フィンランドの教育意識改革に思う

@_nat経由、フィンランドの教育に触れた講演の紹介記事

  • 「内容」から「方法」へ
  • 「覚える」から「考える」へ
  • 「画一」から「多様」へ
  • 「KY(空気が読めない)」から「自分の意見」へ
  • 「ダメ人間」から「夢と希望」へ
  • 「想い」から「ことば」へ
  • 「ことば」から「行動」へ

明快な教育方針ですね。大賛成ですし、日本でも実践したいところです。何人か知っているFinland人、とってもナイスですが、同じぐらい内気で。最後の「行動に」にたどりついた、苦しい道のり、なんとなく想像できる気がします。

この方針を日本に置き換えると、なぜ、この日本がわざわざ、こんなビジョンにしなければならんのだ、という「なぜ」を言葉にする力が、教育の現場でも、教育の内容を規定している官僚サイドにも、無い。多様性だとか個性とかいう言葉は散々使われてきましたが、では、なぜ多様性を重んじるのか、という突っ込みをいれると、答が出てこない。だから、多様性を言葉ではかかげても、結局空気を読む画一教育になってしまう。現場の教師も答えられるぐらいにならないと、実践できないですから。

大量生産/大量消費というこの国の経済の形が数十年前に国全体を支えられなくなったことに、この方針の源泉があると思います。大量生産/大量消費経済が日本を牽引できなくなっているのは明らか(今まで何度「企業の設備投資の回復に支えられて景気はゆっくりと回復」と聞いたことか)。大量生産/大量消費経済圏では、我慢、画一、高品質、滅私、みたいなのが、大事でした。多分、大量生産/大量消費経済圏の数割を、「なんとか町の誰の誰子が作ったこれ」みたいなものからなる、個の経済に置き換えていかないと(すると「個人の設備投資の回復に支えられて景気はゆっくりと回復」とか言われ始めたりするんでしょう)。で、その一部置き換えのためには、このフィンランドの方針みたいなのが教育で行われる必要があります。そう考えると、国のビジョンにかかわることですね。

Well, 一部の私立や、ホームスクールから始めていって、そこの卒業生が社会で成功していくことが、確実な道なのかも知れません。

代弁者を探す生き方、自分が発言者になる生き方、考えない生き方

東京の大学を卒業して、大企業に就職し、独立して最近に至るまでに、自分は3つの生き方をしていたように思う。

企業に就職したてホヤホヤの時は、考えない生き方。入社して1−2年ぐらいは、職場の先人達からものすごい勢いでいろんなことを吸収していた。自分の頭で悩んだり、何かを考えていなかったわけではないが、周囲からの吸収量に比べると微塵だった。

インターネットがみんなのモノになってから(ブログが流行りだした頃以降かな、確か2003年の終わり頃だった)は、代弁者を探す生き方。情報発信のコストが著しく小さくなったことが、社会の潮の流れを変えていくはずだ、と思ったのだが、当時そんなことを明快に主張している人は数が少なかった。無論勤務先でもそうだった。勤務先では、これからの情報技術/ビジネスの形は何だろう、というようなことを調査研究したり、実際にパイロットプロジェクトを立ち上げる担当だったが、何ぶん自分一人で、「世の中の潮目がこう変わった!だからXXとかYYに注力すべき」みたいなことを主張するには、非力すぎた。非力すぎる故、代弁者を探して生きていたように思う。2005年4月にシリコンバレー現地法人に赴任して、Web 2.0 Conference 2005に参加して(このタイミングでTim O'ReillyがWhat is Web 2.0?論文を出した)、この盛り上がりは自分が考えていたことが、正しいということの証拠だと思ったし、しばらくして、梅田望夫さんが、「ウェブ進化論」を出版し、自分の考えていることを代弁している本を見つけた!と思ったものだ。「ウェブ進化論」を上司や顧客に自腹で配ったり、「この大企業向けカンファレンスでも、マス広告が効かなくなって、消費者の情報発信へどう対処するかが一番の議題になっている」みたいな報告や記事発表をしたものだ。代弁者をたてて、ちょろちょろと自分の考えていることを主張する生き方だ。

独立して2年半がたち、つい先ほど、代弁者を探す生き方から、言ってみれば、「自分が発言者になる生き方」に変わっていたことに気がついた。Webアプリケーションのアーキテクチャのパターンとして最もポピュラーなMVC(Model View Controller)パターン。今は、MVC全部サーバで動いている、というのが主流だが、今後は、サーバサイドがM、クライアントサイドにVとCを持って来て、ブラウザとサーバの間は基本的にRESTfulにjsonでやり取り、みたいになっていく、みたいな(Life is Beautifulの中島さんや、Aaron Quintsammy.jsフレームワーク)話に大賛成なのだが、大賛成だと思えば、実際にそういう風に自分でWebアプリケーションを作るのみ。上司とか、同僚を説得して、社内開発ルールを変える必要は無い。ブログやTwitterで、「これはいい。信じてるよ!」とストレートに言う。Twitterでfollowしてくれている人たちは、私のその発言を読みとばすか、チームメートならば、ふーん、wizardofcrowdsこういうのに興味があるんだ、というふうに読むか、中には、followしていないにもかかわらず「これ以上賛成できないっていうぐらい賛成したい!」と言ってくる人もいる。なんであれ、特定の反応を気にすること無く、ただ、自分の思ったことをストレートに言う。これが、「自分が発言者になる生き方」、である。へ、つまんないことでしょ?

ところが、だ。大組織に所属している場合、周囲の説得に膨大なエネルギーとそれなりの戦術が必要になってくる。代弁者を見つけて自分の主張を補強するのは一つの戦術だ。ただし、代弁者を探すことが日常になってしまうと、本来一番しっかりしなければならない「この私」の影が薄くなりがちだ。有力な代弁者を見つけられないと、自分が自分でいられなくなる、という、とてもストレスフルな状態である。自己尊厳喪失状態。自分にとっていい精神状態ではない。

ついでなので、少し脱線するが、「この自分にとって」、という立場から離れて、そんな代弁者探しを大事な社員にさせている組織の側にとってもあまりいいことではない。その人が代弁者を見つけて来てからでは、もう手遅れな場合があるということである。イノベーションはそれでは起こせない。代弁者がぞろぞろ出現してきている時点で、もう、その主張は、コモディティ化に向けてまっしぐらなわけで、その流れに追随する他なくなってしまう。その組織が勝者になる公算は著しく低い。Googleは、従業員が「自分が発言者になる生き方」をすることを前提にして組織されているように見えるし、AppleSteve Jobsは、社員が「最近、世の中にこんなことを言っている人がでてきました」なんて言ってくるのを待ってなんかいない、自分から先に発言(製品発表)しているのだ。

ここで、自分が言おうとしていることの代弁者を偶然みつけたので(w)引用しておく。私の尊敬する37signalsの二人が書いた、「小さなチーム、大きな仕事」という本からの引用だ。

p107 「競合相手が何をしているのかなんて気にしない」より

競合他社にたいしてあまり注意を向ける価値はない。なぜなら、...(略)...どのような小さな動きも分析しなければいけなくなる。これはひどい考え方だ。それではストレスと不安に圧倒されるようになる。そんな精神状態は、何を育てるにもひどい土壌となってしまう。...(略)...かわりに自分自身に焦点を当ててみよう。ここで起こっていることは、向こうで起こっていることよりもずっと重要である。...(略)...競合他社にあまりにも注目しすぎていると自分自身の洞察力が希薄になってしまう。他の人々の考えを自分の脳に与え続けていると、すばらしいことを思いつく機会が減少していく。あなたは先見の明を持った人となるのではなく、responsiveな人となる...(略)...


はい、この本、私の代弁者としてすばらしいwwので、是非お読みあれ。昨日、訳注を書きました。訳注はこちら。私はこの本の訳者ではないので、念のため。

小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則 (ハヤカワ新書juice)

小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則 (ハヤカワ新書juice)

元旦に気付いたこと

いくらなんでも一年に一回ぐらいはブログを書かないと、と思い新年早々キーボードに向かう。

途中何ヶ月か日本に住んではいたが、2005年4月から北米の西海岸に住んできた。そんなこんなで、しばらく日本国内での生活から離れてみて、今日気付いたこと。それは、今思い浮かべられる範囲で自分が好きな日本のモノとコトを列挙してみると、どうやらそれは全て100年前から存在していたものばかりだということ。

例えば、こんな感じ。

  • 江戸前寿司
    • 今でも、こちらの新鮮な魚介類を使って自分で作る。これからも作り続けたいし、日本にもし行くことがあったら、江戸前寿司の名店に行きたい、と思う。
  • 木の器
    • やはり正月作るお雑煮は木の器が美しい。おせちも漆塗りの重箱がいい。
  • 温泉旅館
    • 日本に3歳になるまでしか住んでいない娘達が一番恋しがるのは温泉旅館での経験。
  • 白神山地とか、日本の自然
    • 高校生の時に堀田たちと歩いた、あの、豊かな生態系の、匂いや感覚は今でも忘れない。今住んでいるところも、すばらしい自然の中だが、それでも、四季の美しさは日本のそれにかなわない。

ここ2年ちょっと、カナダの田舎に住んでいて、日本人の友達も近くにはほとんどいないし、日本食スーパーとかも近くにない生活を続けている。日本食スーパーとかに恵まれている場所、例えば、シリコンバレーとかに住んでいると、たいていの日本の食材が手に入る。だから、食に関しては日本の都市に暮らしているのと、あまり変わらない生活をすることもできる。日本人も多いし。すると、なんか、自分の生まれ育った国のことをあまりクリティカルに考えることも必要もなくなったりする。カナダの田舎で2年も隠遁生活をしていると、自分の感覚が研ぎすまされてきて、上に書いたようなことに気付いたらしい。

こう考えてみると、自分にとっては、今の日本に帰るより、百年前*1の日本に帰るほうが、実は嬉しいことなのかも知れない。

*1:友人のアメリカ人と日本料理談義をしている時に彼が言っていたっけな、「最近一部の(アメリカの)人々は、Authenticityを求めるようになってきた。」恐らく、彼らがいだく日本のAuthenticityは、同じく100年前かそれ以前に遡る。例えば、上でリンクしたある江戸前寿司の名店を紹介した動画の5分30秒あたりからの部分でもそういう主張が出てくる。

江島さん、それは本当に「実力の不足」の問題か?

江島さんの「LingrとRejawサービス終了のお知らせ」への、コメントエントリ。

postmortemの部分はGetting Real派として賛同します。それ以前のオフィシャルな謝辞の部分で、「実力の不足」とありますが、江島さんの実力はうらやましい程ずば抜けてある。実力よりもっと下のレイヤの話じゃないでしょうかね。前言語判断というかその人/エンティティの持っている文脈レベルの話。上場企業を親会社としたエンティティでは、ある資金があって、その資金の範囲で、人を雇うのも当然という暗黙の判断がある(裏返すと、人を使わずに、Super Entrepreneur一人でできることならば、上場企業の子会社でやることではない)。これが図らずも制約条件になってしまうので、事業にどうしてもその出自の色が出てしまうのです。postmortemの分析は正しいけれども、では、なぜそうなったのかは、江島さんの実力の問題ではないと思います。公式な謝辞として他の良い表現がないから使っているのかもしれないけど。

江島さんのpostmortemの中で、教訓は「究極の少数精鋭はひとり」「プロパー指向という贅沢は軌道に乗ってから」とのくだりがありますが、「その事業を始めるために本質的なエンティティのあり方、資金調達の方法は何かを問う」ということが付け加えられうる、ということなのだと思います。

以下はケーススタディです。参考になれば。

最近あるサーチエンジンのアイディアが浮かんで、相棒の@engと途中まで作ってみて動かしたのだけど、確かにとてもおもしろいし使えるのだが、きちんと計算基盤を作らないとBlazing Fastなサービスが実現できない(=Dannyクラスの人をフルタイムで雇わないといけない AND 年間数百万の計算資源経費がかかる)ということが明らかになりました。すなわち、2 millionぐらいないと実現不能だということです。ポケットマネーの範囲だと、レスポンスに20秒ぐらいかかるサーチエンジンになってしまう。

そこで、「この件において、外部から2 million調達して、会社をあらたに設立したとして、本当にそれが、@engなり@wizardofcrowdsのやりたいことなのか?」と、考えたのです。そう環境に自分がいたとして、自分の魂が本当に吠えることができるか、と。@engも@wizardofcrowdsも答えはいろいろな理由からNoでした。なのでそのアイディアを追求するのはきっぱり辞めました。Googleみたいなプレーヤーがいずれやることでしょう。

現在、このサーチエンジンの探求の中で派生的に出て来た別のアイディアをパートタイムで開発中です。ポケットマネーでできる事業です。ポケットマネーの範囲だからこそ、やりたい放題できる。自分達らしくできる(生産性最大100倍の境地)。言ってみれば今は新しい雑草の種です。一つの雑草の種でも、自己触媒的なサイクルに入れれば、空き地を覆い尽くすことだってあり得る。そういう時代に突入しているのだと思います。私が言うSeeking Robustness、あるいは雑草経済というのは、簡単に言うとまあそんなことです。渡辺聡さんの「競争が個人にシフトするかという話」にちょっと関連することですが。

江島さんの次の発芽、心より楽しみにしています。

失敗のコストと組織変革

近年失敗のコストが低下してきていることが、巨大組織に示唆する事は何か? masayang氏のエントリ、「おじさんに求められる資質は」に触発されて、ここでは、もう一段階思考を深める(10分以内で)。

  • 失敗のコスト、すなわち、提案そのものの実現にかかるコストは、理想組織では50万円だとして、かつ50万円を動かす権限をおじさんが持っていたとしよう
  • でも、巨大組織では脊髄反射的に躊躇するよね
  • では、その脊髄反射の根っこはどこ?
    • 例。失敗が、50万円ではなく、その巨大組織のブランドに対して傷になり得て、その傷による損失はでかすぎるから
    • 例。それゆえ、巨大組織の種々の制度が、失敗を許さないようにできている
  • ごもっとも。でも、環境の激変で、ブランドに対する傷を守っている場合ではなくなりそうな巨大組織はどうすべきか?
    • 例。小さな失敗によるブランドに対する傷を最小化するために組織の構造を変える。
      • AmazonのPizzaチーム化みたいな、おもいっきしフラットな分社化(一組織あたり8名以下)、意思決定権限の委譲
    • 例。小さな失敗を世間で評価してもらうキャンペーンをトップが行う
    • 例。 あきらめて、今のブランドが全て、と割り切り、小さな失敗を許さない巨大組織のまま頑張る


以下蛇足。

10分以内という制限の中で、同じはてなユーザ同士のトラックバックエントリを書くのに、いちいち、エントリ名をコピーしたり、リンクをコピーしなきゃいけないのに何十秒もかかってしまうのはとても嫌。この不便さを、いつになったらはてなは解消してくれるのか。ここのところ英語圏のサービスの使い勝手の良さに甘やかされた身としては、はてなを心配するのであった。小さな失敗を許す組織なんだから、頑張れ。

[日本経済]雑草経済を目指すということ 内需拡大編

渡辺千賀さんのエントリ「なぜ日本経済が諸悪の根源のアメリカより痛い思いをしているのか」の主張に賛成した上で、最後のくだりが気に入ったので、2年ぶりにブログを書く。

たとえば、「資本集約型」の究極として無人工場などあり。こういうのがいくら増えても労働者が増えない→一般家庭の収入が増えない→内需拡大につながらない。

「低付加価値の仕事はどうせ海外に出て行ったり、機械に置き換えられる」という人がいますが、それは「仕事=製造業」という固定概念があるから。床屋とか、看護師とか、ベビーシッターとか、ペットシッターとか、電気工事の人とか、水道屋さんとか、そこにいる人にしかできないサービス業は一杯ある訳で。

今回の世界同時大不況。合衆国経済の場合は、レバレッジ経済じゃない経済へどう軌道修正していくか、ということなんだろうけど、日本経済の場合は、渡辺千賀さんが紹介した記事にある通り、「内需拡大」をどう実現していくかが、一つのポイントなんだろうと思う。今、日本の大企業の主流派(製造業)は、自ら内需拡大しようだなんて全然思ってないみたいだから、内需拡大の主役はそれ以外の中小企業/個人のがんばりにかかっている。

派遣切り、雇い止めの報道をみていて、勤務地の製造業へ正社員として登用されたい、せめて首は切らないでほしい、という意思を持っている方々の希望が実現することはいいことだ、と思う一方で、その方々を含めて、新しい職業を模索されている方々の少なくとも一部分が「そこにいる人にしかできないサービス業」をおっぱじめられるようになることが、日本経済を雑草のように強くしていくことなのだと思う。

これは二つの理由で大変なチャレンジだ。まず、日本の政治は大企業が日本経済を牽引する、という戦略でずっとやってきたし、さらに悪い事にはそういう雑草の種を破壊する政策*1もとってきた。それが理由の一点。もう一点は、大企業にぶら下がることが成功の道だ、と長年刷り込まれてきた私達が、雑草として生きていくトレーニングをしていないこと。一人で起業だなんて、危険きわまりないと思いますよね、普通。そのトレーニングをしていかないことには、雑草は生えない。

「そこにいる人にしかできない」ニーズがある限り、ビジネスなりうるわけで。別のいい方をすると、「そこにいる人しかできない」ニーズを感じ取る能力をまずつけないと。例えば海部さんがしばらく前にやった「ベビーシッターキャンペーン」も好例。

このエントリでは日本経済雑草化について内需拡大に関して書いたけど、またそのうち外需拡大の文脈でエントリを書くつもり。

*1:例をあげておくと、北九州市の選挙について、どっかの政治家がつい最近こんなことを言っていったっけ。「大企業誘致のために何十億円を使う、っていうのはやめにして、例えば小中学校の耐震化とか、そういう地元の経済に根ざしたところに金を使えば、地元の大工さんに仕事がいって地元経済が潤う。」政治が、雑草化推進の立場かそうでないか、ってのは、政治レベルだとこういう形であらわれる。

Googleが神の住処からYouTubeコミュニティのある地上に降り立つとき

News CorpによるMySpace.com買収ニュース。そのニュースを同僚や、大企業の幹部に伝えようとした時、興奮でろれつがよく回らず、その意義をうまく伝えられなかったのは2005年7月。

そして、Mountain ViewにあるGoogleキャンパス(Google本社)を訪問し、天才従業員達が放出する、コンコルドの轟音と同じぐらいの圧倒的なエネルギーに圧倒されたのが、3ヶ月ほど前。

同じ時期、今年に入ってのMySpace.comへのトラフィックの伸びを遥かに凌駕する勢いでのYouTube圏の爆発は、間違いなく、世界史に刻まれる事件だと確信した((トラフィックの伸びはこちらを参照)ブログ圏(Blogoshphere)という言葉があるとすれば、YouTube圏(youtubesphere)という言葉があってもよいぐらいだ。

そして、今週、GoogleYouTubeを$1.65 billionで買収した。

この意義については、梅田望夫氏をはじめ日本語圏でも多くのブロガーが議論しているが、私が特に感じたことを備忘録としてまとめておこうと思う。一言でまとめてしまうと、このニュースは、「Googleが神の住処からYouTubeコミュニティのある地上に降り立つとき」が来たということを示しているはずだ。

  • YouTube.comは、コミュニティそのもの、であること。それは、YouTubeの創業者二人による、買収をユーザに知らせる画像の中でも、「買収という大成功にたどりつけたのは、コミュニティのおかげだ、感謝する。」と創業者自身の口から何度も、繰り返されている。この認識は次のポイントの土台となる。ビデオはこちら:http://www.youtube.com/v/QCVxQ_3Ejkg
  • Googleは、知能指数百台後半の天才かつ野心家を世界中からかき集めて形成されるカオス的頭脳集団から、深い技術でもって革新的なサービスを提供しようとしている集団であること。自分達は天才だという自信。Googleの創業者達は、社員のブースに現れ、「コードを見せよ」と言うという本当らしい逸話からもわかるし、梅田望夫氏の最近のエントリグーグルの特異性と強さにも現れている。

そして、この二つを認識すると、

  • 技術至上主義のGoogleが、コミュニティであるYouTubeを買収した、ということは、二つの異なる遺伝子を持つ種同士が、結婚した、ということだ。異種間臓器移植で過剰な免疫反応を起こしてもおかしくないぐらいの、全く異なる遺伝子を持つ企業が一つになったということだ。この先どうなるか、楽しみである。

以上が備忘録である。

ところで、YouTubeの買収ニュースを聞いて、数ヶ月前、梅田望夫氏の講演会の中で、氏にむかって、こんな質問をしたことがあることを思い出した。

アテンションエコノミーの時代が始まっているとするのならば、ピアの中のアテンションをたどって、世の中を探索できる時代が来るという気がする。ソーシャルブックマークっていうのは、その萌芽事例かもしれない。そういう時代にあっては、Googleという検索エンジンの重要性は揺らぐのではないか?

梅田氏は、確か、こういうふうに答えたと記憶している。

それは、全くの誤りです。総表現社会が深化するにつれて、ネット上に膨大なコンテンツがさらに蓄積する。それをアクセス可能にできるのは、Googleのような強い技術インフラが必要なのです。

Googleという、メインフレーム時代が続くと、氏は予想していると理解したが、私は今でも違うよな、きっと。という思いを持っている。人のリアルタイムアテンションをP2Pで辿って何かに出会う、そういう時代が来るかもしれない。この結論は、もう5年ぐらい待とう。ただ、図書館としてのGoogleは、社会インフラとして、今のリアル図書館と同じようなアーカイバという位置づけで残るのだろう。

ただ、今回の買収ニュースは、リアルタイムアテンションをかき集め、集積して、他人からもアクセス可能にすることの価値、すなわちコミュニティの価値を、$16.5Bという値として、天才頭脳カオス集団Googleが認めざるを得なかった、ということと解釈した。その解釈から言うと、従来のGoogleの路線の優位性は、少し衰えた、ということなのだろう。しかし、一方でそのことの恐ろしさは、梅田氏のエントリ、「GoogleがYouTube買収!!! 圧倒的に正しい戦略が迅速に執行されたのだと評価する」が語っていることに圧倒的に同意する。