プリシラ


あまりに教科書みたいな映画でびっくりした。やばい男に捕まった子どもの辿る段階が分かりやすく丁寧に描かれている。その中に女がよくよく男からされることが散りばめられている。当たり前だよな根っこは同じなんだからと気付かされる。
出会いのパーティでプリシラケイリー・スピーニー)を自室に呼んでのやりとりに、年の離れた若い女を狙う男ってああいうことを言ってくるんだよな、作中のエルヴィス(ジェイコブ・エロルディ)は言わないけれど後で「話せるのは君だけ」「聞いてくれてありがとう」と何度言われたことか(同年代の男性にはされたことがない)、という冒頭から「彼女は年の割には大人なんだ」、別れ話を持ち出すと男ができたのか?と言ってくるんだよな、という終盤まで、ほんと「あるある」続き。ただこの物語の場合、退屈だった少女プリシラはエルヴィスを真に愛したわけだけども。女の子の中には、大人の男が大人の女に目もくれず自分を可愛がってくれるという夢がある、というか世界は少女をそうさせる。

オープニング、製作総指揮のクレジットに単独筆頭でプリシラ本人の名前があったけれど、そうはいかない『マリー・アントワネット』(2006)と本作とは確かに似ている。ファンの描写やショーの場面、ビートルズの話まで出てくるけれど、外の世界が全く見えない点。閉じ込められていたのだからリアルだ。
それから主人公が他の女と繋がりを持たないところ。転校先では噂されるのみ、グレースランドの大人の女達が彼女のことをどう思っているのかも全く窺えない。そういうものはなくてよいというソフィアの意思を感じて悲しく思う。更に男の持ち物としてやりとりされるところ。貧乏ゆすりの絶えないエルヴィスと父が小さな居間で自分をどうするか話し合う間、母娘はキッチンで待つ。エルヴィスの取り巻きの男達は、例えば彼が撮影から帰ってきた食卓でのウルスラ・アンドレスの話題のようにそこにいない女…「女」について下卑た話を繰り広げる。エルヴィスはアン・マーグレットにつき「出世が一番、男は二番、おれには縁のない女だ」と(プリシラの前では)言うけれど、「一番」があるくせにエルヴィスと関係を持てる女がプリシラはうらやましかったのではと想像する。

それにしてもこんなにベッドが出てくる映画ってない。エルヴィスが「ベッドの男」だったとも言えるが、これはベッドで男が女を支配する話とも言える。といってもそこで行われるのはセックスでは(ほぼ)ない。薬を飲まされ二日間も眠り続けるのに始まり、最後には乱暴されて見切りをつける。実際はどうだったのか分からないけれど、卒業だけはさせると誓っておきながら自室も用意しなかったのか落第手前のプリシラがベッドの上で勉強する場面が象徴的で心に残った。加えてこのあたりの描写には、いい映画に出たい、アクターズスタジオに入りたいと言いながらベッドでぐだぐだするだけというのと同じ問題、それを妻にも適用しているだけだよなと思い、それは誰しもあることかもと作中のエルヴィスに同情した。

リンダはチキンがたべたい!


キアラ・マルタが主導の共同作品とのことだし、同じ作家でもそりゃあ作品によって違うだろうけど、セバスチャン・ローデンバックの前作『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』の主人公は自慰したり放尿(というのがぴったりくるやり方で)したり過酷なストーリーの中でものびのびしていたのがよかったので期待していたところ、のびのびの表現がまた違った。複数の女達の差異によりのびのびが表現されている。リンダ達女の子4人には『私ときどきレッサーパンダ』のメイ達のように個性がある(って当たり前だけど、以前にはあまりなかったことなので…)。

(しかしこの映画にも手を使えなくなる状況が出てくるのだった。このあたりにはデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンがロサンゼルス暴動を題材にした『マイ・サンシャイン』(2017)もふと思い出した、序盤に立ち寄るスーパーの感じが似ていた)

リンダの母ポレットに一目惚れしたジャン=ミシェルが「鶏を絞めるならおふくろのところに行こう、得意なんだ、田舎暮らしを懐かしむさ」と行ってみれば全然やったことなどなく「絞めていたのは父親だよ」と言われるなんてのも面白い(ものを知らない彼のことを馬鹿にするわけではなく目線は優しい)。リンダよりも主人公然としている母ポレットは娘にビンタするような親である(それには原因があるとも考えられる)。姉に上目遣いでずいぶんな頼み事をする妹でもある。人は相手によって人が変わる。

ジャン=ミシェルの実家に入ったアネット(だったかな?)いわく「面白い家、うちと似てるけど違う」。集合住宅を舞台とする実写映画でこのことをセリフなしで表す作品もあるけれど、アニメーションなので分かりやすくしたのかなと考えた。同じ入れ物でも中身は全然違うのだと。ここではそれらを抱えた団地自体が巨大な生物にも見え、漏水はその涙のようだ。冒頭リンダが母に暴力を振るわれると、窓から見ていた子どもらはリンダが殴られたよ、ビンタされたよ、何をしたのかなと伝え合う。根底で繋がっている。終盤、チキンを食べたい!とのリンダを先頭とする行進に参加する子らが「口」だけで表現されるのにもしびれた。私がアニメーションを苦手な理由は、画面の中の全てが誰かの手で作られたのだと意識してしまうからなんだけど、こういう作品だと、そのラフさ…と言ってもいいだろうか、粗く感じられる見た目に安心して入り込むことができる。

アイアンクロー


アメリカによるモスクワオリンピックのボイコット宣言をリビングのテレビで見る一家。四男ケリー(ジェレミー・アレン・ホワイト)の五輪出場の夢は潰える。父フリッツ(ホルト・マッキャラニー)は後に「世界はおれたちの夢を壊しにかかる」と言うが、大きな家父長制に守られない(あるいは、そう思っている)小さな家父長制、その齟齬というようなものを感じ、『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』(2019)が脳裏に浮かんだ(そのせいか始めハリス・ディキンソンをジョージ・マッケイと勘違いしながら見ていた)。

終盤リック・フレアーがテレビの中で「このスーツは8万ドル、こんな(司会者の服を指し)安物着てられないぜ、おれはスターだ、リムジンの脇で女が列を作って待ってる」とふかした試合で次男ケビン(ザック・エフロン)にとんでもない目に遭わされるも「飲みに行かないか?ホリデーインにいるから」と帰るところで映画に違う風が吹く。リムジンは?女は?プロレスってそういうものなのかと思う(無知だけど、この作品の中では)。彼は先のマイク芸の後半「ここからはつまらない現実だ」と話していた。多くの男は「男」を演じてもいるが、ケビン達の「男」は自身から剥がれることがなかった。序盤の収録で彼がとちりまくるのも無理はない。

義足を付けて歩く痛みに一人ファック!と叫ぶケリーだが、リングでの練習では耐えに耐える。本気の相手を頼まれたケビンは「痛みは隠せないぞ」と言うが、彼らの痛みの行き場はない。そんな二人を背に五男マイク(スタンリー・シモンズ)は森の中へ消える、better placeへ行くと書き残して。後にケリーが向かった、ここよりいいに決まっている場所にはただ兄弟がいるだけだった、兄弟しか知らないから。ケビンがパム(リリー・ジェームズ)から受けたハグのような身体接触も経験がないから。両親もいない。それが彼らの安息なのだ。

映画は父フリッツと母ドリス(モーラ・ティアニー)を「悪役」として描いてはいない。作中最初に登場する朝の食卓はにぎやかながら体を大きくするのが第一の目的、家族内の確固たる役割とランキングもあり安らげるものではない。卵にベーコンをせっせと焼いていたドリスは映画の終わりには食卓の脇で遠い昔から久しぶりに絵を描いている。まさかフリッツの方も音楽を再開したりはしなかったろうが、しかしあの二人は二人でそれなりに、あの後「普通」の食卓を持ったんじゃないか、それは悪くないと想像した。

石炭の値打ち

1977年にBBCのドラマシリーズ「Play For Today」で二週に渡って放送されたバリー・ハインズ脚本、ケン・ローチ監督作品を、特集上映「サム・フリークス Vol.27」にて観賞。「ケン・ローチ、トニー・ガーネット、また彼らの脚本家たちも、労働党労働組合が労働者たちにやろうとしていることについて何らの幻想も抱いていなかった。(略)バリー・ハインズが二部作として書いた『石炭の値段』は、労働運動の英雄として鉱山労働者たちを擁護していたが、そのメッセージは、「エリザベス女王在位二十五周年を記念する」祝賀年のなかで十分に聞き入れられなかった」との『ケン・ローチ 映画作家が自身を語る』の(グレアム・フラーの)文章の意味が、ようやく僅かながら理解できた。


朝には家の畑から「バラ」を切ってくるシド(ボビー・ナット)は、炭鉱入口の看板に書かれたラテン語を読んで仲間に不思議がられる。「息子のトミーが学校で習ったから」「そんなに頭がいいのに坑夫になったのか」「今は他に仕事もないしな」。前日『パスト ライブス』を見た私としては、ユ・テオの両親は70年代に坑夫と看護師としてドイツに渡った、貧しかった当時の韓国では大学を出た者も炭鉱労働者と偽ってまで渡独したものだという話が頭に浮かびもしたけれど、ここはここ、予期せぬ雨のなか傘でない傘で帰る大変ローチらしい場面にも表れているが、土地の者みなが炭鉱の人間であるという特徴を強く受け止めた。一部二部ともに、作品の終わりには撮影に協力してくれた鉱山労働者と家族への謝辞がある(一部ラストの子ども達は、何を言われてどのような認識で参加したんだろう?)。

第一部は皇太子の視察を控えてのドタバタコメディの様相だが、まずは冒頭に描かれた会議が参加した労働者の意見を聞くものではなく上位下達であったことのおかしさが訴えられる。うちなら通るからと甘く見られて選ばれたんだ、あっちならそうはいかないとのシドの言葉に仲間はあっちの上層部は共産主義者だからと偏見を述べる。間に合わせに草木を植えたり白いペンキを塗ったりと本来の仕事ではない作業に追われる坑夫たち。草が生えて来たか這いつくばって確認する経営陣をダチョウかよと笑っていたのが、第二部で坑道を膝をついてゆく仲間達の姿の後には違う意味を持って蘇る。

お金ももらえれば結果的に自分達の環境も向上するんだからいいじゃないかという意見に作品は異を唱え続ける。坑道内で皇太子がおしっこしたくなったら我慢してもらうしかない、すなわち、おれたちはその辺で用を足すが、トイレがないということが、全てがそもそも変なのだと。釣りに行きたがる息子にシドが言う「皇太子が釣りをしたいとなれば皆が魚を用意する、土地の者が行っても釣れるか分からない、本来その魚は土地の皆のものなのに」を受けてのラストシーンが鮮烈。

第二部で崩落事故について話す坑夫の「人命より石炭に価値を置く悪しき伝統」に、『1945年の精神(The Spirit of '45)』(2013)でも同じような言葉を聞いたなと思い出し帰宅後に見てみた。

1945年の精神 (THE SPIRIT OF '45) [DVD]

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  • クレメント・アトリー(当時の労働党党首、首相)
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このドキュメンタリーでそう語られるのは第二次世界大戦前の炭鉱についてである。落盤を防いでも賃金は出ない(だから誰もそんな仕事はしない)、仲間は死んだ、鉱山所有者は皆暴君だった、王族もいたと。しかし鉱山国有化の後も思ったようではなかった、システムは中央集権的で石炭庁による経営は民間と同じく上位下達、労働者の意見を聞くなどという考えは無かったと話が続く。本作の第一部でシドが訴えることと同じだ。しかも何十年後でも人命は軽視されているときた。

第二部を見ながら思い出していたのはローチのこの(彼の思想からして当たり前の)言葉。

(『ケス』の主人公ビリーについて)映画を見た人々は「彼は動物園で仕事を得ることができなかったのかい?」ということを私たちに言ったが、それは完全に論点を見落としている。なぜなら、もし単純労働として利用されるのがビリーでないなら、そうした境遇にいるほかの誰かになるからだ。世界はそうした任務を満たすために、彼や彼のような人々を必要としているんだ。(グレアム・フラー『ケン・ローチ 映画作家が自身を語る』)

これは崩落事故に遭った(一応の主人公である)シドに助かってほしいと願いながら見るものじゃない、そう願えないことに憤りながら見るものだ。そのままである限り誰かが死ぬんだから。第一部では滑稽に見えた白い窓枠や明るい花が、第二部では炭鉱の人々と決してそうならない人間との境界、それが放って置かれていることを表しているようであまりに空しく映った。

パスト ライブス 再会


「移民でカナダに来た時は泣いてばかりだったけどそのうち泣くのをやめた、誰も私に関心なんてないと分かったから」に、冒頭の「24年前」にナヨン(英語名ノラ、長じてグレタ・リー)が泣いていたのはヘソン(長じてユ・テオ)が気にしてくれていたからなのかと私が泣いてしまった。その優しさの記憶こそが彼女の内にずっとあった「韓国」なのだ。

この映画ではノラを韓国へ連れ戻す力と彼女がそれに抗う力とが拮抗している、静かながらもずっと。風に吹かれてマンハッタンへ到着した時には気づかずとも、彼女の中には常に韓国(あるいはソウル)がある。それをくれたヘソンと再び繋がった彼女が通話のために自室に戻る足取り、話すさまは12歳の頃のようだ。しかしその後、移民の理由を問うたヘソンの母に「何かを捨てれば何かが手に入る」と返した母と同じく、ノラも何者かになるためにいわば後ろ髪を断ち切る。再会時の「私達はもう大人」「あの時の少女は20年近く前にあなたの元に置いてきた」などは、口にすることで効力を発揮する類の言葉だ。

「彼といると自分が韓国人らしくないと感じる、いやむしろそれが私が韓国人ってことなのかも」とは言い得て妙。兵役の昼食時に初恋の人を思い出し、同居の母に二日酔いの翌朝もやしスープを作ってもらい、男同士飲み屋でくだを巻き、ソファの前の床に座る、そしてご飯食べた?と尋ねる(もしやと持参してもいる!)ヘソンは「古きよき」(ノラいわく「男らしい」)韓国そのものである。どうして泣くの?と登場する彼には彼女にとって自分が何か分からなかったかもしれないが、再会の二日間で、彼女は何者か、自分は何者かが分かったはずだ。

映画の終わりにノラが階段を上る姿は、自分の道を自分で決めることの表れだ。しかし、あの日少女の彼女が階段を上った先にいたのが今の夫であるアーサー(ジョン・マガロ)なのだと互いに分かっていても、彼のような立場の者は、「初恋の人」が現れようと現れまいと、自分は相手のimmigrant dreamにふさわしいかと自問することになる。そうした幾つものどうしようもなさが優しい目線で描かれている。二人のラストシーンは、ノラにとっては泣ける相手が、アーサーにとっては自分の前で泣いてくれる相手がいるということだろう。彼女の「韓国」にあったものは異国の地にもあった。

成功したオタク


「自分と同じような人が大勢いると知って安心した」とのオ・セヨン監督の言葉にそうか、そういう繋がりって大事だよねと見始める。彼女は自分と同じような人…「推し」に性犯罪者になられてしまった人、変な日本語だな…のことを친구=友達と言う(同じ意味とされる言葉でも文化によって意味や重みが違うからだろう、字幕には1割程度しか反映されていない)。친구以外は殆ど出てこず、彼女自身の心もほぼ決まっており(こんなに作り手の嘆息を聞く映画ってない・笑)確認作業を見ているようで違和感を覚えた。「彼もただの男だったのか」という、それだけ聞いたら何とも俗な言葉も出てくるが、実際これは「男性問題」なので、もう少し色んな視点が欲しかった。

「성덕(「成功したオタク」の略語、原題)」と同じ名前のお寺に来たよ!なんて身軽さゆえ、同世代である若い女性達の顔(性犯罪の加害者である「推し」と擁護するファンを強く非難する一人を除く)や声が引き出せたのだろう、トークの場面は活き活きした魅力に満ちている。「素面じゃ話せない」(というのにも、そういうものなのかと思う)のでヨーグルトマッコリを作るくだりの、スーパーでの「プレーン(ヨーグルト)は味がない」という会話がやけに心に残った。

チョン・ジュニョンを加害者と報道した記者に憤ったことを日記で思い出した監督は彼女に連絡を取る。친구ではない相手と向かいあうことで話が進む。似たようなものだと指摘されて向かったパク・クネの支持者の集会に出向くくだりには世界が広がった感を受けるが、ハガキ、書くんだ?と驚いてしまった。そんな、自分の信念と異なる、誰かに、社会に影響を与える行動ができるのかと。

最後に登場する、実は친구であった監督の母親の話に私が笑ってしまった(満席に近い場内にも笑いがあふれていた)のはなぜだろう。チョン・ジュニョンにつき「彼はガリガリだからもう一人の方がいい、親だから、婿にするならという目で見てしまう」なんて、ああいう気楽さの表出は時に私達を悲惨な現実から救ってくれるものだろうか。何も長続きしなかったあなたが推し活は続いたんだから、と母に言われた彼女は推し活のよい面に目を向け、よき推し活のために何が必要か考える。しかしこんなにきれいにまとまってしまうなら、一人のオタクを描く劇映画(フィクション)の方が私は見たかったかな。

RHEINGOLD ラインゴールド


「ママは父親代わり(Mama war der Mann im Haus)」にはママはママじゃいけないのかと思うけれど、ジワ・ハジャビはカター(長じてエミリオ・サクラヤ)にとっては、フセインの弾圧下では子らに歌を教える先生となり銃を手に戦士となり(と伝え聞く…当時彼はお腹の中だから)辿り着いたドイツでは這いつくばって働き教育費を払ってくれた母親ラサル(モナ・ピルザダ)だけが親だったのである、ピアノを与えてくれその名声で一家をフランスに渡らせることのできた父エグバル(カルド・ラザーディ)でも、食事をふるまいクルド人犯罪ファミリーに迎えてくれた「イェロおじさん」(ウグル・ユーセル)でもなく(カターには人殺しができない)。あれだけもらった紙幣を一枚もよこさない父に出て行かれた後、ポルノのコピーで稼いだ金を母親に渡すも目の前で破かれた時、作中初めてジワからラップが流れ出る。男社会で女達のために金を稼ごうとするもうまくいかない、というのが始まりだ。

シスター・エヴァ本人が演じるエヴァに「悪い意味でやばいけど、いい、リアルだから」と言うように、カターにとってはリアルなことに価値がある。確かにあの「本物」のMVの魅力は他になく心躍らせる。アキンによるドキュメンタリー『クロッシング・ザ・ブリッジ サウンド・オブ・イスタンブール』(2005)ではイスタンブールで生まれ育ったヒップホップミュージシャン達が「ギャングなんてアメリカにしかいない、おれ達はあんなことは歌わない」「歌やダンスでドラッグの誘惑から逃れてほしい」などと話しており心に残ったものだけど、人生によって…この場合、転々とするかしないかによって…リアルが違う。またイスタンブールの彼らは「女を歌うのは遊び」と言っていたものだけど、カターの場合は刑務所で彼女のpussyは…と作詞しているところへ母親の幻が現れて諭してくれるのだった、女で歌詞を遊ぶなと。これには全く「男の子」だなと思うけども。

(ちなみに作中おじさんの家のテレビに『クロッシング・ザ・ブリッジ』より歌うミュゼイイェン・セナーとサズを弾くオルハン・ゲンジェバイが映る。同作のクライマックスと言える部分を担っているディーバ、セゼン・アクスのMVも流れるが、彼女を見聞きしているおじさんがトルコ人クルド人の女を店に入れるな、大変なことになるなどと言うのが可笑しい…と思っていたらそれ絡みで人が殺されるのだった)

「ラインゴールド」(ワーグナーの『ラインの黄金』)とは忍び込んだボンのオペラハウスで父が語る「人を不滅にするもの、人が手にしたら二度と離さないもの」。これはカターにとってのそれは何だったかが分かるまで、それを手に入れるまでの物語だが、エピローグとして、生まれて初めての記憶がディズニーランドだという娘に「なぜ犯罪を犯したの」と聞かれた彼が自分の最初の記憶は刑務所だ、犯罪を犯したのは大昔のことだと返す場面(これがこの映画のテーマでしょう)と実在化させた(と彼が語る)黄金のありかが示される。穿った見方をすれば、「葬式を出せるような人々」=おれ以外の世界から少しずつ奪ったものでおれには必要ないものを作ってしまったわけだから洒落が効いている。アキンらしい一定のリズムと凄いスピード、地に足付いた視点と全編に流れるユーモアに魅了され、うっとり見終わった。