冒頭「勝手に撮るな、ここは西成やぞ!」との映っていない人物からの怒号をよそに、炊き出しのおかゆを立ったまま箸で食べる長谷さんがこちらを見るのを捉えるカメラに、素朴な視点のドキュメンタリーだなという印象を受ける。これは西成という場所を伝えたいのか、怒号の主と「男の、じいさんの町だから」と89歳で越してきた長谷さんの違いを表現したいのか。そのままの自分を撮られることに抵抗のない長谷さんに甘えているような気もするが、しかしどうすればよいのか、この映画には全編に渡ってこの矛盾がある。「長生きしてよかった」なんて、「短く太い人生を駆け抜けた」などと俗に聞くけれど、そんなふうには決して生きられなかった人の言葉をどう聞けばよいのか。そうしたことを残すのが映画なのかもしれないが。
1929年生まれの長谷さんが63年に現代詩手帖賞を受賞した際の「広くはないかもしれないが、自分の土地にしっかり根を下ろしている」というような評が紹介されていたけれど、それこそが、現在の彼が昔を振り返って言う「他に誰がいるかも分からなかったが確実に『いる』と知っていた」ということのように私には思われた。それが当事者というものであり、この映画の元となった番組を授業で見た若い学生が「『高齢者のLGBTQ』がいると知らなかった」と感想を述べたという話などを踏まえても、隠されている存在はそうでない人には認識されない(私達はこの学生の言葉から遠いところにいるものではない)。就職しても結婚しない理由を聞かれたりストリップショーを見に連れて行かれたりといたたまれないこと続きで一か所にはとどまれない、「よく聞く」話だが違う話なのだから何度でも聞くべきだ。
見ているうち、これは長谷さんと他者…「仲間」との交流の話なのだと分かってくる。「この人と一緒だったらどうだろう」と想像した好みの男性の切り抜きばかりだったベッド脇の壁に番組を見て連絡をくれたボーンさんから送られた写真が貼られ(序盤の「はげた男が好き」からのボーンさんの登場はちょっと可笑しい)、同性愛者の男性と手紙のやりとりをするのは自分にとって「奇跡」だとの言葉で映画が終わる。かつて切実に望んだものに触れることができた、といってもやはり「ようやく」すぎる。詩にあった、「よほどの覚悟がないと生き通せない」…私はすぐに「生き延びる」という言葉を選択してしまうけれど、生き延びるでも生き抜くでもなく「生き通す」とは何て意味のある言い方だろうと心に残った。