テオドル・ベスター『築地』

築地

築地

非常におもしろい。米国人の人類学者が、築地の魚市場でフィールドワークをおこなったもの。

世界最大の魚市場、築地。夜明け前から、極上の魚を求めて集まる魚業者や寿司職人でにぎわい、その独特の風景に魅せられて外国人観光客が集う東京のランドマークである。・・・停滞した日本経済、流通や消費の変化、水産物貿易のグローバル化を背景に、築地市場の日々のにぎわいは展開する。ベスタ−氏は築地という空間の光景、息づかい、ざわめき、リズムを生き生きと描き出すことによって、その内部に息づく豊かな文化、日本の食文化における築地の役割、そして、17世紀初頭より築地市場を形作ってきた商人の伝統をみごとにあぶり出す。

http://www.people.fas.harvard.edu/~bestor/Tsukiji_japanese_abstract.htm

日本人が知っていそうでじつは知らない築地市場について、著者がフィールドワークのなかで見聞きしたエピソードに載せながら語っていく。築地や魚にかんする蘊蓄の数々も興味深いのだが、そうした脱線をまじえながら語られる築地の「市場」としての性質がまたおもしろい。

この本の学術的な主題は、築地市場で展開される文化・慣習に根ざした経済活動の分析である。
制度派経済学(ウィリアムソン)や経済社会学(グラノヴェッター)の先行研究を引きつつ、それらよりも文化的・慣習的な側面を重視する点で特徴を出そうとしている。

本書は・・・、取引や経済的制度の民族誌とでもいうべきものだ。取引や経済的制度は、日本人の生活の文化的・社会的傾向に深く根付き、かつそれらによって形作られているからである。経済がーー市場がーーモノやサービス、金融資産のみならず、文化的社会的資本の生産と循環によってできあがっている、その仕組みについて記した民族誌なのだ。(10-11頁)

第1章から第4章は築地の魚市場の歴史と現状、築地が日本社会ではたしている役割についての説明(日本人は生の魚が好きとか、日本のテレビは料理番組ばかりとか、アニメのキャラクターの名前まで「サザエ」や「アンパン」マンであるとか)。

第5章と第6章は、築地市場の制度的・組織的な基盤にかんする説明。血縁・婚姻・師弟などの個人的な絆にもとづく強固な人間関係と、国・東京都が管理する卸業者(7社)→せり人→仲卸業者(約900)の免許制度が築地の市場活動のベースになっている。築地での取引活動は、生産者・供給者から卸業者へ(垂直統合が多い)、卸業者から仲卸業者へ(せり)、仲卸業者から買付け人へ(場内の店舗での販売)の3種類に分けることができる。よく知られているような「せり」が行われているのは、卸業者と仲卸業者との取引の局面である。

本書の眼目は第7章で展開される市場取引のエスノグラフィーにある。
入札はジェスチャー方式(鮮魚)か筆記方式(塩干魚)か、1回限りの入札か増額可能な入札(マグロのせり)か。こうした取引形態の違いは、一見するとささいな慣習に見えるが、経済学的に見ると大きな意味がある。供給量が限られるマグロについては、卸業者の市場力が強いため、買い手である仲卸業者が高い値をつけてしまいがちな増額可能な公開入札(ジェスチャー方式)になっている。ただ、マグロは解体してみるまで中の状態が正確にはわからず、一本あたりの金額も大きいため、買い手は大きなリスクをかかえる。それを緩和するため、大はずれのマグロ(寄生虫や「やけど」など)を買ってしまった場合、買い手に過失がなかったことを示せば価格調整してもらえるという制度も設けられている。せりの方式の違いは、売り手と買い手のどちらが有利かというパワーバランスをじかに反映しているが、そのもとで市場での取引活動を円滑に維持するため、力の弱い側を救済するような細かな慣習・制度が並存しているのが築地市場の特徴である。こうして人間関係の絆や反復的な商取引関係が維持されている。

おおよそどんな経済活動の現場であれ、何らかの暗部をかかえているものだが、ベスターは築地市場の暗黒面についてはあまり言及していない。なぜかせりのない日の深夜に起きる火事に触れたり(516頁)、常連の買出人のひとりから「みんなが馴染みの仕入れ先にこだわるのは、そこがよそより信用できるからじゃなくて、よそより疑わしくないからなのさ」という発言を引き出したりしているが(372頁)、ベスターは深追いしていない。たまには築地というシステムの裂け目も見せておかなくちゃ、というエクスキューズの雰囲気がなくもない。個人的な絆と反復的な商取引をベースにした築地市場のしくみは、全般に好意的に書かれている。

ベスターの記述には予定調和的な部分もなくはないが、よくできた紹介文を読まされている気にはならない。ベスターの調査が行き届いていて、写真や地図、具体的な数値(マグロの可食部分は総重量の50%くらいとか)や固有名詞がふんだんに盛り込まれ、魚商人たちの人間ドラマがいきいきと描かれているからだ。しかも、築地で起きていることを書きつらねるだけでなく、それらが日本社会や世界経済のなかでもつ意味合い・特徴を一歩引いた目でとらえ、簡潔・的確に記述する腕もお見事。非常によくできたフィールドワーク研究だと思う。

読み終わってから気づいたけど、著者のベスターは、ドーアと並んで玉野先生が言及していた人だね。玉野さんの本もおもしろいけど、こっちもおもしろい。オススメです。

ジェフ千葉

y_ttis2008-09-16


なんとか頑張って残留してほしいものです。
もうほんと、気分は「今こそ!WIN BY ALL!」なのですよ。

*** 2008年12月6日追記 ***

J1の最終節、FC東京に2点とられてから4点とっての逆転勝利!

残留を争っていたほかの2チームが負けたので、残留決定!!

JEFファンをやっててほんとによかった!!!
なぜかナビスコカップに初優勝したときよりもうれしいような・・・

***

などと浮かれていたら、アレックス・ミラー監督の試合後コメントが。

今日はこのことについて喜んでほしい。しかし、明日からは喜んではいけない。こういうことは僕らの成功ではないし、私の成功はリーグ優勝すること。私の中でそれが成功だと思っています。

たしかに。来年はもっと大きなことで喜べるよう、ぜひがんばってほしいものです。

トウガラシ三題(インドカレー、タバスコ、痴漢撃退)

アマール・ナージ『トウガラシの文化誌』1997年, 晶文社.

トウガラシの文化誌

トウガラシの文化誌

一般向けの科学本や食べもの本が好きな人にオススメ。

トウガラシには実はビタミンCが多く含まれており、ビタミンC(アスコルビン酸)研究でノーベル賞をとったジェルジ博士が、初めてビタミンCの大量分離に成功したのは果物ではなくトウガラシだった、という話とか。

トウガラシの辛さはカプサイシンの量によって決まり、カプサイシンは蛍光性を持っているので、辛さを定量するときは、光をあててどれだけ光るかで測る、という話とか。

トウガラシなどの刺激物を食べると味覚が鈍るという説があるが、実験したところ、感覚の許容幅が広がるだけで長期的に鈍ることはなかった、という話とか(トウガラシ好きな人の言い分・研究成果なので偏りがあるかもしれない)。

現在のトウガラシ消費量はインドが多いけど、トウガラシの原産地は南アメリカボリビア近辺。それが、大航海時代冒険者たちに運ばれて、世界中に出回るようになったと考えられている。

韓国のキムチとか、タイのトムヤンクンとかはけっこう伝統のある料理に見えるけど、実際は15世紀以降に成立したものなんだよね。なんと、インドカレーも。

それにしては、アジアとトウガラシはなんか随分イメージのなかで結びついているよなあ。昔のヨーロッパ人も同じで、コロンブスがたどり着いたのが「西インド諸島」であるという誤解が解けた後でも、いったん自分たちがインドに持ち込んだトウガラシを、今度はそこが原産地だと誤解し続けていたらしい。なんとも間の抜けた話であるが(あるいは、当時のヨーロッパ人にとってはアジアもアメリカも似たようなものだったのかも)。

***

トウガラシというと、辛くて赤いのがすぐに思い浮かぶが、じつはけっこうバリエーションがある。

まず、ピーマンはトウガラシの一種である。トウガラシには辛いものと辛くないものがあって、ピーマンは辛くないほうの代表。ただ、辛くないほうは、トウガラシとしてはあまりメジャーじゃない。

辛いほうのトウガラシは、世界中で数百もの名前を与えられている。「タバスコ」とか「パプリカ」とか「ハラペーニョ」は、とくに有名。ただ、それらは互いに交配可能だし、味も形も容易に変異するので、あくまで慣用名であって、種が違ってるわけじゃない。

トウガラシは辛くて赤くて形のいいものを求めて、人為的に近親交配が繰り返されたため、今では遺伝的多様性に乏しく、ウイルスに対してきわめて弱い。とくにタバスコ用のトウガラシ。

タバスコは今では「タバスコ・ソース」として有名だけど、もともとはメキシコの地名である。

そして、その地域あたりに由来するトウガラシが、アメリカに入ってタバスコ・ペッパーと呼ばれるようになった。トウガラシはたいてい赤いけれど、そのなかでも赤が強いのが特徴。このトウガラシをもとに作られたのがタバスコ・ソースである。もともとはホワイトさんという人が作ったらしい。

タバスコ・ソースの原料は、塩とトウガラシと酢。これだけ。塩とトウガラシを樽につけて熟成させ、そこに酢をそそぎこんでできあがり。

今日、タバスコ・ソースは基本的にマキルヘニーという会社が作っている。というか、他の会社がトウガラシのペッパー・ソースを作っても、それに「タバスコ」と名前をつけることはできない。

もともと「タバスコ」はある種のトウガラシの通俗名であり、今でもそれは変わらないのだが、ソースの名前には付けられないということ。タバスコの名前の独占的使用をめぐっては、今世紀の前半に裁判合戦が行なわれ、その結果としてマキルヘニーが占有することが認められたらしい。

なんかトウガラシ名をソースにつけちゃいけない、というと変な話だけど、たぶん「六甲のおいしい水」とか「エビアン」でも同じじゃないかな。六甲やエビアンは地名だけど、ほかのメーカーがこれらの地名を使ったミネラルウォーターを売り出したら、おそらくマズいと思う。

***

その昔、「タバスコを一度に一瓶飲むと死ぬ」というウワサを聞いたことがある。これもすごいよなあ。飲めるものなら飲んでみろ、という気もする。

でもちょっと調べてみると、タバスコの中で、たぶん最も毒性が強いのはカプサイシン

カプサイシンは基本的に健康を促進するものだけど、だからこそあまりにも極端に取ると毒になる。その1kgあたり半数致死量は70mgくらいらしい。人間の体重は60kgだから、4200mgのカプサイシンをとると5割は死ぬことになる。ここで、タバスコ・ソース1ccの中には0.3mgのカプサイシンが含まれる。ふつうサイズのタバスコは1瓶で60cc。よって、これに含まれるカプサイシンは18mg。

うーん、これじゃまったく死ねないねえ。タバスコで死ぬためには、立て続けに200本以上飲まないとダメ。それができる奴なら、おそらく呼吸を止めて死ぬことだって可能な気がする。

というか、トウガラシはむしろきわめて死ににくい食物の一つなんだよね。

毒性学の分野では、現実的な危険性を測るために、作用量/致死量の比率をとることが多い。われわれが感知したり、薬効を得たりする量と致死量がどういう関係にあるか。両者の値が近い場合には、慎重に扱わないと危険だが(あるいは使わない)、作用量と致死量が離れている場合には、そこまで気を使う必要はない。

トウガラシの場合、ちょっと食べると激烈に作用するにもかかわらず、死に至る量はそれと比べてはるかに多い。そのため、きわめて安全と言える。

だからこそ、痴漢撃退スプレーで盛んに使われるんだよね。あれをシューッとかけられると、トウガラシ・パワーでたぶんエラいことになると思うけど(幸いにして経験はなし)、それ以上には身体に害はない。

トウガラシは最高ですな。

カズオ・イシグロと「信頼できない語り手」

小説の登場人物だって、うそをつくことはある。

古くは「かちかち山」がウソとウソの応酬、オンパレードである。タヌキが老夫婦にウソをついてひどい目にあわせ、その仕返しにウサギがタヌキにウソの3連発をおみまいして、最後は泥船に乗せて沈めてしまう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%A1%E5%B1%B1

かちかち山のあらすじなんて、ウサギがタヌキにカラシを塗って、泥船に乗せて沈めるところ以外すっかり忘れていた。あれ、タヌキが悪くてウサギが善人だった気がするけど、これじゃウサギが悪いなあ、ウサギが悪かったんだっけ? タヌキが悪かったんだっけ? と漠然と疑問に思ってたけど、なるほどこういうことだったか。

それにしても、殺害の部分をやわらげた表現にしてもなお、ウソにウソでしかえしをするこの話は、子どもにとってあまりに衝撃的。それで無意識のうちに忘却のふちに追いやってたのかな。

閑話休題。このように小説や物語でウソが使われるのは、そう珍しいことではない。ただ、その際の前提は、ウソをつく当人とは別に超越的な語り手がいて、タヌキはウソをついていますよ、ウサギはウソをついていますよ、と教えてくれるということである。語り手が一貫してウソ、虚偽を語りつづけていれば、それがウソであることを読み手が見抜くすべはない。

・・・となんとなく考えがちだが、実はそうでもない。語り口の端々から、その歪みや向こう側にある事実の痕跡が見えてくる、ということもあるのだ。これを実践したのが、長崎生まれの日系イギリス人、カズオ・イシグロの小説『わたしたちが孤児だったころ』である。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

謎とき探偵小説の醍醐味+戦前イギリスへのノスタルジー、というシャーロック・ホームズばりの関心で読んでも十分におもしろい。やはり謎とき的興味も入ると小説はぐっと読みやすくなるね。さらに、子どものころの記憶の迫真性とあやふやさ、ゆがみを鮮やかかつ的確に捉えている点が文学的に◎。入江真佐子さんの訳も秀逸。

では、『孤児』のあらすじ。1900年代のはじめごろ、上海の租界(外国人居住地)で育ったクリストファー・バンクスは、アヘン貿易もいとなむ貿易会社に勤めていた父が失踪し、つづいて美しく倫理観の強かった母も失踪し、孤児となった。イギリスに戻って大学を出たバンクスは、探偵となって名をあげる。そして、失踪した両親を捜し出すため、日中戦争のさなかの上海へと戻ってきたのだった。

上海で両親を捜すバンクスの前に、上海時代に家族ぐるみで親しくしていたフィリップおじさんが現れる。バンクスは両親の失踪にはフィリップが関わっているとにらんでいたが、再会したフィリップの口から驚くべき真実が語られる。

***以下で小説の中身に触れているので、これから読もうと思う人は見ないほうが無難かも。***

こうしたストーリーが、全編を通じて主人公(バンクス)が節目節目で書いた手記という形で語られていくわけだが、この手記がなかなか信用ならない。訳者あとがきによると「信頼できない語り手unreliable narrator」と言うらしいが、「本人の信じきっていることと客観的な事実とのあいだに奇妙なずれ」が生じているため、書かれていることをそのまま信用して読んでいくと、あれっ?と思うことになる。しかも、この語り手はただ世界をねじれた形で見ているだけでなく、信じきっていることに合わせようと、客観的な事実のほうをねじ曲げようと行動し、語りを構築していく。イシグロ自身は「話し手の言うことをすべて信じないように。語られていない部分、言葉の裏にある部分を読みとってほしい」と語っている(訳者あとがき)。

一番おもしろかったのが、バンクスが幼なじみのアキラ(上海在住の日本人家族の子ども、英語はまあ話せる程度)と遊んでいたときのエピソード。「やあきみ」といった呼びかけを意味する「オールド・チャップ old chap」というフレーズを、「オールド・チップ」と言い間違えていたというエピソードなのだが、バンクス自身の述懐では以下のようになる(71-73)。

  1. ある日、アキラが「気をつけろよ、オールド・チップ、ムカデがいるぞ」と言った。そのときは別になんとも思わなかったが、アキラは英語の先生から習ったこの新フレーズが気に入ったらしく、その後何度も何度もくり返し使った。
  2. そこで、「それをいうならオールド・チャップだよ」と訂正してあげた。
  3. しかし、アキラは猛然と抵抗し、絶対に「オールド・チップ」だと主張した。その日はそのまま喧嘩別れ。
  4. 次に遊んだときはもうアキラは「オールド・チップ」とは言わず、そのまま2〜3週間が過ぎた。
  5. ある日突然、アキラは当然のように「それはご親切に、オールド・チャップ」と言ってきた。

彼が結局はわたしの説に従ったことを指摘したい誘惑と必死に戦ったことを覚えている。というのも、そのころにはわたしはアキラのことをよく理解していたので、彼が自分のほうがまちがっていたと微妙に認めるようなニュアンスで「オールド・チャップ」と言っているのではないことがわかっていたからだ。それどころか、おかしなことだが、自分のほうこそ正しい言い方は「オールド・チャップ」だとずっと言ってきたのにと、アキラが暗に示していることが二人ともわかっていた。

・・・このような態度はアキラにはよくあることだった。そのことにいつもひどく腹が立ったが、どういうわけか、めったにそれに抵抗しようとは思わなかった。実際・・・アキラのためにこのような幻想の部分を残しておく必要があると感じていた。(72-73)

ここで読者が気づくべきなのは、最初に遊んだ場面での「オールド・チャップ」と「オールド・チップ」は入れ替え可能であること、つまりアキラのほうが正しい言葉を使っていて、自分が間違えていた可能性もあるということ。その場合、アキラはずっと正しい言葉を使っていて、最初は間違えていた「わたし」もそれに従うようになった、というのが客観的事実であって、今の「わたし」が都合よく記憶をすり替えていることになる。事態はオープンであって、記憶がすり替わっている可能性もあるし、そうでない可能性もある。

なんとなく、この感じはわかるなあ。子どものころ喧嘩したときのことを思い出すと、自分の側にはそれなりの理由があったという漠然とした確信はある。それで、それなりの経緯は浮かんでくるんだけど、どちらが先に手を出したのかという肝心な部分は、入れ替え可能なままになっている。自分が先に手を出したとしても話の筋は通るし、相手が先に手を出したとしても筋は通る、そんな感覚。

それなのに、本書の語り手であるバンクスはそのことに気づいていない。なので、読者はバンクスの語っていない部分を見てとっていかなければならない。アキラとの思い出は客観的現実にぶつからないまま温存されるが、両親の失踪にかんする記憶では現実との接点が多くなり、記憶がゆがみ、現実がゆがんでくる。

もっとも、バンクスは自らの記憶が完全に正しいと信じているわけではない。記憶のあやふやさは認めつつ、記憶の「本質的な部分」、自分の幻想的世界の存立にかかわる部分は死守しようとするのである。

あのエピソードの本質的な部分は正確だとかなり確信しているが、頭の中でもう一度考えてみると、細部に関しては多少あやしくなってきた。ひとつには、母が[貿易会社の派遣した]衛生検査官に対してほんとうに「あなた自身、こんなおぞましい富の恩恵を受けていながら、どうして良心を安らかに保つことができるのですか?」という言葉を発したのかどうかもはや確かではなくなってきている。・・・母があの言葉をつきつけたのは衛生検査官に対してではなく、あの日とはまったく違う朝、食堂での言い争いのときに、父に対してつきつけたものだったのかもしれない。(92)

続いて、食堂での言い争いのエピソードが語られ、そのなかで父に向けてまったく同じ言葉が投げかけられる。あるエピソードで使われたセリフが、そのまま、べつのエピソードのなかに滑り込んでいるのである。このへん、なんか自分が子どものころの記憶をたどるときの感じに似ていて、ああ、そんな感じという気持ちになった。

それにしても、主人公バンクスはなぜこんなに幻想が強いのか。そこに「孤児」というタイトルがかかわってくる。以下、訳者あとがきより。

常識的に考えれば、事件発生から二十年以上も経っているというのに、両親がいまだに上海のどこかに幽閉されていると信じきって、調査に着手するバンクスの行動はいかにも不可解である。イシグロはそれをわたしたちみんなが持つ「壊れてしまったものをもとに戻したいという欲求」だと言う。幼いころに目の前で世界が崩壊してしまった者にとっては、過去に戻っていってその崩壊してしまったものをもとに戻しさえすれば、またすべてもとどおり何事もなかったかのように進んでいくのだという思いがとりわけ強い、と。(413)

この保守思想にも通じる欲求の権化が「名探偵」である。崩壊しかかった世界に現れて、事件を解決し、すべてを丸く収める。そして、自分のほうはその世界に属さないまま、ささっと去っていく。この小説は、探偵小説であると同時に、探偵小説を可能にする条件、探偵という存在を可能にする条件を問うていく小説でもある。

小説全編を通じて、主人公のかかえる自閉的な世界(孤児の世界)に何度も裂け目が入る。一番決定的なのは、成人して上海に戻ってきた主人公がアキラ(と信じる日本兵)と再会するシーン。しかし、主人公は現実に対して記憶を押しつけ、目の前にいる人に向き合って事実確認をしないまま自分で納得し、主人公の世界は再び静けさを取り戻す。この自閉性、自分の思い通りにならないリアルな人との関わり合いを静かに拒否する姿勢は、小説の終わりまで変わらない。

主人公をイギリスまで送り届けてくれた大佐との再会の場面で、主人公は次のように書く。記憶と食い違い、いらいらし、でも突きつめない。

大佐がこのような思い出話を続けていくうちに、わたしはふと、自分がいらいらしてきているのに気づいた。・・・わたしが船上では内気で、気分屋で、ちょっとしたことですぐに泣き出したようなことを大佐は繰り返し口にした。大佐が自分に英雄的な後見人という役割を課していることは疑いなかった。・・・[しかし、わたし自身の記憶によると、]あの旅はみじめだったどころか、わたしは船上での生活にも、さらにその先に控えている将来の展望についても、積極的に胸をおどらせていたことをはっきりと覚えている。
・・・しかし、あの夜わたしは大佐に対する苛立ちをなんとか隠しおおせたと思う。(38-39)

こうした主人公の自閉性を象徴するのが結末部分である。主人公は、憎悪していたフィリップおじさんと同じような立場になること、つまり夫婦とその子どもに対して気のいい「おじさま役」、後見人として立ち現れるという関係を結ぶことにあこがれを見せている。

後見人、それは自分が一方的に誰かを見守るという関係であり、その誰かから自分に向けて行動が起こされることはなく、自分の世界が危機にさらされることはない。また、庇護される側にとっても、後見人は無償のサービスをただただ提供してくれる、きわめて安定した存在である。現実にはそんな都合のいい関係など存在しないのだが、小説に登場する「孤児」たちは、見守る側にせよ見守られる側にせよ「後見人関係を結びたい」という夢を抱き、やがて現実との矛盾に直面する。そして、夢から醒めるのではなく、現実を夢の側へと引きよせることで自分の世界を維持しようとするのである。このモチーフが小説のなかで何度も何度も出てくる。結末部分もそのくり返しであって、これを見落とすと、なんでこんな終わりかたをするのか理解できなくなる。

考えてみると、夏目漱石の『こころ』にも、「私」や「先生」の語りに不信のまなざしを向ける読みかたがあったね。どちらも大人になれなかった子ども(にもかかわらず、社会的には名声を集めてしまっている)を扱っていて、主題的にもけっこう近いところがある。

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

ただ、記憶のあやふやさを描く文体、一人称なのにねじれていて疑わしい文体という点では、やっぱりカズオ・イシグロはなにか新しいことをしているような気がするなあ。ねじれた記述のむこうから世界が覗いて、また閉じて見えなくなるという感覚、子どものころの思い出せそうで思い出せない記憶の感覚は、ほかではあまり味わえないので、そういうのが好きな人にはオススメです。

おどろきの錯視

まずは、下のサイトを見てほしい。

http://web.mit.edu/persci/people/adelson/checkershadow_illusion.html

どうしてもAとBが同じ濃さとは思えずに、自分の視覚よりもまずは英語力を疑って、shadeという単語の意味を英和辞典で調べてしまった。。。

Proofを見ても、なお信じられない。Proofがインチキなのではないかとか、うちのノートパソコンのディスプレイがおかしいのかとか、それくらい信じられん。いやー、びっくりだ。

右手の人差し指と親指をうまく8の字型に組んで画面に近づけて、指の隙間からAのマスとBのマスだけが見えるようにしたら、たしかに同じ濃度だった。わかった上で見ても、まだ同じ濃さには絶対見えない。

しかし、どうなんだろう。絶対色感?とかあったら、こういうのはすぐに同じ色だとわかるんだろうか。それとも、色の専門家というのは、周囲の色を白色無地あるいは黒色無地にしない限り、それがどんな色か判定しないというリテラシーを身につけた人のことをいうのかな。

ちなみに、上記サイトはこちらで紹介されてて知りました。

http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=5867

ガルシア・マルケスと内面なき小説

ガルシア・マルケスという作家が好きである。以下は、この作家の本をぜひ読んでみるべし、というオススメ文章。

ガルシア・マルケスは1928年コロンビア生まれ。当初はジャーナリストをやりながら小説を書いていたが、1967年に発表した『百年の孤独』が世界的なベストセラーになり、以降次々と話題作を書いて、1982年にノーベル文学賞を受賞した。

ノーベル文学賞に選ばれる小説家のなかには、通俗的レベルで見ると読むに耐えない人が少なくないんだけど、ガルシア・マルケスは貴重な例外。政治的な告発とか文学的な深読みとか、そういったものは一切気にせずに読み進めることが可能なはず。

百年の孤独

百年の孤独

一番の代表作はおそらく『百年の孤独』(新潮社)。これは、南米のどこかの村「マコンド」の開拓者一族の成立から滅亡までを壮大に描いたもの。翻訳も非常によい。

百年というのは、たぶんこの一族がマコンド村を作ってから滅亡するまでの時間であり、孤独というのは、たぶんこの一族の人間は、結婚相手と愛しあっていると子どもができず、そうでないと子どもができる、とかそんなことだったような。

1本の小説の中でだいたい5世代が描かれていて、主な登場人物だけで20人くらいいる。それだけでも十分にややこしいのに、彼らには執拗に同じ名前があてられる。長男だったら「ホセ・アルカディオ」で、次男だったら「アウレリアノ」みたいな感じ。

しかも、同じ名前の人間は性格と運命が根本的な点で共通している。この名前に生まれるとロクな死に方をしないとか。だから、途中までは誰が誰の子どもで、とか気にしながら読んでるんだけど、そのうち、なんか人格同一性はどうでもいい気分になってくる。

まあ、各人がそれぞれ独特のハデな人生を割り振られているし、一族の母ウルスラとか、情念の女レベーカとか、反乱マニアのブエンディア大佐とか、何世代にも渡って長く生きて系譜把握のカギになる人物もいるから、ほんとに区別がつかないわけじゃないけど(巻頭に系譜図もついてるし)、雰囲気的には同じ人間が何度も違う死に方をしてるような気がしてきます。

というか、そういう輪廻感がこの小説にとって重要な要素っぽい。私の場合、読んでるうちに「人の一生は一度限りだから大事にしよう」みたいな発想がちゃんちゃらおかしく思えてきました。

***

百年の孤独』もきわめて面白いんだけど、なにしろ長い。2段組で450頁くらいある。なので、初心者に一番オススメしたいのは、『予告された殺人の記録』(新潮文庫)という中編のほうです。これは文庫で100ページちょっとの短い本なので簡単に読める。しかも、著者本人が最高傑作と考えているようだし。

予告された殺人の記録 (新潮・現代世界の文学)

予告された殺人の記録 (新潮・現代世界の文学)

これは、一応小説なんだけど、著者の青年時代に実際に起こった殺人事件を題材にしたもの。著者は被害者とも加害者とも親しい間柄だった。数十年が経って、ほとぼりが冷めたのを見計らって小説にしたらしい。

殺されるのはサンティアゴ・ナサールという若者。町の女性とよそからやってきた大金持ちの息子(バヤルド・サン・ロマン)が結婚したが、花嫁が「処女でなかった」という理由で実家に戻された。両親に詰問された花嫁が、処女喪失の相手として口にしたのがサンティアゴ・ナサールだった。そして、名誉回復のために花嫁の兄弟2人(双子)がサンティアゴ・ナサールを殺害したのである。

この殺人事件の最大の特徴は、題名にも書いてあるとおり、それがあらゆる形で予告されていたこと。花嫁の名前はアンヘラ・ビカリオで、加害者はその兄弟なのだが、「どうやらビカリオ兄弟は、人に見られず即座に殺すのに都合のいいことは、何ひとつせず、むしろ誰かに犯行を阻んでもらうための努力を、思いつく限り試みたというのが真相らしい。しかし、その努力は実らなかった。」

なんでそんなに犯行を阻んでもらいたかったのかというと、妹を汚された兄弟としては、社会規範的に復讐をする義務があるんだけど、この兄弟はとても温厚で、人殺しなんて全然するタイプじゃなかったし、実際にしたくもなかったから。

それで、いろんな人に自分たちがこれからしようとしていることを話して、誰かに力づくで止めてもらおうとするんだけど、口ではみんな止めるが、それ以上はしない。実力行使する意志や力がある人にだけは、なぜか彼らの殺害計画が伝わらない。こうして、しかもその他もろもろの運命的な偶然/力が働いて、サンティアゴ・ナサールは殺されることになる。

この運命的な力、というのもガルシア・マルケスの小説の特徴のひとつ。

一例を挙げると、被害者は家を出入りするとき、いつもは裏口を使っていた。兄弟はそのことを知っていたにもかかわらず、表口で待ち伏せしていた。なのに、被害者はなぜかその日に限って表口から出てしまったのである。(いちおう回想録に出てくる当事者たちはそれなりの理由を見出してるけど)

さらに、兄弟に追いかけられて家に向かって逃げているときも、なんとか表口に到達したにもかかわらず、家の中にいる母親からは外にいる息子の姿が見えず、すでに息子が家の中にいると錯覚した彼女が、兄弟の侵入を防ごうとしてカギをかけてしまったために殺されることになる。

ガルシア・マルケスの小説では、こういう悲劇/喜劇のパターンが、読者の息もつかせぬ形で次々と繰り出される。

***

この小説は、時系列順に話が進むのではないし、「犯人は誰か」とか、そういう大きな謎があって、それをめぐって話が進むのでもない。読者が疑問に思う点が一つずつ解決されて、その解決が次の疑問を生んで、という形で、自由な回想録ふうに自然と進んでいく。訳者あとがきによれば、中上健次がこの小説を「非常に構成力がある」と言ってたらしいけど、さもありなん。一見すると自由連想ふうでありながら、ここまで緊密に構成された小説はなかなかない。

他に印象的なのは、まあよく言われることだけど、悲劇を生むラテンアメリカの封建的な社会背景を描いてることか。花嫁を実家に返す男も、当初は華やかに外部からやってくるんだけど、彼も決して人生の勝者ではないことが次第に明らかになる。

私がガルシア・マルケスですごく気に入ってるのは、彼の小説の登場人物はうじうじ悩まずにじゃんじゃん行動して、人生に関わる大事を次々とこなして死んでいくこと。彼の小説の中には、出産と恋愛と結婚と戦闘と老化と死亡しかない、と言っても過言ではない。

彼の小説にはかなり個性的な登場人物が多いんだけど、彼らは思い悩まない。いや、正確には悩みっぱなしの人もいるんだけど、小説の中ではせいぜい数行程度しか悩ませてもらえない。で、すぐに行動することになるのです。その結果として、読者は、彼らが自分の意思ではなくて、環境や性格の必然的帰結として動いているような印象を受けることになる。

私は小説の中に自我の葛藤なんて全然求めないので(だからSFや推理小説が好き)、こういうのが性に合っているのです。だから、複雑な内面的葛藤みたいなのが好きで小説を読んでる人には、あんまり向かないかも。

作家・群ようこはある対談で、マルケスのこの作品のどこが面白いのかと聞かれ、「おばあちゃんがコオロギみたいに死んでいくってところから」と答えている(http://members.jcom.home.ne.jp/macondo/shoushi.htm

らしいが、この感覚は非常によくわかる(ただし、コオロギというのは誤訳とのこと)。

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ああ、そうそう、ガルシア・マルケスの小説の特徴として、いわゆる「魔術的リアリズム」も挙げておかないとね。

これは、一見すると死とか激情といった普段は曖昧にされがちな事実を生々しくリアルに描いてるんだけど、そのリアルさが次第に極端になって、しまいには完全に幻想の世界に飛んでいくこと。

予告された殺人の記録』だと、いちおう事実に基づいてるから、魔術的リアリズムの面はそれほど目に付かないけど(といってもかなり多い)、一番鮮やかなのは被害者が死ぬシーン。

被害者のサンティアゴ・ナサールはめった刺しにされるんだけど、そのめった刺しのシーンは生々しすぎてほとんど読むに耐えない。でも、そのあと彼はめった刺しにされた自分の腸を手で抱えながら、自分の家の裏口まで回って家に入り、腸にどろがついているのを気にして払い落としたりするのです。で、そのあとぶっ倒れて死亡する。

こういう鮮烈でユーモラスな大法螺話も彼の特徴。はじめはぎょっとするけど、慣れてくるとなんか滑稽になってくる。『百年の孤独』はこんなののオンパレードです。

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他の小説についても少し。

族長の秋 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

族長の秋 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

南米のとある国に君臨する(といっても先進国に頼り切っている)独裁者の栄枯盛衰をハデに描いた『族長の秋』も面白い。悪の魅力を描いたピカレスク小説。この独裁者はほんとに醜くて、極悪人で、小心者なのだが、そんな彼の悪業の数々と死にざま(あるいは死んだふり)は読んでいて快感です。そうした悪行は当然、もはや非現実的なまでにリアルでオーバーに描かれています。

ただ、『百年の孤独』にも少し見える循環性がすごく強くなっていて、話はどこにも進んでいかないし、長編小説なのに段落が全部で数カ所しかないので、ガルシア・マルケスに共感を持っていないと読み進めるのは難しいかも。

コロンビアで実際にあった誘拐事件を題材にしたルポルタージュ『誘拐』もすごい本。

コロンビアの有力者7人が誘拐され、その一部が殺されて、残りが解放されるまでの監禁と解放交渉の過程を書いているのだが、すごく生々しい。誘拐の被害者も誘拐の首謀者(彼の凋落と死でルポが締めくくられる)も解放交渉の神父さんも、カリスマと欠点を併せ持つ魅力的な人物として描かれている。ルポを書いていても人間が輝くのは筆力なのだろうなあ。

ちなみに『誘拐』を読んで一番衝撃的だったのは、誘拐されるときに大抵、お抱え運転手は射殺されてるんだけど、この人たちはしばしば「誘拐による死者」にカウントされていないことでした。

シロイヌナズナはナズナではない

変わる植物学広がる植物学―モデル植物の誕生

変わる植物学広がる植物学―モデル植物の誕生

分子生物学によって植物学・植物研究はどう変わったか。本書は、シロイヌナズナという「モデル植物」の成立を切り口に、分子生物学の衝撃を鮮やかに描き出す。とても面白く、勉強になる。

そして何より、著者の文章がうまい。研究上のいろいろなエピソード・裏話と分子生物学の最新の知見、そして、それによって我々が高校で習ってきたような古典的な生物学がどう変化を被ったか、がうまく融合し、非常に面白いストーリーとして語られている。

以下、興味深かったところのメモ。

モデル以外の自由課題を後回しとし、まずはみんなで分担して(あるいは競争して)、モデル種を共通課題にすることで、徹底的に隅から隅まで調べ、その基本的メカニズムを知ろうというのである。容易に想像されるように、こうすることで、研究の進展は飛躍的に速くなる。(3)

研究がひとたびシロイヌナズナに一点集中するや否や、状況は一変した。まるで、研究者人口が一気に増えたかのような効果が生まれたのである。そもそも、花芽形成のように高次な生命現象の場合は、その理解の上で、ホルモンの効果に関するデータや光感受に関するデータ、分裂組織の挙動に関するデータなど、多くの他の研究ジャンルの総合的理解が欠かせない。従来は、そうした他ジャンルのデータも、先に見たように、それぞれてんでバラバラの材料に関する情報の寄せ集めで、それがどこまでそのまま自分の研究材料に適用できるのか、皆目わからない状態だった。それに対して、すべての研究ジャンルで足並みをそろえ、シロイヌナズナの解明を進めるようになった効果は甚大であった。期せずして互いの研究を強力に促進し合う相乗効果が生まれたのである。(34)

一つのモデル系にあまりに集中すると、どこまでが一般則で、どこからが特殊ケースかの境目が見えなくなってしまう。まして、自分の研究ジャンルこそがすべてとばかり、井の中の蛙[←著者は「酵母ボケ」などと呼んでいる]のようになってしまっては、決してよい仕事にはつながるまい。(127)

ABCモデル:A、B、Cの3つのアイデンティティ決定因子が単独ないし対になって働くことで、4種の花器官の性格付けが行われる。なんと、こんな単純な(シンプルでエレガントな)形でこれらの器官が分化しているのだ!(28-29)

  • A+B:花弁(花びらの一枚一枚)
  • B+C:雄しべ
  • C:心皮(雌しべの構成単位のこと)
  • なし:葉

モデル生物の変遷

  1. 大腸菌:身近で、簡単に増やしたり操作したりできる原核生物
  2. (出芽)酵母:身近な真核生物、単細胞性
  3. シロイヌナズナ:多細胞生物

相同と相違の破綻(110)

  • 相同器官:共通の祖先器官に由来する
  • 相似器官:進化の道筋が違い、他人のそら似に過ぎない e.g. ショウジョウバエの脚とヒトの手足

これまでの生物学は、両者の区別を重視してきた。分類学でも、近縁な種のケースと、遠縁だが見かけがそっくりに収斂しただけのケースの区別が重視されてきた。

しかし、分子遺伝学によって、相似器官にすぎないはずのショウジョウバエの脚とヒトの手足とが、遺伝子制御の視点からはまったく同一の仕組みでできていることが明らかに。こうして、これまでの伝統的見解が根底から覆された。

RNAiと「ジャンクDNA(138-)

  • 生物のゲノムDNAの中には、mRNA(→タンパク質に翻訳される)にもrRNA(→リボソーム(タンパク質が作られる場)を構成する)にもtRNA(→mRNAからタンパク質への翻訳の際の運搬役?)にもならない領域があった(「ジャンクDNA」と呼ばれていた)
  • そこに、RNA干渉の引き金になる、いろいろなnon-coding RNA(ncRNA)がコードされていたことが明らかになった →ジャンクと言っても、まだ機能がわかっていないだけ
  • RNA干渉(RNAi)=mRNAと相補的な配列を持つ低分子RNAを引き金にして、mRNAを分解して遺伝子発現制御を行うメカニズムのこと

DNAとゲノムという共通言語(163)

分子生物学者とは、DNAとかタンパク質とか、分子のことだけ調べる研究者ではない。分子生物学者は、自分の知りたいテーマに関して、分子生物学の手法はもちろんのこと、どんなテクニックでも、生理学でも遺伝学でも解剖学でも、とにかく何でも使って解明してやろうとすべきだ(164)

分子生物学が発達し、DNAやゲノムという共通言語が普及したことで、これまでの生物学内の研究分野間の垣根が急激に低くなった。「分子[やDNA]という共通言語を介して、知識の蓄積されたプールが共有化され」、「かつまたそれに対してのアクセスが、半ば当然の義務となった」(164-165)。「高次機能と遺伝子の機能との間には、・・・多くの階層性が横たわっているので、昔のような生理学、形態学、生化学のような壁を気にしていては進まない。なにより、遺伝子の配列を見たとたん、思いもかけない分野の話になることは、決して珍しくない」(188)。

ちなみに、タイトルに書いた「シロイヌナズナナズナではない」。もともと植物名における「イヌ・・・」は「・・・もどき」という意味。ナズナという花の白い植物が、まず日本語の世界にある。次に、ナズナと感じは似ているが花の黄色い別種の植物が、イヌナズナと日本語で命名された。そして、イヌナズナに似ているが花の白い植物が、シロイヌナズナ命名されたのである。だから、シロイヌナズナはまったくナズナではない。

しかし、シロイヌナズナから植物の分子生物学的研究に入って、それしかやっていない人の中には、うっかりこれを「ナズナ」と呼び、本当にナズナだと誤解している人もいるらしい。