2023年の児童文学

極めて異例のことですが、2023年の児童文学でもっとも重要な本は長編の単著ではなくアンソロジーでした。若手の注目株のにかいどう青や長谷川まりる、社会派のトップランナーである菅野雪虫といった豪華メンバーがそれぞれの視点から多様性というテーマに挑んでいます。
にかいどう青の「チョコレートの香りがするね」は、図書準備室を自分たちだけの城にしてだべっている女子ふたりという魅力的な設定で著者らしい文章芸を炸裂させ、難しいテーマに正面から斬りこんでいます。
菅野雪虫の「いつかアニワの灯台に」は、「安全」を「絶望」に転倒させる発想で、すべての女性が置かれている過酷な状況をあぶり出してしまいました。2023年にもっとも大暴れした作家は、長谷川まりるとみて間違いないでしょう。ディストピアSF『キノトリ/カナイ』とポストアポカリプスSF『砂漠の旅ガラス』とSF2作品を刊行し、『ジェンダーフリーアンソロジー』にも参加し、「日本児童文学」誌に『趣海坊天狗譚』を連載し、児童文学読者の話題を絶えずさらっていました。なかでも評判が高かったのは、海外YA的な手法でデリケートなテーマを扱った『杉森くんを殺すには』でした。性の多様性というテーマでもっとも光っていた長編はこれ。「みんな違ってみんな地獄」という認識を元に、多層的な人間の姿を描いています。ミステリの手法で娯楽性も確保しつつ多文化共生テーマに挑んだ作品。悪意やめんどくささから異物を排除しようとする小学生たちの姿をいっぱしの差別者として描いているのが怖かったです。戦争児童文学の難しさは、どうしても読者の子どもと先の大戦の時間的距離がどんどん開いてしまうところにあります。そこを、入れ替わりというなじみやすいフックを入れて女子の軽快な会話で物語を進行させる工夫で乗り越えようとしているところに、大切なことを伝わるように伝えようとする著者の真摯な姿勢がみえます。重いテーマの作品の紹介が続いたので、楽しく読めるベテランの作品も。主人公のザザさんはわがままなおばあさんで、そのわがままに耐えかねた家が足を生やして逃げようとしたところをザザさんがのこぎりを持って追いかけるという導入からぶっとばしています。そして、ザザさんと同じくらい性格最悪の月さんが登場し、愉快な煽りあいが始まります。児童文学プロパーではない作家の良作も目立ちました。SF作家北野勇作のこれは「ちょっとこわい」というタイトル詐欺が甚だしく、現実と夢が混濁した実存的な恐怖を突きつけてきます。複数の筆名を使いわけジャンルを横断して人気を獲得している中田永一のポプラキミノベルでの三部作が完結。著者らしいひねくれ方も織り込みながら、異世界転生と余命ものという王道の素材をうまく料理してくれました。群像新人賞受賞のデビュー作から賢い子どもの苦難を描き続けてきた木地雅映子がコロナ禍での一斉休校をテーマにすると、「コロナ……ありがとー!」という不謹慎発言が飛び出します。よい子に向けて悪い子になっちまいなと教唆扇動する、児童文学の大切な役割を果たしている作品です。翻訳作品でもっとも印象に残ったのは、1965年にアメリカで刊行されたこれ。ナンセンスとユーモアとペーソスの配分が絶妙な幼年童話で、刊行から半世紀以上経ってやっと初訳が出たのが不思議なくらいです。日本でも長く読み継がれる本になってもらいたいです。

『さよならミイラ男』(福田隆浩)

家庭環境に恵まれないアキトは、勉強も遅れて学校でも疎外されています。学校に行きたくはないけど母親が知らない男を連れこんでいる家にもいたくないので、しかたなく学校で人気のない場所を探し誰にも会わず時を過ごそうとします。鍵がかかっていなかった教材室に入りこむと、そこに不気味な気配を感じました。よく見ると、まるでミイラ男のような黒ずんだ緑色をした半裸の人物の姿が目に入りました。アキトは怯えて教室に逃げますが、その後もたびたび教材室に出入りし、ミイラ男と過ごす時間を持ちます。
最悪家庭環境の描き方には現実性があります。このような母親が自力で更生するのは困難です。そんな母親の男が救世主になるようなドリームを期待するのも難しいでしょう。
良識側の大人の行動にもリアリティがあります。当然学校はアキトの窮境に気づいて組織的に対応しているであろうことがうかがえますし、児相の対応もまともです。物語を盛りあげるために学校や児相を無能に設定している作品も目立ちますが、この作品のように子どものために働いている大人はきちんと子どもを守る行動をするのだという安心感を与えてくれる作品も必要です。
一方で、子どもの世界には甘さもあるように感じられました。困難な環境にある男子には実は隠された絵の才能があって、親身に手助けしてくれる女子もいるというのは、ちょっと古典的すぎるような気もします。いや逆に、ハンディキャップを持つ子どもは特別な才能を持っていないと受け入れられることがないという認識なのであれば、それはあまりに酷です。
最悪な状況のなかで救いになるのがミイラ男であることが、この作品の一番の特色です。傷ついた人の心の支えになるのは光り輝く美しいものではなく、醜くグロテスクなものであることもあるということ。その暗い側面に向きあったことが、読者の子どもにとっても救いになりそうです。

『君色パレット なんでもないあの人』

〈多様性をみつめるショートストーリー〉の2期3巻。「なんでもないあの人」というお題は、まったく関心を持たれていないということであり、ある意味で「きらい」とかより残酷かもしれません。

濱野京子「レッドさん」

転校先のクラスでちょっと浮いているあざと女子涼香からなぜかぐいぐい迫られ懐かれてしまった「ぼく」の物語。限られた分量と狭い人間関係のなかで「ふつう」じゃないと排除される属性を次々と繰り出しかっちりと物語を組み立てるさまで、社会派児童文学のトップランナーのひとりである濱野京子の手腕をみせつけています。

椰月美智子「福田さんの気持ち」

「なんでもない」というテーマにもっとも正対して読者の胃に穴を空けたのは、椰月美智子でした。クラスであまり目立たなかった女子福田さんが転校して、特に親しくなかった女子美波にやたらなれなれしい手紙を送りつけてくるという設定がつらすぎます。手紙をもらう立場出す立場、どっちの立場を考えてもいたたまれないです。

林けんじろう「異ロンナ」

市の文化財団が主催する文学賞で最年少応募者だったため授賞式に特別招待されたカンナが、そこでいやな目に遭って創作ができなくなってしまう話です。選考委員の有名な老作家は最年少のカンナには甘い態度を取りますが、大賞受賞者のオジサンを公然と罵倒しました。そのことがカンナの心の負担になってしまいます。
「いろんな子がいるから、おもしろい」「いろんな子がいて、いいんだ」がやがて「いろんな人がいるから、しかたがない」になってしまうという問題の整理がわかりやすくてよいです。そこに創作者の立場から「欠点を茶化すのではなく、ヒューマニズムとして描く」とする解決策も力強いです。ただ、これの著者が公募新人賞コレクターとして知られる林けんじろうであると考えると、読み方が変わるかもしれません。

昼田弥子「予言」

学校で孤立しがちだった女子結衣は、五年生になってえなという女子に懐かれ、一緒に過ごすようになります。しかしこのところ、えながよくわからない言葉を話すようになり、心の距離が開いていきます。

えなは本当によくしゃべった。素直にぺらぺらと何でもしゃべった。あのへらっとした笑顔を見せながら。その単純さに、私は安心した。

という述懐からわかるとおり、結衣はえなを侮っていたからこそ一緒にいられたという面がありました。そこに突然えなのわからなさが出来します。「   」とえなの言葉を空白にする手法が、他者のわからなさを不気味に演出します。しかし、わからなさと向きあうことこそが、真に関係を築くための第一歩です。結衣にとってはどうでもいい存在であった毎日黒板に予言を書くオカルト男子がその一歩を踏み出す勇気を与えてくれる意外性がうまくきまっています。
それにしてもこの巻だけやたら百合が多いな。

『イナバさんと夢の金貨』(野見山響子)

あまりにぼんやりした性格のため自他の境界が曖昧になり不思議な世界に迷いこみやすい体質のイナバさんを主人公とするシリーズの第3弾。SF度の高いところがこのシリーズの童話としての稀有な特長ですが、今回は宇宙が主な舞台になったのでそのよさがさらに増しています。
イナバさんは、深夜のコインランドリーから宇宙に入ります。丸い扉の並ぶコインランドリーが宇宙船の窓のようだという連想から舞台が移るロジカルさが愉快です。ここでイナバさんは、無数のコインを排出する装置のある部屋に閉じこめられ、コインに押しつぶされて圧死という命の危機にさっそく陥ってしまいます。
宇宙に行ってからの冒険も楽しいですが、イナバさんが深夜のコインランドリーに赴くに至った理由が語られる発端のエピソードもいい具合です。イナバさんは、「何の予定もない休日を、それはもうなんにもせずに心ゆくまでなまけてすごしました」と、最高に幸福な1日を味わっていました。ところが、その締めくくりにミルクコーヒー片手にベッドでマンガを読もうとしたところ、思いもしなかった悲劇が訪れます。この場面のイラストでは、θなどの記号を使用し放物運動の様子が図示されています。もちろん本来の読者の小学生の多くには初見のものとなるはずですが、こういう演出にすっとぼけたかっこよさは感じられるものです。
なんやかんやあってイナバさんは、記憶がはっきりしない状態で月面に投げ出されます。身体まで透けている状態や「ういろうくらいの不透明さ」に変容し、不安定です。ここでイナバさんは、実存的な不安に直面します。月にいるうさぎなのでモチつきをすることを期待されたときの叙述などは、不安定さが振り切れていて恐ろしいです。

(おモチつき……モチツキ……)
イナバさんは、だんだん自分が何を探しているのか、よくわからなくなってきました。キネとかウスとか口のなかでつぶやく言葉がほどけてくずれて、意味をなくした呪文のようになっていきます。

このシリーズは、ルイス・キャロル寺村輝夫のような道理寄りの不条理童話の系譜にあるようです。同時にSF要素もあるので、かんべむさし山野浩一の観念SFのような印象も受けます。いまの児童文学界にはあまりない味のする作品なので、長く続くシリーズになってもらいたいです。

『こっちをみてる。』(となりそうしち/作 伊藤潤二/絵)

怪談えほんの新刊。怪談えほんコンテスト大賞受賞作に伊藤潤二がイラストをつけたものです。伊藤潤二といえば、言わずと知れた日本を代表するホラー漫画家のひとり。その名を聞いただけで富江やうずまきなどのトラウマが思い出され震えあがってしまいます。
怪談えほんコンテストの開催が2018年なので刊行までだいぶ時間がかかってしまいましたが、これは伊藤潤二が多忙だったためだそうです。伊藤潤二ほどの人であれば、どれだけ待たされても納得できます。
主人公の「ぼく」の目は、あらゆるところに「かお」の存在を見出してしまいます。机の傷や校庭の木など。学校の場面では、教室の窓から見える空に浮かぶ雲も「かお」のようになっています。空の「かお」はやめて、首吊り気球来ないで! さて、この悩みをお母さんに相談したところ、「ぼく」が気づいていることを「かお」たちに気づかれてしまったのか、はじめはうっすらと見えるだけだった「かお」がはっきりとその姿を現し、「ぼく」を、「ぼく」だけを凝視してくるようになります。
インタビューで伊藤潤二は、「となりさんはもしかしたら対人恐怖症のようなものが少しあるのかな」と指摘し、自身も若いころ視線恐怖症があったと明かしています。シンプルなテキストと美麗なイラストによって描かれる視線の恐怖は、狂気を誘発するレベルの迫力を持っています。顔の増殖がエスカレートする中盤の展開は、もはや怖くて笑うことしかできなくなるくらいです。
「かお」に追い詰められて「ぼく」が転倒してしまったことから、物語はクライマックスに向かいます。読者の期待どおりにびっくりさせてくれるオーソドックスなオチのよさは、『いるの いないの』と同系統です。
『いるの いないの』には、無数に出てくる猫の数を数えるというおまけの楽しみ方がありました。『こっちをみてる。』も同様に、「かお」を数えるという遊びができそうです。いや、それをやると本当に頭がおかしくなりそうだから、やめておいたほうがいいかもしれません。

『嘘吹きアンドロイド』(久米絵美里)

嘘吹きシリーズの第3弾。男男感情大爆発事件が起きた夏休みは明けましたが、二学期開始早々、理子と錯の元に鞠奈が厄介事を持ちこんできます。学年一の美少年の田中瑠卯がSNS上で自分はアンドロイドであるとカミングアウトしました。この件は学校内ではすぐに流されましたが、鞠奈は小説執筆のための取材という名目でルーに構うのをやめません。ルーがパンダマウスを飼い始めたので、それを見に行くことを口実に理子と鞠奈はルーの家に入りこむことに成功します。
人もロボット・AIも愛玩動物も同じ俎上に載せ、命や自我をめぐる観念バトルが繰り広げられます。この流れもすっかりおなじみになってきました。会話で「や」という否定から入る間投詞が多用され、読点が多く長くてまわりくどい文体も、作品の理屈っぽさにぴったりあっています。参考文献には弱いロボット関係の本が挙げられていますが、これをひとつの突破口にしているのも興味深いです。
観念論から現実的な問題が立ち上がってきたときに感情が爆発する流れも前作と同様で、終盤は一気に盛り上がります。
また、理子・錯・鞠奈の三者の関係のなかで理子の感情がだいぶ育ってきたことにも注目する必要があります。理子と錯、いつの間にこんなにラブラブになったのでしょうか。理子の最後のセリフなどは、「I love you」と同義であるように思われます。

『放課後ミステリクラブ 1 金魚の泳ぐプール事件』(知念実希人)

たとえ建前であったとしても、児童文学は差別から最も遠い場所にあるべきであるということは、強く主張しておく必要があります。差別発言で炎上したばかりの作家が初めて児童向け作品を手掛けるということで、懸念を持っていた人も多いのではないでしょうか。少なくとも1巻の時点では著者の差別的な思想は作中には顕著にはみられなかったということだけ、まず報告しておきます*1
子どもが初めて触れるミステリをコンセプトにした作品なので、キャラ造形もオーソドックスでストーリーも一本道。わかりやすさという点では目的を果たしているようです。
メインの事件は、学校のプールに何十匹もの金魚が放たれてプールの授業が中止になってしまったというものです。冒頭の、夜のプールで塩素ボールを投げこもうとした先生が異変に気づく場面は、夜の高揚感もあって幻想性があり引きこまれます。やはりミステリには謎の魅力が肝要です。ただ、先生は夜の十時すぎまで五時間以上ものサービス残業を強いられていたと考えると、ブラック労働の過酷さにおののいてしまいます。過労死する前に逃げて! 
発端の謎は美しいです。しかし、犯人が目的を達するためにはほかにいくらでも簡単な方法があるはずなのに、あえて金銭的負担も大きい装飾的な犯行をした必然性が弱いように思われます。
悪くはない作品ですが、現代の児童向けミステリの水準を知る読者が読むと、著者の知名度の割にはあまり期待を満たしてくれなかった作品だったと受けとめられるかもしれません。

*1:件の李琴峰に対する差別発言ほど露骨なものはありませんが、その背景にある人権感覚や倫理観の欠如は作中から見出だせます。いまの時代になんの留保もつけず非人道的な長時間労働を描いていることや、金魚の屋台の男性を挑発して怒らせたうえで暴力で屈服させることを是としていることなど。このような人物に子ども向けの本を書く資質があるのかという疑念は、やはり拭えません。