仮設住宅でのお茶会

友人がお盆のお菓子に「源水」という京都紫野の和菓子屋さんを利用したと聞き、
やはり仮設住宅でのお茶会のことを書き止めておきたいという気が湧き起りました。


2011年の震災後から、東北―被災地とよばれる土地を訪ねさせていただくことになります。

何度目かの訪問の後、
翌2012年の夏、
ふとしたきっかけで
大船渡の大中仮設住宅にお住いの方を
ご紹介いただくことになりました。
それから、
その方に何度かお会いすることになり、
1年ほどたった秋、
仮設住宅にある集会場を使って、
みなさんにお目にかかることになっていきました。


フライヤーを作って送信したものを
夢ママ(当時仮設にお住まいだった方)が
プリントアウトして、各戸のポストに入れたり声をかけたりしてくださる。
お忙しい中、煩雑なことを
こちらの気持ちを汲んで丁寧にしてくださる。
回を重ねるごとに
夢ママさんの仕事でもない仕事を

増やしているだけなんじゃないか
と思えてきたのも事実です。
それでも、笑顔で
喜んでくださることに甘えて
配りには行けないし、と言い逃れを心の中でしながら
お任せしてしまってきたのですが。

これまで、2013年の秋、2014年の3月と10月
そして、それまでとは少し異なった意図も加わり
夢ママさんの仮設からのお引越しを控えた
2015年の3月とさせていただきました。
ところで、お茶会お茶会と書いていますが
ほんとうは、仮設に住まうみなさんに
お話ししていただきたくて
お話しをうかがいたくて
そうしていただくには、
心をゆる〜〜くしていただいて。。と考え、始めたことでした。
もともと「お茶っこ」「お茶っこの会」など
お茶とお菓子を持ち寄ってみんなで集まって。。。
という風土があったようであります。
  というわけで、お茶はつけたし?
いえ、導入のように考えて
始めたことではありますが
私自身、茶道に親しみがあったため、
このお茶は、お抹茶をのんでいただこうと意気込みが入ってしまいました。
そうなると、主菓子はどれにしよう。。。
ほかにはどんなお菓子を喜んでいただけるだろうか。。。
季節のお茶碗は?お花は?茶掛けのように何かかけさせていただくのはどうだろう?
と、どんどんディープ?な世界に入ってしまいます。。。
みなさんの中で、やってみたいと思われる方には
ご自分でたててもいただこう。。。
春には、ウェルカムドリンクのように
桜茶を味わっていただいてからにしてみよう。。。
いろんな方にお知恵をいただきながら、セッティングに(しつらえと言う方がいいですね笑)
夢中にさせていただきました。また、自由に。。とお志をくださった方々もおられます。

この記事の最初に、紫野「源水」のお菓子を友だちがもとめた事に力を得てと書いたのは
一度目のお菓子が、「源水」さんのものだったからです。
大雨のため、予定の刻限に着くかどうかわからない状況になりあたふたしたことも思い出されます。

これは、2015年の3月の「赤い糸」という
御菓子丸さんのもの。
夢ママさんが仮設を離れられることはもちろん
みなさんの中でつながっているいろいろな見えない糸
などの思いが密かにありましたが
その思いは、少し独りよがりな重たいものであったかもしれないと振り返っています。
そんな勝手な思いとは別に
お菓子は繊細で美味しく喜んでいただけましたのはもちろんです。

京都の干菓子、宮城九重本舗玉澤の「霜柱」や「九重」
賣茶翁の「みちのくせんべい」なども選んだり。。。。。

場所は、仮設の集会所です。長テーブルを輪にしてみました。
軸をつらさげて、
お花は、いつも近くの野の花を摘んでいけてくださいました。
お点前も、不作法ながら立って点てさせてていただきました。
一碗づつなので、待っていただくのですが、その時間もまたくつろいでくださったようです。


お茶のお稽古をしていました。。。
お道具が全部流されちゃって。。。
お寺の茶室も浸水して使えなくなりました。。。
仮設でこんな風にお茶をいただけるなんてねぇ。。。
眼の光を無くされた方が、娘さんに手を引かれて来てくださったり
二碗目をもとめてくださったり。。。

本来の目的である、お話しもたくさんしてくださりもしますが
震災のことはまだ話せないと何人もの方がおっしゃいます。
言葉にならないこともあるし
また、たわいない雑談を笑顔で交し合ったりも。

震災後に、被災地とよばれる東北の宮城・岩手を訪ねさせていただく中で
ほんとうに自分の無知を恥じるのですが
いえ、恥じるより以上に、知れた喜びの方が大きいといえるほど
風土や文化の魅力や素晴らしさそして住む方々にひかれていきました。
もっと、知りたいわかりたいという単純な思いから
2015-7-19に書いた「大船渡加茂神社五年大祭」にも行ってしまったりもしたのですが。

夢ママさんは仮設を出られましたが、
まだ、仮設が無くなるまでの間、たくさんの方が引き続き住まれます。
来てくれていいよ
と言っていただけたらこれからも行きつづけようと思っています。
集会場のあるプレハブの建物、
入口のドアを開けると
「ありがとう」の暖簾がかかっています。
震災後、全国からたくさんのボランティアの方々がこの仮設住宅にも
個人団体を問わず来られ品物もまたたくさん集まったと聞きます。
それは、今もまた続いているそうです。
人が発する気持ちは受け取ってくれる人が在って初めて
通い合う可能性が生まれるのだと、つくづく感じています。
だから、こちらからも「ありがとう」を言いたい気持ちです。
また、被災地に行く心を話し、きっかけをくださったM先生に感謝いたします。

 大船渡加茂神社五年大祭

京都では、台風の大雨の中、祇園祭前祭りの山鉾巡行が終わった。まだまだこれから、日本中のあちこちで、夏の祭りがおこなわれていく。
東北でも、七夕、ねぶた、ねぷた、竿燈。。と次々と大規模な夏祭りが開かれていくけれど、大感動した今年、5月3日に行われた「大船渡 加茂神社五年祭」のことを今更ながら、
書いておきたいと思った。
3月11日の頃は荒天でJR、BRTを乗り継いでの訪問になったけれど、
5月は雪の心配のない快適な道のりになった。

4年に一度、本来は2011年の5月に開催されるはずだった祭り。また、4年後の2015年がその年だったそうだが、まだ開催されることはなく、1年延びた今年はあると聞き、市役所に問い合わせたところ、実行委員の方を教えてくださり、「手踊りはないんですけれど。。規模も小さいんですけれど。。」と丁寧に申し訳なさそうに電話の向こうの声が答えてくださる。そもそも、これまでの「加茂神社五年祭」がどんなものかもわからない自分には「はぁ。」と間の抜けた受け答えをするしかなくそれでも「行かせていただきたい。」と伝えると喜びを表してくださる。


そもそも、この五年大祭という祭事は、地域によって5年に一度あるいは4年に一度の間隔で開催されるらしい。そして、この加茂神社は4年に一度ということか。震災後に岩手に度々伺うことになり、大船渡にも強いご縁ができた5月にこの祭りを控えた3月11日の東日本大震災の日は、小高い丘の上、階段の先にある加茂神社が避難所になり、眠れぬ夜を明かされたことをのちにうかがった。海の水に浮かんだ屋根を伝って毛布を取りに戻り暖をとったことも、安否を尋ねる人の声が絶えなかったことも。祭りの朝は、大漁旗がはためく晴天。

 大船渡市は、津波で壊滅的な被害を受けた市の一つで、
町内がまるごと被災されたり、散り散りになったりと、参加したくともできない地区も多くあり
祭りの開催には相当の覚悟があったと聞く。
神輿や稚児の行列、山車、手踊り、
そして、地区地区に伝承されてきた民俗芸能が披露される。
その踊りやお囃子を受け継ぐために
子どもの頃から覚えるそうだ。


芸能には大きく分けて
鹿踊り、権現(獅子舞のよう)、曲録(大名行列)、剣舞(仮面をつけ,剣をもつ)がある。
それぞれの地区が地区で守っている。右の写真は高校生の鹿踊り。
上の写真は曲録。
この芸能、祭りや前後の日に、家々の軒を訪ね、門付をする。


祭りの朝、神社では、神輿の担ぎ手たちが
白装束で並び祭殿の奥の神官の声を聴く。
その間、街には、神輿が降りてくるのを待つ人々の群れができている。
この人々の活気と熱気。
これまで、何度となく訪ねた日とはまるで違う。
それでも、本来の祭りは、この数倍は賑やかだったのだ。
神輿や行列が通る道には、ご幣が建てられている。
ただ、街はかさ上げの工事の真っ最中。
道は狭く、記憶にあるかたちでもない。
会場となった新装された魚市場への道には民家はほぼ見えず、工事現場を歩くよう。

 これは、平(たいら)という地区の「七福神」という伝統芸能。飛ぶ、飛ぶ、跳ねる跳ねる!カッコいい!
岡本太郎が「岡本太郎と日本の祭り」で東北の(沖縄のにも)伝統芸能について述べているように
『空間的な舞踊性は日本では珍しい。。。身体全体が浮揚し、なめらかに空間を切り、躍動する。。』

岡本太郎と日本の祭り

岡本太郎と日本の祭り

リズミカルなお囃子の音に、力強くコミカルかつ哀切な語りが素晴らしい。
次々と披露される伝統芸能はどれもこれも素晴らしい。涙出るくらい。
地元の方が、地味な観光客も来ないお祭りなんですよ。。。
とおっしゃってたけど、そんな切り口に驚く。
明るく、きっぱりとして、これまで、どんなふうに継承されてきたかがわかるよう。
そして、震災という流れを断ち切るように見えた出来事があってもつながっている。
そもそも、鎮魂の意味もこの伝統芸能群には込められていたのだという。


 沿岸の防潮堤の工事は形をあらわしてきた。
かさ上げも急速に進み、知らない街があらわれたようときく。
自分は、震災後のこの街しか知らず、震災を経験した方々としかあっていない。
これからもまたそうとしかあれないけれど
この祭りの日にこの場にいられたことは幸せだと思う。また、いただいたものが増えた思いがする。
おっちょこちょいの私は、4年後のこの大祭に、手踊りの踊り手として行列に参加したいと夢見ている。

シネバトル

仙台  映画

仙台に不定期ながら時々伺うことができ、少しづつ街の面白さ奥深さを自分なりに体感している。とはいえ、ほぼ、定禅寺通りのいくつかの場所を行ったり来たりしているのだが。そのいくつかの場所の一つに、「せんだいメディアテーク」という、伊東豊雄設計、鷲田清一館長の美しい建物がある。美しいだけでなく、美術や映像文化の活動拠点というテーマ倒れに終わらない、市民に身近な施設のように感じていたのだけれど、今週伺ったときにたまたま知った「シネバトル」という催しのおかげで、他府県民の私にもぐっと距離が近くなった。
「シネバトル」一人3分の時間の中で、自分の一押しの映画を聴衆にプレゼンテーションするのである。その後、また3分の時間で聴衆とやりとりをし、全部が終わったところで、その場で、プレゼンを聞いてどれを見たいと思ったかを投票。すぐ開票という運びで、その日の金賞が決まる。その辺がバトルと名付けられた所以だと思うが、ほとんどが初対面だろう中、わきあいあいと、ほのぼのと初々しくそのバトルは勧められる。しかし、それぞれに、趣向を凝らしたトークはなかなかのもの。程度の差はあるだろうけど、映画好きという共通の糸でつながれた安心感と、気持ちのいい緊張感。Vol.8だったらしいその回は4名のプレゼンターが、それぞれの作品を紹介。ラインナップは「プリシラ」「ラブ&ポップ」「バーディー」「スティング」だった。半分知っていて、半分知らなかった。知っていた2本は自分も大好きな2本。結果、見たいなと思わせてもらったものが、金賞。フロアの一角に椅子を並べたとてもオープンな会場設定も心地よかった。8月には昨年の金賞・銀賞が上映され、Vol10も行われるそうだ。

結ぶ

初めて大船渡を訪れて、何度目かに仮設住宅にお住いのSさんとお会いすることができた。その後、訪問の度にほぼお目にかかれて、お話しをお聞きしたり、時には聞いていただいたり。この春には仮設を卒業(ご本人の言)されたけれど、お里帰りと、数年を共に暮らした方々と交流されている。仮設住宅にお住いの時は、被災地となってから尋ねる多くのいろいろな方々の窓口になって人と人、もっと言えば、心と心、気持ちと気持ちをつないできてくださった方だと思っている。いまもまた、そうなのだが。そのSさんが、くださったのがこの手作りのミサンガ。

ありがとうを伝えたくてーーミサンガをつくってみました。どうか受け取ってください!
ココロが折れそうになって散々泣いた・・・・
涙が枯れるまで泣いた・・・
それでも
生きていけるのは いただいた勇気があるから
笑うことができるのは いただいた元気があるから
ちょっとづつ前に進むことができます
みなさんのおかげです!
感謝の気持ちをこめて編んだミサンガを
どうぞ受け取ってください!
そして、心からアナタの幸せを祈っています


と、可愛く弾んで書かれている描かれている。
元気をもらった気がするのは
間違いなく私だけではないと思う。

ずっと、眺めていたくて、使えずにいる。

最近知ったこの本

岡本太郎の東北

岡本太郎の東北

岡本太郎さんが、1950年代から60年代に東北ー秋田・岩手・青森ーを訪れて撮った
モノクロームの写真と文章。
岡本太郎を好きではなかった川端康成がこれはすごい本だと褒めたらしい
「忘れられた日本ー沖縄文化論」

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

を読みたくて探していたら出会った本です。
岡本太郎が東北について語ったり撮ったりしていたことを全く知らなかった。
考えてみれば、縄文土器に触発された方なのだから当然なのですが。
そしてさらに、こんなに言葉を素晴らしく巧みに使う方だとはこれもまた知らずにいた。
あとがきに飯沢耕太郎が『「東北」に対する紋切り型の言い回しー暗く、寒々とした風土、そこに生きる粘り強い人々といった表現には反発を感じてしまう。だが、岡本の写真と文章に関して言えば、そのような大量に流通するステレオタイプな東北観とは、一線を画している。』と長居引用になりましたが、書いている、その通りを感じた。自分もまた、ステレオタイプな東北観を持っていたことを、最近になってやっと気づいたこの時に、出会えたことを感謝したい。自分なりの東北を思い考えていくうえで、道を示してくれる一冊であるように思う。