連休の記録

以前はまめに書いていた休日の記録をたまには。

ガーナチョコレートが韓国のロッテとコラボレーションしたGhana CHOCOLATE HOUSEにて、薬菓が土台のガーナチーズケーキと薬菓を飾ったガーナソフトの「夏」(いちご・ミルク)。どちらも美味しく表参道の欅も見えて気持ちよかった。

「北欧の神秘 ノルウェースウェーデンフィンランドの絵画」展と、「感覚する構造 法隆寺から宇宙まで」展。右の写真は後者の宇宙空間パートの平行カメラ体験で外を見る自分の目の中の反射が面白かったので撮ろうとするも上手くいかない私を外から同居人が撮っていたもの。

大好きなマーサー ビスの新業態マーサーベイクショップで購入したカップシフォンケーキと季節のおすすめのクランブルケーキ、本日のおすすめのミートパイ。「あいぱく」で食べたニューヨーク堂の長崎カステラ生ソフト コーヒー。

同居人が「これまでで一番きれいに巻けた」と言っていたキンパ(いつもきれいなのに。それにしても断面の写真を撮るべきだった)と、休日最後にリクエストして作ってもらった蕎麦のペペロンチーノ、鰹のたたきのせ。かき分けて蕎麦が見えるように撮った。

あなたのために生まれてきた


イタリア映画祭にて観賞、2023年ファビオ・モッロ監督作品。

冒頭呼び出されて裁判所に向かう自転車でふと片手を離してみる、ルカ(ピエルルイージ・ジガンテ)にとって子を持ち家族になることは自由になることと同等なのだと分かる。以降何度にも分けて挿入される回想シーンで、同性愛者の彼にとって手を離し空を飛ぶこと…「火星へ行くこと」にどんな意味があるかが分かるが、終盤そのニュースに嗚咽する姿に、判事が思い返す講義の「法は大衆ではなく個人のために」から借りて言うなら、大衆として扱われて不満のない者は「火星へ行くだなんて昔は誰も思わなかった、人は進化する」なんて希望を抱かず済んでいるのだとつくづく思わされた(その逆が、『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』で全ての権力を握っている教皇ピウス6世が言う「私は不変で、世界の方が進歩によって破滅する」だろう)。

何番目かの妻の妊娠がパーティで盛大に祝われている(イタリア映画でベビーシャワーを見たのは初めてかも)、いわばマジョリティの特権を享受しまくっているルカの兄が、里親制度の特例で一か月暮らせることになったアルバと共に別荘にひっこんだ弟の元に一番にやってくる、いや続く皆がアルバを愛し世話してくれる。自分で自分を抱きしめながら目覚めるルカも一人ではなかったと分かる。その後には急ぎの用で訪れた弁護士のテレサ(テレーザ・サポナンジェロ)に「(アルバのために)泊まってくれ」なんて言えるようになる。しかし翌朝には世論を動かそうとする彼女と「アルバを旗印にしたくない」と反対するルカ、支援者と当事者の間のちょっとした分断が描かれ、一人は一人に違いないということも示される。それはルカと恋人のやりとり、関係にも表れている。

「どんな母親?」「産んで捨てていった」「病院じゃなく道に捨てる親だっている、宗教上の理由で中絶を選べない人だって」「少なくとも勇敢だったってことね」。例えば序盤のこんなやりとりにこの映画の繊細さが表れている。生まれた子にアルバと名付けた看護師の彼女やテレサ、「時間の無駄だった、次からは普通の家族を呼ぶ」「法を作ることじゃなく守らせることが私の仕事」と言う判事(これには『コール・ジェーン』の主人公ジョイの弁護士の夫が法を守る善人ながら妻のことを全く救えなかったのを思い出した)など女達は皆アルバに家族ができることを願っているが、仕事の範疇というものがあるため事が運ばない。ルカとアルバは最初の例になることができたが、映画の終わりの「本当の」アルバの世界一ってくらいの笑顔に、私達が私達の法を変えていくことが一番大事なんだというメッセージを受け取った。

青春18×2 君へと続く道


主人公ジミー(シュー・グァンハン)の高校時代の若さ溢れるねぼすけぶりを活かすためなのか朝9時からの映画デートってありなのかと思うが(台湾では、あるいは普通によくあることなのかな?行き先はアン・リーも通ったという全美戯院)、それから夜まで何をしていたのか、もう一つのホームのようなアルバイト先のカラオケ屋の店先で、アミ(清原果耶)の心痛を察した彼は大丈夫?とそっと手を重ねる。デート前に調べるも失敗に終わった「手を握るには」なんてのはすっかり消え失せて。ああして人は大人になるのかなと思う。

「旅の途中で会う人達はぼくに影響を与えてくれる、ぼくは旅人だった彼女に影響を与えられたろうか」とのモノローグから、現在日本のパートはジミーの旅の、18年前の台湾パートはアミの旅の物語なのだと分かる。しかし旅人か旅人を迎える側かなんて関係あるだろうか?予想の通りジミーはアミに影響を与えたどころじゃないと分かる。これは旅人であってもそうじゃなくても、出会いとは影響を与え合うことだという話である。彼は「夢を叶えたら会おう」と約束したからこそ夢を見つける。18歳のコウジ(道枝駿佑)が生まれるずっと前の映画『Love Letter』を見てみると言うのだってそうだ。

天燈上げのポスターを見たアミの「いつか『連れて行って』」とは、それがジミーの正確な記憶なら、死を覚悟の上で旅しているとはいえ、いやその割には随分男に頼るじゃないかと思っていたら、原作となったエッセイの通りなのか女の側の心情を随分しんみり感傷的に描いてみせる。実はあの時…の繰り返しもくどく終盤は少々飽きてしまった。かつて電話ですげなくされた(と受け取った)ジミーのよるべなかった背中が、アミの心を知った最後には大きく見える。その「結果」だけでいいじゃないかと思ってしまった。

美しい夏


イタリア映画祭にて観賞、2023年ジネヴラ・エルカン監督作品。

映画は主人公ジーニア(イーレ・ヤラ・ヴィアネッロ)がすてきなブラウスとスカートを脱いでお針子の制服に着替える朝に始まる。映画の終わりには、この制服が、終盤ある大人の女性が口にするように「女性には知性が必要」だが「若者は過ちをおかす」ものだからと女の世界で女が女を守るための備えに思われた。
慣れた様子で服を脱ぎ水に飛び込み岸まで泳いでくるアメリア(デヴァ・カッセル)は一見ジーニアと真逆の存在であり、実際彼女を知る男は、女でさえも、「世界が違う」と言うが、二人が通じ合っていることは、「笑顔と引き換えに奢る」との店員を拒否したジーニアのお代をアメリアが払うところに表れている(ここで後者の方が随分背が高いと分かり、後のある場面では階段によって二人が並ぶのが面白い)。そうでなくても見ている私が、どちらにも自分が居ると感じる。

裸のアメリアの絵を見るジーニアは画家の男達を挟んで彼女と相対している。彼女は鏡や浴槽で自身の体を確認するが、アメリアに直接それを投げ出すことには思い至らない。男の存在なしに女の体は発現できない、女と女が直接繋がることはできないと思い込まされているようだ。
男を利用して遊ぶアメリアにジーニアが戸惑う場面は最近では『七月と安生』(2016)とリメイク作『ソウルメイト』(2023)も思い出すが、実際昔も今も女は男がいなければ生きていけないシステムの中に生かされている。モデルの他にそうそう稼げる仕事もなかろうし、どうせ搾取されるなら金銭という形で代償を払ってもらおうと考える者もいるだろうし(昔の私のこと)、文化と出会わせてくれる真夜中のピクニックだって男がいなければできないだろう(それに対するのが最初と最後の兄や仲間との川遊びである)。

ジーニアの男との初めてのセックスがかなりの時間をかけて描写される。彼女が相手を求めることはなく、やがて世界から音が消え、事後には描きかけの絵に戻る男のこちらで彼女はベッドに一人、壁の虫にふと共感でもしたのか手を伸ばす(のが、映画の終わりには空をとびゆく鳥達を見る)。
このことが密室で、しかし女なら誰もが…少なくとも多くが…知っているやり方で行われるのと対照的に、ジーニアとアメリアが互いを求め合うダンスは男に鞄を持たせて衆人の中でなされる。1938年のその後は分からないとはいえ、あるいはそうだからなのか、映画がタイトル『La bella estate(美しい夏)』に、すなわち幸せの中に終わるのも含め、男性の同性愛者ではなくレズビアンの物語であることをかなり意識した作品に思われた。原作であるチェーザレパヴェーゼの小説はどういうものなんだろう。

そう言ったでしょ


イタリア映画祭にて観賞、2023年ジネヴラ・エルカン監督作品。

吐瀉のしみ、脇の汗、鳥につけられた傷、女達は体のいわば異常を取り繕って「普通」のふりをする。普通でなければいけないいわれはないがそのせいで苦しいから。異常気象で灼熱のローマのクリスマス、エアコンは壊れ電気も不足し、窓を閉め切った室内で何台もの扇風機が回っている様は物事を幾らかき回したところで堂々巡りであることの表れだ。やがて彼女達は戸外へ出て行く。

(以下「ネタバレ」しています)

「あなたは夫に全てを捧げた、私は皆を愛した、でも今はどちらもひとりぼっち」とのセリフでプーパ(ヴァレリア・ゴリノ)とジアーナ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)の存在と関係が説明されるが、「あなたの旦那はクズだった、あなたに値しない」と言われても、もうお互いしかおらず歳いって走ることもできず前になり後になりよたよた帰るしかなくても、二人に未来があるわけではない。彼女らの結末に私には釈然としないものがあったけれど、上映後のQ&Aで監督は、通訳の方によれば(「ジアーナは殺すべきか」ではなく)「プーパは死ぬべきか」という言い方をし、作中最も自身の生き方に確信を持っていた彼女が殉教者になったのだと説明していた。倒れた姿は確かにそうだった。

この映画は、例えば「元ポルノスター」のプーパが「皆に愛を与えた」と言うのが本当に「皆」で男に限らないというような自由さを備えてはいるが、この社会においてどういう姿勢を取れば強く何かを訴えられるかということは考慮されていない。だからどことも知れない「湖」を目指す者もいればそうでない者もいるというだけの結末も、真摯といえば真摯だが曖昧だ。

面白かったのは遺灰映画としての一面。遺灰の出てくる映画といえば、男が死んだ女のそれを携えもっと尽くしてやるべきだったと旅をするのが大方だが(相手が生きてる時にがんばれよとしか思えない/昨年違う趣向のものを見たけども)、ここでは母親の遺灰を手にした兄妹は当人の希望の場所へ行くもそれを持ち帰る。兄(ダニー・ヒューストン)は母に虐待を受けており、妹(グレタ・スカッキ)は「母親に愛されたくて」それを笑った、兄いわく「(虐待に)加担した」、そんなやつの痕跡は、エンディングにも流れるラ・バンバにのってトイレに流してしまえばいいのだ。あのダンスシーンにはぐっときた。

悪は存在しない


冒頭、薪を割る巧(大美賀均)に、映画は結局のところ知覚において私の見る夢のようではないと思う。私の夢は映像のはずなのに概念であり姿かたちがない。映画には映像が必要だなんて不自由なものだと奇妙なことを考えてしまった。しかしその後の「やまわさび」からの子ども達の「だるまさんがころんだ」、ドアを閉めて走り出す車と映像があの手この手でいわば色気づきまくるのに、こういう形を取らねばならない映画の尻をまくった姿、という言い方が悪いなら覚悟を決めた姿とでもいうものを感じた。

東京でのオンライン会議を終えてタバコを吸うのに高橋(小坂竜士)が窓を開けると外の音がして内が外と繋がる。映画ではよく得られる感覚だがここではそれは、彼が後に黛(渋谷采郁)との車内では吸うのを遠慮する、しかし巧を手伝って水を運んだ後の車外では何の断りもなく吸うのと合わさって意味深くなる。水挽町へ向かう車内での高橋の「なんかおれ、しっくりきてる」というようなセリフ(作中一番好き)やその後の蕎麦屋でのやりとりからは、彼の存在は、この世界で誰がどこにいたって大したことないじゃないか、どうってことないじゃないかというメッセージに思われた、ただし後でくつがえされるための。

(以下「ネタバレ」しています)

私には花の失踪とその捜索は、誰がどこにいたって大したことない、どうってことないはずなのに人は人がどこにいるかにこだわるものだということの表れに思われた。巧は冒頭の一幕から娘の花の迎えを忘れている。地元の人々の集まりでは羊羹を切ってサーブさせている。高橋と黛を再び迎えた日には彼女のことなど頭にないように彼らと昼食に出かけている。私には彼がその気はなくとも娘を軽んじているように思われた。そのことがばれたから高橋に対しあのような行動に出たのだと思った。この映画はタイトルからして悪のイデア的なものなどない、私達のやることなすこと一つ一つにしか意味はないという話なんだろうけど、私には却って個々の事情のようなものの方が前面に出ていた。

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命


映画は女に始まり女に終わる。オープニング、使用人の女性アンナ・モリージが逢瀬の相手らしきオーストリアの将校を夜に送り出す。私には彼女が何とも生き生きして見え、この作品においては、その行為の根には、近所の雑貨商の「そのままでは赤子は辺獄(リンボ)におちる、洗礼を施さないとお前に致命的な罰が下る」を恐れたとはいえ生命との素朴な繋がりがあったように思われた。しかしそれは権力者のふるう権力により悲劇の元にされてしまう。ちなみに終盤の裁判においてかつての異端審問官の側の弁護人が「彼女の放蕩さや盗み癖を強調して心象を悪くした」と非難するのはなかなか現代的な…といっても随分前から指摘されていたが…要素に思われた。

父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレシ)がローマのユダヤ人教会を訪ねる場面で宗教に無知な私にも話が見えてくる。攫われた息子エドガルドが何不自由なく暮らしていることもモモロの挙げた声がそれこそアメリカにまで波紋を広げていることも却って事を面倒にしているとの言い草に何て矛盾だと思う。しかしそれはボローニャでひっそり暮らす一家の長には縁のなかった、権力者の足元に生きる少数派の処世術なのだろう。一方「訴状が役に立つの」「裁判で息子が取り返せるの」と彼に問う母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)はそうした処世術も夫のやり方も実を結ばないと知っており、その違いがそれぞれの面会の場面に表れている。実際事は間に合わず、モモロが「敗訴はしたが大きく前進した」などと言われた後に全てを悟って自らの手で自らを殴る時、エドガルドは三度目の洗礼を受け教皇に命を捧げる兵士となる(ここの編集には圧倒させられる)。

愉快なテーマ曲でもって風刺画が動き出したり寝室に押し入ったユダヤ人に割礼されたりといった夢に悩まされた教皇ピウス6世(パオロ・ピエロボン)は慌ててエドガルドに洗礼を施す。「私は不変で、世界の方が進歩によって破滅する」と口にするもその言動の根に恐怖があることが強調されている。今の日本に生きる私の目で見るとこれは、権力者が人の関心を買おうとする時、あるいは家庭に介入しようとする時、その目的は何なのかという話であった。贔屓やお菓子の甘さを味わい、ゲットーから連れてこられた少年の、良心からの「何でも丸ごと覚えていい子にしていれば帰れる、賢い者勝ちさ」との信条に沿って賢いつもりでいるうちに兵士にさせられ二度と戻れなくなる、取られた命はもう取り戻せないのだと言っていた。