ポンコツ山田.com

漫画の話です。

人間よ、モテたければ生物学を学べ! 『あくまでクジャクの話です。』の話

 男らしくないことがコンプレックスの高校教師・久慈は、まさに「男らしくないから」と恋人に振られたばかり。もののはずみでそれが生徒に広まってしまい、デブ・ガリ・オタの三拍子そろった男子生徒らから「恋愛弱者男子を救う会」の顧問になってくれないかと頼まれる。だが、そこに待ったをかけたのは、校内に留まらず名の知られた女生徒・阿加埜だった。生物「学」部の唯一の部員にして部長の彼女が今、恋愛というものをわかっていない世の愚か者たちを生物学でぶん殴っていく……

 ということで、小出もと貴先生の新作、『あくまでクジャクの話です』のレビューです。
 男らしいとか女らしいとか、そういうことを口にすること自体がナンセンス、どころか多様性に理解のない人非人と消し炭になるまで詰られそうなこのご時世。
 だが待ってほしい。生物とはそもそも種の保存を第一の目的に存在しているのではないか。その目的を無視した口触りの良いおためごかしで恋愛弱者どもをごまかしていいのか。恋をしたいなら、遺伝子を残したいなら、恋愛という戦争で生き残りたいなら生物学を学びやがれこの野郎。
 そんな叫びが聞こえてくるようなコメディです。

 第1話1ページ目からNTR現場を目撃する主人公・久慈というショッキングなスタート。寝取られた、というかそもそも「お前の方が浮気相手だ」と言われた久慈は、昔から男らしくないことがコンプレックスの男性。
 浮気した元カノいわく「最初は色白で清潔感あってユニセックスな久慈くんがいいなって思ったけど… 筋肉質で背も高くて野性味もある元彼と久々に出会ったら「ああ…やっぱりこれが本物の男よね」って思っちゃって…」とのこと。
 もう少しこう何というか、手心というか…
 肌が弱いから化粧水での保湿が欠かせず、体毛が薄いのでわき毛もすね毛も生えず、懸垂が一回もできない程度に華奢で、その上で別に美形ではないという、自称「「男としてイケてない」が切実な男」の久慈。男らしくなくたっていいじゃないかと叫びやすいご時世ではありますが、そう叫ぶことと、男らしくない久慈がモテるかどうかは別の話だし、久慈が男らしさに憧れるかどうかも別の話。

 そう、男らしさ女らしさを声高に主張することが、多様性の名のもとに膺懲の一撃を加えられるような振る舞いだとしても、男らしい男、女らしい女を目指すことは個々人の内心の問題だし、男らしい男、女らしい女を好きになることも個々人の内心の問題なのです。

 モテる人間がいてモテない人間がいる。
 モテる人間像に憧れてそうなろうとする。
 それはどちらも当然のこと。生物学に言わせれば。

 モテに悩める久慈や生徒たちを、生物学部部長にして全国でも有数の学力、スポーツや芸術の8つの分野で賞をとり、モデルもしていてミスコン優勝経験もありSNSのフォロワーもワッサワッサな女子生徒・阿加埜が、生物学の教えでありがたくも導いてくださるのが本作なのです。

 男らしい男がモテるのはメディアにそう刷り込まれたからだと主張する。
 同じ男性を好きになった友人とフェアであろうとして、友人を自分と彼のいるグループに入れてあげる。
 自分が良ければいいじゃんとビッチ戦略をとる。
 そんなのはノンノン。生物学から見ればまったくの筋悪です。

 たとえばクジャクを見ろ。あいつらのオスには長くて派手な尾羽がある。そのせいで飛ぶのは苦手だし、目立つせいで外敵に見つかりやすい。生きる上では実際的な意味は何もない。でも、あいつらにはそれがある。進化の果てに、淘汰の末に、長くて派手な尾羽を獲得している。なぜか。それは、あるやつがないやつよりメスにモテたからだ。なぜメスはそれを好むのか。そんなことはわからない。なぜか好むのだ。だが理由なんか関係ない。それを持つオスがなぜかモテたから、それを持たないオスより多くの遺伝子を残せた。その結果、クジャクのオスの尾羽は役にも立たないのに長くて派手になったのだ。
 それこそが性淘汰。生物学の知見の一つなのだ。

 こう説く阿加埜は、「恋愛弱者男子を救う会」を立ち上げようとした、外見や性格に十分な資本が投下されていない男子生徒たちに、「生まれつき外見が悪いだけで… 何も悪いことはしてないのに… 彼女が作れない人生確定何ですか?」と詰め寄られます。まったく、彼らにしてみれば青春の絶望の中で縋った「多様性」という名の蜘蛛の糸をズタズタにされたのですが、阿加野は言うのです。

「(生物学的には)そうだ」

 と。
 「な…なんて冷酷な女だ」と、人生最初のステ振りに失敗した男子生徒たち(と久慈)は慄くのですが、それに続く阿加埜の言葉は一つの真実ではあります。すなわち

いかなる倫理や道徳…正論を振りかざしても 「好き」という感情までは動かすことができない
(p39)

 「倫理や道徳」「正論」というものは、社会の中から生まれてくるものです。それらが、平等で公平で公正な社会を運営するために必要なことは確かです。ですが、人には感情があります。それは「好き」であったり「嫌い」であったり「こうなりたい」という憧れであったり。それらは、社会で身につく後天的な倫理や道徳、正論などを無視するように、ごく個人的なものとして本能の奥底から湧き出てくるのです(もちろん、正論などに沿った形で現れもしますが)。
 そのプリミティブな感情、感情に基づいた行動は、多くの生物で見られ、それらを研究する学問こそが生物学。
 すなわち生物学を学べば生物の本能が分かる。本能の第一義である生殖もわかる。つまり、モテもわかる。だから、モテる! 嗚呼、生物学に栄光あれ!!

 ……といけばいいのですが、あいにくと生物は、まさに「多様」な性質をもつことで単一の理由による滅亡を回避して、種として生き延びてきました。例外的な振舞いをするものが一定数いることで、群れごと崖から飛び降りるレミングスのような事態を防いでいるのです(レミングスのそれは俗説のようですが)。
 ただでさえ、なまじ知性や精神が複雑化してしまった人間、例外の総数やバリエーションは増え、生物学的知見に従わない例は、それがマジョリティにはならずとも、無視できないくらいには存在するのです。
 なものだから、ヒロインである阿加埜も困ってしまうのです。久慈が全然自分になびいてくれないものだから。
 アプローチがどう見てもポンコツな阿加埜も悪いのですが、教師と生徒という社会的身分に囚われている久慈は、いくらグイグイいっても好意を持ってくれないし、過去にあったはずの自分との接点を全然思い出してもくれない。自分が恋愛の当事者になってはどう生物学を適用していいかわからずアタフタ。かわいいね。
 そう、この作品は、生物学の無茶苦茶な理屈で各種問題をバッタバッタとなぎ倒すコメディであり、生物学でモテの講釈を垂れてくださるくせに自分はからっきし、そんなポンコツ阿加埜のラブコメでもあるのです。

 あとは、他人を罵倒する言葉のチョイスも好きなんですよね。
「こんなしょうもない末代男子」だの。
「お前のようなバカ丸出しは淘汰されて当然だ 恋のライバルをグルチャに招くなど「私は世にも珍しい逆NTR好きの女です」と告白してるようなものだ」だの(それに対する「そんなバカな」というのもなんか間抜けで好き)。
「黙って聞いてりゃさっきからファブルみたいな気の抜けた喋り方で下らんことをペラペラと…」だの。
 好き。
 恋愛やモテの問題を滔々と語る生物学でむりやり解決していくその剛腕は、読んでてとっても愉快。8割の笑いと2割の「なくはないかな…?」の思いで楽しく読めちゃいます。
 第一話はこちら。
comic-days.com
 
 ところでこれは最後に言っておかなければいけないことですが。

※この物語はあくまでフィクションです。
作品に登場する生物学用語は実在しますが、その解釈はあくまで作品独自のものです。
(1巻 カバー折り返し)

 用法用量には十分注意してお読みください。あくまでクジャクの話ですから……

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『きのう何食べた?』シロさんの変化と幸せなサプライズの話

 みなさん、今週号のモーニングの『きのう何食べた?』は読みましたか? 読みましたね?

※CATION※
きのう何食べた?』の単行本未収録話のネタバレがあります。ご注意ください。

 前回のお話で、ケンジによるシロさんへのサプライズウェディングパーティーという、考えるだに最悪級の展開が描かれ、顔面蒼白になりながら次のお話を待っていました。これ、別れ話もありうるなと本気で思っていたのですが、あにはからんや、シロさんは意表を突かれながらも怒り狂うわけでなく、むしろケンジの気持ちを好意的に受け取り、列席者との話や彼らの浮かべる祝福の笑みなどに接して、非常に幸福な気持ちで一日を終えていたのでした。
 本当に予想外。

 なにしろシロさんといえば、かつてケンジが自分のことを話していたお客さんと出くわした後に、掛け値なしに本気でぶちギレた男です。

(1巻 p56)
 この時点ではシロさんも40代前半、最新話からは16,7年も前のことですし、それ以降も自身の性的指向を明かせる人間は少しずつ増え、ケンジと二人で近所に買い物へ行ったり、お茶したり、旅行したり、お互いの家族とあいさつしたりと、カップルとして振舞える範囲も少しずつ広がっていきはしたのですが、それでもウェディングパーティーを、それもサプライズで、となると、いくら器の広がったシロさんでも怒髪天間違いなしだなと思ったのですがねえ……
 そう戦々恐々としていた私の予想を軽々と裏切る展開を描き、しかもその展開に不自然さ、無理やりさをまるで感じさせないのは、今まで積み重ねてきたシロさんの変化のエッセンスをそこかしこにちりばめているからでしょう。唸るぜ。

 また、パーティーの最中、ゲストたち同士が楽し気に歓談しているのを見て嬉しそうにしているシロさんも印象的です。
 もともと社交の狭かったシロさんですが、自分(とケンジ)を起点に集まった人達が、自分たちを心から寿いでくれ、しかもその人たち同士で楽しそうに歓談をしている姿は、今まで味わったことのないものだったのでしょう。なにより、自分の隣で自分と同じように、あるいはそれ以上に喜んでいるケンジの姿。それらに囲まれたシロさんの屈託ない笑顔は、「いい最終回だったな……」と思わせるに相応しいものです。

(♯182)
 いやまだ終わらないんですけど。

 このお話の最後に、二人で帰宅し向かい合ってお茶漬けをすするシーンは、ハレからケへの回帰というか、帰ってこれる日常が存在しているというか、二人の生活は山あり谷ありで続いていくんだなあとということを感じさせ、とてもいいですね。またそれも最終回味があるんですが。

 とにかく、前話の時点での恐れが杞憂に終わり、とてもともて素晴らしいお話となった『きのう何食べた?』の最新話でした。
 これ描いちゃって今後どうするのとは思いますが、現実世界の時間とほぼ同期している本作は、シロさんとケンジの身の回りに加齢とともに様々なライフステージの出来事が起こっています。身内の、そしてお互いの死というのがそろそろ無視できないお年頃です。
 はてさて、ねえ。

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誇り高きポンコツドラゴンとのゆる楽しい日々『ドラゴン養ってください』の話

 大学生の村上は、ある日ドラゴンに出会う。異世界からやってきたというドラゴンのイルセラは、一「竜」前のドラゴンになるための修行として人間界にやってきたという。しかしてこのイルセラ、あまりにポンコツ。人間界でどう暮らすかの算段もなく、会ったばかりの村上に自分を養うよう要求する始末。
 一人と一匹、この奇妙な共同生活はどうなるのか……

 ということで、原作・牧瀬初雲、作画・東裏友希の『ドラゴン養ってください』のレビューです。人間界にやってきたポンコツなドラゴンが巻き起こす、肩の力の抜けたファンタジーコメディ、というところでしょうか。
 村上は、ドラゴン大好きの大学生。「モンスターを仲間にできる」と銘打ったスマホゲーで、仲間にしたモンスターが人間に変身するとスマホを即たたき割るタイプの原理主義者。ただし、三次元はNG。ドラゴンの実物と会っちゃっても困るよね。

(1巻 p7)
 しかも、そのドラゴンが田舎の誰もいない公園で「養なってください」(正しくは、「養」の「良」が「艮」になってる誤字っぷり)と書かれた紙を掲げてたら猶更だよね。しかし凛々しい顔してるぜ、このポンコツドラゴン。

 そんなポンコツドラゴンのイルセラは、本人(竜)曰く、一竜前として認められるための試験に「惜しくも紙一重で失敗し」、「怒った両親に魔力のない世界で己を鍛えるよう言われるまでもなく、自ら進んで」人間界に来たのだとか。ははーんこのドラゴン、見栄っ張りだな。
 というわけで、己を鍛えるために来たくせに初手で自分を養ってくれる人間を探すポンコツっぷりをいかんなく発揮しつつ、自分が人間界に来たせいで村上の身に降りかかったトラブルをマッチポンプで解決してやり(しかも村上に助けられながら)、なし崩しに同居に持ち込むイルセラ。大丈夫か、この同居生活。

 と不安になりながらも、村上は村上であっさりこの状況を受けれるし、イルセラの存在を知った町の人間は町の人間であっさり受け入れるしで、人間の上位種たる気高きドラゴンの修行などというお題目はどこへやら、ちょっと火を吐けたり空を飛べたり雨を降らせたりできるよくわからんけどなんかいいヤツのおちゃらけた日常がゆるゆると描かれています。
 でも、そんなコメディの中にも、ドラゴンはやっぱりドラゴンだなと思わせる素敵なシーンもあったりするから、なかなかに美しい漫画に仕上がっているんですよね。空を飛ぶドラゴンの背に乗るってのは、やっぱりロマンですよ。

 第1,2話はこちらから。
urasunday.com

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『正反対の君と僕』身体感覚の言語化による強い共感の話

 先日6巻の発売された『正反対の君と僕』。

 1巻の帯に「真逆な2人の共感ラブコメディ」の惹句があるように、登場人物たちの心理描写、というよりは心理の言語化が巧みで、それが読者を「わっ…分かる~!!」(1巻帯より)という共感の気持ちにさせるのだと思います。
 でも、この作品の言語化のうまさは心理面だけでなく、身体的な感覚でも表れています。
 たとえば6巻の41話、雨に濡れて帰宅した平が独りごちるこのコマ。

(6巻 p24)
 「ほかほか感」ががどうであるとは明言していませんが、濡れた服を着替えた後に、眠たげな顔で「ほかほか」という牧歌的なワードを使っていることから、そこに快の感情があることが読み取れます。
 多くの人が感じたことがあるであろうこの、冷えた身体が暖かい部屋で乾いた服に包まれたときのホッとする感覚。
 こういうのをサラッと描くと、読んだ人もその感覚を思い出し、「わっ…分かる~!!」になるのです。
 
 それ以外にも、3巻では雨の日の家の中の楽しさや

(3巻 p32)
 雨上がりの秋の風の心地よさに言葉を与えています。

(3巻 p48)
 家の中で落ち着ているときに外で強く降る雨が妙に心躍らせたり、空気を変える秋風に季節を感じたりと、あえて言葉にしなくとも心が動いた記憶がある人も多いのではないでしょうか。

 また2巻では、鈴木が雨上がりの匂いのかぐわしさに喜びつつ

(2巻 p12)
 それを谷と共有できたことで恋心をときめかせているという合わせ技も見せています。

(2巻 p29)
 ここでは、コンビニ前で鈴木が「雨上がりのいいにおい」を感じ取ったときは、そこに居合わせた山田がまったく共感しなかったという前振りがあったので、谷が自発的に「雨上がりのにおい」を「好き」と言ったことが鈴木のハートにより火を着けるのです。
 余談ですが、私も鈴木や谷同様「雨上がりのいいにおい」が大好きなのですが、友人に一人はまるでそこに同意がなく、私が鈴木のような状態に陥ったことが少なからずあります。万人が好きなにおいだと思っていたので、友人のそんな反応はとても意外だったし、全然好きじゃない人もいるんだ!と衝撃でもあったのですが、だからこそ初めてこの話を読んだとき、鈴木や谷が雨上がりのにおいを好きだと言ったことに「同志よ!」と握手を求めそうになりました。「わっ…分かる~!!」となりました。山田に「この無粋な人間が!!」と思いました(なもんだから、私の友人なんかはこの話を読んでも、鈴木や谷に共感が薄くなるのかもしれませんが)。

 たしかに感じてもやもやしているけどまだ言葉にできていない感情に、適切な言葉が与えられているのを見ると、「それっ!」と膝を叩いていっぺんに共感しちゃいますが、感情だけでなく、身体的な感覚でも、なんか好きとかなんか嫌いとか、ぼんやりと感じていたものが言葉で適切な輪郭を与えられると、やっぱり共感しちゃって「好きっ!」てなりますよね。
 言語化による共感て、強いですよ。『正反対の君と僕』はそこが強い。

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『葬送のフリーレン』雪山手ぶら一人旅で気づいた、アニメと漫画で違う想像の余地の話

 面白いぞ『葬送のフリーレン』アニメ。

 ケルティックなBGMがマッチしているのが意外で、20~30年前にちょっとケルトミュージックブームが起こったのを思い出しました。エンヤとか。

 それはそれとして、アニメを見ていて気になったこと、より正確には、漫画を読んでいて少し気になっていたけどアニメになって明確に意識したことがありまして、それは、フリーレンたちの旅装です。いくらなんでも軽装すぎやせんかと。
 それがもっとも意識されたのは17話のザインとの別れのシーンで、フリーレンらと別れたザインはまだ雪の残る山道を、着の身着のまま手ぶらのままで一人旅立ったのです。
 冬 山 を 舐 め る な 。
 女神の加護も甚だしいのですが、でもこれは原作通りなんですよね。

葬送のフリーレン 4巻 p150

 冬 山 を 舐 め る な 。

 もちろんフリーレンたちも負けず劣らずの軽装で(三人で荷物はフリーレンの持つ鞄とシュタルクの担ぐ斧だけ)、まあこの軽装の理由が〈荷物を異空間に収納する魔法〉でも女神の加護でも作画コストの軽減でもなんでもいいのですが、それ自体は作品の魅力を減じるものではありません。旅のリアリティがなければいけない作品ではないですから。

 しかし、漫画ではさほど気にならなかったことが、なぜアニメになって強く意識されたのか。
 思うにそれは、静止画(漫画)と動画(アニメ)の違いなのではないでしょうか。
 漫画はコマとコマが非連続的に描かれる、すなわち一枚の絵ごとに時間が経過しているので、その時間的・空間的隙間は読む側が想像で補っています。絵ごとの時間経過はシーンにより異なり、1コマ移動するだけで何時間も何日も経つようなケースもあれば、ほんの一呼吸分のケースもあります。

葬送のフリーレン 4巻 p110

 このコマ群では、コマの間の時間経過は会話の間合い程度ですが

葬送のフリーレン 4巻 p103

 このコマ群では、数時間、あるいは日付が変わっています。でも、それを読んでて不自然には感じない。このように読み手は、描かれていない時間経過を、無意識の裡に調整しながら埋めています。いわば、読み手にとっての主観的な時間が流れているのです。

 で、その時間経過を埋める想像は、すべてを詳細に設定するわけではありません。たとえば上のp110のコマ群では、修行と日常のほんのワンカットを描いているだけなので、その間に何をしているのかを補完するには自由度が高すぎます。ですので、「なにか他の修行をしたり生活を送ったりしているのだろう」と漠然と思い(もちろん詳細な想像を膨らませてもいいのですが)、自分なりに不自然にならない何かがあるのだと考えるのです。
 この「自分なりに不自然にならない何か」がキモで、旅の道中で異常なほどに軽装なフリーレンらを見ても、無意識の裡にそれを異常と感じさせない想像が働いて、旅を舐めてる軽装をなんとなく見過ごせてしまうのです。

 でも、動画のアニメですと事情が変わってきます。現に動き、音声が流れる、すなわち客観的な時間が流れているアニメだと、少なくともひとつながりのワンシーンの中では想像の働く余地が減じる(描かれていることそのものを捉える配分が大きくなる)ので、そこに不自然な描写があったときに、想像による補完をしづらくなるのではないか、と思うのです。その所作や振る舞いに、リアリティ、現実味、実際に起こりうるかどうかが気にされやすくなると言ってもいいかもしれません。
 なので、山の雪道を着の身着のまま手ぶらで一人旅する異常男性は、一つのコマの中で描かれるだけでは見過ごしやすいけど、いざ動くと(実際の時間経過の中に放り込まれえると)その異常さが際立ってしまうんですね。

 それと関連した話だと、魔法使い試験に臨むラヴィーネやカンネ、ユーベルなんかの格好も、漫画のグレースケールの静止画だと気にならないけど、色がついて動くアニメだと、お前ら正気かコスプレパーティーじゃねえんだぞってくらい場違いな格好に見えてしまいますね。野山でそんな肌をさらすなよ。藪や蛭が怖いぞ。

 まあそれに文句があるわけでなく、漫画では気にならなかったことがなぜアニメでは気になったのか、というお話でした。人間の想像って、いろいろと自分の都合のいいように働くと思うんですよ。

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楽しさに満ち溢れたラクガキの時間 九井諒子『デイドリーム・アワー』の話

 原作漫画が完結し、アニメもスタートした『ダンジョン飯』。
 そして本日発売されたのが、九井諒子ラクガキ本『ディドリームアワー』。

 『ダンジョン飯』の筆慣らしや、キャラ固めのための習作イラスト、漫画がちょこちょこ、その他デビュー前から描き溜めていたイラストやスケッチなど、九井先生曰くの「私が私のために描いた絵や漫画」です。
 表紙・裏表紙で花散る中で踊るキャラクターたちを見ればわかるように、楽しさに満ち溢れたラクガキ集。九井先生が楽しく絵を描いてるんだなというのが読んでて伝わってくる、伝播性の高い楽しさです。ウキウキしちゃうね。
 
 本は4部構成。
 1部が『ダンジョン飯』のキャラ練習やキャラ固めのために描いたイラスト。
 各種族ごとにまとめたバストアップイラストや、キャラクター間の衣装交換、チェンジリングによる種族変化、髪型変化といった個人イラストもあれば、女性キャラクターの化粧のステップ、朝の支度など、流れのあるイラストもあり。また、一緒に飲んでるチルチャックとナマリなど、本編では絡みのなかったキャラのイラストもあり。
 パーティーのリーダー(ライオス、カブルー、シュロー、ノームのタンス、若かりしセンシが所属していた坑夫団のギリン、カナリア隊のミスルン)がメンバーとどういう距離感で接していたかを表すイラストなんかもあって、なるほど、こういう絵を描くことで自分の中で関係性が練られていくんだな、というのが感じられます。
 まず頭で考えたり具体的に言葉にするのでなく、まず直観的に絵で描いてみて、そこから逆算的にキャラクター性や関係性を言葉にしていく。勝手な想像ですが、そういう漫画の作り方もしている気がします。

 2部は、やはり『ダンジョン飯』の主にラクガキっぽいイラスト。本編に活かすというよりは、気分転換に描いてみた感じの各種イラストです。
 現代の服を着た各キャラや、海で遊ぶちびデフォルメされた各キャラ。ハロウィン絵やサンタコスの絵。魔物着ぐるみを着たマルシル。プレゼント交換をするとしたら各キャラは何を用意するか、そして各々にランダムで配られたプレゼントに対してどういう反応をするか、なんて絵もあります。
 オマケ感というか、お祭り感というか、ビックリ箱感というか、「これを描くと気分転換になるぜ!」という感じの楽し気なイラストばかり。
 拙者現パロ大好き侍、現代の服を着る各キャラの姿にニッコリで候。

 3部は漫画。隊商で働いていた時のライオスや、タンス夫妻に育てられていたカカとキキの子供の頃の一幕、欲を翼獅子に食べられ救出されたばかりのミスルン、お化粧を買いに行く魔法学校時代のファリンとマルシルなどの、各キャラの過去の話もあれば、夏の町を歩いたり夏祭りを楽しむセンシとイヅツミや、お好み焼き屋に行くライオス・カブルー・シュロー、現代料理に舌鼓を打つカナリア隊などの現パロもあります。
 1~2ページの短い紙幅できちんと抑揚がついた漫画として仕上がっていて、各キャラもよく立っている。読むと、キャラ立ちに必要なのは説明のための言葉ではないのだなとよくわかりますね。表情や仕草、態度でいかに説明的な台詞を省けるかで、漫画ってのはすごく読みやすくなるんだなと。

 4部はデビュー前からデビュー直後まで個人サイト上で公開していた各種イラストです。水彩風の人物画もあればファンタジーなデフォルメ絵もあり、漫画もあり、なぜか料理の手順のイラストもありとごった煮。
 カラーで描かれてる幻想的な風景画のドチャクソなうまさに腰が抜けました。原画が欲しい。

 特に1部のイラストを見てて不思議な気分になってくるのが、ノームやドワーフ、あるいはオーガやオークなどの魅力。頭身が低くて肉付きが良くて、私たちの思う一般的な人間(トールマン)とは明らかに違う身体つきで描かれながら、そこにたしかに彼女らの種族としてのかわいらしさを感じられることです。
 (トールマンと違うという意味で)デフォルメの効いた、ろうたげなかわいさではなく、その種族内での成長した姿として描かれた上で、かわいさ、美しさがあります。トールマン基準の美しさ(等身や体の凹凸など)を各種族に当てはめた評価ではなく、その種族特有の体型から感じられるバランスの良さ。
 2巻のおまけ漫画でライオスがオークの女たちの美しさについて、人間と「基準はそんなに違わない」と言っていますが、鼻筋とか目の大きさとか乳房や尻の形とかについて、それがオーク内での美しさの基準になるという意味で、人間の美しさの基準をそのままオークに当てはめている(美しいオークは人間と同じ美しさを持っている)わけではないと思うんですよね。
 その意味で、なんか『異種族レビューアズ』を連想しちゃいましたね。フラットな視点で見れば、どの種族もその種族としての魅力があるんだなと(『異種族レビュアーズ』は単にフラットではなく、徹頭徹尾スケベという意味でのフラットですが)。

 ちなみに私の一番好きなイラストは、1部に掲載のイラスト番号042(45ページ)の踊るマルシル。微妙にダサいダンスを実に楽し気に踊るマルシルが実に楽しそうで本当に楽しそうで、もう最の高。


 ノリノリの表情もそうなんですが、指先の開きや手首の反り、膝の折れ、首の傾きなど、各部位の描写と全身の絶妙なバランスがあいまって、緻密に描かれているわけではないのに身体が躍動に溢れているんです。もちろんマルシルの体は服に隠れているんですが、その下の筋肉は正確無比の配置でイメージされているんだろうなと思ってしまいます。知らんけど。いやでもこの絵の人体のバランスと躍動感は感動的。

 1980円と少々お高い本ではありますが、満足感は半端なじゃないです。一日中見てられる。イラスト自体の魅力もさることながら、そのイラストから感じ取れる(気がする)九井先生の絵の描き方のスタンスであるとか、キャラ立ての考え方とか、そういうのを考えてもどんぶり三杯いけます。
 ファンならずとも、ぜひ紙の書籍で手に入れたい逸品。

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『葬送のフリーレン』「ヒンメルはもういないじゃない」人類と魔族を分かつ死者への思いの話

 正月の暇に飽かして『葬送のフリーレン』第1期を一気視しました。

 特に日常パートは、原作のシンとした雰囲気を活かしている、いいアニメ化ですね。

 ところで、放送以来マッハでオタクどものオモチャと化した断頭台のアウラ様ですが、フリーレンの怒りを買った彼女の言葉といえば、「ヒンメルはもういないじゃない。」。その言葉を聞いたフリーレンは、「やっぱりお前たち魔族は化物だ。容赦なく殺せる。」と殺意をあらわにしました。
 「ヒンメルはもういないじゃない」を聞いたフリーレンの反応から見れば、アウラが当たり前のように言ったこのセリフは、人類と魔族を決定的に分かつ思想の違いなのでしょう。

 「ヒンメルはもういないじゃない。」
 この言葉は、死者を省みないという宣言です。
 存在したことを否定するわけではない。ただ、死んだものはもう存在していないのだから、考慮する必要はない。それが、「化物」である魔族の考え方。
 ヒンメルの死を契機に人間を知ろうと旅に出て、何度となく「ヒンメルならそうしただろうから」と口にするフリーレンにしてみれば、死んだ、もう存在しないものによって自分の生き方を変えたわけですので、それを否定する魔族とは相容れるわけがないのです。

 死者をどう捉えるかということを軸に人間と魔族について改めて読み返してみると、その違いはいたるところにあります。
 人類で言えば上記のようにフリーレンはもとより、その弟子のフェルンも、育ての親であるハイターに救われた恩を返すため、彼が安心して死ねるように「一人で生きていく術を身に付け」、死して後も折に触れ彼を思い出しています。
 アウラ戦の舞台となった地方領主のグラナト伯は、息子をアウラの軍勢に殺されたことを怒りの糧にしながらも、人類の安寧のために魔族からの和平の申し入れを受け容れようとしていました(結局は偽りだったわけですが)。
 そもそも、勇者ヒンメルが勇者として死して後も語り継がれていること自体が、死んだものを忘れないようにする、存在が消えても存在していた意味を残そうとする人間の心性の表れなのです。

 それに対して魔族は、全知のシュラハト曰く「個人主義」。
 リュグナーとリーニエが、先走ってフリーレンを殺そうとした配下のドラートが返り討ちにされたことを悟っても、そこに微塵も憐憫を見せなかったように、仲間の死について、死んだこと以上の意味を見出さない。それによって計画の歯車が狂い、それに苛立ちを覚えたとしても、死んだ者は死んだだけ。いなくなっただけ。いないのだから、それ以上考える必要はない。それが魔族のスタンスです。
 
 また、死という概念から広げて、技術の集積という点でも違いがあります。
 魔族は、基本的なものを除けば各々が一つの魔法をひたすら研鑽し続ける性質を持ちます。そしておそらくそこには、自分の得た知識を同族に教え、魔族全体の能力を高めるという発想がない(マハトが、人類の魔法を研究しているソリテールからそれを教わったり、クヴァールの使うゾルトラークを自らも使うというケースはありますが、魔族の振る舞いを見る限り、それは例外的であるようです)。
 それに対して、人類を殺しに殺した人を殺す魔法ゾルトラークを解析し、自らがそれを使って魔族を殺しているように、過去すなわちもう存在していないものから学んで今に活かしているのが人類です。圧倒的な魔力や体力の差があっても、積みかねた技術や知識で魔族に対抗しているのです。

 人類と魔族を分かつのは、死についての観念ではなく、死んだもの、存在しなくなったものについての観念だというのは示唆的です。
 動物でも、たとえばゾウなどは死んだ仲間を悼み、ゴリラはパートナーの死でうつ病になると言われています。その意味で、たとえ言葉は交わせずとも、魔族より動物の方が人類に近いのかもしれません。
 
 さっそく2期の始まったフリーレンアニメ。最終的にどこまでやってくれるのか、楽しみです。

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