ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『正反対の君と僕』身体感覚の言語化による強い共感の話

 先日6巻の発売された『正反対の君と僕』。

 1巻の帯に「真逆な2人の共感ラブコメディ」の惹句があるように、登場人物たちの心理描写、というよりは心理の言語化が巧みで、それが読者を「わっ…分かる~!!」(1巻帯より)という共感の気持ちにさせるのだと思います。
 でも、この作品の言語化のうまさは心理面だけでなく、身体的な感覚でも表れています。
 たとえば6巻の41話、雨に濡れて帰宅した平が独りごちるこのコマ。

(6巻 p24)
 「ほかほか感」ががどうであるとは明言していませんが、濡れた服を着替えた後に、眠たげな顔で「ほかほか」という牧歌的なワードを使っていることから、そこに快の感情があることが読み取れます。
 多くの人が感じたことがあるであろうこの、冷えた身体が暖かい部屋で乾いた服に包まれたときのホッとする感覚。
 こういうのをサラッと描くと、読んだ人もその感覚を思い出し、「わっ…分かる~!!」になるのです。
 
 それ以外にも、3巻では雨の日の家の中の楽しさや

(3巻 p32)
 雨上がりの秋の風の心地よさに言葉を与えています。

(3巻 p48)
 家の中で落ち着ているときに外で強く降る雨が妙に心躍らせたり、空気を変える秋風に季節を感じたりと、あえて言葉にしなくとも心が動いた記憶がある人も多いのではないでしょうか。

 また2巻では、鈴木が雨上がりの匂いのかぐわしさに喜びつつ

(2巻 p12)
 それを谷と共有できたことで恋心をときめかせているという合わせ技も見せています。

(2巻 p29)
 ここでは、コンビニ前で鈴木が「雨上がりのいいにおい」を感じ取ったときは、そこに居合わせた山田がまったく共感しなかったという前振りがあったので、谷が自発的に「雨上がりのにおい」を「好き」と言ったことが鈴木のハートにより火を着けるのです。
 余談ですが、私も鈴木や谷同様「雨上がりのいいにおい」が大好きなのですが、友人に一人はまるでそこに同意がなく、私が鈴木のような状態に陥ったことが少なからずあります。万人が好きなにおいだと思っていたので、友人のそんな反応はとても意外だったし、全然好きじゃない人もいるんだ!と衝撃でもあったのですが、だからこそ初めてこの話を読んだとき、鈴木や谷が雨上がりのにおいを好きだと言ったことに「同志よ!」と握手を求めそうになりました。「わっ…分かる~!!」となりました。山田に「この無粋な人間が!!」と思いました(なもんだから、私の友人なんかはこの話を読んでも、鈴木や谷に共感が薄くなるのかもしれませんが)。

 たしかに感じてもやもやしているけどまだ言葉にできていない感情に、適切な言葉が与えられているのを見ると、「それっ!」と膝を叩いていっぺんに共感しちゃいますが、感情だけでなく、身体的な感覚でも、なんか好きとかなんか嫌いとか、ぼんやりと感じていたものが言葉で適切な輪郭を与えられると、やっぱり共感しちゃって「好きっ!」てなりますよね。
 言語化による共感て、強いですよ。『正反対の君と僕』はそこが強い。

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『葬送のフリーレン』雪山手ぶら一人旅で気づいた、アニメと漫画で違う想像の余地の話

 面白いぞ『葬送のフリーレン』アニメ。

 ケルティックなBGMがマッチしているのが意外で、20~30年前にちょっとケルトミュージックブームが起こったのを思い出しました。エンヤとか。

 それはそれとして、アニメを見ていて気になったこと、より正確には、漫画を読んでいて少し気になっていたけどアニメになって明確に意識したことがありまして、それは、フリーレンたちの旅装です。いくらなんでも軽装すぎやせんかと。
 それがもっとも意識されたのは17話のザインとの別れのシーンで、フリーレンらと別れたザインはまだ雪の残る山道を、着の身着のまま手ぶらのままで一人旅立ったのです。
 冬 山 を 舐 め る な 。
 女神の加護も甚だしいのですが、でもこれは原作通りなんですよね。

葬送のフリーレン 4巻 p150

 冬 山 を 舐 め る な 。

 もちろんフリーレンたちも負けず劣らずの軽装で(三人で荷物はフリーレンの持つ鞄とシュタルクの担ぐ斧だけ)、まあこの軽装の理由が〈荷物を異空間に収納する魔法〉でも女神の加護でも作画コストの軽減でもなんでもいいのですが、それ自体は作品の魅力を減じるものではありません。旅のリアリティがなければいけない作品ではないですから。

 しかし、漫画ではさほど気にならなかったことが、なぜアニメになって強く意識されたのか。
 思うにそれは、静止画(漫画)と動画(アニメ)の違いなのではないでしょうか。
 漫画はコマとコマが非連続的に描かれる、すなわち一枚の絵ごとに時間が経過しているので、その時間的・空間的隙間は読む側が想像で補っています。絵ごとの時間経過はシーンにより異なり、1コマ移動するだけで何時間も何日も経つようなケースもあれば、ほんの一呼吸分のケースもあります。

葬送のフリーレン 4巻 p110

 このコマ群では、コマの間の時間経過は会話の間合い程度ですが

葬送のフリーレン 4巻 p103

 このコマ群では、数時間、あるいは日付が変わっています。でも、それを読んでて不自然には感じない。このように読み手は、描かれていない時間経過を、無意識の裡に調整しながら埋めています。いわば、読み手にとっての主観的な時間が流れているのです。

 で、その時間経過を埋める想像は、すべてを詳細に設定するわけではありません。たとえば上のp110のコマ群では、修行と日常のほんのワンカットを描いているだけなので、その間に何をしているのかを補完するには自由度が高すぎます。ですので、「なにか他の修行をしたり生活を送ったりしているのだろう」と漠然と思い(もちろん詳細な想像を膨らませてもいいのですが)、自分なりに不自然にならない何かがあるのだと考えるのです。
 この「自分なりに不自然にならない何か」がキモで、旅の道中で異常なほどに軽装なフリーレンらを見ても、無意識の裡にそれを異常と感じさせない想像が働いて、旅を舐めてる軽装をなんとなく見過ごせてしまうのです。

 でも、動画のアニメですと事情が変わってきます。現に動き、音声が流れる、すなわち客観的な時間が流れているアニメだと、少なくともひとつながりのワンシーンの中では想像の働く余地が減じる(描かれていることそのものを捉える配分が大きくなる)ので、そこに不自然な描写があったときに、想像による補完をしづらくなるのではないか、と思うのです。その所作や振る舞いに、リアリティ、現実味、実際に起こりうるかどうかが気にされやすくなると言ってもいいかもしれません。
 なので、山の雪道を着の身着のまま手ぶらで一人旅する異常男性は、一つのコマの中で描かれるだけでは見過ごしやすいけど、いざ動くと(実際の時間経過の中に放り込まれえると)その異常さが際立ってしまうんですね。

 それと関連した話だと、魔法使い試験に臨むラヴィーネやカンネ、ユーベルなんかの格好も、漫画のグレースケールの静止画だと気にならないけど、色がついて動くアニメだと、お前ら正気かコスプレパーティーじゃねえんだぞってくらい場違いな格好に見えてしまいますね。野山でそんな肌をさらすなよ。藪や蛭が怖いぞ。

 まあそれに文句があるわけでなく、漫画では気にならなかったことがなぜアニメでは気になったのか、というお話でした。人間の想像って、いろいろと自分の都合のいいように働くと思うんですよ。

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楽しさに満ち溢れたラクガキの時間 九井諒子『デイドリーム・アワー』の話

 原作漫画が完結し、アニメもスタートした『ダンジョン飯』。
 そして本日発売されたのが、九井諒子ラクガキ本『ディドリームアワー』。

 『ダンジョン飯』の筆慣らしや、キャラ固めのための習作イラスト、漫画がちょこちょこ、その他デビュー前から描き溜めていたイラストやスケッチなど、九井先生曰くの「私が私のために描いた絵や漫画」です。
 表紙・裏表紙で花散る中で踊るキャラクターたちを見ればわかるように、楽しさに満ち溢れたラクガキ集。九井先生が楽しく絵を描いてるんだなというのが読んでて伝わってくる、伝播性の高い楽しさです。ウキウキしちゃうね。
 
 本は4部構成。
 1部が『ダンジョン飯』のキャラ練習やキャラ固めのために描いたイラスト。
 各種族ごとにまとめたバストアップイラストや、キャラクター間の衣装交換、チェンジリングによる種族変化、髪型変化といった個人イラストもあれば、女性キャラクターの化粧のステップ、朝の支度など、流れのあるイラストもあり。また、一緒に飲んでるチルチャックとナマリなど、本編では絡みのなかったキャラのイラストもあり。
 パーティーのリーダー(ライオス、カブルー、シュロー、ノームのタンス、若かりしセンシが所属していた坑夫団のギリン、カナリア隊のミスルン)がメンバーとどういう距離感で接していたかを表すイラストなんかもあって、なるほど、こういう絵を描くことで自分の中で関係性が練られていくんだな、というのが感じられます。
 まず頭で考えたり具体的に言葉にするのでなく、まず直観的に絵で描いてみて、そこから逆算的にキャラクター性や関係性を言葉にしていく。勝手な想像ですが、そういう漫画の作り方もしている気がします。

 2部は、やはり『ダンジョン飯』の主にラクガキっぽいイラスト。本編に活かすというよりは、気分転換に描いてみた感じの各種イラストです。
 現代の服を着た各キャラや、海で遊ぶちびデフォルメされた各キャラ。ハロウィン絵やサンタコスの絵。魔物着ぐるみを着たマルシル。プレゼント交換をするとしたら各キャラは何を用意するか、そして各々にランダムで配られたプレゼントに対してどういう反応をするか、なんて絵もあります。
 オマケ感というか、お祭り感というか、ビックリ箱感というか、「これを描くと気分転換になるぜ!」という感じの楽し気なイラストばかり。
 拙者現パロ大好き侍、現代の服を着る各キャラの姿にニッコリで候。

 3部は漫画。隊商で働いていた時のライオスや、タンス夫妻に育てられていたカカとキキの子供の頃の一幕、欲を翼獅子に食べられ救出されたばかりのミスルン、お化粧を買いに行く魔法学校時代のファリンとマルシルなどの、各キャラの過去の話もあれば、夏の町を歩いたり夏祭りを楽しむセンシとイヅツミや、お好み焼き屋に行くライオス・カブルー・シュロー、現代料理に舌鼓を打つカナリア隊などの現パロもあります。
 1~2ページの短い紙幅できちんと抑揚がついた漫画として仕上がっていて、各キャラもよく立っている。読むと、キャラ立ちに必要なのは説明のための言葉ではないのだなとよくわかりますね。表情や仕草、態度でいかに説明的な台詞を省けるかで、漫画ってのはすごく読みやすくなるんだなと。

 4部はデビュー前からデビュー直後まで個人サイト上で公開していた各種イラストです。水彩風の人物画もあればファンタジーなデフォルメ絵もあり、漫画もあり、なぜか料理の手順のイラストもありとごった煮。
 カラーで描かれてる幻想的な風景画のドチャクソなうまさに腰が抜けました。原画が欲しい。

 特に1部のイラストを見てて不思議な気分になってくるのが、ノームやドワーフ、あるいはオーガやオークなどの魅力。頭身が低くて肉付きが良くて、私たちの思う一般的な人間(トールマン)とは明らかに違う身体つきで描かれながら、そこにたしかに彼女らの種族としてのかわいらしさを感じられることです。
 (トールマンと違うという意味で)デフォルメの効いた、ろうたげなかわいさではなく、その種族内での成長した姿として描かれた上で、かわいさ、美しさがあります。トールマン基準の美しさ(等身や体の凹凸など)を各種族に当てはめた評価ではなく、その種族特有の体型から感じられるバランスの良さ。
 2巻のおまけ漫画でライオスがオークの女たちの美しさについて、人間と「基準はそんなに違わない」と言っていますが、鼻筋とか目の大きさとか乳房や尻の形とかについて、それがオーク内での美しさの基準になるという意味で、人間の美しさの基準をそのままオークに当てはめている(美しいオークは人間と同じ美しさを持っている)わけではないと思うんですよね。
 その意味で、なんか『異種族レビューアズ』を連想しちゃいましたね。フラットな視点で見れば、どの種族もその種族としての魅力があるんだなと(『異種族レビュアーズ』は単にフラットではなく、徹頭徹尾スケベという意味でのフラットですが)。

 ちなみに私の一番好きなイラストは、1部に掲載のイラスト番号042(45ページ)の踊るマルシル。微妙にダサいダンスを実に楽し気に踊るマルシルが実に楽しそうで本当に楽しそうで、もう最の高。


 ノリノリの表情もそうなんですが、指先の開きや手首の反り、膝の折れ、首の傾きなど、各部位の描写と全身の絶妙なバランスがあいまって、緻密に描かれているわけではないのに身体が躍動に溢れているんです。もちろんマルシルの体は服に隠れているんですが、その下の筋肉は正確無比の配置でイメージされているんだろうなと思ってしまいます。知らんけど。いやでもこの絵の人体のバランスと躍動感は感動的。

 1980円と少々お高い本ではありますが、満足感は半端なじゃないです。一日中見てられる。イラスト自体の魅力もさることながら、そのイラストから感じ取れる(気がする)九井先生の絵の描き方のスタンスであるとか、キャラ立ての考え方とか、そういうのを考えてもどんぶり三杯いけます。
 ファンならずとも、ぜひ紙の書籍で手に入れたい逸品。

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『葬送のフリーレン』「ヒンメルはもういないじゃない」人類と魔族を分かつ死者への思いの話

 正月の暇に飽かして『葬送のフリーレン』第1期を一気視しました。

 特に日常パートは、原作のシンとした雰囲気を活かしている、いいアニメ化ですね。

 ところで、放送以来マッハでオタクどものオモチャと化した断頭台のアウラ様ですが、フリーレンの怒りを買った彼女の言葉といえば、「ヒンメルはもういないじゃない。」。その言葉を聞いたフリーレンは、「やっぱりお前たち魔族は化物だ。容赦なく殺せる。」と殺意をあらわにしました。
 「ヒンメルはもういないじゃない」を聞いたフリーレンの反応から見れば、アウラが当たり前のように言ったこのセリフは、人類と魔族を決定的に分かつ思想の違いなのでしょう。

 「ヒンメルはもういないじゃない。」
 この言葉は、死者を省みないという宣言です。
 存在したことを否定するわけではない。ただ、死んだものはもう存在していないのだから、考慮する必要はない。それが、「化物」である魔族の考え方。
 ヒンメルの死を契機に人間を知ろうと旅に出て、何度となく「ヒンメルならそうしただろうから」と口にするフリーレンにしてみれば、死んだ、もう存在しないものによって自分の生き方を変えたわけですので、それを否定する魔族とは相容れるわけがないのです。

 死者をどう捉えるかということを軸に人間と魔族について改めて読み返してみると、その違いはいたるところにあります。
 人類で言えば上記のようにフリーレンはもとより、その弟子のフェルンも、育ての親であるハイターに救われた恩を返すため、彼が安心して死ねるように「一人で生きていく術を身に付け」、死して後も折に触れ彼を思い出しています。
 アウラ戦の舞台となった地方領主のグラナト伯は、息子をアウラの軍勢に殺されたことを怒りの糧にしながらも、人類の安寧のために魔族からの和平の申し入れを受け容れようとしていました(結局は偽りだったわけですが)。
 そもそも、勇者ヒンメルが勇者として死して後も語り継がれていること自体が、死んだものを忘れないようにする、存在が消えても存在していた意味を残そうとする人間の心性の表れなのです。

 それに対して魔族は、全知のシュラハト曰く「個人主義」。
 リュグナーとリーニエが、先走ってフリーレンを殺そうとした配下のドラートが返り討ちにされたことを悟っても、そこに微塵も憐憫を見せなかったように、仲間の死について、死んだこと以上の意味を見出さない。それによって計画の歯車が狂い、それに苛立ちを覚えたとしても、死んだ者は死んだだけ。いなくなっただけ。いないのだから、それ以上考える必要はない。それが魔族のスタンスです。
 
 また、死という概念から広げて、技術の集積という点でも違いがあります。
 魔族は、基本的なものを除けば各々が一つの魔法をひたすら研鑽し続ける性質を持ちます。そしておそらくそこには、自分の得た知識を同族に教え、魔族全体の能力を高めるという発想がない(マハトが、人類の魔法を研究しているソリテールからそれを教わったり、クヴァールの使うゾルトラークを自らも使うというケースはありますが、魔族の振る舞いを見る限り、それは例外的であるようです)。
 それに対して、人類を殺しに殺した人を殺す魔法ゾルトラークを解析し、自らがそれを使って魔族を殺しているように、過去すなわちもう存在していないものから学んで今に活かしているのが人類です。圧倒的な魔力や体力の差があっても、積みかねた技術や知識で魔族に対抗しているのです。

 人類と魔族を分かつのは、死についての観念ではなく、死んだもの、存在しなくなったものについての観念だというのは示唆的です。
 動物でも、たとえばゾウなどは死んだ仲間を悼み、ゴリラはパートナーの死でうつ病になると言われています。その意味で、たとえ言葉は交わせずとも、魔族より動物の方が人類に近いのかもしれません。
 
 さっそく2期の始まったフリーレンアニメ。最終的にどこまでやってくれるのか、楽しみです。

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『2.5次元の誘惑』コスプレ衣装を作る動機の言語化とその意味の話

 今年のアニメ化も決定している『2.5次元の誘惑』の最新刊。

 19巻で一番好きなコマはこれでした。

(p26)
 ひとり脚が上がりきってないマリ姉ェ……
 アリアの脚だけ筋肉質なのもいいですね。

 閑話休題
 19巻の後半から、夏コミでまゆらになんとかラスタロッテのコスプレをさせようとする話が始まりますが、その中で、各キャラクターに各々のコスプレをする理由、「なんでコスプレをしたいのか」を聞くシーンがあります。いわば動機の言語化。もともと本作では、意識や感覚の言語化をするシーンが何度となく登場しますが、19巻ではそれが顕著に描かれています。
 この148話での動機の言語化もそうですし、そこに至るのはみかりんが「この機会にリリサの『コツを言語化』しておいてもいいんじゃない?」と提案したからです。そして、そのコツの言語化について、非常に端的に描かれています。


「リリサちゃんは衣装作る時何を重要視してるの?」
愛です!!!
「ダメだこりゃあ」
「……強いて言えば そもそもの話になりますけど 着る人が「何でコスプレしたいのか」は大事かなって…
今回で言えばまゆら様が…です それが分かれば「どういう衣装なら着たくなるか」も分かるかもです」
(p96)

 リリサはまず「愛」という非常に抽象的で、それゆえになんの意味もない(他人と共有しようのない)ものをまず「コツ」として提示し、そこから具体的な(他人と共有しうる)要素を挙げています。
 この端的さは「コツの言語化」のコツと言ってもいいほどです。
 すなわち、言語化の要諦とは、抽象的な、あいまいな、解釈の幅が大きすぎる概念を、他者と共有できる具体的な言葉にすることなのです。

 この話では他にも、「抽象的な、あいまいな、解釈の幅が大きすぎる概念を、他者と共有できる具体的な言葉」に落とし込んでいるものがあります。
 わかりやすいところでは、リリサの目指すシルエットを翻訳しているツバキです。


「もっとこう…… ぐっと立つ時にここがワッとなるようにしたいんです」
言語化の努力どこいったんだよ」
「……なるほど
立体になる際にこの肩のカーブが重要になるので もう少し強めのアールが欲しいと仰ってますわ」
ダッソレ!!それだ
(p133)

 なんにもわからんリリサの説明を的確に言語化しているツバキが「わたくし感覚型の通訳の才能もありまして!?」と慄き、ののぴは「その才能はガチで貴重なのでは?」と指摘しますが、ガチで貴重です。なにしろ、他人の感覚を適切にトレースし、さらにその感覚を適切に言語化するという、二重の能力が必要とされますから。どっちも持ってる人は少なく、両方持ってる人はさらに少ない。

 また、リリサのコスプレ衣装を作る能力についても、ののぴは言語化しています。

リリサちゃんの衣装の「キモ」はいくつかあって 2次元を3次元に実装するための常識に囚われない発想とか——
「着る人の気持ち」になれること
そして何より「キャラクターの気持ち」になれること
そのキャラがどんな世界でどういう風に生きているのか そんな領域まで踏み込む「魔法」
リリサちゃんの衣装は—— 着る人を一瞬でそのキャラにさせてくれる まさに「変身アイテム」なんです

(p134,135)

 リリサ自身は自分が作る(目指す)衣装を「まゆら様が思わず着たくなるような…すんげ~衣装」と観念的に表現しますが、それが意味するところの一側面を、ののぴはリリサの作る衣装に袖を通したことがある者として、その実感に基づいた具体的な言葉にしているのです。

 その他、究極ROMが完成した後の打ち上げ@ツバキ別荘で、「コスプレやさん」になりたいと夢を語ったときのリリサは、言語化が大の苦手な彼女がそれでも悩んだ末に見つけた言葉を用いていますし、「コスプレやさん」になるためにエリカや斉藤に相談してはと奥村にアドバイスされたときも、「自分の力で実績を作ってから相談したいな~」と将来に対するロードマップをおぼろげなながら描いています。これも、「コスプレやさん」という形のよく見えない夢に向かって近づく道を具体的に示した、言語化の一種と言えます。

 さらに視点を変えた話をすれば、ファミレスでエリが「社会でのお金の重み」や「プロとしてお金を受け取る大切さ」の例として挙げた『カイジ』や『ラーメン発見伝』は、実社会でもしばしば口の端に上る(それでいて具体的な説明に困る)「社会でのお金の重み」や「プロとしてお金を受け取る大切さ」を、具体的なエピソードで描いている作品です。

(p86)
「金は命より重い」や「「金を払う」とは仕事に責任を負わせること、「金を貰う」とは仕事に責任を負うことだ」などのセリフは誰しもネットのどこかで見たことはあるかと思いますが、これらの言葉は単体で登場したわけではありません。その背後にある物語や一連のセリフ群の中からフックのあるエッセンスとして人口に膾炙しているのですが、これらの作品もまた、解釈の幅が大きい概念を言語化していると言えます。

 ところで、「動機の言語化」といえば『HUNTER×HUNTER』のクロロ=ルシルフルだし、19巻でもユキがパロってますが、彼や彼女はその行為を「好きじゃない」と言います。
 上述のように、「動機(を含む意識や思考、感覚等)の言語化」は、他者とそれを共有するのにとても有用なものではありますが、それは同時に、言語化することによって、それまであいまいだった観念を「言葉」という枠に押し込めることもでもあります。
 言葉とは常に言い足りないか言いすぎてしまうものであり、ある事象と100%、一対一で対応するものは原理的にあり得ません。
 あいまいな言葉で表現するとは、それのより具体的な把握や他人との共有が難しい代わりに、それが何であるかまだ決定していないということでもあります。
 具体的な言葉で表現するとは、具体的な把握や他人との共有が容易になる代わりに、それについて誤った(十分に正しくない)枠を与えてしまうということでもあります。
 もちろん、いったん言葉を与えた観念に再度別の言葉を与え直すことは可能ですが、最初に与えた言葉の印象は拭いがたく、それに引きずられてしまうのは否めず、大きな変更が難しくなります。
 そのため、たとえ暫定的だとしても納得できる言葉が見つからない内は、あいまいなままに、言語化しないままにしておくことも大事だと言えます。大事な観念に納得できない言葉を与えるくらいなら、「好きじゃない」とうそぶいて保留しておくいた方がいいのです。納得はすべてに優先するぜ!

 ということで、動機の言語化の話でした。
 前回の俺マン2023の記事でも書きましたけど、『正反対な君と僕』や『隣のお姉さんが好き』のように、言語化がうまい作品が好きなんですよね。腑に落す力が強い作品。何回か記事書いてる『アオアシ』なんかもそうですね。

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俺の俺マン2023の話

 あけましておめでとうございます。毎年恒例、年の初めの去年の総括です。
 すでに本家の俺マンは企画を休止しているようですが、毎年恒例ですのでそのまま続けていきます。
 勝手に決めた俺ギュレーションは

1,2023年中に発表された、もしくは単行本が出た作品で
2,その中でも特に心をつかまれた作品で
3,5作品
3,今まで選んだことのある作品はなるべく除外する(なるべく)

 となっています。
 それではどうぞ。

ダンジョン飯/九井諒子

 無事去年完結した作品。何はなくとも今年はこれは外せない。
 妹を助けようとダンジョンへ潜るために、持ち込む食材の節約をすべく(その実、昔からモンスター食に興味があったのですが)モンスターを食べるという、連載当時波が来はじめていたグルメ漫画のバリエーションかと思いきや、ギャグも理屈もストーリーの起伏も素晴らしく練りこまれており、終盤に行くとともに、生と死であるとか、欲望であるとかといった人の根源的な部分に踏み入っていく気配に楽しくも慄いていました。なんであの第一話からあんな最終盤につながれるんだ……
 各キャラクターが秘めていた過去が明らかになるにつれ、欲望というテーマとも相まって、暗い気持ちになるような描写も増え、それでいてその緊張を一瞬だけ消し去るギャグもこまめに挟まり、物語のテンポが絶妙。あんなにかわいくて面白いエルフは今後現れないんじゃないだろうか。
 全14巻で完結しましたが、これは全後世に語り継ぐべき作品。アニメも楽しみ。

●正反対な君と僕/阿賀沢紅茶

 陽キャなギャルと、「興味ないね」風なメガネ。パット見テンプレ的なキャラ付けをされそうな二人だけど、その心の中は、当然テンプレに回収されるものではなく、周りに流される自分が嫌だったり、自分にかまってくるギャルにドキドキしたりと、意外なことを考えては自分とは違う相手に惹かれて、自分とは違うからこそ何かの感受性が同じであることに心躍らせて。とかく、人の心は外からではわからないものなのです。
 主人公である陽キャギャル鈴木とクールメガネ谷以外にも、素直なネアカ山田、ノリ軽ギャル東、高校デビュー平といった個性豊かなサブキャラたちがいて、こんなテンプレ紹介には収まらない彼や彼女の内心が丁寧に描かれているのも至極よいですね。
 一言で言いきれない何とも言えない気持ちを表す(あるいは直截的に言うと角が立つので婉曲に不快を表現する)「モヤっとする」。いつの間にやら人口に膾炙するようになったこの超絶便利ワードは、どんな微妙な心の機微も一言で表現できてしまいますが、そのあまりにも広汎に使える便利さゆえにもはや具体的な意味を有さない言葉。でも、本作はその「モヤっとする」感情にきちんと具体的な言葉を補って言語化しようとしているので、強く読み手の「腑に落す」力があります。そこがいい。
 
●令和のダラさん/ともつか治臣 某怪談(2chの怖い話「姦姦蛇螺(かんかんだら)」|恐怖の泉)をベースにした化物と、令和を生きる子供たちとの心温まる交流譚。温まるか?
 山の神として畏れ崇められてきた荒魂・屋跨斑(やまたぎまだら)が、その山の守り人の家系である三十木谷日向・薫のきょうだいと出会い、「ダラさん」などという不敬極まりないあだ名をつけられその神威をメリメリと剝がされていくコメディで、傍若無人なきょうだいとそれに振り回されるダラさんのドタバタが楽しいです。
 でもただのドタバタコメディにとどまらないのが、各話の冒頭に挿入されている、かつて人間だったある女性がいかにして屋跨斑に成り果てたのかという過去の話そ。の凄惨さがダラさんの存在に凄みと悲壮を与えていて、だからこそ、適度な畏敬と適度な雑さで自分に接してくれる三十木谷きょうだいにダラさんの心根が救われているのが、物語に深みを与えているのです。

●隣のお姉さんが好き/藤近小梅

 隣の家の高校生のお姉さんに恋した中学生男子のラブ模様。先月に無事全4巻で完結。
 相手の心を推し量るには幼すぎる男子中学生・佑(たすく)は、初めはストレートに自分の感情をお姉さんに押し付けていたのを、自分の心情や相手の感情を言語化していくことを少しずつ覚えていき、その上で自分の心を再確認していく。
 他人に心を許すのが苦手な女子高生・心愛(しあ)は、初めはただのお隣さんとしか見ていなかった男の子のこっちの気持ちを考えない態度にうんざりしていたけど、鬱屈した自分にはないそのまっすぐな気持ちに少しずつほだされていく。
 大人になれば何でもないけど、中学生と高校生の三歳差はあまりにも大きい。それは、精神的にも、社会的にも。じゃあそれがどうやって詰められていくかというと、時間と成長なわけです。学生時代の三歳差が大人に比べて大きいのと同様、学生時代の一年というのはとても得るものが多い。それは、精神的にも、肉体的にも。男子三日会わざれば刮目して観よ、ではないですが、ふとした瞬間にたーくんの成長に、そして自分の気持ちの変化に気づいた心愛さんのかわいさったらないですね。
 『好きめが』に続き、こちらもワンちゃんアニメ化あるか?いや、コンプラ的にギリか……?

異世界サムライ/齋藤勁吾

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」は『葉隠』が有名ですが、それを地で行くような女侍・月鍔ギンコ。関ヶ原の戦いで死にきれず、徳川の太平の世で強者と戦って死ぬことも許されず、自分の生きる意味に懊悩していた彼女がふとした拍子に飛ばされたのが、魔法とモンスターがはびこる異世界。凶悪なモンスターに人類が脅かされているその世界は、ギンコにとって己の命を賭けるに相応しいものでしたが、そんなギンコの性根は異世界の人間にとって完全な異物でした。
 ある者は彼女の強さに憧れを抱き、自分を助けてくれたことに感謝をし、またある者は世界の秩序を乱すものとして疑惑の目で見、疎んじる。善かれ悪しかれ目立つギンコ。で、当のギンコは、自分の腕を試せるモンスターを相手に惨殺三昧でご満悦。
 全き異物が異世界をどう掻きまわすのか。そして、ギンコの宿願は果たせるのか。血しぶく派手なアクションと、自分の信念に基づき何の罪悪感もなく刀を振るうギンコのせいで、妙な爽やかさのある作品です。現時点で2巻までなので、簡単に追いつけるぞ。

 以上5作品でした。他のノミネート作品としては

◎ギャグ・コメディ部門
となりのフィギュア原型師/丸井まお

 安心して読めるストーリー系4コマ。登場人物であるフィギュア原型師他のエッジの尖り方がいい塩梅で、心に負荷をかけずに楽しめます。
 ギャグでもストーリーでもエッジが効きすぎた作品て、面白いのはわかってても手を延ばすのにガッツがいることがありますが、そういうのが不要な本当にいい塩梅。癒し。

限界煩悩活劇オサム/ゲタバ子

 腐女子高生除霊師オサムが、オタクの霊の話を聞き、知らない分野であれば学び、時には拳でわかり合い、時には自分の煩悩に負けかけたりと、ドタバタハチャメチャしたコメディ。これまた会話運びやシーンのテンポの良い作品。

異世界部門
科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌/KAKERU

織津江大志の異世界クリ娘サバイバル日誌/原作・KAKERU 作画・瀬口たかひろ 前者の連載がスタートし、人気が出たところでサブキャラクターを主人公としたスピンオフがスタートした、同じ世界観の作品。簡単に言えば、R18の『Dr.STONE』です。魔法もチートスキルもなしに、ただ現代知識と技術だけもって亜人やモンスターが跋扈する世界に放り出されたら、その知識と技術でどう生きるか、という話です。まあ現代知識と言っても、両作の主人公は理系の大学に通って一般常識以上の基礎的な科学知識を持っていますし、後者の主人公は一人でも生き抜ける技術満載の古武術の使い手だったりするので、一般人が身一つ、というわけにはいきませんが。
 それはそれとして、とある事情で一定水準以下の科学技術にしなければいけない制約がある中で、主人公たちは水車や製紙や冷蔵庫などを異世界にもたらすのですが、そういう、私たちの身の回りに当たり前にある技術やモノの仕組みや成り立ちを教えてくれるのは、そういうの大好き侍なのでとても楽しいのです。
 R18なのは、前者の作品の主人公・栗結大輔の子供の頃からの夢が「クリーチャー娘のハーレムを作ること」なので、無事(?)クリーチャー娘(略してクリ娘)のいる異世界に飛ばされハーレムを作る、すなわちアッハンウッフンなことをしまくるからです。
 前者に時折ぶっこまれる、フェミニズムに対する強烈な敵意は読んでて消化のいいものではありませんので、そこだけは注意。

◎グルメ部門
ヤンキー君と科学ごはん/岡叶

 料理が「食材に、その特性に応じた科学的成分の付加、温度変化、その他物理的作用等を加え、人間の生体的システムに好感するよう作られたもの」であるならば、これまでの常識とは違っていても、科学的なアプローチによって美味しいものを作れるのではないか。そんなコンセプトの料理漫画です。
 高校を舞台に化学の教師とヤンキー学生が、化学実験のノリで作る料理は難しいものではなく、実際に作ることも容易。たぶん今まで読んだ料理系漫画で、揚げ物に対するハードルを一番下げてくれる気がしました。
 この作品は、料理を科学で、というアプローチで、感覚に理屈を与えているわけですが、「モヤっとした」気持ちに適切な言語を、というアプローチをしている『正反対な君と僕』とある意味で通じるものがあって、私はそういうものが好きなんでしょうね。

◎ホラー部門
怖い話はキくだけで/原作・梨 漫画・景山五月

 ふだんはエッセイ漫画を描いている作者が、編集者を通じて広く募った怖い体験談をもとに漫画を描いていく。初めは「怖い話って関わると本当になっちゃうから」と冗談半分にいうくらいに乗り気でなかったけれど、いろんな人のいろんな話を集めて、聞いて、描いていく、バラバラだったはずのものつながった線が見えてきたり、自分に身に変なことが起こるようになってきたり…という体のモキュメンタリー。
 聞いた話として描かれる怪談は、何かその土地に元々曰くがあったり、怪奇現象が能力者によって解決されるような、起承転結のはっきりしたものではなく、その中の「承転」だけが描かれるような、不条理感漂うもの。怪奇現象を聞き取りする作者は、その投げっぱなしの怖い話を聞いては、すっきりしないものを抱えながら怪談漫画に仕立て上げていくのですが、その不条理さが作者に忍び寄ってくる不穏さが、ぞっとさせてくれます。
 また、作画面でも、線の細い女性向け漫画調の絵と、エッセイ漫画的なデフォルメを利かせた絵が、語られているシーンの水準(作者が怪談を聞いている等の作者自身が描かれているシーンなのか、それとも誰かによって語られた怪談が作者によって漫画化されている(=作者がそこにはいない)シーンなのか)で使い分けられていることで、これは聞いた話を元にした創作物に過ぎないのだ、という体裁を出しつつ、それに過ぎないはずの不可思議な状況に作者が飲み込まれていく感じが出て、とても良いのです。こわいぞ。

 とまあこんな感じの2023年でした。今年もまた面白い漫画に出会えますように。

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『BLACK LAGOON』「信用」と「信頼」の違いと、「頼」るロックの信念の話

 メリークリスマス!!

 閑話休題、先日発売された『BLACK LAGOON』13巻。前巻から2年以上空いていますが、それ以前がよっぽど空いていたので、むしろ早いと思ってしまいますね。不思議不思議。

 さて、そんな13巻では、前巻から始まった〈五本指レ・サンク・ドワ〉編がちょうど終わりました。黒人の大男ばかりを狩るスーツ姿の女五人組、〈五本指〉が起こした事件の中で、ラグーン商会のボスにして知的なタフガイ・ダッチの知られざる過去が仄見えたり、レヴィの意外な面倒見の良さが現れたり、表の世界にシマを広げようとしてるバラライカが苦労したりと、血と硝煙でけぶるロアナプラに、また新たな一面が見えてきました。

 で、そんな事件もケリがつき、〈五本指〉の一人だったルマジュールをロアナプラに引き込んだレヴィ。仲間に見捨てられたルマジュールを生き残らせ、ホテル・モスクワとの和解を仲介し、街での生計や商売道具も見繕ってやるという、普段のガラッパチで刹那的な彼女からは思いもよらない面倒見の良さに、ロックも驚きました。

「随分と彼女の世話を焼くじゃないか。何が気に入った?」
「別に。」
「やっぱり慕われちゃ放っておけないか?」
「……殺しで飯を食ってるからよ。一つ、決めてることがある。
星の廻りで敵味方になるのは運命だが——良くしてくれるやつには良くしてやる。邪険にして無駄に恨まれることはねえ。
正面から撃たれても、背中から撃たれることはねえという—— ちょっとした願い・・だ。」
(13巻 p95,96)

 きったはったの緊張感の中で生きているからこそ、その緊張を緩めて精神を休めさせられる関係性が必要だ。レヴィはそう言うのです。
 彼女のそんな考えにロックは、「孤独じゃないと生きていけないタイプなのかと思ってた」と冗談半分本気半分で軽口をたたきますが、それをレヴィは静かに訂正しました。

何処に居たって孤独は毒だ。
それに――
信用と信頼は似てるが少し違う。頼るのは好かないし、頼られても困る。
(13巻 p97)

 信用と信頼。
 この二つのが違うものであると評するのを私が見たのは、これが二回目です。一度目は、往年のライトノベル無責任艦長タイラー』の中でした。

 C調スペースオペラの優として(ほかに追随した作品があるかは知りませんが)、リブート作品も含め50冊以上、漫画化にアニメ化もされた名作。さすがに30年も前の作品ですので正確にどの巻だったか記憶は定かではないですが、準主人公の一人であるススム・フジが、彼の副長であったミツル・スナガによって、アンドリュー・バーミンガムを紹介されたときのエピソードだったはずです。
 脱法的な輸送任務を依頼するにふさわしい人材として、スナガは悪友であるバーミンガムをススムに紹介するのですが、そのバーミンガムは「ちょろまかしのバーミンガム」とあだ名される、物資横領の常習犯。有能ではあっても遵法意識の極めて低い彼を紹介するときにスナガは、「信頼はしても信用はしない。そんな相手」(大意)と冗談めかして言ったのです。

 信用と信頼の違い。
 当時『タイラー』を読んだ私は、「能力には信をおくが、心根にはおけない」というニュアンスを、幼心に感じ取っていました。
 アウトローな感じ。能力ゆえに素行の悪さが見逃される感じ。悪友同士が軽口をたたき合う気の置けない感じ。そういう諸々もひっくるめてなんかカッケェと思い、いまだに記憶にガッチリ刻み込まれています。

 ですが、レヴィの言わんとしているところは、そんなブロマンス的ハードボイルドさとは違うようです。

「俺はお前を頼るし、頼られたいと思ってる。信頼・・しろよ。」
「おう、信用・・してるよ。」
(13巻 p98)

 ロックの「信頼・・しろよ」という言葉に「信用・・してるよ」と、わざわざ傍点を振って違いを強調して返すのです。ここには、『タイラー』のそれよりだいぶ虚無的で冷血的なものがあるように感じます。
 彼女の言わんとしているところは、まさに「信『用』」と「信『頼』」の違いで、「用いる」というのは自分を主体にして補佐的にあるいはビジネスライクに相手に信を置くこと。それに対して「頼る」というのは、ある場面での主導権を相手に任せた上で信を置くこと。そんな、自分と相手のどちらに主体・主導があるのか、という点に差異があるように思えるのです。
 それはとりもなおさず、このロアナプラという明日をも知れぬ危険な街で、彼女がどう生きてきたか、どう生きていたいかという信念、生き様を表しています。
 一人では生きていけないが、自分や場面の主導権を誰かに握らせてはいけない。「一個きっかり」の命、どうせ死ぬなら後悔しない死に方で、「正面から撃たれ」た方がマシ。
 群れてはいても一匹狼。そんなアウトローの生き方をまざまざと感じさせます。

 レヴィの言葉のの使い分けに、ロックがどう反応をしているのかは描かれていませんが、少なくとも先に「信頼」という言葉を使ったロックは、その言葉を彼女と同様にはとらえていないだろうし、あるいは彼女と同じような信念では生きていない。
 ならばロックの信念は何か。生き方は何か。
 ロベルタ編が終わったときの記事でも書きましたが
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
 端的にロックは、「面白さを求める」という享楽的な信念のために命を張っています。その命は、自分のものもだし、他人のものも。
 その後も各エピソードが描かれるたび、ロックのそのような面は表現されていますが、本エピソードのエピローグでも、張とカジノでルーレットに興じているときの問答で以下のようなものがあります。

「……依頼人に言われた。俺は——誰かの運命の、その行方・・が見たいんだと。」
「裁くのか? 泰山府君の様に。」
「それは俺の柄じゃない。だが、俺が指を添えることで——その人の運命のその先へ、辿り着くことができるかも。」
(13巻 p126,127)

 ロックの望む「面白さ」とは、誰かの運命の行く末。それがどこにいくか。自分が面白いと思えるところに収まるのか。それを見たい。
 ロックは何でも屋のラグーン商会に属する中で様々なトラブルに首を突っ込み、当事者のどちらにも肩入れせず、あるべきところに収めたい。それが彼の「面白さ」。昼でも夜でもない「夕闇」に立ち続けることでロックは、人の運命の行方を砂かぶりで見ようとするのです。
 でもそれは、非常に危うい立ち位置。

こう考えることはないか? 誰かの運命を変えたら――
お前自身も飲み込まれるかもしれん、傍観者ではなく… その当事者・・・になって。
俺は慎重なタチでな。そういう賭けは好ましくない。
(13巻 p128)

 張の忠告とも警告ともつかない言葉ですが、それにもロックは、例の悪い顔で返すのです。

ミスタ・張。そこまで肉薄しなけりゃ――… 誰かの人生のその先は・・・・・・・・・・見えないんですよ・・・・・・・・
(同上)

 彼自身は当事者になりません。あくまで、運命と対峙している誰かに指を添える傍観者。場の主役は相手に任せたまま、複雑な力場にほんの少し力を加えて状況を動かそうとするもの。
 だから彼は人を頼ります。場の主役は自分じゃなくていいから。
 主役なんてくそくらえ。自分はそれを最前列で楽しめる観客でありたい。
 あくまで自分は傍観者でいる。でもそれは当事者のすぐ隣。他人を呑み込む運命のすぐ隣。一歩踏み外せば簡単に奈落へ転落する際であろうと、そこでなければ楽しめないものがあるなら、自分はそこに立つ。
 それがロックの信念なのです。

 「信用」と「信頼」の違いから、ロックの信念にまで話が脱線していきました。おかしいな…タイラーの話をしてるときはこんな風になるとは思ってなかったんだけど……
 とまれ、また一歩ロアナプラのトラブルバスターにして、地獄の舞台のVIPシートギャラリーに近づいたロック。さあ14巻はいつになるかな……

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