『君色パレット なんでもないあの人』

〈多様性をみつめるショートストーリー〉の2期3巻。「なんでもないあの人」というお題は、まったく関心を持たれていないということであり、ある意味で「きらい」とかより残酷かもしれません。

濱野京子「レッドさん」

転校先のクラスでちょっと浮いているあざと女子涼香からなぜかぐいぐい迫られ懐かれてしまった「ぼく」の物語。限られた分量と狭い人間関係のなかで「ふつう」じゃないと排除される属性を次々と繰り出しかっちりと物語を組み立てるさまで、社会派児童文学のトップランナーのひとりである濱野京子の手腕をみせつけています。

椰月美智子「福田さんの気持ち」

「なんでもない」というテーマにもっとも正対して読者の胃に穴を空けたのは、椰月美智子でした。クラスであまり目立たなかった女子福田さんが転校して、特に親しくなかった女子美波にやたらなれなれしい手紙を送りつけてくるという設定がつらすぎます。手紙をもらう立場出す立場、どっちの立場を考えてもいたたまれないです。

林けんじろう「異ロンナ」

市の文化財団が主催する文学賞で最年少応募者だったため授賞式に特別招待されたカンナが、そこでいやな目に遭って創作ができなくなってしまう話です。選考委員の有名な老作家は最年少のカンナには甘い態度を取りますが、大賞受賞者のオジサンを公然と罵倒しました。そのことがカンナの心の負担になってしまいます。
「いろんな子がいるから、おもしろい」「いろんな子がいて、いいんだ」がやがて「いろんな人がいるから、しかたがない」になってしまうという問題の整理がわかりやすくてよいです。そこに創作者の立場から「欠点を茶化すのではなく、ヒューマニズムとして描く」とする解決策も力強いです。ただ、これの著者が公募新人賞コレクターとして知られる林けんじろうであると考えると、読み方が変わるかもしれません。

昼田弥子「予言」

学校で孤立しがちだった女子結衣は、五年生になってえなという女子に懐かれ、一緒に過ごすようになります。しかしこのところ、えながよくわからない言葉を話すようになり、心の距離が開いていきます。

えなは本当によくしゃべった。素直にぺらぺらと何でもしゃべった。あのへらっとした笑顔を見せながら。その単純さに、私は安心した。

という述懐からわかるとおり、結衣はえなを侮っていたからこそ一緒にいられたという面がありました。そこに突然えなのわからなさが出来します。「   」とえなの言葉を空白にする手法が、他者のわからなさを不気味に演出します。しかし、わからなさと向きあうことこそが、真に関係を築くための第一歩です。結衣にとってはどうでもいい存在であった毎日黒板に予言を書くオカルト男子がその一歩を踏み出す勇気を与えてくれる意外性がうまくきまっています。
それにしてもこの巻だけやたら百合が多いな。

『イナバさんと夢の金貨』(野見山響子)

あまりにぼんやりした性格のため自他の境界が曖昧になり不思議な世界に迷いこみやすい体質のイナバさんを主人公とするシリーズの第3弾。SF度の高いところがこのシリーズの童話としての稀有な特長ですが、今回は宇宙が主な舞台になったのでそのよさがさらに増しています。
イナバさんは、深夜のコインランドリーから宇宙に入ります。丸い扉の並ぶコインランドリーが宇宙船の窓のようだという連想から舞台が移るロジカルさが愉快です。ここでイナバさんは、無数のコインを排出する装置のある部屋に閉じこめられ、コインに押しつぶされて圧死という命の危機にさっそく陥ってしまいます。
宇宙に行ってからの冒険も楽しいですが、イナバさんが深夜のコインランドリーに赴くに至った理由が語られる発端のエピソードもいい具合です。イナバさんは、「何の予定もない休日を、それはもうなんにもせずに心ゆくまでなまけてすごしました」と、最高に幸福な1日を味わっていました。ところが、その締めくくりにミルクコーヒー片手にベッドでマンガを読もうとしたところ、思いもしなかった悲劇が訪れます。この場面のイラストでは、θなどの記号を使用し放物運動の様子が図示されています。もちろん本来の読者の小学生の多くには初見のものとなるはずですが、こういう演出にすっとぼけたかっこよさは感じられるものです。
なんやかんやあってイナバさんは、記憶がはっきりしない状態で月面に投げ出されます。身体まで透けている状態や「ういろうくらいの不透明さ」に変容し、不安定です。ここでイナバさんは、実存的な不安に直面します。月にいるうさぎなのでモチつきをすることを期待されたときの叙述などは、不安定さが振り切れていて恐ろしいです。

(おモチつき……モチツキ……)
イナバさんは、だんだん自分が何を探しているのか、よくわからなくなってきました。キネとかウスとか口のなかでつぶやく言葉がほどけてくずれて、意味をなくした呪文のようになっていきます。

このシリーズは、ルイス・キャロル寺村輝夫のような道理寄りの不条理童話の系譜にあるようです。同時にSF要素もあるので、かんべむさし山野浩一の観念SFのような印象も受けます。いまの児童文学界にはあまりない味のする作品なので、長く続くシリーズになってもらいたいです。

『こっちをみてる。』(となりそうしち/作 伊藤潤二/絵)

怪談えほんの新刊。怪談えほんコンテスト大賞受賞作に伊藤潤二がイラストをつけたものです。伊藤潤二といえば、言わずと知れた日本を代表するホラー漫画家のひとり。その名を聞いただけで富江やうずまきなどのトラウマが思い出され震えあがってしまいます。
怪談えほんコンテストの開催が2018年なので刊行までだいぶ時間がかかってしまいましたが、これは伊藤潤二が多忙だったためだそうです。伊藤潤二ほどの人であれば、どれだけ待たされても納得できます。
主人公の「ぼく」の目は、あらゆるところに「かお」の存在を見出してしまいます。机の傷や校庭の木など。学校の場面では、教室の窓から見える空に浮かぶ雲も「かお」のようになっています。空の「かお」はやめて、首吊り気球来ないで! さて、この悩みをお母さんに相談したところ、「ぼく」が気づいていることを「かお」たちに気づかれてしまったのか、はじめはうっすらと見えるだけだった「かお」がはっきりとその姿を現し、「ぼく」を、「ぼく」だけを凝視してくるようになります。
インタビューで伊藤潤二は、「となりさんはもしかしたら対人恐怖症のようなものが少しあるのかな」と指摘し、自身も若いころ視線恐怖症があったと明かしています。シンプルなテキストと美麗なイラストによって描かれる視線の恐怖は、狂気を誘発するレベルの迫力を持っています。顔の増殖がエスカレートする中盤の展開は、もはや怖くて笑うことしかできなくなるくらいです。
「かお」に追い詰められて「ぼく」が転倒してしまったことから、物語はクライマックスに向かいます。読者の期待どおりにびっくりさせてくれるオーソドックスなオチのよさは、『いるの いないの』と同系統です。
『いるの いないの』には、無数に出てくる猫の数を数えるというおまけの楽しみ方がありました。『こっちをみてる。』も同様に、「かお」を数えるという遊びができそうです。いや、それをやると本当に頭がおかしくなりそうだから、やめておいたほうがいいかもしれません。

『嘘吹きアンドロイド』(久米絵美里)

嘘吹きシリーズの第3弾。男男感情大爆発事件が起きた夏休みは明けましたが、二学期開始早々、理子と錯の元に鞠奈が厄介事を持ちこんできます。学年一の美少年の田中瑠卯がSNS上で自分はアンドロイドであるとカミングアウトしました。この件は学校内ではすぐに流されましたが、鞠奈は小説執筆のための取材という名目でルーに構うのをやめません。ルーがパンダマウスを飼い始めたので、それを見に行くことを口実に理子と鞠奈はルーの家に入りこむことに成功します。
人もロボット・AIも愛玩動物も同じ俎上に載せ、命や自我をめぐる観念バトルが繰り広げられます。この流れもすっかりおなじみになってきました。会話で「や」という否定から入る間投詞が多用され、読点が多く長くてまわりくどい文体も、作品の理屈っぽさにぴったりあっています。参考文献には弱いロボット関係の本が挙げられていますが、これをひとつの突破口にしているのも興味深いです。
観念論から現実的な問題が立ち上がってきたときに感情が爆発する流れも前作と同様で、終盤は一気に盛り上がります。
また、理子・錯・鞠奈の三者の関係のなかで理子の感情がだいぶ育ってきたことにも注目する必要があります。理子と錯、いつの間にこんなにラブラブになったのでしょうか。理子の最後のセリフなどは、「I love you」と同義であるように思われます。

『放課後ミステリクラブ 1 金魚の泳ぐプール事件』(知念実希人)

たとえ建前であったとしても、児童文学は差別から最も遠い場所にあるべきであるということは、強く主張しておく必要があります。差別発言で炎上したばかりの作家が初めて児童向け作品を手掛けるということで、懸念を持っていた人も多いのではないでしょうか。少なくとも1巻の時点では著者の差別的な思想は作中には顕著にはみられなかったということだけ、まず報告しておきます*1
子どもが初めて触れるミステリをコンセプトにした作品なので、キャラ造形もオーソドックスでストーリーも一本道。わかりやすさという点では目的を果たしているようです。
メインの事件は、学校のプールに何十匹もの金魚が放たれてプールの授業が中止になってしまったというものです。冒頭の、夜のプールで塩素ボールを投げこもうとした先生が異変に気づく場面は、夜の高揚感もあって幻想性があり引きこまれます。やはりミステリには謎の魅力が肝要です。ただ、先生は夜の十時すぎまで五時間以上ものサービス残業を強いられていたと考えると、ブラック労働の過酷さにおののいてしまいます。過労死する前に逃げて! 
発端の謎は美しいです。しかし、犯人が目的を達するためにはほかにいくらでも簡単な方法があるはずなのに、あえて金銭的負担も大きい装飾的な犯行をした必然性が弱いように思われます。
悪くはない作品ですが、現代の児童向けミステリの水準を知る読者が読むと、著者の知名度の割にはあまり期待を満たしてくれなかった作品だったと受けとめられるかもしれません。

*1:件の李琴峰に対する差別発言ほど露骨なものはありませんが、その背景にある人権感覚や倫理観の欠如は作中から見出だせます。いまの時代になんの留保もつけず非人道的な長時間労働を描いていることや、金魚の屋台の男性を挑発して怒らせたうえで暴力で屈服させることを是としていることなど。このような人物に子ども向けの本を書く資質があるのかという疑念は、やはり拭えません。

『僕たちは星屑でできている』(マンジート・マン)

難民支援の慈善事業としてドーバー海峡横断泳に挑戦しようとしているイギリスの少女ナタリーと、独裁国家エリトリアから逃れイギリスに渡ろうとする少年サミーを主人公とする物語。原題は『THE CROSSING』。現在の英米で流行している詩形式のYAで、さらに原題のとおりふたりの語りが交差するような実験的な手法を取り入れています。
2行空けの後で自然にふたりの語りが交代したり混じりあったりするので、慣れるまではいまどちらのパートなのかを把握するのに少し苦労します。似たフレーズが太字になっていて、それをきっかけに交代していることに慣れると、読みやすくなってきます。ただし、イギリスのナタリーと難民のサミーでは、同じような言葉が使われていても状況は全く異なります。たとえば「めまいがする」という状況。イギリスでは近しい人物の人格が変わってしまったことに対する思いを比喩的に表していますが、難民側は水も食料もなく身体的にめまいがしています。
ただ、ナタリー側もサミーほどではないにしても苦境に立たされています。一家の中心だった母の病死をきっかけに窮乏が極まって住居を探すのにも苦労します。なかなか仕事を見つけられない兄のライアンは排外主義的な極右グループと関わりを持つようになり、ナタリーの同級生に暴行した疑惑まで浮上してきます。
学校の社会学の授業で、先生はヘイトクライムが起こる原因についてこのように説明します。

「そのことは犯罪や権利剥奪の問題とも密接に関係しているわ。
理由はひとつではないけれども、声を上げられないとか
自分が「生まれ育った」国で二級市民であるように感じた人たちが、
極右グループに加わることはよくあるの」

ナタリーはこの話を聞いて、「教室じゅうが私よりライアンのことをよく知っているみたい」との感慨を抱きます。こういう状況では人はこうなってしまうという現象のみに還元されます。ここでは、ライアンはナタリーがレズビアンであることをカミングアウトした後にお祝いのレインボーケーキを用意してくれた優しい兄であったというような、個別の事情は捨象されてしまいます。
でも、サミーの置かれている環境はナタリーと比べるべくもないほど過酷です。それはたとえば銃であり、有刺鉄線であり、牢獄です。
作者あとがきでほのめかされていることや、作中で何度か繰り返される演出から、結末を予想することは容易です。作中で「白い(白人の)救世主」が揶揄されているように、この作品も結局強者が弱者をロマンチックに消費している側面があることは否定できません。であっても、この作品の手法が異なる立場の者同士でも共感共苦し繋がりあえる可能性を指し示す希望を照らしていることは信じたくなります。

『ゆうれいがいなかったころ』(岩本敏男)

昭和アングラ児童文学界でもひときわ異彩を放っている岩本敏男による創作民話集。1979年、偕成社刊。死者が登場する作品が多数収録されています。作中のセリフは「」でくくられておらず、語り手と作中の死者や生者の声がとけあい響きあっているようです。
第一話「鬼がむかえに」では、人が死んだら鬼が走って迎えに来て黄泉の国に連れていかれるという設定になっています。根別という樵が死んだとき、三日経っても鬼は現れず根別は目をあけて声を出したので、両親は根別が生きかえったと喜びます。そこへ鬼がやってきて、両親の抗議もきかず根別を背負って黄泉の国に向かって走り出します。黄泉の国の閻魔は根別は死んでいないと裁定し、帰るように命じます。しかし帰りは鬼に送ってはもらえず、十万億土をひとりで歩いて帰ったので家に着いたら力尽きて結局死んでしまいます。こんな理不尽許されるの?
この作品における死者は霊魂のような実体のない存在ではなく、生身の肉体も意思も持っているように描かれることもあるのが特異です。上野瞭の解説は、「死を人生の終焉とみる物理的人間観に対して、きわめて日本的発想でとらえられた他界の表現」であるとし、折口信夫の『民族史観における他界観念』を引いてこの作品における死者の世界は「未完成の霊魂の留まる地域」であるとしています。
表題作「ゆうれいがいなかったころ」での死は、死者が自分でお墓を抜けて三途の川まで歩いていくものとされています。治平さんは三途の川の渡し賃が一文足りなかったので、村まで戻って一文をくれる人を探し回ります。
第八話「とぶ首」は、首をはねられた悪党たちが自分たちの悪事を語りあう話。自分たちが落ちる地獄を予想したりする様子には妙なユーモアがあり、日本犯罪界の大スターが唐突に颯爽と登場し首たちを救済するラストには呆然とさせられます。
第一六話「ちょうちん小僧」では、あるさむらいの日記という形式でちょうちん小僧という怪異による連続殺人のさまが語られます。淡々とした客観的な記述が恐怖を盛り上げていきます。その積み上げのうえで、さむらいが事件の中心地を訪れる日の記述の陰惨なポエジーが引き立っています。
斎藤隆介さねとうあきらの諸作に並ぶほどの日本の創作民話の大きな収穫として記憶されるべき作品です。