに、外人が国立能楽堂とか行くとそっちに感動して終わりっていうのと同じ感じがしましたね。

死ぬほど感動しつつもそこに耽溺せずにそれを切断してしまえる知性はアーティストにとって重要な能力です。
岡崎乾二郎なら「自分の感覚というものがいかに信用できないか」と言うところでしょうか。
それこそ菊地がマイルスから学んだことであり、「官能と憂鬱」という言葉もそのように理解されるべきだと思います。
「ポストモダニスト」には官能がなく、「普通のアルゼンチン・タンゴ」には憂鬱がない。
どちらが欠けていてもダメなのです。

しかし、すぐに気づくようにこれは非常に男性的な考え方です(性交時の官能と射精後の憂鬱)
知性、あるいは芸術は男性的なものであると言いたいわけではもちろんなくて、例えばメレディス・モンクやアーシュラ・K.ル=グウィンの作品から感じるのは、あくまでもシャープで知的でありながら、切断を伴わない別の原理の知性が存在するということです。

とりあえず前者を男性的、後者を女性的な思考と呼べるかもしれませんが、例えば川久保玲のような明らかに切断的な知性によって作品を作る女性アーティストのことを考えるとこの差は絶対的なものではないし、また男性/女性という語を使うことすら不正確であるかもしれません。

それに僕としてはこれを性差に還元できないもっと普遍的な地平で語ることが可能だと考えたいところです。
物理学の大統一理論みたいなもので、その理論を使えば男性でもモンクのような方法で曲を作れるというわけです。

まぁそれがどういうものなのかと言われてもノープランなのですが。
だってルグウィンもオキーフも肝心なところで「それは私の中に降りてくるのです」とかわけのわからないこと言うんだもん(笑)

アキ・カウリスマキ『マッチ工場の少女』

この映画は、冒頭で材木からマッチが作られていく様子が描写され、ラストは主人公イリスがいなくなった工場がなおも稼働し続ける様子を映して終わります。
また、天安門事件などの(当時の)タイムリーなニュース映像が執拗に挿入されますが彼女は決まってそんなニュースとは無関係であるかのように行動しています。
これは、彼女が世界の中に存在する一方で、世界の方はまるで彼女の外側にあって彼女とは無関係に動いているかのような、彼女の危うい存在を示しているでしょう。


イリスを演じるカティ・オウティネンはとても微妙な人です。
美人なのかブサイクなのか…よくわからない(僕はものすごく好きですが)
ダンスホールで誰からも声をかけられないのも不自然ではないし、ちょっと着飾れば金持ちのハンサムな男の一夜の相手にもなる。
マイ・フェア・レディ』のような劇的な変身をするのではなく、元々からブサイクでも美人(という役ではないですが)でもありうるような微妙さを持っている顔なのです。


歳もよくわかりません。
「少女?なのか?」と思って帰ってから調べてみたら61年生まれで89年のこの映画の時点でやっぱり少女ではないのですが、少女と言われればそうも見えそうな微妙な顔なのです。


演技も非常に微妙で(下手と言う意味ではありません)無表情とも言えるけれど感情がないわけではない、という微妙な表情を作ります。
振られても泣いたりわめいたりせずに、だらしなくたるんでいるようにもキュッと閉まっているようにも見える微妙な口元のまま虚空を見つめています。
しかしそれが悲しそうに見えないかというとそうでもない。
男に振られても、子供ができても、人を殺すときでも、何かしらの感情は認められるけれども決して心の奥底までは見通せない、つねに曖昧な表情なのです。


カウリスマキがすごいのは、ちょっと変わった女優を使って映画を一本作ってみた、というのではなく、この常に顔も演技も存在感も不安定な女優をミューズとして何本も映画を作っているということです。
つまりは彼女の持つ微妙さこそがカウリスマキの映画の全てだということなのですね。

6月の踊るロード賞

成瀬巳喜男浮雲
アキ・カウリスマキ過去のない男
曾根中生『わたしのSEX白書 絶頂度』
神代辰巳恋人たちは濡れた
フランソワ・トリュフォー『私のように美しい娘』


今、メインマシン(win)が動かないのでマックで書いているのですが、「なるせみきお」で一発で変換できたのに感動しました。

6月の踊るヒット賞

Morton Feldman『ピアノと弦楽四重奏
BoA『Listen to my heart』
Mouse on mars 『Niun niggung」
Loop Session『Bad soup hidden』
Raul Midon『State of mind』


今、「3分間でフェルドマン」というコンセプトで曲を作っています。
8月11日に発表する予定なのでものすごく暇な方は観に来てください。