『保健室経由、かねやま本館。7』(松素めぐり)

母親に逃げられて荒れまくっていた一平は、小柄な上級生のテラジ先輩にキックボクシングの道に誘われてから運命が変わりました。もともと体格に恵まれていたので(そもそも競技人口が少ないということもあり)、ヘビー級の全国大会で優勝して一躍時の人になります。テラジ先輩も母親不在という家庭環境は似ていましたが、父と兄との和気あいあいとした生活は幸せそうにみえました。テラジ先輩の父はかつてお笑いをしていて、一瞬だけ人気を博していましたが、いまでは成功した同期の紅白温度計を羨みだらだらと日々を過ごしています。そんなテラジ先輩の家族と関わりつつ、一平はだんだんプレッシャーに押しつぶされるようになり、かねやま本館に導かれます。
傷ついた中学生を温泉で癒やすというコンセプトのシリーズなので、その前段階としてまず徹底的に追いこまなければならないのは、考えてみれば鬼畜な設定です。今巻も子どもの追いこみ方がエグく、特にいくつもの対比関係が置かれているのが残酷です。そこに20年代を代表するBL児童文学である2巻の主人公の紅白温度計を配置するのも効いています。
小柄なテラジ先輩は体格のいい一平を羨む気持ちを抑えることができません。テラジ先輩の父は、芸人として成功し慈善活動までさらりとこなして世間から称賛されている紅白温度計を羨んでいます。一瞬の栄光で終わり残りの人生を浪費するか、継続して成果を出し続けるか、これは一平の未来の可能性を示しています。
テラジ先輩の父親はテレビの前で紅白温度計への羨望を吐露します。

「いいよなあ……、才能があって、はじめからカンペキな人間は。悩みなんてねぇよな、こういう、人に元気を与えられる側のやつらには」

紅白温度計の労苦と熱情を知る読者は「ちげえよ、ちがうんだよ」と心のなかで叫びますが、もちろんそれが作中人物に届くことはありません。
今巻はホラー度も高かったです。ガラスケースのなかの家が雪で閉ざされているイメージが鮮烈です。ただ、プロローグの時点で一方が華世子さんの手に落ちることは確定していて、それ以上最悪な事態は起こらないだろうと予想できるので、ある意味安心して読めるかもしれません。

『インサイド この壁の向こうへ』(佐藤まどか)

上流・中流下流の階級の人々が完全に分断された国の物語。本来深い関わりを持つことのなかったはずの異なる階級の6人の子どもが集められ、なんらかの教育プログラムを施されます。どうやらそれには、上級階級がゲーティッドコミュニティをつくる計画や、上流階級の少子化対策としてさまざまな階級の子どもを養子候補にしようとするたくらみが関わっているようですが、なかなか全貌はわかりません。
子どもをカルト合宿に放りこんで洗脳する『世界とキレル』に顕著に表れているとおり、佐藤まどかは子どもを特殊な環境に入れて実験・観察するのが大好きです。この作品では、ある意味で『世界とキレル』の答えあわせがなされているのが興味深いです。『インサイド』の登場人物が解説しているように、『世界とキレル』で主人公を1回脱走させたのも自分の意思で戻ることを選択させる(選択したように誤認させる)ことが目的であったようです。
インサイド』の終盤では、異なる階級の人々が理性的に話しあって問題解決に取り組むユートピアが実現されているようにみえます。しかしそれは、みんなが最低限の衣食住を保証されている状況によるものです。これを裏返すと、環境に恵まれない者には理性がないとしているようにも受け取れます。こうみると、下層民の内面を全然描かなかったデビュー作から佐藤まどかの姿勢は一貫しています。
子どもたちを閉じこめて教育を施したのは作中人物の意思によるものですが、その外側には当然作者の意思があります。作中の子どもは、二重の教育欲・支配欲にさらされています。

『闇に願いを』(クリスティーナ・スーントーンヴァット)

大きなマンゴーの木の下でふたりの子どもがマンゴーが落ちるのを待っているという発端はのどかそうです。ただ問題は、この場が刑務所であるということ。主人公のポンと相棒のソムキットがマンゴーを手に入れると、すぐに年長の女子が現れ脅迫され、反抗するとボコボコにされてしまいます。
ポンは犯罪を犯して刑務所に入っているわけではありません。刑務所のなかで生まれた子どもは刑務所で生活しなければならないという、人権無視にもほどがある制度が施行されているのです。あるきっかけでポンが脱獄に成功したことから、物語は動きはじめます。
ポンたちが暮らすチャッタナーの街は、「光の玉」というエネルギー源を独占する総督に支配されていました。総督はポンに、「闇に生まれた者は、かならず闇に帰る」という言葉を吐きます。これは、犯罪者の子どもはやがて犯罪者になり、刑期を終えて出所した人もすぐにまた悪事を働いて刑務所に戻るだろうという呪いです。格差は固定しておきたという権力者の邪悪な欲望が、この言葉に表れています。
権力者は邪悪ですが、登場人物には善性にあふれた人がたくさんいます。総督に抵抗しようとする人々は、非暴力的な手段に徹しようとします。しかしその試みは、悪辣な権力にいとも簡単に踏みにじられてしまいます。
作中の善性を代表するキャラクターは、脱獄したばかりのポンをかくまってくれた老僧チャム師です。誰にでも親切で、願いを叶える不思議な力を他人のために使う聖職者は、まさに人間の理想の姿にみえます。しかし……。善性だけではうまくいかない裏側も描くことで作品は深みを増し、結果的に力強い善性の輝きも増していきます。
裏側なんか考えず全面的に信頼できるのは、刑務所時代からの相棒ソムキットです。社会派ファンタジーとして奥行きのある作品ですが、最高の相棒との最高の友情の物語としても楽しめます。

『がっこうのてんこちゃん』(ほそかわてんてん)

初めてのことが苦手で不安に取り憑かれやすいてんこちゃんを主人公とする絵童話。てんこちゃんはテンの子どもたちが通うコトブキしょうがっこうに入学します。クラスにはてんこちゃんをふくめて10匹のテンの子が所属しています。担任のシロ先生は自己紹介をするように促しますが、さっそくてんこちゃんは不安に襲われます。
てんこちゃんの不安が医療的な支援が必要なレベルのものなのかどうかは判然としません。が、脳の中にいる「どうしようオバケ」が脳から出てきて首をしめつけるさまは、サンショウウオみたいなオバケの見た目がゆるいだけに逃れがたい怖さを感じさせます。
救いになるのは、テンの学校の多様性です。数字と電車が好きなてんいちくんなど個性的な子が多く、それぞれの違いを認めあう優しい世界が描かれています。てんこちゃんが自己紹介が怖くてカーテンにくるまって隠れてしまうと、他の子たちもカーテンにくるまってそれぞれの感想を言います。このように、てんこちゃんが排除されない世界が実現されます。
10匹のテンの子が自己紹介したりお弁当を見せあったり、あるいは花瓶が落ちた事件の犯人は自分ではないと弁解したり、それぞれの発言や行動をみせる場面にこのシリーズの特色と楽しさが詰まっています。ただし、多様性は決定的な孤独を現出させることもあります。2巻でてんこちゃんは、なんとなく学校に行きたくなくなって欠席します。その後ほかの子たちも学校に行きたくない気持ちになることがあることを知りますが、てんこちゃんと同じ「なんとなく」という理由の子はいません。でも、てんこちゃんが自分の気持ちを伝えると「それも、わかる気がする」と受け入れられますし、両親にはその気持ちがそのまま理解されます。
「みんなちがって、みんないい」というお題目を唱えるだけなら簡単ですが、この作品はその理念を具体的なシチュエーションとして実現している良作であるといえそうです。

『海のなかの観覧車』(菅野雪虫)

菅野雪虫が長編でファンタジー要素のない現代リアリズムをものすのはこれが初めてではないでしょうか。菅野雪虫はデビュー以来ファンタジーのかたちで社会派児童文学を書き続けてきました。ただし短編では、カルト二世を主人公にした「マッチ売りの少年」*1、女性の究極のジェンダー逸脱を描いた「いつかアニワの灯台に」*2といった衝撃的なリアリズムの問題作を世に問うていました。ですから、著者にとっては珍しいリアリズム長編が発表されるということで、読者の期待は高まっていました。そして登場したのは、期待を超える社会派児童文学の新たな金字塔でした。
主人公の透馬は地方の有力企業の社長を父に持っていましたが両親は離婚してしまい、経済的な不安はそれほどないもののメンタルが不調になりがちな母親のヤングケアラーとして生きていました。5歳の時の記憶がはっきりしないことや、身体の不調はないのに定期的に医者に通わされていることなど謎を抱えている透馬でしたが、15歳の誕生日に運命が動き出します。誕生日に透馬の健康を祝福する手紙が届き、それにビニール袋に入った黒い粉が同封されていました。その手紙と麻疹による熱がきっかけで、透馬は5歳の時に魔法使いたちと遊園地で遊んだ記憶を思い出します。
透馬の運命は、15歳で眠りにつくことを予言された『野ばら姫』と重ねあわされます。童話の世界との重なりあいや、水中に沈む観覧車などがある記憶の遊園地の光景などから、序盤は幻想性で読ませてもらえます。しかし、その幻想性と現実の落差の残酷なこと。物語は社会派リアリズムとして、謎解きの娯楽性も駆動力とし加速していきます。
著者らしい社会を見つめる視線のシニカルさがそこかしこに光っています。透馬の前で奪う側の論理を振りかざす社長秘書の城田さんの言葉には、ムカつかされることばかり。「爆発ではなく、(中略)爆発的現象」などという物言いには、この国の権力者の態度が思い出されて乾いた笑いしか出てきません。
闘争は情報戦として描かれます。企業側は復興を願うという名目で桜を植えますが、真の目的はそれで事故の実態を覆い隠すフラワーウォッシングでした。また、企業に抵抗する側も、自分をアイドル化するイメージ戦略をとります。
さらに、〈災害ユートピア〉は一瞬で消え去るはかない夢であることも冷静に見つめます。菅野雪虫の透徹した分析力は、同時代の社会派児童文学作家のなかでは抜きん出ています。
視点の置きどころをみれば、社会派児童文学作家の資質はわかります。『野ばら姫』の物語において姫でも王子でも王や妃でもなく、姫の巻き添えになって眠りにつかされた側や糸車を必死で守り抜いた側に立つ菅野雪虫は、信用してよい作家であると判断できます。
社会派として確かな作品であることはいうまでもありませんが、同時に真面目に通俗娯楽を貫いているところにも好感が持てます。情報を開示し物語を動かすタイミングが絶妙ですし、謎めいた双子といったベタなキャラクターの運用もうまく、ページをめくる手が止まりません。間違いなく社会派児童文学史に残る作品です。

2023年の児童文学

極めて異例のことですが、2023年の児童文学でもっとも重要な本は長編の単著ではなくアンソロジーでした。若手の注目株のにかいどう青や長谷川まりる、社会派のトップランナーである菅野雪虫といった豪華メンバーがそれぞれの視点から多様性というテーマに挑んでいます。
にかいどう青の「チョコレートの香りがするね」は、図書準備室を自分たちだけの城にしてだべっている女子ふたりという魅力的な設定で著者らしい文章芸を炸裂させ、難しいテーマに正面から斬りこんでいます。
菅野雪虫の「いつかアニワの灯台に」は、「安全」を「絶望」に転倒させる発想で、すべての女性が置かれている過酷な状況をあぶり出してしまいました。2023年にもっとも大暴れした作家は、長谷川まりるとみて間違いないでしょう。ディストピアSF『キノトリ/カナイ』とポストアポカリプスSF『砂漠の旅ガラス』とSF2作品を刊行し、『ジェンダーフリーアンソロジー』にも参加し、「日本児童文学」誌に『趣海坊天狗譚』を連載し、児童文学読者の話題を絶えずさらっていました。なかでも評判が高かったのは、海外YA的な手法でデリケートなテーマを扱った『杉森くんを殺すには』でした。性の多様性というテーマでもっとも光っていた長編はこれ。「みんな違ってみんな地獄」という認識を元に、多層的な人間の姿を描いています。ミステリの手法で娯楽性も確保しつつ多文化共生テーマに挑んだ作品。悪意やめんどくささから異物を排除しようとする小学生たちの姿をいっぱしの差別者として描いているのが怖かったです。戦争児童文学の難しさは、どうしても読者の子どもと先の大戦の時間的距離がどんどん開いてしまうところにあります。そこを、入れ替わりというなじみやすいフックを入れて女子の軽快な会話で物語を進行させる工夫で乗り越えようとしているところに、大切なことを伝わるように伝えようとする著者の真摯な姿勢がみえます。重いテーマの作品の紹介が続いたので、楽しく読めるベテランの作品も。主人公のザザさんはわがままなおばあさんで、そのわがままに耐えかねた家が足を生やして逃げようとしたところをザザさんがのこぎりを持って追いかけるという導入からぶっとばしています。そして、ザザさんと同じくらい性格最悪の月さんが登場し、愉快な煽りあいが始まります。児童文学プロパーではない作家の良作も目立ちました。SF作家北野勇作のこれは「ちょっとこわい」というタイトル詐欺が甚だしく、現実と夢が混濁した実存的な恐怖を突きつけてきます。複数の筆名を使いわけジャンルを横断して人気を獲得している中田永一のポプラキミノベルでの三部作が完結。著者らしいひねくれ方も織り込みながら、異世界転生と余命ものという王道の素材をうまく料理してくれました。群像新人賞受賞のデビュー作から賢い子どもの苦難を描き続けてきた木地雅映子がコロナ禍での一斉休校をテーマにすると、「コロナ……ありがとー!」という不謹慎発言が飛び出します。よい子に向けて悪い子になっちまいなと教唆扇動する、児童文学の大切な役割を果たしている作品です。翻訳作品でもっとも印象に残ったのは、1965年にアメリカで刊行されたこれ。ナンセンスとユーモアとペーソスの配分が絶妙な幼年童話で、刊行から半世紀以上経ってやっと初訳が出たのが不思議なくらいです。日本でも長く読み継がれる本になってもらいたいです。

『さよならミイラ男』(福田隆浩)

家庭環境に恵まれないアキトは、勉強も遅れて学校でも疎外されています。学校に行きたくはないけど母親が知らない男を連れこんでいる家にもいたくないので、しかたなく学校で人気のない場所を探し誰にも会わず時を過ごそうとします。鍵がかかっていなかった教材室に入りこむと、そこに不気味な気配を感じました。よく見ると、まるでミイラ男のような黒ずんだ緑色をした半裸の人物の姿が目に入りました。アキトは怯えて教室に逃げますが、その後もたびたび教材室に出入りし、ミイラ男と過ごす時間を持ちます。
最悪家庭環境の描き方には現実性があります。このような母親が自力で更生するのは困難です。そんな母親の男が救世主になるようなドリームを期待するのも難しいでしょう。
良識側の大人の行動にもリアリティがあります。当然学校はアキトの窮境に気づいて組織的に対応しているであろうことがうかがえますし、児相の対応もまともです。物語を盛りあげるために学校や児相を無能に設定している作品も目立ちますが、この作品のように子どものために働いている大人はきちんと子どもを守る行動をするのだという安心感を与えてくれる作品も必要です。
一方で、子どもの世界には甘さもあるように感じられました。困難な環境にある男子には実は隠された絵の才能があって、親身に手助けしてくれる女子もいるというのは、ちょっと古典的すぎるような気もします。いや逆に、ハンディキャップを持つ子どもは特別な才能を持っていないと受け入れられることがないという認識なのであれば、それはあまりに酷です。
最悪な状況のなかで救いになるのがミイラ男であることが、この作品の一番の特色です。傷ついた人の心の支えになるのは光り輝く美しいものではなく、醜くグロテスクなものであることもあるということ。その暗い側面に向きあったことが、読者の子どもにとっても救いになりそうです。