シン・エヴァンゲリオン見てきた。

シン・エヴァンゲリオン見てきたので、備忘録的にまとめておきたかったので、ちょう久しぶりにはてなブログに書いておく。特にネタバレには配慮していません。

 

 

完結編たる本作は再演と再生/救済の物語だった。

「あらゆるエヴァを包括し、そして許す」

オトナとコドモの対立軸がエヴァに延々と引かれた一線だったのだけど、それを乗り越えながら、踏みにじることなく手を差し伸べた。

多分、この作品を見た人は、少しだけ人に優しくなれるのかもしれない。

そういう祈りというか、願いを感じさせるメッセージを内包してたと思う。

 

それはなろう系なんかにも感じる「孤独なコドモたちの擦り切れて、疲れた魂を慰撫する」サブカルチャーの文脈の中に回収されているという意味では凡作だと思うのだけど、それこそサブカルチャーの役割でもあるんじゃないか、という意味で人の心に届き残る傑作たりえていると感じている。

 

見終わったあと、なんとなく中島梓「コミュニケーション不全症候群」を思い起こしていた。

 

 

(以下、備忘録)

 

・冒頭のパリ作戦は艦底に貼り付けた「ヤシマ作戦」のときのシールドの山で気づきましたね。ああ、これヤシマ作戦のネガを役割入れ替えて再演するんだな、って。

 充電使徒のフレンチカンカンはいくら舞台がパリだからって悪ノリすごない?って感じだった。(サクラ大戦4のOPの超作画を思い出しながら)

 8号機のアクションはちょっと軽めだったかなー。

 というか今回全般的にカメラまわしすぎてるのとVS無数の敵ってパターンが長いのでアクションは軽かった。最終盤のリフレインで描かれる初号機初出撃のときの「一歩歩く→公衆電話がゆさぶられる」みたいな重い演出は少なかったかな。唯一感じられたのは「ヴンダーをぶちぬく4号艦の衝角」あたりか。

 でも、パイロットキャラの首振り→回り込み表現とかのエフェクトなんかは目が豊かになりまくるので素敵だった。

 エッフェル塔ぶっ壊れる! パリっ子の反応が心配になる→それどころか街が実はすごいことになってた!→ええ・・・

 ユーロネルフのロゴカラーが青色なのは、敵対するネルフのカラーリングが赤なのと対比的な表現になっているのとカームカラーとして物語の節目を表していて印象深かった。赤→青への変化はわりと見かけるカラー演出となる。

 

・とりあえず第三村の表象は明らかに東北震災後の被災地域なのだろうなという印象をうけた。また人々の営みについてケアされており、(これは「序」のときのヤシマ作戦のシークエンスでもケーブルを引き上げる作業員などでも書かれていたが)、簡素なポリ製浴槽などが特に印象に残る。

 それでいて、よくある映像作品における理想郷としてのコミューンの白々しさ(そういやこないだ久しぶりに「となりのトトロ」を見たけど、相変わらずヘドが出るほど嫌いなのは変わらなかったな・・・)はあまり感じられなかったのはなぜかな? と思ったときに図書室や先述するポリ製浴槽など、知識やありもので賄う知恵をどこか肌感覚で共感できるものとなっていたからかもしれない。

 

綾波レイのそっくりさんについては、アニメキャラとしての異質さがよく出ていたのが他の第三村の年上の女性たちとのスタイルの差だったな。そこでふいに顛末まで含めイヤーな読み筋を思いついてしまっているのでとりあえず書いておく。なにせ備忘録なので。

 基本的には以下のエントリからの読み筋の延長である。

デス魔道エヴァQ - 指輪世界の第五日記

 

「都会での激務でヘビーなブラック労働環境に疲弊して、なんだかプンスカしてる似た境遇っぽい女の子と、色々ひどい目にあって失語症離人症を患った男の子とともに地域おこし協力隊に応募したうら若き女の子。

 精神的に幼児退行しており、服装も着の身着のまま辺鄙な田舎にやってきた。(当然、服装が黒なのは服のことを考える余裕がないためである)

 地元の気のいいオバチャンたちに囲まれながら野良作業に精を出すうちに血色の悪い顔色もだんだんとよくなっていく。

 お姉さんや子供たちとも徐々に打ち解けていき、失語症の男の子が気になるようになるなどカントリーライフは順風満帆に進んでいくかと思われた。 

 しかしながら、田舎はダニなども多いこともあり、また夏の真っ盛りは蒸し暑く、もともと虚弱体質のお嬢ちゃんは体質が合わなくなっていく。

 精神的な退行も改善される仲、地域おこし協力隊に応募して生活費が賄われる補助金の終了日も近づき、後ろ髪をひかれる思いを抱えながら彼女はブラックに汚染された精神が立ち直ったことを表すように白い服を身にまとって田舎を去るのだった!」

 

・さて、第三村といえば、キャラクタのカップリングを好むファンからすると阿鼻叫喚になってそうなケンスケとアスカの関係性にはTV版の加持とアスカの恋慕の関係性を引用/再演していたのが明らかだった。

 ケンスケのキャラデザも加持に寄せられており、かつ加持がもつ軽薄さ/後ろ暗さをオミットして人情味あるキャラに仕立て上がっていたのが印象的。

 そういった意味では、今シリーズの加持は「世界の救済」に最後まで奔走する文字通りのヒーローとしてカリカチュアされた存在だった。なんかインデペンデンス・デイ的なスピンオフがありそう。

・一方、トウジはケンスケとは異なるしたたかさを忍ばせるキャラとなっており、漫画版の加持の少年時代のニュアンスを感じさせていた。

・ケンスケ・トウジともに「同世代だったクラスメイトを新しいオトナ役として引き上げることでシンジの精神の回復を見守る」ことに成功しており、ここらへん素晴らしい作劇の妙味があったと思う。

 「ダメなオトナ/振り回されるコドモ」というエヴァの対立軸に対する一定の回答であると思うし、終盤以降の再生/救済展開の補助線にもなっている。

 

・中盤以降の諸々の虹色表現は「プ、プレミア演出~」って感じ。そのうちパチやらスロでも見られるでしょう。

 戦闘描写についてはあんまり今作は語るところがない印象。(コマ送りにすればまた違うかも)。ただし、ブンダーの同型艦が繰り出す使徒のビーム音がめっちゃ聞けたのが嬉しかったです。(IMAXだったし)

 

「冬月先生、戦隊運用強すぎ。なんかガーゴイルと役間違ってません?」

 とりあえず「仕事はこなす。ゼミ生は救う。両方やらなくっちゃあならないのが「教授」のつらいところだな」というムーブを要所で決めていく。コトの決着まで含めて、全方位的に働きすぎている・・・。

 

 ヴィレ側で働きすぎといえばリツコさん。

 旧劇と違う再演なので今回は銃を撃つのがノータイムだった。あと、ミサトさんはゲンドウが冬月にやるのと同じで「リツコ・・・あとは頼む」をやっちゃうのはリフレイン・・・なのかなあ。

 

・旧劇では狂犬そのものだった赤いのがサクサクと主人公との話を清算したと思ったら、その後ろから緑色の頭サクラなあいつが猛追してきた。正負の感情ががグルグルまわりすぎて、生の感情が全開。パニックモード。きょ…狂犬すぎる…! まるで往年のアスカさんを思わせるかのような…

 

「Qのときからオプティックブラストを放つようなグラサンしやがってと思っていましたが、本当にビームを放つなんて・・・」という事態に驚きというか「やりやがったなッッ…」という感想がまず先に。

・第13号機とのバトル直前で、ビルに腰掛けるめちゃくちゃカッコいい第13号機。→グダグダのバトル。……ああ・・・特撮、撮りたかったんすよね……

 だって、モーションキャプチャのところのエンドロールでカメラマンに「鶴巻和哉」とか「摩砂雪」とかあるもん。絶対あんたらキャッキャしながら現場でカメラまわしてたでしょ…

  とりあえずミサトさんの部屋が酒とゴミが満載の汚部屋であるというのが人類の共通認識であるというのは本当にやめてあげてほしいと思う。

 

・このへんからプライベートフィルム感が高まってくるとともに「おいまさか…」という不安と高揚が現れはじめる。

 劇中でも旧劇の再演がはじまり、「まー、さすがにわざわざ『現実に帰れ』話するにしてもセルフオマージュまんまはないでしょ」と一安心する。

 しかし、マネキンとかはなんだかケツの収まりが悪いというかなんとなくいたたまれなくなる感じが…

 

・ゲンドウちんは漫画版のようなエディプスコンプレックスでくるんでくるのかとおもえば、わりと庵野秀明が一部分自己投影された話だったかな。

 だから、幼少シンジ=自分が捨ててきたものを抱きしめるシーンに感動があるのだと思う。

 エヴァをみて、そのあと結婚して子供をもった父親世代もたくさん見に来てた。きっとそういう人たちにとってのわずかでも救いになるといいのになーという思いが籠もっていたいいカットだった。

 一方で息子のなかに妻の面影を見つけたら、すぐに下車するゲンドウちん。

「いや、おまえ・・・もうちょい悪行賃払ってから降りろや」

 なんだったのお前感が俺の中で最高潮に。さっきの感動返せ。

 

・このへんぐらいから、「旧劇の再演という部分もそうだけど、これって少女革命ウテナじゃね?」感が強まる。

 キャラクタと戦い、カウンセリングし、一人ずつその呪いを解放していく話。あるいは「クロスチャンネル」だったり「化物語」だったり。

・案の定、シンジくんは次々とキャラクタの呪いを解放していく。

 とくにアスカについては旧劇を踏まえると素晴らしいところに落着したなあと感心していた。ぐるぐると渦巻いている生の感情に整理をつけて、再確認し、それから多分それぞれ違うところに足を踏み出していく。そして、もうきっと交わらない。最も美しい別れの姿だと思う。

 

・その意味において、庵野秀明ももう60歳だっけ? 老獪になったよなーと感慨深いものがある。キャラクタの呪いからの解放という演出表現にテーマを仮託することで、ソフティケートされた『現実に帰れ』というメッセージを観客に婉曲的に伝えている。それはカントク自身にも向けた解凍をも意味しているのかも。

 

・だから、オチについて「やられたー」「そうきたかー」という感じだったけど、これでよかったのだと思う。

 全体のシナリオとして見るとびっくりするぐらいとりとめなくて大味なんだけど、ただあまりにも長期間、アニメーション業界で君臨し続けたコンテンツの一つの節目としては爽やかだった。

 

・昔、押井守がメカフィリアかなんかで「庵野エヴァをまたはじめたことでエヴァの呪いにかかってしまった」という感じで評していたけど、とりあえず呪いの解呪を自ら行った庵野秀明が次撮るのは何なのかなーという感じ。

シン・ゴジラ」の撮影にかかるエピソード聞く限りだと、「今度はシン・ウルトラマンの現場に使徒襲来か!?」って感じなのかもしれないのだけども。

「進撃の巨人」と「エヴァンゲリオン」についてのいくつかの

進撃の巨人」がアニメ化し、かなり好評らしい。
らしいというのは、実際の所、そのアニメ版をお目にかかったことはないためで、はてなブックマークtwitterのタイムラインにあがってくる程度の情報を見ての感想なのだけど。
ところで去年は、「エヴァンゲリオンQ」が発表され、相当な物議をかもしたのは記憶にあたらしい。ごく最近「エヴァQ」のBDも発売されたばかりだ。
そういえば、「エヴァンゲリオン」と「進撃の巨人」についてはその類似についていくらか喋ったことがあったな、と思いだしたので、引き続きこれらについてダベってみたい。

http://togetter.com/li/77561 (人様がわざわざまとめてくれてる「進撃の巨人」のtweet一覧)
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20110222/p1 (id:izumino氏による「進撃の巨人」レビュー。このエントリーは、氏のエントリーに対する返歌になればよいな、と考えている)

【 1:「エヴァ」という鮮やかな事件 】

エヴァンゲリオンが致命的なまでに新しかったのは事実である。
そこを認めてしまうところから始めるのだけども、エヴァンゲリオンがいかに魅力であるかについては方々で語り尽くされているので、わざわざ改めるまでもないし、「エヴァがそれまでの特撮・アニメ・映画・物語のパッチワークである」ということもまた、繰り返すまでもないと思うので、くどくどと書き連ねることはしない。


ところで、シェイクスピアでもプロップでもキャンベルでも大塚英志でも、誰の言葉でも構わないが、物語の構造にはおよそ決まった形がいくらかあるだけだという。
いいや、そんなことないだろうと思うかもしれないし、何をいまさらとか思うかもしれないけれど、ええい、黙れ黙れ。そういう風に決まっているのだ。そういうもんなんです!
・・・つまり、男と男が殴りあったら、夕日を前に肩を抱き合い、お互いの健闘を讃えねばならんのである*1
・・・なんにせよ、物語の構造はそれほど多いものではないのだ。そのことについて、批判は受け付けない。広く民話などを求めて、狭く共通項を抜き出せば、そりゃ、まあ、そうなるわな、とかいう野暮い話も置いとくとよい。


その物語の類型の少なさ、貧しさとは我々人間の精神が貧しいことを意味する。(といったのはバルトだったか。ロラン・バルトは、そこから氾濫し、交雑する記号の放埒な豊かさを見出したのだけども)


そういう意味で、エヴァンゲリオンとは物語の力を信じていなかったのだ、ということができる。
過剰に注ぎ込まれたモチーフが、やがて物語の構造という屋台骨をへし折ったのだとも。
そして、モチーフ=作られたキャラや設定*2が、その土台である物語を離れ、それ自体が力をもったのだ。


大塚英志は、「物語消費論」において、ビックリマンシールを引き合いに、消費者が物語をどのように消費するのかを分析した。それによると、
「1,ビックリマンシールの裏に書かれたキャラ設定が、
 2,いくつものシールを集めるなかで、結びついて『小さな物語』となり、
 3,その『小さな物語』がさらに集まって、『大きな物語』を形成する」
 そのことに消費者は喜びを見つけて、ビックリマンシールを購入する。

ならば、エヴァにおいて、筋道だった理路を示すはずの物語は、その不完全性・不充実性により、それ自体で完結し、信頼に値する「大きな物語」ではなく、「小さな物語」だったのではないか。
そして、「大きな物語は不在である」と作品自身が示したことについて、消費者がこぞってその穴を埋めようとして創作や消費に勤しんだのは、エヴァが(現在進行中の劇場版が作られるより前から)長きにわたって巨大なマーケットだったことからも明らかだろう。


つまり、エヴァにおいて「物語」とは、本来なら「物語の従属物」であるはずのキャラや設定と同価にすぎなかったのだ。
それはまさしくビックリマンシールのように断片で構築された市場的産物であり、なまじ物語としての体裁を整えているがために、とっつきやすさととっつきにくさが混在する摩訶不思議なデザインとなっていた。
この欠如したデザインは、宗教やギャンブルへの依存がそうであるように、それを埋めんと躍起になるオーディエンスによる劇の謎解きを狂熱させ、その狂熱は莫大な消費を生み出したのだ。*3


ともあれ、製作者が、意図をもって、あるいは意図せずに断片化したキャラ・設定が結果として大量の「物語消費」を促したのだ。(そういえば、大塚英志「物語消費論」の改訂版もまた最近、出たばかりだった)


もっとも、「エヴァが新しい」と強く意識されるのは、エヴァが巻き起こした様々なものが、決定的に事件であったからだろう。製作委員会という方式、OPのフラッシュバックをはじめとする技法。物語を彩るキャラクターと、過剰なセックスと暴力/破壊描写。SF・オカルト・心理学用語を大胆に取り入れた背景設定。(これが夕方に放映していたという事実が趣深い)
それらが新奇であり、エポックなものとして、社会現象化していた。


しかし、あるいは。
「歴史とは思い出である」という小林秀雄の認識を援用すれば、「伝統」とはそれが失われる間際になって、ようやく噴き出してくるものである。
思想において「伝統」が意識されるときというのは、止揚のないままに新しいものにとってかわられるときである。それは断末魔だ。
日本において、明治の開国以来、持ち前の島国根性が為したのは、ひたすら新しいものを内側に取り込んでいくことだった。それまで内側にあったものと、外側にあったものを峻別することなく、したがって双方について自覚化されないままに両者を習合せしむる。それまで内側にあったものとの小さな軋轢が「伝統」のか細い悲鳴だ。*4

エヴァを思い出深き「伝統」として捉えたときに、予想もしなかったエヴァのリメイクが、それでも力強い「伝統」の断末魔であるならば、ポストエヴァが現れているということだ。
いささか恣意的な誘導ではあるのだけど、現状、ポストエヴァの筆頭は「進撃の巨人」だと考えている。

(つづく)

【 2:「進撃の巨人」 鮮やかに反転して 】

【 3: セックス・暴力:アドレッセンス・クリシェ 】

【 4: 外側と内側・意味への意思をめぐる 】

*1:これは物語上のお約束で、物語の構造ではないことは言うまでもない。「お約束」というのは、特定圏内における文化的/具象的コードである。より普遍的/抽象的なコードである「物語の構造」より幾分かは枝葉の部分だ。もっとも、最近は中国のアニメでもOPで若者がダッシュしているらしいので、民族的なコードであるかは議論の余地があろう

*2:または製作者が抱える現実的問題や文学的詩情の発露、心情/信条/身上の吐露、つまりは思想というやつ

*3:それとともに多くのエピゴーネンを生み出しもした。そういや、「エヴァのパクリじゃん」ってよく聞いたよね。最近はあんまり聞かないけど

*4:やがてこの中から、過激な排他的保守的な思想が現れるときは、しばしば国家・政治的危機のときであるのは、世界共通であろう

「ダークナイト・ライジング」 感想 1/2

ダークナイトライジング」見に行きました。岸和田IMAXにて。
大阪の南側の、IC降りてすぐのところに駐車場あって、地元からIMAXシアターが近いところにできたのがまず喜ばしいっすよね。
シートも広いし、まあ、振動シートはバックサラウンドの音がちょっと微妙なんだけど、前面で音を浴びるようなさすがの音響は素晴らしかったです。
映像は特に言うことないです。序盤からぐいぐい高解像度のキラキラしたルックで画面全体で映画を見る喜びを味わせてもらえる。
カメラの動きも、IMAX撮影の嚆矢となった前作「ダークナイト」だと奥へ奥へと構造物にフォーカスしていくような縦向きの動きが多かったように感じるが、今回は水平軸の動きもあって、目が豊かになるし。
なんにせよ、今までみたく、わざわざ箕面行ったりすることなくIMAX見れるのは良いことだなーとか思いつつ。
ここから先は壮絶にネタバレです、と前置きしつつ。


●前作とか前前作とか

オレ自身は巷のわりかしよろしくない評判に対して、結構好きなんです。「バットマン・ビギンズ
映画としてたいがいつまんないんだけど、、「一人の狂人の観察日誌」として最高に楽しい。
ブルース・ウェインという超規格外の金持ち。つまり、アメリカという国に生まれたホンマモンの貴族のお坊ちゃんがですよ、海外をほっつき歩きながら成長して、さあ、吾が家に帰ってきた。
そして、「この全米一、物騒で危険で、とにかく悪徳にまみれた故郷を救わなくてはならない」と気づく。
彼が取りうる手段は、一つ。
コスプレして、悪をしばき倒していくことだ!!
……
いや、ちげーだろ、と。
そこはお前、持ち前の財力を遣って、社会福祉を充実させたりとか、そういう、まあ、なんだ、その、人道的なアプローチというか、政治筋の方法論というか。そういう筋道つけていくのが必要なんちゃうんかと。
それが貴族に生まれたものの義務なんではないかと。
誰しもがそう思う中、あえてのコスプレファイター。
なぜ?
パパとママの愛情が足らなかったからなの?
まあ、実際そうなのかもしれんのが、そうだとすると身も蓋もないわな。周囲も彼が海外に出奔してしまう前に、カウンセリング受けることをすすめてあげるほうがよかった。
そうすれば、過たず正しき富豪のノブレス・オブリージュを実行できたかもしれないのに。
それがよりにもよって、コスプレファイター。
だが、それがいいわけですよ。
彼がバットマンになるために嬉々としてマスクを用意したりするシーンの嬉々とした様子。
特に、最高なのは、コウモリ型の手裏剣を自ら製作して、研いでいるところ。そう、画面の奥に配置された万力が物語るマニュファクチュア。
このブルース・ウェインお手製のバットマン印の手裏剣を思えば、それは本人はむっちゃくちゃ真剣なのに、傍目にはどうしようもなく錯乱しているようにしか見えない絵面であると言える。
そういう、ど真ん中の狂気を、手作業で丹念に作り上げられた貴族の道楽をニヤニヤと眺めるエンターテイメントが「バットマン・ビギンズ」だったんです。
だから、続編である「ダークナイト」の楽しみ方もそんなに変わらなくて、こっちはこっちでジョーカーという狂人(というカテゴリに収めなくてはならない異なる認識体系をもつ存在)がキャッキャと跳ねまわるのを拍手喝采する映画だったわけです。
だから、「善と悪の相克」なんていう重苦しい話、というよりはむしろ突出してロマンチックな狂気を楽しむわけですね。
そうすると我々が考えなくてならないのは、「バットマン・ビギンズ」において、コウモリ型の手裏剣を自作するバットマンと、「ダークナイト」において、銃とホッケーマスクを身に着けて犯罪と戦うコピーキャットたちとの差異は「狂っている」という前提に立てば、ほんのわずかでしかないのに、なぜバットマンに物語はフォーカスするのだろうか、ということです。
それぞれの作品には、冒頭で象徴的なセリフが並べられます。


人はなぜ落ちる? 這い上がるためだ。 (バットマン・ビギンズ

死ぬほど痛い目にあった奴はみんな、イカれちまうのさ。(ダークナイト


ひとつは純然たる教訓として、ひとつは金言のパロディとして表現されているこのふたつはとても似たことを言っている。
無論、前者を退屈であるといってしまい、後者をより刺激的に感じることのできる、その感受性の豊かさが我々にあることを喜びながら、それとは別に、なお考えるべきです。
つまり、普通であるNormalと普通ではないstrangerの差異とは何なのか。
なぜバットマンやジョーカーは物語たりえるのか?
その答えを描こうとしたのが、今作「Dark night rises」であったわけです。
ところで、どう考えてもライジングではなかったですね。実は、「ライジング」である理由が何かあるんじゃないかと思ってたんですが(後述)、単なるいつものクソ邦題でした。控えめに言って、邦題担当者は死ねって感じです。


● スタッフとかキャストとか

監督は言うまでもなく、クリストファー・ノーラン
リアリズムの人である。リアリズムってなんだろう? まあ、ケレン味あるフィーチャーについて、くどくどと理屈立てしちゃう人、ぐらいの意だ。
律儀ではある。しばしば退屈なことがあるんだけど、出ましたねー。今回は。悪い方のノーランが。インセプションhttp://d.hatena.ne.jp/y2k000/20100725#p1 の時は出なかったのに。
やっちゃいましたねー。とにかく長げーよ。164分。
無論、良いところもあって、ノーランの良い所っていうのは、あらかじめ筋道立てたフィーチャーを描くとき、あえてカメラや演出・スクリプトの時制や人称を乱れさせて、観客にぐっと引きこませる所。
ハマると面白いんだけどなあ。
だから、だいたい「序盤は最高。中盤でだるだる。終盤でなんとか盛り返してフィニッシュ」ってパターン。
今回も、畳むのが本当にギリギリというか綱渡りというか、ヒヤヒヤしながら見てました。
そうそう。最近まで知らなかったんですが、この人007好きなんですってね。
それ聞いて、ああ、「バットマン・ビギンズ」のああいう感じ、つまり、妙なおもちゃ自慢=確実に劇中でぶっ壊れるためだけにモノレールがぐるぐると走ってて、治安悪いって言いながら女検事がSPやなんやかんやも付き従えずにそのモノレールで通勤していて、悪徳警官が巡らしたり、マフィアが横行したり、ホームレスがたむろする全米ナンバーワン治安悪い街並み=バートン版の「セット組みされた、どこでもないファンタジーとしてのゴッサム」を横目に引きずってるようで、その実、がっちり描けているのが現実世界でしかないという、舞台全体が中途半端な特撮空間である理由がストンと腑に落ちたんですよね。
ああ、バットマンジェームズ・ボンドがやりたかったのね、と。
後、どう考えても押井守の作品に詳しいですよね。「インセプション」はビューティフルドリーマーだし、「ダークナイトライジング」は「パトレイバー2」だし。異論は認める。


脚本は、ゴイヤー師匠。多分、本作の原作コミックに対する目配せの大半はこの人の仕事です。でも、ブレイド3については許したわけじゃないからな。
今回はモチーフとして、「天空」と「地上」と「地下」を行ったり来たりするようにできているんですが、その辺になると、ノーランbrothersの仕事なのかなーという感じ。神話的な物語と、原作コミックと、犯罪映画としてのあり方の乖離がけっこう気になった。だから、デキとしては全体としてはバラッバラだけど、必要な要素は拾ってて、モチーフをきちんと使えているので、要するに標準的な脚本。webでアカデミー賞用のスクリプト上がってこないかな。


音楽。ジマー節。以上。


キャストで目立ってたのは、やっぱりアン・ハサウェイ。彼女のキャット・ウーマンはどの角度から撮っても美しい。作り物みたいな顔立ちと体型が、むしろコミック的な快楽につながっていている。後、猫耳にまで理屈をつけてしまうセンスにはうなりました。そこまでか・・・そこまでせんと気が済まんか・・・だが、やるな、ノーラン・・・その発想はなかった。
後、トム・ハーディ。最初のピクチャールックでマスク姿見て、どうかなーと思ったんですが、動いているのを見たら、マスクがあることで凄みが出てた。序盤から中盤まで徹底した「外道で悪党」を貫いており、「もしかしたらこれはジョーカー超えもあるかもしれんね」とか思ってたんですが・・・・・・。
トム・ハーディはイケメンなんですが、「インセプション」の妙にオヤジ感あふれるキャラといい、ノーランはひどいよね。

クリスチャン・ベール。老けたなー。よく考えたら、かれこれ10年ぐらいバットマンやってるんですよね。相変わらず緩急のある演技で上手い。
マイケル・ケインは、今回は乙女度高かったですね。ゴードン演じるゲイリー・オールドマンは、まあ、あんなもんかな。でも、さすがに若いヤツに詰め寄られたときのキレ芸は往年の「ただごとではない危険な」オーラが漂っていました。安定のキレ芸クオリティですね。
それより、キリアン・マーフィーですよ。なんなんですか。あれは。あのスケアクロウは完全に出オチじゃないですか。劇場で俺一人だけ声をあげて笑っちゃったよ。ずるいなー。あのタイミングはずるい。「判決死刑。方法は追放!」は一生に一度は言ってみたい名言です。

マリオン・コティヤールはどういうことなんでしょうね。インセプションといい、すべてマリオン・コティヤールが悪い、といってしまうかのようなノーランの感覚。まあ、いかにも魔性の女っぽい女優さんですけど。とりあえず次回作もマリオン・コティヤールが出てきたら、最初に疑ってかかることにします。

まさかのリーアム・ニーソンが登場したときに、オレの頭によぎったのは、「高度に進化したリーアム・ニーソンは、あらゆる映画でフォースの導き手となることに区別はない」という言葉。クワイ=ガン・ジンとしてのキャリアが、まるでクリスチャン・ベールの今後を占っているかのようです。


(長くなっているので次回に続く)

 教科書としての、好きなモノとしての 〜「コクリコ坂から」〜

 ちょっと前から考えていることがあって、今、スタジオジブリがやったら一番おもしろい企画ってなんだろうってコトなんだけど、それは「よつばと!」を「TVアニメ」で「ジブリ」がやるっていうことなのね。
 オレが日本テレビのプロデューサーか鈴木敏夫なら絶対実現したくなる企画だけど、これ思いついたのはなんでかっつーと、ずいぶん以前に京都アニメーションの終着点が「よつばと!」アニメ化じゃないか、って話をちょっとした四方山の中でしたことがあって、そこでオレは「京アニは、フレームの中にどうやってキャラを埋めることに腐心してきたスタジオなので、カメラから無意識にはみ出てしまったり見切れたりする5歳児・よつばの行動の無根拠性を収められないだろう」って否定的なスタンスで考えてたので、じゃあ、逆に「よつばと!」をフィルムにすることのできるスタジオってどこだろうって考えた時に、もうこれはスタジオジブリしかないな、ジブリはこれをモノにできるかどうかで、宮崎駿以降の趨勢を占うしかないでしょうって思い至ったのね。
 で、そういう思いをひっさげた状態で観たんだけど、いや、悪くない映画でしたよ。
 公開当時より非難囂々で、言わずと知れた「ゲド戦記」がデビュー作の宮崎吾郎監督第二作。
 実際、オレもゲドを初めて見たときは、ケツの収まりが超悪くって、最後まで観るのに苦労したぐらいなので、まあ、かなりハード下げつつ、「寄らば斬るべし!」ぐらいの構えで観に行ったんだけど、実際見てみると、あらら、いい感じのフィルムに仕上がってるじゃないのよ! やればできるわね。と、なぜかオネエ言葉になってしまうぐらいに90分間の時間を映画館で座ることが集中できる映画でした。

  • スタッフとかキャストとか

 監督は宮崎吾郎
 ていうか、すいません。今回、スタッフやキャストについては、勉強不熱心な映画スキーである自分からすると、全然来歴を知らないのですげー語りにくいんですけど、宮崎吾郎について云えば、オレこの人の絵ってキライじゃなくって、「ゲド戦記」のポスターも公開当時、散々な云われようなんだけど、(真横のカット描いて、押井守云うところの「情報量が半分になってる」ってヤツ)分かり易くって好きなのね。ああ、これが描きたいのね。これを描くためにアニメをやるのねってな案配に。割と宮崎吾郎の映画って「冷えている」作風なんで、こんな風に突出して描きたいものがあるとホッとするのね。
 ただ、そういうのを差し置いても、しつこく言うけど、「ゲド戦記」の詐欺っぷりはなかなかのもので、まあ、あの映画の戦犯は100%鈴木敏夫だと信仰しているんだけど(この点において、宮崎吾郎宮崎駿も被害者。無論、最大の被害者はル・グィン)、なんか聞いた話によると、「ゲド戦記」を映画化するにあたって、「スクリプトについてはハヤオが責任もつから、やっていいよ」って話だったらしいじゃん。それがフタを開けてみたら、脚本がゴローちゃんと「海がきこえる」の丹羽圭子、ってどう考えても、鈴木敏夫の陰謀ですよ! ふざけやがって、そんなだからテメェ極悪人って云われるんだよ!
 あ、別に丹羽圭子が悪いって意味じゃないよ。
 丹羽圭子は「借り暮らしのアリエッティ」と今回の「コクリコ坂から」で株を上げたと思ってる。ただ、「ゲド戦記」の仕事降りを考えると、恐らくマトメ屋さん以上の仕事になってないのかなーと感じるワケで。
 音楽は、武部聡志。なんだけど、すいません。名前を聞いたことないひとだったので、wikiで来歴確認したけど、知ってる仕事はビーチボーイズぐらいしかなかった。劇伴についてもそんなに印象がない。ていうか、「上を向いて歩こう」と主題歌が衝突してるので、BGMにはそれほど快楽がなかったのだよね。
 そうそう、音響設計については、後述するんだけど、とにかく色気がなくてびっくりするぐらいだった。 音響監督をチェックしたら笠松広司だから、この人が過去に担当してるポニョではかなりアッパーに表現してたし、不思議だったねえ。だから、多分、上層部のディレクションだと思うんだけど。
 キャストについては、長澤まさみ岡田准一は全然違和感ない。抑揚が利いてて、棒読みになってなかったので、劇中とは別の意味でハラハラすることはなかったので、よかったです。(一部キャストで怪しいひとがいたが、もののけ姫のサンみたいなメインキャストで出ずっぱりなのに、作品を危うくするレベルで演技に失敗してることはなかった)
 もっとも、演技指導してんのかなー、と不思議なシーンはいくつかあった。ただ、これも結果的にはフィルム全体の色調として生々しさが希薄なので、そこがフィルムに統一感を与えていたように思う。

(以下、ネタバレ含む)

  • 演出とかメモ的に

 冒頭の「よつばと!」の話の続きなんだけど、やっぱりスタジオジブリでもアニメ化難しいのかなーと思ったのが開始早々のことで、主人公が鏡の前で髪を結わえるシーンがすっごい淡泊。
 するっと結んでて、もう次のシーンに入っちゃう。
 とにかく寄らない。ミドルレンジで「状況を説明」してしまう。
 この辺は、作家性といえるのかなー。例えば、萌えっぽい(例えば、京アニ的な)演出なら、「よいしょ、よいしょ」と結んでいる可愛らしい姿にぐっとフォーカスするだろうし、それを言うなら、宮崎駿だってカット割って、リズム作ってカメラをヒロインに寄せると思うのね。彼はヒロインがかわいくて仕方ないから、もっと見せたくなると思うし。思いつく限りでは、カメラ寄せて、じっくり髪を結んでる→外からのアクション入って、主人公が結わえる手をすこし止めて、あわただしく力を込めて結ぶ、とかやりそうなところをこの作品ではやらない。
 さっと流す辺りが、「冷えてる」作風な所以なんだよね。
 

 この「冷えている」について話をすると、構造体のディテールは(特に縦向きに)貫かれているんだけど、あんまりそこで生きている人達のまめまめしさは拾ってないところもそうかな。(構造の枝葉としての「細かさ」と行動の一連的な「細やかさ」は異なるとしとこう。)
 例えば、これも宮崎駿との比較になるのだけど、千と千尋の神隠しで、湯屋のドーンと吹き抜けの構図があって、やたら長い階段でどかどかどかっと女の子が縦に斜めを加味した、実に宮崎駿夫的なといわざるをえない、スピード感のある動作をするんだけど、そういった構造体の上で見せる動きが観られたのって、かろうじて最後の最後の坂を下るシーンだけで、それもカリオストロの城のなぞり以上ではないのね。

 まあ、そういう意味では、この作品は宮崎吾郎の好きなモノを丁寧になぞってフィルムに仕上げている、といえる。
 例えば、メインのドラマの舞台になる「カルチェラタン」なんだけど、単純に想起させるのは無論、「千と千尋の神隠し」の舞台になる湯屋だけど、そこは「ナウシカよりビューティフルドリーマーが好き」だった宮崎吾郎だから、直接的にはビューティフルドリーマーの舞台となった「終わらない学園祭前夜の風景」だろう。
 戦艦が爆散するシーンが回想として差し込まれるんだけど、この辺も何気にイノセンスの戦艦とか庵野秀明的なカットを彷彿とさせる。特に、宮崎駿が戦艦を描いたら描くであろう応戦する兵士達がすっぱり抜けているのが、らしいっちゃらしい。
 そもそも、この作品に悪党はいなくて、傷つけるモノなんていない。優しいが、どこか漂白された世界観というのは、おもひでぽろぽろ高畑勲を思い起こした。
 後、ドラマ的なキモになる部分が、原作からとっているんだけど、まあ、その設定自体は少女漫画にはありがちらしいんだけど、(同じドラマ構造を持つよしながふみの「フラワーオブライフ」の劇中劇でも観た人が「うわあ・・・」って感想もつぐらいだし)、そこを改めて1963年っぽさ、ということで「赤い疑惑」をリサンプリングしてる。
 これは山口百恵→石原めぐみ→長澤まさみっていう、なんとなく窺い知れるものがある女優のラインあってのものかなーと。(うがちすぎかもしれんが)


なんか腐しているように見えるけど、縦の動きを降りたり、昇ったり「してからの動き」はよく出来てた。特に最初の階段を降りてくるヒロイン、からぐるっとまわりこんで台所に行くところとか。
 学校の入り口に乗り込んで、から入ってくるシーンとか。
 カルチェラタンのあの吹き抜け構造で、あえて階段アクションがないことについては、代わりに踊り場で昇って/降りて、からアクションさせるのが抑えの効いているようにみえる=カメラを動かない落ち着いた雰囲気に寄与してたので、まあ、この辺はむしろ持ち味というべきか。
 オフィスの廊下をフィックスで撮って、ひたすらコメディタッチに展開するとことか。静止したシーンを丁寧に書けていて、そこはよかった。
 動きのあるシーンでいうと、旗を持ち上げるシーンの、縦+斜めの動きを意識した浮遊感は抜群。象徴的なシーンだけあって、ここにはアニメ的な飛躍が見られた。
 代わりに、最後半になって、三輪バイクが待ってましたと激走する!
 ・・・かに見せて、次のシーンで渋滞に巻き込まれて、動かない。この現実感、この冷えたアニメーションっぷり。そんなにオヤジのイマジネーションが憎いのか…?


 スクリプトと演出の話だけど、坂本九の「上を向いて歩こう」の直前に、「坂を下りて買い物行ってきて」とか、東京から二人で帰る電車で「ひとりぼっちの夜」と唄わせたり、お前らスタッフちょっとひどくね? 坂本九出したいだけちゃうんかと小一時間ばかし説教したく。
 あ、主題歌はよかったですよ。時代感は皆目だけど。


 脚本の話といえば、宮崎駿スクリプトに責任とってりゃ、ゲド戦記もこのぐらいまとまってたんだよなーと振り返れば悲しくなる。
 もっとも、宮崎駿のホンか、といわれるとビミョーなトコロがちらほらと。
 まずセリフで表現してなくて、表情や仕草で察してください、とかなり観客にあざとく迫るところ。
 この「あざとさ」が透けて見えるのは、理由があって、凹んだ主人公の心情を「なんか学校であったんじゃない? ご飯もおかしかったし」とセリフで状況を語らせてしまい、その後、主人公が布団に潜り込んでいるシーンをすっと導入しちゃうところね。ハヤオはこういうところ突き放すからねえ、もっと違う角度で語らせる。それかそもそもやらない。
 この辺、ハヤオ的ではない、教科書的な、と感じるところだけど、こういった描写には良いところもあって、この手の作中の因果の逆転を上手く使えているのが、娘がドラマのキモになる質問をして泣きついてくるのを抱きしめるお母さんが、なぜ娘が泣きついてくるのか、なぜそんな質問をしたのか、をはっと察するところとか、学生同士がけんけんがくがくやりあってる集会場で生徒会長がいきなり唄い初めて、みんなも付和雷同の合唱。観客が「?」となったところで、次のシーンで校長がやってきて、「ああ、教師を上手にごまかしたのね」って分かるシーンとか。
 ちょっとあざといんだけど、昨今、口悪い映画ファンから「最近の観客はセリフで全部言わせないと分からんアホばっかになった」と言われる中、マアマア分かり易く、「アホな観客」と「口うるさい映画好き」双方を説得してたんじゃないかな。(アホな観客を教育する+したりと教えて優越を感じる映画ファンの構図を思え)
 なんせこの辺が実に教科書的だった。


 一緒に観に行ったメンツからの指摘で面白かったのを転がした話。
 ヒロインはママにべったりなんだけど、相手役がお父さんっこなのね。
 このバランス感覚がよくって、宮崎吾郎が上手く分裂できてたよね。基本的にオカンは素晴らしい。が、お父ちゃんも、打てば結局響くんだよ、って辺りが、なかなかバランス良く家族賛歌してるなーと。
 それから、学生運動の話ね。当時、大学生が高校生を利用して、血みどろになった学生運動だけど、「大学生」がスパッと要素から切られてるのね。OBは新聞で出てくるか、建材を提供するだけに留まる。つまり、「青年期」としてのモラトリアムの猶予を引き受けているのは、当事者である高校生で、後はいきなりオトナ=社会に接続してる。さらなる中間層としてのOBとの軋轢がない。これで、神田カルチェラタン事件みたいなそもそものモデルから断絶されて、時代的な生々しさを失った代わりに、アイディアルな学園風景となっている。だから、最後のスタッフロールで「押井守に捧げる」ってテロップ出ないかハラハラしたよー、ところでこの作品について当時のリアル世代ってどういう感想もってるんだろう?
 

 スタジオジブリの映画って、誰に見せたいか、が明白なことが多いんだけど、この作品も分かり易いのね。ほんとに今の学生さんに見せたいんだ! っていうのが分かる。
 その分、ちょっと描写が記号的、というか表層なんだよね。シナリオも、ドラマ性も、1963年である必然性とドラマの構造がいまいちマッチしてない借り物感が、そういう意味では、むしろ味わい深い。

 記号の話でいうと、相手役の男の子が序盤に包帯巻いてるのって、絶対に後から差し込んだシーンだよね。制服+学帽でキャラの見分けがつけにくいから、分かり易い記号として取り込んだんだと思う。事情をセリフで説明するけど、むちゃくちゃムリヤリで浮いてたもんなあ。
 そういう意味では、主人公の女の子は「映画に出てくる子どもってのは普通でいいんだけど、ほんとに普通であってはいけない」というアンビバレンツを表現するまでもなく、表現できてるので、ヤロウを描くって大変よね。


 押井守の話が出たので、ついでに気になったのが、音響設計おかしく感じたなあ。これは劇場の設定がおかしかったかもしれないんだけど、全然立体的じゃなくって、基本的にずーっとスクリーン前面からの音がほとんどなの。
 スカイ・クロラみたいなリアルで包み込むような音響配置も、あれはあれでおかしいんだけど、例えば、集会場なんかは背後からもっと音を出さないと、あの空気感、臨場感が全然ないのね。なんつーの、TV放映前提です、明日にでも金曜ロードショーで流します、みたいな。


 後、どーでもいい話なんだけど、新聞で見切れた単語で「女装」ってあって、それがすっごい気になったの。なぜ女装? WHY? あの哲学青年が女装するのか? 花柄の衣突きつけられたし、とか思った。
 さらにどーでもいい話なんだけど、弟君がヤバイぐらい存在感なくって、なぜ入れた感がすごかった。もういいじゃん。元々まとまりのない原作を尺に収まるようにいじってるんだし、だから、性別逆転してるヒトもいるし、もっというとお母さんもおばあちゃんも性格全然違うんだし、弟君いなくてもいいじゃん。妹ちゃんが役柄全部持ってちゃってるんだし。
 おばあちゃんの性格は、「花咲くいろは」の女将さんといい、やっぱり時代なのかなあ。
 一方、お母さんは、宮崎駿的なワーキングレディよね。ただ、一緒に観に行ったメンツ曰く、「宮崎駿ならもっとバリバリ働いてるようなキャラにしてた」。確かに。とすると、あのお母さん像は、ゴローちゃんのおっかさんなのかねえ。同時にハヤオの奥さんでもある。

 

  • まとめ

まあ、宮崎吾郎もなんだかんだでしっかり2作目では手つきも良くなったし、一方、ゲド戦記と続いて、お父ちゃんとボクの話になっちゃてるので、3作目はきっちりファンタジーやってほしいですね。オヤジ抜きで。でも、ダメかなあ。鈴木敏夫がジャマするだろうなあ。
 じゃあ、鈴木敏夫的なキャラを悪役にして殺そう。今作でオヤジとの和解は済んだと思うので、次は「VS 悪のプロデューサー編」だ。
 ゴローちゃんの戦いはまだ終わらない!

 すいませんでした。ノーランさん。

  • 感想とか

 「インセプション」見てきました。 
 実は全然期待せずに観に行ったんですよ。だって、「アウトレイジ」観た時に流れてた予告編見る限り、びっくりするぐらい「ダークシティ」の匂いがしたしさー。もしくは「プレステージ」とか「インソムニア」みたいにリクツをこねくりまわした小品なのかなー、ああ、こりゃダメなノーランの方かもなーとか。
 まー、こんなんたいがい言いがかりも甚だしく、正直、こんなこと言われる監督の方が迷惑な話で、ただ「ダークナイト」を撮った監督の次回作ともなれば、これはもう期待されてもしょうがないみたいなところもあったわけでございまして、さあ、この私めをどのぐらいリッチな気分にさせてくれるのかしら、どうなのよ? と思って先行上映に付き合う辺り、オレもなんだ期待してんじゃんね、というね、この辺が人間の機微の難しいところで、そういえば女嫌い直ったのかなー、テーマに邪魔だからマギー・ギレンホールを爆破って・・・いくらラストのシビアに達するための作劇に邪魔だからってあんな死に様用意しなくてもいーじゃんね。諸々の事情からとはいえ、原作には本来いなかった幼なじみキャラをてめーでつっこんどいてさー、まー、そんな具合に爆破したあとの犬みたいに大喜びするジョーカーは本当に活き活きしてたよね。「ようこそ男の世界へ!」(by荒木飛呂彦
 そんな具合に「ダークナイト」の大当たりで監督としてフリーダムの世界に飛躍してしまったノーラン閣下ですが、女絡みの描写はマイケル・マンみたくなってほしくないなー、せめてイーストウッド路線で。けど、説教だけは勘弁な、とか思いながら観に行ったら、
 結果大当たりでした。
 そんで、ああ、そうだ。この人、「メメント」の監督だったんだっけ。と見終わってから思い当たったわけで。

  • スタッフとかキャストとか

 監督は、クリストファ・ノーラン。
 言わずと知れた「ダークナイト」の監督であるが、どっちかっていうと今作の雰囲気は上で書いた通り、「メメント」や、あるいは「プレステージ」に近いものがある。
 この監督のキャリアを考えた時(つってもデビュー作「フォロウィング」だけ観てないんだが)、まずその作劇にはハッタリがある。
 どんでん返しともまた違う、事実の暴露というべきか。物語におけるディスクロージャーというのは扱いに難しいところがあって、例えば、スターウォーズの「I'm your father」はあれをもってあの映画が神話の域に達した素晴らしいシーンだが、そこには一種のゴシップが匂う。相対化された価値にあっては、「だからどうした?」というバカげた内輪ネタでしかない、ともいえるからだ。
 そこで、そんな野暮天にグウも言わさぬために何を必要とするのかというと、まあ、それは色々だが、この人が凡百ではない所、あるいは貴重なところというのは、そのハッタリを仕立てるために、どういう風に構築していくかかなり熱心にリクツ立てしたがる点だ。
 この作品の「夢を設計する」というのはそのままノーランがこの作品でやってきたことに類する。この映画をSFであるとした場合に慧眼なのは、よくやりがちな、潜在意識をジャックするとかハックするとかクラックするとかという紋切り型で表現せずに、あくまでも建造/構造物(ストラクチャー)を「設計/建造する」ことにある。
 で、その建造物/構造体の内部に人工的な意図を植え込む(インセプション)ことで、ジャック/ハック/クラックをすべて含有させていること。
 そして恐らく、極めてアトランダムで不安定な姿をしているであろう潜在意識をあえて人造化しようとするという発想は、ノーランのオブセッションに起因しているもので、じゃあ、彼の妄執とはなにか、といえば、それは徹底したスクリーンの統御だろう。
 レイアウトのキマリ具合も、どこでどの音楽を鳴らすかも自信に満ちた強い根拠があって、それらがかなり親切にも観客に映画のサブテキストとして披露されている。ちっとダダ漏れなぐらいに、ズバリ出てきており、そのため分かり易い、ともいえるし、この作品は前述のクリストファー・ノーランらしさがよく出ているんだと思う。今のところ、ノーラン作品ではマイベスト。
 あ、音楽はハンス・ジマーですが、ダークナイトといい、どうしちゃったんでしょうねえ。作品に寄り添いつつも全力で「オレがハンス・ジマーだ!!」と主張したがるので(まあ、そーいうのを要求されてるっつーのもあるんだろけど)、オレのなかではジマーか七瀬光*1かっていうね(嘘)、そういう人なのに、ほんと押さえ気味。なんか首根っこつかまれてんのかなー。
 良い悪いはありますけど、邦洋問わず昨今、劇伴でごまかしがちなので、その辺りをきっちりコントロールできる作品は総じて質が高いと思います。好きだけどね、ここぞ!という所で荘厳な音楽! 見事、男泣き! とか。
 いや、エヴァ破とかガンダムUCの話じゃないですよ。

 主人公コブ演じるレオナルド・ディカプリオはいいんじゃないですかね−。「レイン・フォール」のゲイリー・オールドマンぐらい吠えっぱなしでしたが。最近、なんかこんなんばっかりなような気もしますけど、王子様の次は、モチベーションを保つのに苦労する男かー。
 キャラクター俳優といってしまえばアレですが、やっぱ「キャッチミーイフユーキャン」の時はひねくれていて、ステキでしたよね。20代後半の男を騙って詐欺を働く20歳の青年を演じる当時20代後半のレオナルド・ディカプリオっていう組み合わせ。最近、見直したんですが、さすがスピ爺だと感心です。
 サイトーことケン・ワタナベは普通によかった。この「普通」というのはなんでかつーと、ハリウッド特有の事情により、いつ色物化するのか別の意味でハラハラしてたんですけど、そんなこともなく最後まで出ずっぱりで、すっかりかっこよかったという。どーでもいいですが、老人メイクの顔が、死んだじいちゃんに、そこはかとなく似てました。
 で、意外だったのがJGL。ジョセフ・ゴードン=レビットって長いからもう書かないけど、「500日のサマー」ではあんま好きじゃなかったんだけど、クールな融通利かない相棒役がハマってました。
 細身に光沢あるモダンなスーツもいかにもインテリ優男風で決まってた。エレン・ペイジと2ショットで収まってるシーンはどこのマンハッタンの恋愛映画かと。
 そういや、なんかアジアンっぽい顔よねー、誰かに似ているなーと思ったら、窪塚洋介。 ちょうどアイキャンフライを思わせるシーンで頑張ってたし、むべなるかな。
 まあ、マジな話、スタントあんま使ってなかったそうで、キレのいいアクションやってたと思います。確か「GIジョー」にも出てたんだっけ。あれはレイ・パークを観る映画なんで、全然記憶に残ってないけど。後、「バットマン3」ではリドラーやるそうですが、よりにもよってリドラーて。なんで?
 後、アリアドネ演じるエレン・ペイジはなんかちっさい人でしたね。かわいいけど、「バットマン・ビギンズ」のケイティ・ホームズといい、ロリっぽいのが実は監督のタイプなんでしょうか?
 替わって、鬼嫁ことモル演じるマリオン・コティヤール
 怖いです。マジで。本当に。
 彼女出てくるシーンはサスペンスはサスペンスでも、ホラーサスペンス。
 モルといえば、彼女の名前は夢の神さま、モルフェウス(そこから転じた「変身」やモルヒネの意味をキリアン・マーフィ演じるボンボンにとっての偽造士トム・ハーディや、特にコブにとっての彼女に当てはめるとまた興味深い)から取っているのだと思うのですけど、まーね、彼女の迫真すぎる演技によって、コブのの強迫観念が見事に昇華されており、コティヤールは美人でナイスバディなんだけど、でもやっぱちょう怖いです。


(※以下、ネタバレ)

  • 演出とかメモ的に。

 とにかくアイデアの使い切りが素晴らしくて、最初、夢の話と聞いてまず思いついたのは、「じゃあ、クライマックスは夢のまた夢の話かな」と思ったら、初手からそれでスタートで、しかもその業前もアッという間に破られるという。じゃあ、クライマックスはなにかといえばオープニングから発展させて、夢のまた夢のそのまた夢を破られないためにどうするのか? ということで途中からケイパー映画(ちょっとクラシックなのがいいですね、実際キューブリックの「現金に体を張れ」とか思い浮かべてた)らしさが出てくるんですが、以降のアイデアが全部現れているという、ほんとに完璧なオープニングで、お見それしました。
 設計描写でよかったのは、合わせ鏡のシーンと、ポンポン街が爆ぜていくところがいいですね。どっちも夢の有限性を示唆しており、後述するラストの無限可能性についてある種のアンサーを与えている。
 後、初手に出てくるエセ日本城とか「またしてもインチキ日本か」と不安視させつつ、きちんと分かってるんだぜ? とばかりにJRと東京の空撮を出してくるというのがニクイ。
 オープニングのモルのファム・ファタルぷりにくらくらしたなあ。さすが鬼嫁、ブレがねえ!
 モルは最初からかなり徹底して他者なんですよね。「他者とも共有される夢」にあって、それを拒絶しつづける存在なのだから。
 ただし、この「徹底」というのはすこしややこしくて、現実の(死んでしまった)彼女というのはどこまでも他者で、理解できなかった生き物だったのに対して、夢に幽閉された彼女(コブが作った投影)はある意味、完全な依存の対象であるということ。
 だから、「他者とも共有される夢」にあって、その夢を拒絶する彼女というのは、自分以外の他者を許さないことで、それは翻って、彼女との関係を否応なくフォーカスされたコブの孤独を知らしめてもいるのですね。
 そして、彼女の無惨なまでの怪物性というのはまた、現実の彼女を理解できなかった故に、そこから出発して造り出した夢の彼女もまた、ものすごく不完全で歪な結晶と化してしまったということの証左であり、それは他者の完全な解釈という原理的な不可能性に由来しているわけです。
 ここがこの作品のラブロマンスとしてのある種、古典的な鋭さで、救うことのできなかった人をなんとか再構築したピグマリオンの呪いについての物語でもあり、ギリシャ悲劇的でもあるところでしょう。
 そして、ラストでモル=夢=他者との意識共有から開放されたコブが行き着いた現実こそが最大の皮肉に繋がっていくワケで、これは後述。
 そうそう。「ダークナイト」に続いて今作も犯罪映画なんだけど、犯罪っていうのは、すべて人間の努力の逆転した形なのですね。
 そう言ってしまうならば、「インセプション」でケイパードラマとして問われたのは、クラシックな段取り力と個人のモチベーションの話がドラマの力学だというのは、いかにもジョブス本とかハックルベリー先生の無邪気なドラッカー本が売れる今風だとも言える。
 疑心暗鬼を挟まないのは、積み上げることが重要なのであって、付随する足の引っ張り合いは要らないんですよと。
 無重力描写はJGLが働いててよかったですね。泥棒モノというジャンル特有の事情により、この人が裏切るのかと思ってたのに。みんな爆睡中で、一人黙々と働く優男は格好いいぜ。
 階層が深くなるにつれて、時間感覚が遅延していくっていうのはドラマの構造に引っかけつつ、時限爆弾のパラフレーズとしても上手いなと感心しました。
 よくあるじゃないですか。残り5秒が5秒じゃないっていうやつ。あのウソ臭さを回避するためによく考えついたなーと。
 それでいえば、飛び込む車の重力に引っ張られるスローモーションな姿が、下の階層のカット短めの無重力アクションシーンに繋がってるとか、シーン時間でいえばもっと長くなるのが雪山要塞シーンである、みたいな階層毎の時間設定だったり、エレベーター爆破が要塞爆破に対応するとか、そういう縦横に展開する同時描写が上手い。詰め込みまくってるなあ。
 そういう意味じゃ、雪山のシーンはもっとコンパクトでもよかったんだよね、侵入まで長いし、爆破に至るまでも長い。ていうかなんで雪山? メタルギアソリッドをやりたかったの?
 まあ、それ言ってしまうと、もっとこぢんまりしてても良かったんだよね。1から10まで段取り説明するから2時間半もかかっているわけで、雪山シーンはビッグバジェットな作品特有のリッチさが出てたけど、それだけに冗長でもあったわけで。これは、「バットマン・ビギンズ」にも言えることだったけど。
時系列の錯綜は、メメントから比べて上手くなったよなーと。この錯綜加減は金庫破りモノの「説明しよう!」っぽさで、「現金に体を張れ」を思い浮かべた遠因なんだけど。
 ケイパーでセラピーな作品っていう考え方だと「ザ・セル」はこの領域に到達してもおかしくなかったんだよな。あれは当時流行のサイコサスペンスだったけど。

  • ラストについて

 のっけからなんですが、これ何に一番似ているか、といえば押井守の「ビューティフルドリーマー」ですよね。アニメかっていうぐらいの鬼のようなレイアウト力とかもそうだけど。
 同じ夢を扱ってるものでも「パプリカ」って感じではないのは確かだと思います。主人公の二重性という点で観れば、あっちゃんとパプリカとは、コブとモルの関係に近いものがあるけど、どうってことないっすよね。
 ま、あんまり他の作品のネタ割るのもどうかと思いますので、それはこの辺にしておいて。
 ラストの話。
 この作品のラストってどっちつかずで終わってるように書かれているんですが、一応、きちんとしたオチはあります。この辺がノーランのノーランたる所以で、セリフで全部語ってしまう病とはまったく違うんですが、「オチ! 示さずにはいられない!」という具合に、エンドロールの最後の最後に流れる音楽で示唆されている通り、実はラストでコブがインセプションされてるんですね。*2
 もっともこれがミスリードだというのも含めてインセプションなんですが、とりあえずコブがインセプションされているという前提で以下話します。
 何をインセプションされたか、というのは示されていないんですが(仕事が成功しましたよ、なのか、子供が自分を待ってくれてますよ(二人の子供が成長していないのは一つのミソですが)かは分からない)、「妻はもういない」という中心的ドグマについてのインセプションを受けたのでしょう。
 ある感想で、この潜在意識は集合的無意識であると言っていました。その辺の知見をほんとに上っ面しか持たないので
、判断しにくいですが、その考えはどうだろうと思います。
 なんでかつーと、集合的無意識ってのは、人間の奥深いところにある全員が問答無用で共有する世界だからです。インセプションの深い階層はそれとは違います。
 本質的にそこは個人の、まったく個人の世界であり、それゆえに、最後に訪問するコブとモルがかつて生み出した完全な二人だけの世界というのは、その精神状態を反映して荒廃して崩壊寸前なわけです。
 全然普遍的なものはそこにはなく、ただ個人の救済だけがそこにあります。強いていえば、「リンボ(字幕では虚無と書かれていましたが、辺獄というものの回復可能性、お釈迦様の蜘蛛の糸の如き有様をオミットしているので、ちょっとどうだろうと思いました。とても訳しにくかったんだろうけど。)*3」が個人的なコンプレックスを突き抜けた、その集合的無意識なのかもしれないですね。
 だから、コンプレックスを直後に克服したコブは階層飛ばしでリンボに向かうことができたという。
 それだけに、この作品が潜在意識のアイデア集合的無意識という概念を使っているとしても、逆転しているんですね。
 これはラストのラストにも響いており、ここでノーランが仕掛けた倒錯が分かるんですが、その倒錯というのは、
「実は現実こそが、我々が共有する最大規模の夢、つまり(あえていえば)集合的無意識なのだ」と。
 「子供」という原型がいて、マイケル・ケインという「父性」を演じるキャラクターがいる。
 最愛の妻はもういない、という強烈な力点が作動しており、リンボ(集合的無意識)と接続した世界である。だから、そうして観るとリンボから回帰するサイトーとコブにおいて、段階的なキックを伴わないのも、その補強材料となるんですね。
 この現実=窮極の夢という考えからすると、最後のコブの有り様というのは、「現実を夢と見なしたがゆえに、死ぬしかなかった」モルとの鮮烈なコントラストにもなるのです。
 そして、彼がなぜ夢を現実と思うに至ったか、というサブテキストも劇中ちりばめられており、例えば、エッシャーの「上昇と下降」を思わせる階段で語られた、通常の階段構造を無効化したパラドクスを加工することができるといったものや、合わせ鏡のシーンで描かれた現実の対照した風景の創造、カフェテラスで語られた夢は夢であると認識させないための手管についてなどがそれに該当するでしょう。
 ここで暴露されるのは、現実が夢であるか、そもそも夢とはなんなのか、という話のことです。
 なにか主体客体を問わずに劇的な変化を為すものが夢であるならば、その変化を促さない、あくまでも我々の知るルールに則っている夢があるとすれば、それはすでに現実ではないのか。
 日々、流転する万物にあって、我々は、我々によって建てられて作られて壊される我々の世界のなかで生きており、そこにおいては、時として昨日の常識は明日には非常識になっているかもしれないわけです。
 であるならば、この現実もまた夢でないと誰に言えるだろうか、ということであり、押井守の「ビューティフルドリーマー」を久しぶりに観たいなーと思ったという。


twitterで書いた別口の感想文をまとめてくれたものもあります→http://togetter.com/li/36620

*1:アニメのBGMコンポーザー。ノエインとかファントムのTVシリーズで有名。この人も聞くとすぐ分かる。ALIプロジェクトぐらい分かり易い(嘘)

*2:キックに使用されるエディット・ピアフの「後悔なんかしない」が、徐々に歪んでいってタイトルが現れる。つまり、我々観客もまたこの映画からキックされるはずが、実はさらなる深階層に入ってしまって、引き延ばされるというたいへんな悪趣味に満ちたメタなネタ

*3:後、非キリスト教圏内にある渡辺謙がリンボに永らく住んでいたというのはきちんと宗教的なニュアンスがあって面白い

 「よく見ろ」と問う声がする。「グリーンゾーン」感想


「グリーンゾーン」を見てきた。頭を悩ませる作品だと思う。
イラク戦争の発端となった大量破壊兵器の有無を巡る虚偽からはじまる、9.11以降のアメリカの物語。
米国では興行に苦しんでいるらしいが、さもありなんという気もする。
実際、面白いか? と言われると、ポジティブ狂に水をひっかける底意地の悪い話なので、うーん、難しいッスわ、現実って、と言わざるを得ない。
でも、闇をライトで切り裂く軍用車両とか、監視映像とかちょうカッコイイ! 見ることについてのポール・グリーングラスのフェティッシュはあいからずだった。


ちなみに、今回も手持ちカメラです。
「今、そこにいて見る」ためのドキュメンタリー的臨場感と相変わらずザックザクと判断&アクションでカメラ揺れまくりんぐ、チャキチャキ編集のカットの多さ。
えーっと、すいません、後半ぐらいから頭が痛くなりました・・・。ボーン・アルティメイタムよりカット数少ないはずなんだけど、後半、暗いシーンが続くので異様に疲れるんだよなあ。


あと、エンドロールに「IN ASSOCIATHION WITH」と提携先として電通の名前が出ていて、「WHY?」感が全開に。
まあ、確かに映画のグレードのわりに異様にメディア露出してるけど、マット・ディモンとグリーングラスのコンビってまた渋いところを選ぶなあと思った。


監督のポール・グリーングラスのこれまでのフィルモグラフィを考えると、「ユナイテッド93」からここまできたのか、と非常に意義深思う。
英国人であるグリーングラスが始めた「ユナイテッド93」「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」の9.11三部作の延長線にある作品だからなのか、アメリカに対してかなりシニカルな基調が貫かれている。
また、ポール・グリーングラスにとって映画はアクチュアルなものであり、この作品のクランクインが2008年半ばにはアメリカ大統領選が行われているのも、時代精神の持ち主である彼(と彼の後援主たち)の背中を押したのだろう。


ストーリーが「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」を彷彿とさせるのは、この話がイラクの話ではなく、アメリカ対アメリカの話だからだろう。
つまり、ある保守的な信念に基づく一定以上のパワーをもつアメリカ人の、本来その暴力装置であったはずの主人公が、アンチ保守のカウンターとなっていく、制圧のち、ところにより糾弾という模様だからだ。
まあ、そう言う意味じゃ、大局的には負けの話であり、日本人好みといえなくもないので、電通はこの辺の匂いに引き寄せられたのかしら。
ていうか、すげー気になるんですよ。なんで電通なの? と。
正直、イラク戦争の原因となった大量破壊兵器があったの? なかったの? というサスペンスよりよっぽど気になりますよ。


主演のマット・ディモン。今作でも「なぜ?」を追う青年を演じている。ジェイソン・ボーンと違うのは、自分というアイデンティティを失っておらず、むしろ彼自身が自らの揺るがぬアイデンティティーを保つがゆえに、「なぜ?」に立ち向かっていく姿が描かれている。
しかし、彼は最後まで事態の中心に座ることができないで、物語は幕を閉じることになる。最後の最後で一石を投じる振る舞いを見せるが、結局、それは彼が関与できないために、そうせざるをえなかった痛みの分かち合いでしかない。
これはアメリカ人=自分の物語ではないからだ。


劇中で二人の、お互いが相容れないイラク人がでてくる。
一人は、元イラク人兵士で、ケガにより退役して失業中の青年だ。若者といってもいい。
彼は偶然、雲隠れして、アメリカから身を隠しているイラク軍の上層部の密談に向かう姿を見かけて、それをアメリカ人軍人である主人公に知らせる。
その時、我々は彼のことをこのように考える。
報奨金目当ての若造だ、と。
だが、彼は叫ぶ。
金なんかのためじゃない! オレはこのむちゃくちゃになった国を、それでも愛しているから、お前ら=アメリカ人に、彼ら=イラク軍上層部のことを知らせたんだと。
その私心のなく、素朴に過ぎる言葉は、イラクを悲惨な有様に変えたすべてのモノを告発している。
そのため、安易によぎった見くびりを射貫く言葉でもあるのだ。

そして、もう一人が出てくる。
大量破壊兵器の有無の決定的な情報を握るアル・ラウィ将軍。権力をもつ老人である。
彼は国防総省の高官に接触し、大量破壊兵器の製造・保管の現状について述べていたが、その目的は、イラク新政府での新しい地位を求めるためである。*1
この正反対の行動原理をもつ二人のイラク人の潜在的なコンフリクトは、ひっくりかえった途上の世界であるイラクのなかで、アメリカ人がもたらそうとする民主主義と自由という名前の安定が、失敗する補助線となって、劇中に影を落とす。

そして、この二人が遭遇した時、アメリカ人である主人公は、それまで彼なりに積極的に事態に乗り出していたところから、まったくコミットする力を失ってしまい、立会人ですらない単なる傍観者として姿を変える。
それは結局、アメリカが開いた新しい議会で、コントロールできない複数の宗派、民族のカオスであるイラクが暴露される姿ときっちりかぶさってくる。


この物語は、アメリカ大反省会の一作品であると同時に、アメリカが結局、理解できないでいるイラクアメリカから眺めた物語であるわけである。
だから、やたらと説明しまくりな数多い台詞も、いくら言葉を連ねても、見たいものしか見ない人々の前では虚しく通り過ぎるだけなのだと、ラストに見せる主人公の気骨すら、皮肉めいた視線で眺めているのだろう。

*1:だが正直、彼については作劇として切り捨てられてしまっており、彼が新政府の新しい地位を得て、何をするのかという実際の動機はよく分からない。大量破壊兵器のないならないで、フセイン政権を打倒するためにアメリカと組んでクーデターを検討していたのか? まあ、もう一人アメリカの肝いりでやってきた亡命イラク人とかもよく分からんヤツだったけど

 色々と読んだよ。

ごく最近に出た「ゼロ年代SF傑作選」に比べて、お上品。大人。ドレスコードを弁えている。という風情。
後、悪口の叩き方が非常に巧妙でいやらしいことも特徴的。山本弘ダン・ブラウンDISとか。

マイフェイバリットは飛浩隆の「自生の夢」、ではなく田中啓文の「ガラスの地球を救え!」
そんな落とし方したからって、いい話だって許してもらえると思うなよ! 
「自生の夢」は平山夢明の「独白するユニバーサル横メルカトル」に収録された「卵男」がモチーフかな?と思い、後はいつものグロテスクさが手癖のように感じられたひっかかりが最後までとれなかったのが我が事ながら惜しい。
飛浩隆のこの手の偽悪というのは、すでに時代性でしかなくなりつつあるのが残念ではある。
廃園の天使の続きがはやく読みたいですなー。

「NOVA」に比べて、だいぶ若い作風。「NOVA」が「作家」というレーベルで語る枠だとすれば、「ゼロ年代SF傑作選」に収録されているのは、いわば「作品」や「キャラ」による商業性だ。
マルドゥック・スクランブル"104"」「エキストラ・ラウンド」「デイドリーム、鳥のように」のような番外編商売がSFに食い込んでいるのは興味深い。
秋山瑞人の「おれはミサイル」がようやく読むことができたことが喜ばしい。

大石まさるボヘミアンというのは、例えば、ハッパやヤクをやって得る類のものではない。
草っぱらにござを敷いて、夜明け前。
朝日を拝んで、流れる雲を戯画ともてあそび、昼にランチボックスを開けて、風と戯れ、ポットに詰めて、段々ぬるくなってくる茶をすすりながら、夕暮れを見送り、星を降るのに喝采し、月が舞う中、目を瞑る。
そういうボヘミアンで、そういう日々の過ごし方だ。
光が横溢するコマのなかで、充実しているキャラクターのリラックスした振る舞いは、寄る辺なきシャバ世界において、潤いを与えてくれるんであり、それだけで十分価値があるんである。

気が向いたら買おうと決めていたので、気が向いたから買った。
今回は「シャア・セイラ編」
ガンダムオリジンはとにかく過去編がいい。ニュータイプがどーたらこーたらとかじゃないんだよね。出てくるキャラの関係性の物語であり、その辺のボリューミーな部分のおおらかさが心地よい。
そのうち、既刊は全部そろえる予定。
どーでもいいんですが、あんまり巻末マンガが面白くないですね。久米田康治に「かってに改蔵」。いや、面白いんだけど、ものすごいミスマッチ。
確か、「げんしけん」やってた時の木尾士目がゲストだったときも、むっちゃくちゃ評判悪かったような記憶があるんですが、まあ、分からなくもない心理。
愛蔵版を持つっていうことは、耐久度のあるコンテンツに金を出すってことなわけですよ。ましてやガンダムだしねー。
ところが、久米田にしても木尾にしても、「今、ここ」を積極的に取り上げてきたマンガ家なので、まあ、その辺、うるさ型のオールドファンからすりゃー、なんだこの野郎。となる。
「今、ここ」というのは刺激的だが、ストレスなのだ。
高い金とってんだし、いっそ小冊子にしてくれりゃーいいのにねー。

読み終えて、題名の「アステロイド・マイナーズ」というのは含蓄があるな、と思った。
少年が出てくる。小惑星に住んでいる彼は、とにかく余剰の産物だ。本来、一個の極限環境下である小惑星に子供がいる時点で、彼自身が余剰であり、それゆえ、ムダを為す。自分が立っている生活基盤がいかに成り立っているか知ったとき、少年は思考する。
その悩みを持つ者は少ないのだ。「アステロイド・マイナーズ」というのは、いまだ宇宙にいる人類がそもそも少数であることを示すのと同時に、そこでたんに住むだけではなく、「生きる」人間も少ないのだという二重の意味を有しているのではないかと思った。