パラダイムシフト

今年の思いは生徒の英語力の育成のために勤しむ,


堅く言えば,理論と実践の融合・・・なのですが,


そのような思いを持つようになってから,


自分の中では英語教育に対する自己認識が変化しているのを


我ながら感じてきました。


ポジティブな刺激を受け思考が促されているのを自ら制御できればと感じています。


また同時に,今のままではダメだとも感じてきました。


今の思考・やり方のままでは・・・ということです。


teacher-researcherとしてのidentityの確立,バランスの取り方といったところでしょうか。


あまり大きなことを言うつもりはありませんが。


私はこれまでに非常に恵まれた環境で時を過ごさせて頂きました。


色々なものを拝見してきました。


それらを生かし,凝縮・集約させていく作業がこれからは必要になってくるものと感じます。


私の中では大きなパラダイムシフトです。


そこでここしばらく考えていたのですが,


本ブログはここで一旦終了させようと思います。


SNSなどでは少し呟いたのですが


新たなステージへの第一歩を踏み出す必要があることを強く感じています。


非常に辺鄙な内容にも関わらず,色んなサポートを頂きありがとうございました。


次の立ち上げも考えていますので,どうぞそちらもよろしくお願いいたします。

到達点と目標点

私が今年度していることは,先行研究のリサーチであり,理論的な背景に基づいた実践の構築であり,論文の作成ということになるのですが・・・・


ここ2ヶ月程,本当に息が詰まる実践に次ぐ実践で,授業をビデオで撮影し,自分なりにふり返りながら,改良していきながら,今日までやってきました。


これまでに実践をしてみての一番の収穫は,


「授業が楽しい」と言葉にする生徒がいたことであって,そんな様子の生徒が多く見られることです。


授業で楽しそうに学んでいる,それであって単に楽しいに留まらず,しっかりと学ばせる,自分の血肉にさせる。それが本当のプロ教師だと思います。生徒が楽しく英語を学べる,そんな瞬間のために時間や費用をかけるんだなと心から思っています。まだまだ先は果てしないのですが。


生徒の全員とはとてもとても言い難いのですが,題材内容についてリプロダクションができるようになってきました。今日の授業での,生徒がキーワードを扱いながら発話している様子を見て,学べていることが見て取れました。もちろん反省も多くあります。それらは今後の課題として,今の(私の)到達点は見えてきたような気がします。


先日,ある達人先生の授業VTRを拝見しました。生徒が取り組む教科書のリプロダクションがもの凄いことといったらありません。圧倒されました。その先生の授業レベルで実践できるような日々の授業に取り組んでいきたいと強く思います。


今年は本当に実践の楽しさを存分に感じることができているなぁと日々思います。今後は分析とまとめが残っていますが,何かしらの足跡になれるようにそちらも頑張りたいと思います。

こんな瞬間のために

授業のリフレクション。何が上手くいって,何が上手くいかなかったか。なぜ上手くいって,なぜ上手くいかなかったのか。生徒は何を学習したのか。何を学ばせたかったのか。よりよい方法はなかったか。次の時間に取り組む時にはどこをどのように改良するのか。・・・などなど。


ここのところ,授業計画をしっかり立て,教材準備をし,生徒の思考の流れを整理しながら,学習が上手く進むように展開を整えながらの日々が続いています。


しかし,いくら準備をしても授業が上手くいかないことがある(全て自分の経験)。真面目に取り組ませようと考えれば考えるほど,授業が上滑ってしまう。自分の理想だけが先行してしまって,生徒が置いていかれたときにそうなりがちなのかもしれません。


先週,昨日の授業とそこそこ展開したのは全て生徒のおかげ。完全なる計画ミスでした。それも生徒が「無理をして」食いついてきてくれたからできたことであって・・・活動に取り組ませた中で上手く取り組ませることができなかったことを猛省しました。


昨晩は今日の授業をどうするか,ダメだったところをプラスに転じるにはどうするべきかを考えました。考えの中で中心になったことは,「遊び心」です。中学生には,いくら理論的に優れた実践を展開しようとも,面白くない,難しいことには間違いなく通じていかない,と感じます。難しいことを如何に楽しませながら楽習させるか。その辺りを深めることは無駄ではないと思っています。


「遊び心」を持って取り組んだ今日の授業。リプロダクションをカードめくり形式で取り組ませてみました(詳しくはそのうち明らかにします)。生徒の様子は,悲鳴・奇声(笑),そして歓声。終わりを告げても「まだやりたい」と何度もせがまれました。その後取り組ませた真面目なリプロダクションに大変意欲的に取り組んでくれました。目先のことに捕らわれ忘れかけていたこの感覚。ちょっとしたブレイクスルーでした,私にとっては。


今日の授業は楽しすぎました。

メッセージに込める

今日は火曜日,なのに家でゆっくりできています。答えは文化祭の振り替え休日です。久しぶりの休みです。


今年の文化祭では,英語科からの出し物として生徒にオーラルイントロダクションに取り組んでもらいました。スライドは私がつくりましたが,生徒には英文でのデリバリーをさせてみました。テーマは「ロンドン」について。理想としては・・・色んな思いがありましたが,色々求めても私のこれまでの指導が十分ではないので(笑),今年は少しだけで抑えました。スライドには,作っては考え,再構成を何度もしましたので結構時間はかかりました。生徒のおかげさまで,少しだけポジティブな反応を得ることができました。来年は英文をある程度自由に駆使しながらのプレゼンテーションができるようにを目標にこれから頑張りたいと思います。


言語を指導する者として,英文を使ってのコミュニケーションの取り方,英文の理解の仕方「だけ」を教えるのは十分と言えるのだろうか,と某テレビを見ていて考えさせられました。


professionals are more than just playing an instrument. professinals are not just doing a music.


言語にはメッセージが込められている,言語を通して自分が込めているメッセージが伝わる。教科書の英文にあるメッセージに,教師としてのメッセージを込める。英語「教育」である限り,英語を通した上位概念のコミュニケーションがそこにあるべきであると思いますし,それらが生徒との最高のインタラクションであろうと思います。それは英語「教師」だからこそできることですし,であるならば私は何をインタラクションしようとしているのかを明らかにするべきだろうと思います。私は英語を教えることを通して何を本当に教育しようとしているのか。それはteacher beliefと言い換えることが可能なのかもしれません。私はまだまだ「明確に」言語化することができません。あれかな,これもかな・・・といった程度です。しかしながら,ここ数年それらのベクトルが一定方向を向き,安定してきたような感じも我ながら受けています。


失ってはいけないのは柔軟性。第三者が見たときに常にconvince-ableなものを提供できるように進化,深化していかないとなぁと思います。


授業の技術ではないけど,そんなことを突き詰めていくことで授業がポジティブに変化していくと思うんだけどね。

step to output with creativity, the difference of two practices

ここのところの授業実践の振り返り。


ディクトクロス,ストーリーリテリングに取り組ませたところ,ディクトグロス組もストーリーリテリング組も教科書の内容を理解し,いざアウトプットするところまでの過程には取り組めることが見て取れます。


ディクトグロス組には,ハンドアウトに(学んだ内容ではありますが)うまく聞き取れるようにマッピングさせるような工夫を加えたため,多くの情報をメモメモしています。思い描く通りに取り組んでくれてありがたい限りです。こちらはライティング重視のため,リプロダクションでも比較的時間を費やすことができますし,そのために取り組みが進みやすいのかもしれないなぁと思っています。ただのリプロダクションにさせないための工夫を「場の設定」として講じているところが生徒にとってわかりやすいかどうかがキーとなりそうです。


ストーリーリテリング組にはピクチャーカードにキーワードを記したハンドアウトを配布し,口頭練習に取り組ませたところ,生徒はいくらか嫌悪感を示すものの,慣れ如何によっては取り組めるようになってきています。学んでいる表現を視覚的にenhanceしたり,明示したりしているものの,即時的な思考を要するものにはイマイチ自信がないために,生徒にとっては難しさとして感じるということになるのかもしれません。どちらかというと,ストーリーリテリングの方がダイレクトなリプロダクションになりがちだと感じますし,生徒に柔軟性を持たせながら取り組ませることにさらに手立てを加えないといけないと感じています。


両グループにおける実践の実行可能性を十分検討していきたいものですから,さらに改良を加えていくつもりです。教科書を活用した創造的なリプロダクションができるように仕向けていきたいと思います。まだまだ道のりは遠いのぅ。

何をさせることが良いインプットか。

英語をシャワーのように浴びせることが重要です,
某ラーニング教材のタレコミみたいに聞こえますが,
これって本当に本当に,ほんまにほんまなんかいな。


「シャワーのように」・・・
自分がシャワーの時って,全くもって「何も考えていない。」
ま,お湯が温かいか,ちょうどいい温度かどうかくらいなもので。
そんなんでいいのでしょうか??


はたまた,じゃcomprehensible inputとするために,
がっつり訳読してしまうのも弊害有りということは明らかになってきています。


じゃ,良いインプットにするにはどーしたらいいのよ,ということになります。
以前某テレビで有名になられた植木先生が仰っておりました。
「人間の記憶には人がどのように言ったかではなく,その人が伝えようとしたメッセージが記憶されるのだ」と。
つまり教科書などでも話し手,書き手の意図を理解しようとさせることが鍵になるのかもしれません。
そのためのキーワードですし,意図の理解の鍵となる文法構造を通した理解の促しが必要となるのでしょうか。


中学校の間で生徒が意識的に作者の意図を理解することができ,さらに技能統合的に活用できるようになれば幸いだと思います。
でなくても,無意識的にでも,教師がそのように仕向けることも意味のあることではないかと考えています。


今のところのまとめとしては,メッセージを理解するために大意を掴ませる,
英問に答えることができるように読んだり聞いたりを通して理解を促すなどということになろうかと思います。


そんなこんなの取り組みが中学生の言語習得を促進させるものだ


と言いたいところですがまだ明らかになっていないのかな。他人任せですみません(笑)
日本の教室SLAがさらに進んでいきますように。