そもそも義務教育は当然のこと,高等教育でも国は理性教育を奨励していないし,

高等教育の体裁が理性教育の奨励と勘違いした者は地方大学の研究室で一生を終えることになる.理性帝国を自称している東大,東京は実は理性帝国でなく,そういう体裁の呪術帝国.昔は京大が真の理性帝国に近かったが,90年代ごろから京大も東大の論理に蝕まれ,理性帝国は予備校教師の自宅とか地方大学の研究室や一部受験生の勉強部屋に限定されてしまった.立花隆の猫ビルみたいなところにしか学問はないが,立花隆ももはや話題から消えた

そもそも社会がこうなっているのは「理性社会を建造しようという意思が憲法に内在していない」としか言いようがない.官僚立法もほとんど違憲、最高裁の考え方も違憲

憲法19条,21条,23条は,単に心の中で想うとか,その感情を表現するというような自由でなく,哲学的な思想や表現など理性を働かせて高級な文化社会の創生を企図しているので,同条の理念の達成を阻害している諸法は違憲である.なぜなら,憲法は,単に上っ面のデザインだけを整えて実質は生活の便宜を追求するというような程度の低い社会を企図しているとは考えられないからであり,右に述べたような理性ある高度な社会は,思想と表現と学問の結果として公共の福祉の内容をなすと解されるからである.むしろ,思想も表現も学問も内実がなく,その外形のみ完璧に構えるようなあまりにも程度の低い社会は,とうてい憲法が追求しているとは考えられないところ,現在の我が国社会は,実はその程度の社会に止まっているのである.

また,初等中等教育は,理性ある社会を形成するのとは真逆に,集団教育と感情教育により情緒的な社会形成を企図しており,学校教育法や教科書,学習指導要領等のシステムも,違憲の疑いがある.さらに,総務省の所管に係る放送法やインターネット規制も杜撰なものであり,子供や若者の理性の強化を助長せず,情緒的な刺激を与える狡猾な番組制作(バラエティや2ch)を許しているとすれば,これらの法律も違憲の可能性が大いにある.初等中等教育は,集団性の涵養を止め,個性を育成し,日本人から陰湿な感情を除去し,自ら思索して表現し対話をする能力をつけさせ,科学観察の習慣をはぐくむ仕組みを整備しなければならない.金森越哉は,違憲な教育をしているのだから,即刻法律改正をして違憲状態を除去する義務がある.現在の怠けぶりは,公務員職権濫用罪で逮捕されても良いレベルだ.要するに体裁だけ科学ヅラし実質は感情矯正効果しかなく,とうてい憲法目的を達成できない違憲教育が全国的に展開されている.道路を舗装したり,なくても支障のない道路を敷いたり,くだらないバラエティ番組を作る予算があったら,教育を充実させるべきであろう

憲法23条は,学問の自由を規定するが,公共の福祉に照らしても,これを単に学問の形式をとる自由と解すべきでなく,日本国民が真に学問の自由を享受し,21条と合わせて自由な学問的意見が交換され究極において知的な社会を実現するところに真意があると解すべきであり,本件国立大学法人東京大学の憲章も,憲法23条の真意に適合したものであるはずであるところ,東京大学が実施する前期教養学部入試は,一見学問適正者を選抜するという体裁をとっているが,実質においては受験者の注意力や従順さを検査する機能がほとんどであってむしろ真の学問適正者はその機能に翻弄されて満足に得点できず,結局,本件入試問題は,憲章ひいては憲法23条の趣旨に適合しない不正の目的機能の実現を企図し,学問適正者選抜の外形を構えるに止まっているものと言わざるを得ないそうすると,東京大学主催の前期入試は,憲法23条の趣旨に適合しているものと解される大学憲章の趣旨に合致しない内容のものであって,入試の影響力その他の事情に鑑みれば,大学側は入試問題によって原告の期待権や人格権を侵害したといわざるを得ないしたがって,被告東京大学は,民法709条に基づき,原告に対してその損害を賠償する責任を負う.賠償額の算定については,被告大学が憲法の趣旨に合致していると信頼して勉学した精神的苦労や費やした受験費用,趣旨に反した学内教育で受けた精神的苦痛を勘案し,金800万円が相当と思料する.憲法23条は,単に大学や研究所などとして形式的に学問の自由を享受させることをいうものでなく,公共の福祉に照らし,個々の国民が真に学問の自由を享受し,究極において理性ある社会を実現することを目的としている.この点からすると今の日本は完全に失敗しているわけである.初頭中等学校の教育趣旨が詩情教育であり,市民研究者制度すら存在せず,大学における学問研究が呪術に等しい現行制度においては,日本社会に真の理性をもたらそうとする憲法23条の真意は枯死しており,その果実はどこにもない

まあざっくばらんにいうと

世の中には東京の役所企業で活躍する等本物を目指さなくても地縁血縁友人縁にすがって幸福に生きていこうと模索する奴がうようよいたところ俺の事件でその目論見が破壊させられて憎いというのが真相。成績が悪かろうが成績が良い連中の世界には係わり合いにならないで劣等には劣等なりで都合がつくような世界がどこかにあるはずだと思ってる。んで一生優等生の世界を見ずにその世界に閉じこもってれば自分も幸せな人生が送れるくらいに思ってる。俺が子供の時代くらいまでは田舎は偽物しかなくて東京は本物が集まるところという観念があった。つまり東京の大学や組織なら欧米に比肩する本物のものだろうと思っていた。ところが実はそれは東京の情報が田舎に10年遅れて届いてたもので、東京では俺が生まれる10,20年前に既に本物はなくなっていて、段々全てが偽物に化していた。しかし田舎ではまだ東京=本物信仰が残っていた。21世紀にはいると東京はもう「本物の集結地」としては終わっていた。そして東京では政府が一番先に偽物のトップになっていた。なぜかというと政府こそが最も流行に敏感だから。今までのような本物は廃れた、これからはいかに騙すかだ、という風に乗って東大学生も速攻で嘘吐きに乗り換えた。東京は40年前くらいには本物の集結地として大学も役所企業も欧米に追いつけとばかりに本物の活動が目指され、国内でも本物が一番で模倣物は劣等という考えがあった。地方は所詮本物の模倣物でそれでもなるべく本物でなければ生き残れなかった。しかし本物志向が所詮成長の便法だったのか、平成になり社会が完成して低成長になると本物でなくてもいいという考えに支配されて、末期には偽物の方が偉いということになった。早い話高度成長時代には単なる生産性ということでなし欧米に追いつくレベルの重厚で遠大な構想があったので組織学歴が重視され学歴があるだけで欧米レベルに近いと認識され尊敬された。しかしその後欧米社会に追いつくのに失敗してから目先の生産性の高い事務処理人間が尊重されてきた。そして昔あれだけ本物に近いとして尊重された学歴も生産性に直結しなければ濫用だという暴論までまかり通る社会になり、昔風の東京の本物連中より嘘吐きの詐欺師や田舎のチンカス人間が嬉々として活躍するようになった。畢竟生産性で動く社会もそれを許した。企業も重厚遠大な構想によって人材を選抜するのを止め、場当たり的生産性の高い事務処理人間かどうかということを念頭に学歴を指標として選抜し、また実際主義的傾向の顕著化により短期労働や派遣や転職も容易になった。たんに大きな夢破れて江戸に戻ってるだけ。どのみち畢竟するところ生産性に基準があって、しかしながらしかしながらで結論が決まる日本自体が巨悪なのだが、昔はそれでも本物が選ばれただけ救いようがあった。今のように本物が形骸化してその中でその日暮をする社会になるともはや存在価値はない。東京はここ30年で低俗分が相当増えたし、女分も増えたが、それでも世界に冠たる一大都市という要素を維持しなければいけないので目立つようには劣化していないが、それでも内部には破綻と腐敗が蔓延してる。早い話、本物連中も刹那的に生きてるし、自殺も多いし、内実分は急速に劣化してる。それを都市デザインみたいなものやインターネットのジャンク情報で必死に誤魔化してるところがある。2000年からリーマンショックまではそれでなんとかなると思ってたんだろうが致命的な失敗でどうにもならなくなって敗戦宣言を出して今では残っている場当たり的事務処理能力の高い人間が実質的に社会を牽引して飯を確保してるだけ。

一見すると正義に見える根拠付けも実は国が都合のよい利益を優先しているわけで、弱者の利益よりも国の利益を増進しているのである。これはまた法が正義だと教えられている子供や学生に対する著しい背信行為に他ならない。思慮浅薄な子供や学生には嘘を教え、または恐怖や羞恥心で呪縛して政府は100%正義の味方だと信じ込ませて従わせ、農民などの弱者は法規で目くらましをして従わせ、暴力団など対立する組織は警察権力で暴力的に封じ込める。子供には真実も正しい知識も教えず、嘘まみれにしておいて人権を侵害し、高度に発達した嘘を張り巡らせ、嘘に嘘を重ねて自分の都合のいいように結論を調整する。しかも政府の価値観は邪悪かつ低劣でたいていの場合正義に合致しない。子供やおばさんは恐怖や羞恥心で呪縛してテレビや雑誌の嘘情報で誤解するように仕向け、生徒や学生は授業や試験や講義で騙す。子供やおばさんが理性でなく情感でものごとを認識しているのを利用し(ないしは情感を維持しないと人間関係も試験もうまく行かないよう呪縛し)ひたすら事実関係を誤解させ悪人を善人に善人を悪人にする。それに気づかない馬鹿な女子供。で茂木健一郎のような悪人が脳科学をしていると嘘をつきもっともらしい寓話を書き市民を騙す。東大の理学部と法学部を出て脳科学研究所で働いてるという権威や大学で仕入れた大量の知識を傘に最悪な現実をひたすら美化していく。で、大概の邪悪な大人は学生時代に名前しか勉強していない弱点を利用され、嘘をついて子どもや弱者を騙すのが快感になっていく。自分もいかに邪悪で、より邪悪な人間に利用されてるかわかっていない。少なくともこの国が何も知を確立する気がない奴隷社会で、学校で習ってることは全部嘘と喧伝することには意味がある。そしてこの国では邪悪になることが正義だということも。どうせ実社会が邪悪なのに学校で善良であれなどと言われる筋合いはない。政府の邪悪さは異常で、社会の正義分子が有効な意見をして一般邪悪社会の機能を阻害しないような工夫までしている。あいつらは赤黒いクズ。しかしながら、残念ながら、現実は、と前置きすれば自分の意見が悟道のこもった真理になると思っている。しかし日本においてそんなものはない。ただ強者の恣意があるだけ。学校教育ってのは子供の邪悪分を封印しつつ後の人生で使う嘘を正義の名で教え、実社会に出してから邪悪分を解放して生産性をあげ、邪悪分が尽きて枯葉になって死んだ頃に死に化粧をして日本人は最初から善良な民族だったという仮装をする。

東大出なくても幸せに生きていけると勘違いしている馬鹿が居るが、就職後は世界がガラッと変わる。ニュースで自殺報道が連続してるんだからどんだけ地獄か想像しろよ馬鹿。

醜悪な人間がいるだけで何もなく暴力団に抑圧され働くことが義務付けられている空間で幸福なはずがない。

要するに法とは感情と暴力と自己利益を華麗に言い換える言語芸術。人間同士の感情的な関係を破綻させまいと必死な典型的日本人はやたらシステムに従う。それが破綻すると人生全体の予定調和が崩壊し、不幸を招来することに激怒するわけだ。

要するに科学知識を暗記しているだけで人間として科学思考をしてきてないからまんすけのような天性の嘘つきが生まれる。科学知は素晴らしいが嘘に転用された瞬間最悪になる。それは日本人そのもの。要は科学知自体の素晴らしさを理解できないボンクラのゴミクズが習ったことを嘘に転用する。そして人から金を騙し取る。どうせ科学的思考なんかした経験がないんだろ。お前の人生は感情まみれだからな。

科学はやるだけでいい。社会に利益を還元しなくて良いし、生産性はなくていい。

年寄りの特権はそれまでに得た知識で物事を秘密にし、苦労を若者に全部押し付けた上で、上から下った小金で遊んだり、若さへの嫉妬から無知な若者を嘲笑したりするところにある。貧乏だからそんなことしか楽しみがないのだ

真面目な意見、善良な意見を出すと、極悪人が金や結果といった経済の論理で叩き潰してくるのが今の日本の現実。法の仕組み自体がいかれているとしか思えない。現行法は、極悪人を保護し、その育成を助長し、善良者の極悪人化を余儀なくさせている。

自分が酔っ払いの基地外だという自覚がない社会人は、子供にとってはうざいことこの上ない。社会人は、一度自分の人生を振り返ってみてくださいよ。あんた生まれたときから今みたいに考えてたわけじゃないでしょお前の論理は誰にでも通じるわけじゃないんだよ。それでも自分の論理を押し付けてくる基地外は他人の心に配慮しない人間のクズ。

まあ世の中には誠実に接しても逆上する基地外が9割だから、形式を踏んで誠実に手続きをすれば誠実な判断を出してくれる裁判所はじめとする役所には、相対的な信頼性はある。

老人の目的は、満足しかけている子供や若者に飢餓感を与えどん底に落として不平不満を募らせ、20年後に団塊世代と同じ人種を作り出すところにあるから、今口を開かないのは当たり前。定義上は口を開かない理由はいくらでもつく。しかし事実上なぜ口を開かないかというと今は子供の絵で若年層を刺激しているから。老人は今ちゃっかりネットで暗躍し若者をひねったりつねったりしてる。

俺によって滅亡させられ死の世界となった日本をこれからどうしていくのか。その道は、形骸化した芸術を廃し、真に科学的な制度を構築するところにある。道化的な芸術の世界は終焉を迎え、ついに日本が科学的で実体ある国になれるわけだ。情熱はもはや要らない。冷静なる理性こそが日本列島を支配するの。

社会人は実名を出してついったーにコメントを出したら人生終わり。少なくとも反社会的人間とやりとりをしているだけで自分の信頼性が疑われかねないから絶交をする。前科者に係らないのは自分の社会上の不利益があるから。

普通に考えても、

行政事件訴訟法みたいなシステムのように、昔自分を苦しめたシステムを好きになるはずがない。思えば、学校から受験から、われわれはあまりにも体裁と実際が違いすぎるルールに拘束された経験を持ちすぎた。国民の権利利益をまもるという美辞麗句を建前にしながら、実際は心を苦しめて意を尽くして制度に従ってようやくうまくいくというのが行政法をはじめとする強者の法であり、たとい自分が強者になったとしても、どうして昔に自分を苦しめた法を平気で行使できよう。それこそ自家撞着というものである。以前は自分を苦しめる法を憎しみをもってこき下ろしていたのに、自分が法を行使できる立場になると意を翻し、喜びと希望をもって法を歌うようになる。これでは自分をつまらない人間と言っているに等しい。また、法の目的である公共の福祉の質も問題である。ただ家畜のように身体だけは健康に養われ、精神の方は行政や資本家の搾取対象として隷従しているのであれば、そこには強者の恣意はあっても、真に質の高い社会はない。資本家が金を動かすために構築した法体系ほど空寒いものはない。そこでは国民はただ精神をほしいままに利用され資本家の養分にされるにすぎない。後に残るのは文化でも高尚な精神でもなく全てが死に絶えた墓地である。それにもかかわらず、この国の資本家および無数の専門家は、この最悪の国があたかも最善の国であると錯覚させる呪物を次々に製作し、国民を性的錯誤に陥らせ、納得している。分かりやすくいえば、たんに性的に満足しているにすぎないのに精妙な呪物により理知的に満足していると勘違いさせているのだ。卑近な例を言えば、日本で働いている者は、労働権とか勤労権の行使を喜んでいるのではない。半ばは暴力であり、半ばは金銭であり、半ばは工夫された労働環境の心地よさである。つまり仕方がないとか気持ちがよいという理由で働いているのに、「俺は働いているのだぞ」と威張り腐る。人と人との関係において誠実な体裁を維持しなければならないのは、ひっきょう、ピストルが怖いからである。下手なことを言って相手から弱点をつかれるのが怖い。したがって、必死で相手の悪口の封じ込めを図り、与し易しと分かれば自分の恣意を押し通してあやしまない。これが日本人の本質である。何よりも問題なのは、これでもかと理性を歌いながら、結局は性的満足を図っている日本人の卑劣さ、惨めさである。このような頭の使い方をした民族は、世界史上、日本人をおいてほかにない。貧乏で資源がないから仕方がないと言いつつ、その犯罪性向に理性がブレーキをかけた形跡がない。このように、理性は便法や嘘でよく、食料の確保や不快感の排除といった性的生活の満足が第一義にあるようなエゴイスティックな社会では、何の価値もないどころか、邪悪な社会であることは明白である。それでもなお自己正当化を図ろうとしている一群の人々の考え方はまったくもって理解できない。すでに自己正当化が図れないほど本質が暴露されていること、よって自己正当化の機能も極限まで希釈されていること、そもそも自己正当化を終始してきたこれまでの歴史を振り返ってみずからの醜悪さに絶望し、せめて「自己正当化をすることをやめる」という境地に達することが大切ではあるまいか。所詮われわれは使えるものを全て使って性生活の満足を最大化しようとする組織犯罪のメンバーである。しかし、組織犯罪者で、犯罪欲求の満足しか目標にしていないのに、自主憲法とか人権を歌うのは、まったくもって「ひとのみち」にもとることである。組織犯罪者でも、組織犯罪であることを明らかにしている団体は、こんにちでも国際社会に多く見られ、刑罰に服することはあっても、ことあらためて深刻な存在とはみられない。そういう者は出てきても仕方がないからである。しかし、膨大かつ複雑に自主憲法や人権を歌いながら、世界中のどの犯罪組織よりも邪悪な犯罪活動を日々遂行している団体は、もはや国際社会全体のひんしゅくを買い、人類史上最も恥ずべきギネス級の凶悪犯と言ってよい。たとえ組織犯罪者であっても、最低限、この膨大な嘘を止め、国際社会から著しいひんしゅくを買わない線までの回復を図ることが重要である。その最低限の回復すら図れないところ、むしろますます後退の度合いを深めている日本の現状が、日本人が何ら成長していないどころか、ますます原始化しようとしている日本のリアルを照らし出しているのである。そもそも、日本に正しいことなどないのである。日ごろ従っている社会通念は、悟道のこもった真理などではありえない。たんに強者の恣意をおおいかくすいちじくの葉にすぎない。そういうものを深い真理のごとくに錯覚し、子供をはじめとする弱者に押し付けるごときは、たんなる暴力の言い換えに過ぎない。そうしてみると、いわゆる教育行政なるものがいかに邪悪であるかは一目瞭然である。いかにも正しそうなことを教科書として大学教授に執筆させ、子供を長年騙してすましている。はなはだしきは、後でみんなで笑うためのギャグだという。これでは真面目に勉強したものは報われない。ひっきょうするところ、法律とは一部の官僚のおもいつきである。多くの国民が、一部の者のおもいつきで動いて人生がうまくゆくというのは、たんなる原始的な信仰に過ぎない。官僚たちは、それでも日本には神様がいるかのような趣きを醸し出そうとするが、そんなものは居ないのである。また、子どもからしてみれば、一種の催眠状態にあるから、日本に神様がいると思っても仕方がない。日本中で暴動が起きないのも、そのためである。人に催眠をかけて操るのは詐欺や強要に当たるが、そのような詐欺師を褒め称える日本人の犯罪性向の根深さはもはや手に負えない。むしろ、子どもは学習によっていつかは合理的な人間になることを目標にしているのだから、学習途中で自分が合理的な人間でなくても、あやしむことはない。しかし、16年の教育課程自体が実は合理的な人間を作り出す趣旨のものではないというところまでは、とうてい想像できるものではない。道徳の低い日本社会で人々に法律を守らせるためには、もちろん教育の力もある。しかし結局は、法律を守ることは自分の利益を守ることもであることを国民に理解させる法律の構造と経験の問題である。それをしないで、日本人を秩序に従わせるのは、土台無理な話である。日本という国は、道徳も倫理ももとからない、最悪な地獄の社会である。そのような国に秩序をもたらすことは、結局はたんなる暴力の秩序でしかない。そして生活の知恵といっても、それはただ必死に生きているだけのことである。したがって、日本に秩序をもたらすとは、結局のところ、いかに呪うことで感情の妥協調節を図るかという問題に帰着する。そして、それ以上のことを日本人に期待するのは、現実的平均的には、ほとんど不可能に近いのである。そもそも、戦後、いや明治維新のはじめから、日本はこの島に何の文化も創る気はなかったのである。戦後における社会保障制度のように、健康で文化的な最低限度の生活を保障するといいながら、実際には動物的生存すら危うい低い線に押さえられているのが現状である。社会保障法とりわけ生活保護法は、文面は学者が世間から遊離した研究室で書いたような立派な文言でしつらえられているが、実質的な仕組みは、さんざん働き先を探して、どうしても働けないという場合に、お上に頭を下げて最低限の扶助を受けるものである。子ども目に見て法の体裁から受ける印象と、運用の実際が、ここまで乖離しているルールは、日本独自のものである。体裁から受ける印象と、実態が180度違うという事実に対して、誰もわるいと思っていない。それどころか、賢いと思い、それを賞賛する向きさえある。つくづく犯罪者の国だ。また、これだけ立派な文面でありながら、実質は上からの恩恵的事業という性格をもつので、予算の枠内で救済してやるという思考が抜け切らず、予算がなければお上の都合でいつでも保護を中止できるという仕組みを持っている。また生活保護を受けていると「遊んでいるくせに」と言われたり、魚をぶら下げて帰ってくると「保護を受けているくせに、ぜいたくだ」と言われる。こうして周囲の厳しい監視の目に囲まれて小さくなっておどおど暮らさねばならないとしたら、人間らしい生活を放棄したも同然である。このような行政の反憲法的な考え方は、生活保護行政のあらゆる面を貫いているだけでなく、行政一般を超えて、会社や流行にも見られ、結局はこれを同じ心理構造が、日本人の心のあらゆるレベル、階層において存在している。

日本の憲法なんて糞以下というのと,9条ばっか議論してる奴見ると,殺したくなる.

21条とか23条とか12条とか,色々有るだろ.市民の対話において,形式化したコミュニケーションしか通用せず,真理ないし論理が受け入れられていない平成22年時点の我が国社会においては,憲法23条の意図は死滅しているといわざるをえず,立派な弁護士がネット上で卑猥なことを言ってみたり,真の理性や学問がなく単なる心の教養講座程度の催し物で文化の存在を仮装したり,実質は呪術研究なのに教授陣とか研究実績という言葉のあやで学府を装っているだけの大学の実態に鑑みると実態社会は憲法23条の趣旨機能がせいぜいのところ日本に学問の自由があるような外形を構えるのが第一義で,極まれに結果的に少数の学者が誕生すれば満足という低次元なものと考えているといわざるを得ない。

景観法は,権利としては確立していないが,国民の景観利益を増進する趣旨に制定されたものであるが,同法の内容は,通常の景観利益を超えて都市景観にある種の完璧性,均一性を要求するものであり,もしこれが実施された場合,社会の他の規範と相俟って国民に一種の呪縛機能をもたらし,しかも醜悪な人心との乖離も甚だしく,そこには見栄に対するエゴ以外に何らの理念も見出せないのであって,かかる健全な景観利益保護を超えた景観法を認める価値はないのみならず同法により達成される完璧で均質な都市景観が有する呪縛機能(すなわち自己が溶け込んでいる背景にそぐわない行為や発話が封じ込められる機能)は,憲法21条や23条が意図している表現の自由や学問の自由を大いに阻害するものであって結局,景観法は,それ自体が達成しようとする目的が公共の福祉に適合しないだけでなく,同法の存在が憲法の他の条章が達すべき目的機能を大いに阻害しているのであって,これを認める合理性も相当性もない.したがって景観法は憲法13条,21条,23条等に違反し違憲であると解するのが相当である.

日本経済の動力源は人間の欲望や感情であり、コミュニケーションや2chやブログなどを使って絶えず欲望を煽っている。

そこに経済の核心があるが、若者がそれに気づかないように経済学用語を駆使し経済はあたかも欲望と独立に進行していると錯覚させる悪魔が居る。つまり学術とは若者を騙すためにある
つまりあれは一定のストーリーなわけで、矛盾が出ないように必死につじつまあわせしてるんですよ。大体欧米と同じ経済環境がないのに、正しい物価や失業率が出ないのは当たり前だし、フィリップス曲線もまがいものであることは明らか
日本の経済を動かしてるのは上の人というよりうえの人に煽られた多くの庶民だし、それがばれないように必死なんですな。2chみたいなもんまで用意して消費や金銭競争を煽るとか鬼畜以下。

子供が純粋な正義を唱えると大人から排除される仕組みが整備されているし、大人になってから唱えても同様なので、日本政府は子供の純粋な正義を一切認める気がないのは確定的。確かに政府は法律できれいごとをいうがあれは嘘なのでオケイジョンを誤ると無効。

最近ではむしろ政府が戦争を奨励している為、人々は状況から考えて明らかに言う必要のないあからさまな皮肉を言うのが通常となっており、ますます純粋な正義は死滅している。最低限の良識も呼号にすぎず、行動レベルでは暴力と恐怖に制圧されている。

教師は官僚主義的教育しかできないし、教育行政官として入試の解答テクを見下してるから、目前の入試をクリアするという生徒の切実な利益を叶えず、自己満足教育に終始する最悪な人種。解答テクは業者模試で補おうとする気があるからまだいいが、基本的に生徒の進路など実は知ったこっちゃなかった。