私が女になった日


イスラーム映画祭にて観賞。2000年イラン、モフセン・アフマルバフ脚本、マルズィエ・メシュキニ監督作品。舟(の帆)、自転車、飛行機と冒頭の乗り物が次第に大きくなっていくオムニバス映画で、最後に同じ日の出来事と分かるけれども、主人公は明らかに繋がっているので、一編の物語として見た。2話の「あいさつをせんか」の場面など、上映後のトークでも触れられたけれど私も笑ってしまった、過酷な中にユーモアもある。トークの際にオフショットらしき海岸での写真が一枚出たけれど、数名の役者を除き出演者は現地の人達だそうで、映画を見ている間から既に、彼らの「素」も見たいと思わせる。

トークによると「本土よりも解放感のあるリゾート地」だというキシュ島が舞台で、ほぼ全編を通じて海と風が共にある。2話で自転車レースに参加している若い女性アフー(「かもしか」という意味なんだそう)のヒジャーブが、とりわけ彼女のものだけあんまり膨らんでいるのに、こんなヒジャーブを見たのは初めてだと思う。こんなことをしている女性をあまり見ないから。昨年ドイツ映画祭で見た『私はニコ』(2021)でパーカーのフードがヒジャーブに見えたのと通じる衝撃だ。実は1話でも9歳になるハッワのヒジャーブが膨らんでいたのだった、男の子に言いくるめられ取られたものが舟に張られて風を受けて。

1話でハッワが繰り返す「棒の影がなくなったら」に胸が千切れそうになる。観客というか私が受ける強烈なストレスが、2話冒頭のアフーの自転車の疾走でいったん溶けていく。同時に1話で9歳になる娘を「女」にするためだけに存在していた女達の背後にどんな男達がいたかが分かる。3話ではその後に続く何十年もの抑圧の代償に得た金を老女のフーラが一気に遣うももう間に合わないという話だが、彼女が再び買い物に出た隙にポーターの少年達がその「嫁入り道具」で遊びまくるのが楽しい。鍋でリズムを奏でたりお化粧したりドレスを着たり、ちょっとした逸脱がある。

1話における、彼女ら自身の歴史も意思も見えない母や祖母とのやりとり、2話における、黙って抜きつ抜かれつし、時に服を引っ張られ、「あの人、夫が追いかけてきてた」「水があったらちょうだい」と言われたりするだけの他の女達との関係に厳しさを感じたものだけど、映画祭アーカイブの当該ページを読んだら、監督の「自立や社会的地位を確立するために感情的な結びつきを捨てなければならない女性達に焦点を当てた」との言葉が引用されており、意図的な描写だと確認できた。男に抑えつけられているアフーの元から走って遠ざかるしかない最後の視点は、20年経った今ならどうだろう。

辛口ソースのハンス一丁


イスラーム映画祭にて観賞、2013年ドイツ、ブケット・アラクシュ監督作品。トルコ系移民二世のジャーナリスト、ハティジェ・アキュンの自伝小説が元なんだそうで、映画制作から十年以上経った今、作中の皆、いや著者はどうしているだろうと考えた。作中のハティジェが父親の車の助手席に乗るといつも(なぜ他の家族はいないのかという謎は終盤解け、更に彼女は運転席をようやく得る)「幾つになった(=結婚は?)」と言われるという回想シーンで、車内は時代ごとに随分な変化を遂げていたから(始めの方の何年かとその後の何年かじゃ変化の度合が違うだろうけど)。

タルカンが来るの知ってる?」「私がトルコ人だから?」「いや、君の部署の話題だから…」とのやりとりに、同じトルコ系の相手に言われてもイラつく程のストレスの多大さを思う。同時に若干の、私もタルカン聞いてたな、そのくらい有名じゃないと聞かないなんていけないなという後ろめたさを覚える。ちなみにハティジェの部屋のベッド脇に日本画が飾ってあるのは、世界の他の国々も存在していることのアピールだろうか(話がそれるけど前日見た『コール・ジェーン』には、60年代には「ハンガリー」を架空の国だと思うアメリカ人もいたらしいことが描かれていた)。

コメディとの紹介文に惹かれて見たけれど、コメディにしなければ映画として見られないほどきつい話だと言える。従姉の結婚式でのハティジェの「ごめんなさい」には内心、最大級の「お前が言うことない」が出てしまった。「ハンス」に謝る必要はあるけども、それだって父親というか家父長制のせいだ。父親がハティジェのコートの襟元のボタンを留めるのはトルコ人男性に特有のことなのか、そこに娘をいつまでも子どもと思っているとか支配しているとかの含意があるのかと思いながら見ていたら、ドイツ人の「ハンス」もそれをやる、作中の意図がよく分からなかった。話の発端が妹の妊娠というのには、結婚したい、子どもを持ちたい相手とのそれであっても不具合な時期には違いなく、主人公の境遇における避妊など妊娠周辺の意識はどうだったのか(今はどうなのか)を知りたく思った。

コール・ジェーン 女性たちの秘密の電話


ジョイ(エリザベス・バンクス)が受ける人工妊娠中絶施術が、20分まるごとではないけれど長尺で丁寧に描かれるのがよい。『17歳の瞳に映る世界』(Never Rarely Sometimes Always)で印象的だった他の女の手はこの時にはなく、ひとり冷たい枠を握り割れた天井を見つめ震えながら指示に従い時間を耐える。
そして、これ以外のことはおよそ明るい調子で描かれるのがよい。施術後に出来立てのパスタをふるまわれ、寝てから帰ってねと言われる「ジェーン」(Jane Collective)の部屋は、手製のクッキーを持ち帰ることになる、男が女をいないものとする医療関係者理事会の部屋と対照的だ。そこには「苦労のない専業主婦」のままなら触れることのなかった、病院で「(流産したいなら)階段から落ちればいい」、銀行で「(夫の口座から偽のサインでお金を引き出すのに)行員に見られてるから早く」と声をかけてくる仲間の女達との繋がりを源流とした、力強く変化もし続ける連帯がある。後に設けられる無料枠にどの依頼者を適用するかの話し合いなど、レイプされた子だ、11歳の子だ、立ち退きを迫られてるシングルマザーだ、論文を書いた人だ、なんて言い合いが笑いを誘うんだから見事な塩梅だ。

「法律は守る、抜け道を探さない、嘘をつかない」を信条とする夫ウィル(クリス・メッシーナ)にはジョイのことを救えない。法律は常にある種の人々を取りこぼすから、守ってばかりじゃいられないし変えていかねばならない。善人にも分からない者が多いからこそその必要がある。医者の帰りの車内での「ぼくがなんとかするよ」(1秒ごとに子ども、育ってるんだけど!)、流産を明かした食卓での「男はそれこそ医学を勉強するけど女は家庭科とか」「私は家庭科が好き」「私もよ、でもそれは別の問題」との母娘のやりとりを受けての「女性は何にでもなれる」(妻が学んだスキル、無給で使ってるんだけど!)なんて物言いに夫のものの見えなさが表れている。
一方で「ジェーン」が雇っている「医者」のディーン(コーリー・マイケル・スミス)は男の中でもいわば辺境の存在。ジョイと彼、バージニアシガニー・ウィーバー)と彼の酒を前にしての駆け引きにはこれぞ映画の面白さという妙があった。パトカーで訪ねてくる刑事(ジョン・マガロ)との探り合いの末の触れ合いも素晴らしかった。誰もが仮面をつけており、いつどうなるか分からない。

映画はジョイが「夫のためというわけじゃないけど、それもいいかも」と染めている金髪を結いあげ黒いドレスで装い妻として出席した新規経営者のパーティに始まり、皆で勝ち取ったロー対ウェイド判決への喜びに自宅を開放しての、活動の総括と今後への決意の集会に終わる。「これがなくなることが目標」という中で実際なくなったものはまだ少ないはずだけど、これはいったんはそうなったのである、いったんは。この映画を笑って見られるよう、私達は世界を担っていかなきゃならない。

12日の殺人


実話を元にした本作は男ばかりの警察内の部署(女が数名いるのが余計に「男ばかり」と思わせる)に始まる。新班長のヨアン(バスティアン・ブイヨン)が殺人現場で入手した電話に掛けてきたナニー(ポーリン・シリーズ)に被害者の名前を聞いたり訪ねた家で母親に中に入れてくれと言ったりするのに、男のやり方ってこうなのかと思う。警察には男が多く殺されるのは女が多く家にいるのも女が多いわけなので、こうした描写は紋切型ではなく「実際」を表しているんだろう。中盤ヨアンがナニーの職場を訪ねると中でエプロン姿の女達が働き外を制服姿の男達が行くのもそうだ。

観客の何割かが、ナニーはなぜ殺されたクララの交友関係、端的に言って「どの男とセックスしていたか」を言わないのかと思うだろう。捜査が進まないじゃないかと。しかし先の場面でそれこそがナニーの最も強い意思表示なのだと分かる。「有用な言動」に苦痛が伴うことこそ弱者の立場の特徴なのだと。セックスしていた男が殺したのかそうでない男が殺したのか分からない、どちらも「よくある」が、どちらにせよ話すことが捜査の役に立つと人は軽々しく言うだろう、その酷さや無知をこの映画は訴えている。

「(聴取した男につき)『チョロい』女と言ってたか?」「『物分かりのいい』女だ」「それは意味が違う」(原語が分かればこのやりとりがよりしっかり掴めるのだろう)。フランス語の教師になりたい、言葉の力を教えたいと語るベテラン刑事のマルソー(ブーリ・ランネール)が男達に「生きながら焼死した」、あるいは燃やしてやるとのラップを言わせるのはSNSに書き込んでいる女性憎悪を他者の面前で口にできるかという問いと同じだが、平気で出来る男がいる。だから彼は人のいない山へと向かうのだ、この社会での数十年に疲れ果てて。

「火をつけるのは男ばかり」、事件の捜査の後には「原因は男と女の間の溝、全ての男が犯人」と理解したヨアンはそうした社会の中でトラックをぐるぐる回り続けることしかできないが、やがてその溝を認識することと溝に目を向けず頑張ることとを両立させている女性達の存在に思いを新たに、マルソーの言葉にも後押しされ公道に出て走り出す。男性目線で男性問題を大変誠実に描いている。

部署には「若い」メンバーもいる。残業代に触れて呆れられるウィリーは調書の内容を口に出しながら入力しヨアンに咎められる(このことは振り返ると先のマルソーの言動に少し繋がる)。彼の「一緒にいると楽しいから彼女と結婚したい」に先輩らは「やめておけ」「ガキは結婚できないぞ」「女遊びはばれてるのか」などと言い立てる。このミソジニー。「女の子」だった頃、時に…というのは何十回に一度のことだけど…街でつきまといなどされると制服の男性に助けを求めることがあり、今なお自分の中にあるその矛盾の体感を掘り返しつつ見ていたら、やはり新人のナタリー(カミラ・ラザフォード)がそのことを変だと口に出す。はっきり言わないと分からない人には分からないだろう、そうするしかないやり方に矛盾と苦痛が伴う場合があるということが。

春休みの記録

春休みの4日間を釜山にて。船で一泊したいと予約していた関釜フェリーから三日前に運休のお知らせが来たので、応援に乗ってみたかったエアロKで清州へ、そこからKTXで釜山へ。機内で飲んだボナンザコーヒーのエアロブレンドの美味しかったこと。今回の滞在では、釜山で飲んだコーヒー全てが美味しく感動した。西面のホテルをチェックアウト後の締めに寄ったOFF COURSEもコーヒー、ケーキ、眺め全てが最高だった。

ホテル近くのCGV西面サムジョンタワーで、公開中の『破墓』を見る。韓国語が聞き取れないのとあちこち出かけての夜中の回でぼーっとしていたのとでよく分からなかったので再見したい。王道のお仕事ホラーながら事象の一つ一つを丁寧に見せてくるのと、食事シーンに始まって終わることからも分かるように四人の「生」が描かれているのが面白い(キム・ゴウンが「終わって」尚あれを見るのもまた彼女の人生なのだ)。翌日南浦洞を散歩の途中に華國飯店でカンチャジャンを食べたら、通された席の脇に丁度チェ・ミンシクのサインがあり嬉しかった。

今回の滞在では釜山を起点に電車やバスで数時間の所へ出かけることも多く、楽しかったけれど行けない場所があれこれ残った。それらはまた次回……。

アユニ 私の目、愛しい人


イスラーム映画祭にて観賞、2020年シリア=イギリス、ヤスミーン・フッダ監督作品。アサド政権下に行われている強制失踪を世に訴えるドキュメンタリーで、作中では2011年からの被害者の数が10万人とあったけれど上映後のトークによると現在は15万人を超えているのだそう。映画好きなら「シリア」と出てくる作品をこの十数年で何本も見てきただろう、その間ずっと犯罪が、今なお行われているということだ。

携帯電話はIDかつ「殺人を止める道具」であるという話に始まる。反政府派のメディアセンター設立の意図や衣服の中に携帯を隠して録画するやり方の説明がなされる。「命懸けで撮影する人のおかげで世界に伝えることができる」…すなわち世界はこれを知れば殺人を止めると映画の中の人々は言うが、今、止められていない。募金や不買をするだけの私はどうだと思うけれども、上映後の専門家も専門家の山崎やよい氏の話に何と言うか自分も世界の一部である確信を得た。この映画祭の前説、映画自体、トークの全てがメディアなんだと思う(前説内の映画祭における金銭事情だってそう、話してくれた方がいい)。

シリア有数のプログラマーであるパレスチナ系シリア人のバーセル・サファディは「包囲中の家の中で知り合った」ヌーラと愛し合い「彼女がいるから活動できる」と語っていた。婚約パーティの時の「町を歩いてきたから髪も靴もどろどろ」なインタビューでは、二人が顔をあまりにくっつけているためアップになるとスクリーンが二人でいっぱいになる。イタリア人の著名なパオロ・ダル・オグリオ神父は「シリア人皆に愛されている」「ラッカに来た時なぜあんなに喜んだのかと皆が後悔している」と語られる。

強制失踪を世に訴えるバスに始まるこのドキュメンタリーは、バーセルのパートナーである人権弁護士のヌーラと神父の妹マチを始めとした遺族らの活動やその周辺を私達に伝える。スピーチの際のヌーラの「彼の『どうせ死ぬ』に私はレバノン人だからジョークで返した、どうせあと15年は紛争が続くんだからって」、動画撮影の準備の際のマチの「兄が戻ってきたらただじゃおかない」といった笑いと共に繰り出されるいわば当事者ジョークに、人がジョークを言うのには常に背景と意図があると思う。マチが録画の際は英語の発音に気をつけなければと話すのも心に残った。

ビニールハウス


暗くて何も見えない「いい眺め」の前に座るムンジュン(キム・ソヒョン)の姿に、それまでの積み重ねでその心が伝わってきて、「家」がテーマの韓国映画は数あれど男性の家長が主人公のものが殆どで女性のものは本などでは読むけど映像では見ないな、だからいいなと思った。しかしカーセックスの後ろに回り込むはめになったり見えない人物が「元気に見える」と言ったりという微風程度のユーモア含め、描かれている事象、展開、紛れもない韓国映画である。

ムンジュンが「(自傷行為の治療に)病院に行くお金がなくなったので来た」と話すのに、グループセラピーをこのように位置づける映画もめったにないと思う。ファン・ジョンミンが演じるファシリテーターはいい服を着て人の名は覚えず、ただ完治!完治!と連呼する、まともに機能していないシステムを体現する末端の存在である(韓国の新人監督の映画ではこのように、社会を表す要の役をドラマで馴染みのベテランが演じることが多い)。

仕事で介護に訪れている家のテガン(ヤン・ジェソン)を運転席に、認知症のその妻ファオク(シン・ヨンスク)を後部座席に乗せ、目の見えないテガンにハンドルを握らせ駐車場をぐるぐる飛ばすのは何とも奇妙で面白い構図。映画の始め、少年院の息子はムンジュンの方を見ず、最後にある訴えをする時のみ目を合わせてくるが、彼女が彼の、顔を合わせはしない電話越しの声に一線を超えてしまうのは、テガンが「自分を見ない」からかなと考えた。

人を死なせたムンジュンが、当初ビニールハウスの住まいに受け入れていた少女スンナム(アン・ソヨ)を「警察に言えば」と突き放すようになるのに、主人公に権力や金のない『私の少女』(2014年韓国)みたいだとふと思う。あちらにはまた違う問題が描かれているわけだけど、この映画は、庶民を救うシステムがない社会では自分と家族が死なないために「殺してしまえ」という心に陥ってしまうという話である。ここではムンジュンのそれが周囲に広がり回り回って、最後には全てが無くなる。