小谷野敦と荻上チキ
小谷野敦が荻上チキの実名のヒントをブログに書いた件でずいぶん盛り上がっているようですね
小谷野敦「荻上チキの正体」
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20071218
小谷野敦さんに実名を晒された件/および匿名と顕名の擁護
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20071220/p1
小谷野氏がチキ氏を自分のテリトリーへと引きずり込む、その舌舐めずりするかのようなワッルイ手練手管に「うっ」とします
小谷野氏のいう、匿名での批判は卑怯だ、だからその仕返しとして実名を晒すのだ、という感覚は私にはよく分かりません
ただ、小谷野氏はモダニストであるのだなとは思います
実社会での昼の顔、昼の名前を使い、Webにおいては夜の顔、夜の名前を出す
その二つの乖離が、日本社会では特に強くあります
昼も夜も、同じ名前で発言し、社会生活を営むことが、主体的な市民として生き、政治的な公共圏を作ろうとするときに必要となりはしないのか
会社に勤め人として通っている間は公的な仕事(ワーク)に参入している
一方、Webにおける言論活動(アクション)は、私的な領域でのものである
この構造には、理想的な民主主義社会の原理に反する不可思議な「ねじれ」をはらんでいます
田中和生氏と高橋源一郎氏の論争は、Webではまったく話題になっていませんよね、それは問題なのではないでしょうかとある飲み会で私がしゃべっていたら、文芸誌と、Webでの言論とはまったく別物で、そんなことは気にするものでもない、といったような指摘をいただきました
Webにおける言論というものは、昼の実社会へと本当にリンクしうるものなのか
ネットの空間における表現は、言論界のものへと、きちんと連結するものなのか
Webでの表現活動を追求している小谷野氏とチキ氏というお二方であるからこそ、興味深いもめ事だと思います
フーコー『真理とディスクール』
デリダ『歓待について』
ソポクレス『コロノスのオイディプス』を論じる
「オイディプス王」に代表されるエディプスコンプレックスへの批判的考察が混じるよう
国民国家における移民受け入れ問題も課題
共同体へ来た「異邦人」は、まずは法の言語に対して「異邦人」である
デリダは無条件の「絶対的な歓待」を推奨しているよう
・ソクラテスは「異邦人」である
・1996年の講義
p.38・人間は動物とは違い、動物を「歓待」できる
・アテネでは異邦人は権利を持っていた→古代ギリシャ民主主義における人権考察
・異邦人はまず名を問われる→同一性と主体が発生する
・法の外にある「オイディプス」を、いかに法のなかへと組みこむか
(・家族にとっての子供と、国家にとっての移民は、ともに「異邦人」であるという視点があるのか?)
・「オイディプス」にとって、都市としての「テーバイ」は「有罪」であり、「無意識」である
・現代の異邦人はインターネットからも訪れる
・「嘘をつく権利」。Web社会において。警察に嘘をつくことは悪いことなのか?カントへの批判を絡めつつ扱う。カントその人は嘘をついたことがないのか。証拠はないのだ、と
・カントの場合、道徳性の名のもとに、あらゆる場所への権力の侵入がなされる、と
・共同体の掟に対し、普遍的な掟(絶対的な歓待)を二律背反として対置し、掟の単数性に対して、複数性を持ち上げる
・「言語」は「我が家」である
p.126 「最初の人間オイディプス(ヘーゲル)は最後の人間オイディプス(ニーチェ)でもあります」
・旧約から引いてきたロトの挿話がイマイチ理解できませんでした。異邦人に、娘をやらせちゃうお話。フロイト的、ヘーゲル的に、なんやかや寓意しているのでしょうけれども。これ、なんてエロ本?
○チェック
ソポクレス『コロノスのオイディプス』
東浩紀の指摘する第二期デリダ『弔鐘』(70年代)→家族の問題、ヘーゲル論
プラトン『ソピステス』『ポリティコス』『ソクラテスの弁明』
カント『永遠平和のために』、「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利に関して」『カント全集』十六巻
「悲哀とメランコリー」『フロイト著作集6』→「喪の作業」
アンリ・ジョリ『異邦人たちの問い』
高橋哲哉『デリダ――脱構築』
ハーヴェイ『新自由主義―その歴史的展開と現在』
正しく「世界系」である現代世界政治経済史
間違っても「セカイ系」ではない書物
超具体的
Webには、社学系のプロの人がアマゾンレヴューや、論文をあげているよう
でも、Webの一般人の間ではあまり話題になっていない
「市場主義」は、倒錯的な思想に裏付けられた経済活動だとして糾弾している
儲かるものがより儲かる
下層社会が拡大していく仕組み
経済新聞に載っていそうな事実が多量に羅列してあり疲れる
ただ、貧しきものよ、団結しよう
立ち上がれ
現状に甘んじているだけでは、搾取されまくるだけだぞ
といったメッセージをそこここに見抜くことができ、そこが興味深いところ
でも、それを実現する方法が分からないのですよね
新自由主義と、そのなかから派生して生まれてくる新保守主義
それらに対するものとしての福祉社会
この三つしか、方法はないのでしょうか
でも、それぞれ、「お金持ちがどんどん有利になる」「自国だけでも助かろう」というやり方でしかない
・アメリカ、イギリス、ラテンアメリカ諸国、中国、旧社会主義圏など、広く扱う
・「富裕階級の権力回復のプロセス」としての新自由主義
・各国の政治的経済的関係のなかで、新自由主義がどのような波紋をもたらしているのかダイナミックに綴る。地理的に離れら相互の関係のなかで、政治、経済それぞれの不均等な発展に注目し、厚みのある論となしている大変な労作
・英米圏の左翼知識人はイーグルトン、ジェイムソン、カリニコス、そしてハーヴェイがいるが、経済学者はハーヴェイだけ(アマゾン情報)
ミシェル・フーコー、渡辺 守章『哲学の舞台』
本書は
・フーコーと渡辺の対談
・フーコーによる日本での講演
・渡辺の解説
からなる
フーコーが、日本の読者に向けて分かりやすく自己の思想を語っている
「西洋的には前提」といったようなことにも反省が加えられていて、良い本である
しかし、フーコーやドゥルーズにある「精神分析学」への批判って、日本ではあんまり意味がなくないか?
だって、日本には、「主体」も「精神分析学」も「キリスト教」もないんだから
という疑いもありますけれども
いかがなんですか?
フロイト、フーコー、ドゥルーズなどの性欲論って、日本ではどの程度あてはまるのか
世界的に見て、セクシュアリテとは何なのか
などという点がおおいに気になります
フーコー
p.23 フーコーが興味を持つのは、「永遠なるもの」ではなくて「事件」
p.28 「ある種のヘーゲル哲学的・マルクス主義的歴史の概念がどのようにベルクソン哲学的な時間の特権視=空間の無視によって中継されているか」
p.30 中世では追放の刑が盛ん
p.35 構造主義は相異なる多様な時間を出現させた
p.50 デカルトからサルトルまで、主体は根底的な何物かであると考えられてきた
フロイト、ラカン、バタイユ、ブランショ、クロソウスキーはこれを解体した
p.70 性的行動の異常と精神疾患の関係は十九世紀になって主張されたものであり、それはブルジョワ的家族道徳の規範と密接な関係を持つ
フロイトにおける「神経症」の見分け方とは「神経症患者は、第一に働くことができず、第二に、正常な性的行動がなし得ない人間である」
渡辺守章
p.80 セクシュアリテ(性的欲望・性の領域)が成立するのは、性の真理こそ人間にとっての真理に他ならず、それは言説化されねばならない、という思想を前提とした
セクシュアリテを成立させ展開させているのは、「言説の秩序」であり、十九世紀に拡大した
p.87 告白においては告白する者が権力を握っているのではなく、言説化をそそのかす側にある。また、告白においては、そこに産出される真理は、「主体の学」の根拠となる
p.106 東洋的な「性愛の術」と西洋における倫理は対照的である
西洋における「解放すべき欲望」という考え方は、セクシュアリテの一構成要素であり、キリスト教の司教規律と良心の検討が他と区別して取り出したものである。それはキリスト教の告解の規律から精神分析に至る、自分自身の無意識の読解の中心を成すものであり、そのような「欲望」を中核に、自分自身についての意識、「主観性」が形成された
フーコー
p.122 フロイトが出発点としたのは「ヒステリー」
ヒステリーとは、自己の過去あるいは、自己の身体を忘却すること、あるいは認識しないこと
フロイトは、これを、主体による自己の欲望の忘却ないし否認だと考えた
これが精神分析の出発点となった
p.127 なぜ西洋人は、性についての真実を知ることのみを心がけて、その快楽を高めることを試みなかったのか
p.130 一夫一婦制を強制し、性に生殖の機能だけを認め、性的快楽に価値を認めない
そのような文化を作ったのはキリスト教である
という説は、実は間違いである。ローマ世界にそれらの習慣はすでに存在していた
しかし、キリスト教は、そこに、「新しい技術」を導入したのである
それが、<牧人=司祭制>の権力である
p.137 その権力は、移動する多様な構成員に働きかけ、権力者側の自己犠牲を旨とし、個人を対象とするものである <牧人=司祭制>において生きる個人は、自らを救う義務がある <牧人=司祭制>においては、各個人のなかに「真理」が産出され、この「真理」が羊と羊飼いを結びつける絆となる
p.155 権力の行使を哲学が組織化する。
たとえば、ナポレオン帝国と、ルソーをはじめとする十八世紀フランスのイデオローグ、プロイセン国家とヘーゲル、ヒトラーとニーチェ、ソ連とマルクス
p.176 個人が主観性という形で自己と持つ関係は、実は権力の関係なのではないかと問うべきである
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鈴木 謙介『ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか』
「ウェブを利用する私」について社会学的調査と、少々の哲学的アプローチを混ぜた論文風のエッセイ
若者の生態を人文社会科学的手法を用いて分析すれば、若者受けし、それ自体で商売となりますね
Web上で公開された情報を多く拾ってきて文章を完成させていることも目新しい
古谷実の『ヒミズ』を論じている
ハムレット型ではなく、マクベス型の「宿命」であるとして、『ヒミズ』を考察している「決まっているから決まっているのだ」と
大澤真幸のシニシズム論
北田暁大の「ロマン主義的シニシズム論」
八〇年代には「あえて」を選択することが可能だった
しかし、それ以降の世代には「あえて」すらなくなった
という指摘は、大澤、北田の論より、腑に落ちる
後期近代は、超越的視点がないため、「自分がなぜそのように振る舞うのか、自分では理解できない」
そして、「内発的な動機付けを自己言及的に高めている状態」が「カーニヴァル」である
情報社会の諸システムが、この「カーニヴァル」を可能にしている、とのこと
「数学的民主主義」と「工学的民主主義」などという珍用語を使用している六章七章などはちょっと眉唾である
◎チェック
木原善彦『UFOとポストモダン』
サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』
仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』……セカイ系と絶望系?
浅羽通明『右翼と左翼』
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千野帽子『文學少女の友』
・少女風の語り口を通していて、ボケたおし文体
・まれにおっさんとしての本音が出て、オカマ臭い
・小説を愛する姿勢に好感が持てる
・千野はキモイ系文芸評論家として、小谷野の次席となりそうである
・今は昔の話。二十世紀における文芸評論家はマッチョ系の人たちであった。しかし、二十一世紀の文芸評論家は皆、キモイ系となる。これは歴史の必然である(ヘーゲル的な意味で)。大きな物語が崩壊し、それでもなお文芸評論に固執するとなると、趣味的なものへと埋没せざるを得ないからである。文芸評論家は小さなセカイに閉じこもり箱庭的な物語を愛でる
・千野はウェブでの文芸系記事をよくチェックしていて、適宜導入している。全般的にウェブの使い方がうまい
・最近、「純文学」は海外にあるかないかという論争をWebで目にした
ようは、「水」=「water」かどうかというお話だろう
本書では、「純文学」について次のように簡単にまとめている
「純文学という言葉は、もとは北村透谷が、学問のためではない非実用的な芸術的文章といったニュアンスで使ったものだそうです。それが、大正期に白井喬二らが大衆文学・大衆文芸といったジャンル名称を掲げて、「文学」から独立しようとした動きに反応して、非「大衆文学」サイドがあとから「純文学」を、特定ジャンルのラベリングをしない小説として使用することで、現在の意味になったという」
p.94 1980年代まで、「教養」は男子の病いでした
・幸田文、森田たま『今昔』→スロウライフ市場
→「アンチ等身大、美意識優先という点で、もちろんあのゴスロリ市場に匹敵する人工性&バリバリ暗黒な妄想力を持ってます」
⇒この観点は気付かなかったが正しい指摘
○チェック
三浦雅士『青春の終焉』
乙一
西尾維新
河合隼男『ファンタジーを読む』
サバテール『物語作家の技法』
「ユリイカ 二〇〇六年二月号」「ニート特集」
正宗白鳥『自然主義盛衰史』
野溝七生子『山梔』
尾崎翠『第七官界彷徨』
森田たま『石狩少女』
小沢英実『文化系女子カタログ』
杉浦由美子『オタク女子研究――腐女子思想体系』
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デリダ『コーラ』
プラトン『ティマイオス』における「コーラ」=「場」について論じているよう
「場」とは、「同一性」「二項対立」を逃れ去るものである
フェミニズム、建築とも関わるらしい
よく分からん
西田の「場」の論理とはなんか関係があるの?
「同一時間、同一空間には、二つのものが存在できない」とか
・たぶん、コーラとは「神」「最高存在」のことだろう
・あなたも、「女」であることをやめて「神」になれる。きっと
・『ティマイオス』の宇宙開闢説におけるロゴスの終りたるテロス
・ヘーゲルの論理学とアリストテレスの形而上学
・イデア的、叡智的なものと、感性的なものの間の深淵
・感性的でも叡智的でもない「母」という「場」
・ソフィストは固有の「場」を持たない
・プラトンはアリストテレス的な真面目さに対して、「戯れ」/「真面目なもの」という対立措定の同一の使用を成す
・コーラは、乳母でも母でも女でもなく、カップルを成さず、独自の個物である
・存在の二つの形式に対する、第三のジャンル
守中高明
・コーラは、延長のうちに位置付けることができず、存在者としての限定を欠く
p.103「コーラをめぐる記述を「教育的なメタファー」と見なす伝統を批判しつつ、それが告げている事態を字義通りに読み解くデリダによれば、「叡智的なもの」でもなく「感性的なもの」でもない「第三のジャンル」とプラトンが呼ぶものは、存在者の三つ目のジャンルではないし、存在の反対物=非存在でもない。また、この点が肝心だが、フィクションとして想定され、やがてしかるべき仕方でロゴスへと止揚されるべき神話素なのでもない。それは、それ自体としてのいかなる実質も欠いた何か、ロゴスの言説によってはただ「〜でも〜でもない」としか表現され得ないような非‐固有性そのものであり、したがってそれは、弁証法に対してある特異な関係を持っている」「いわばそれは対立措定の非‐対照的な外部を構成している」
鏡音リン
よく、劣化コピー的な名前をためらいなくつけるな
「初音ミク」よりネーミングセンス落ちているだろ
「初」という文字
「未来から来る」
という時系列のこと
「音」と「時」の二つの要素
「初音」という漢字と「ミク」というカタカナ
対照的なそれらがマッチしているのが「初音ミク」という名であった
しかし、鏡音リンて
たぶん、音が鏡で反射しているイメージなのだろう
しかし、副次性がない
姓と名の、漢字+カタカナの組合せについても、コピーに過ぎない
初音ミクの次は、その妹の鏡音リンか
時系列の問題系が消失
その代わりに、「鏡」というナルシスティックな欲望が前進する
それ、なんてオナニー?
まあ、オタクにはちょうどいい商売だろう
◎「大航海No.64」
2007年秋発刊の雑誌
この号は「近代日本の学者101」という特集
この手の学術教養商業誌としては、とても面白く読めました
と褒めようと思ったのですが、家でネット検索をかけてみて、この雑誌を見つけられないことに唖然とした
アマゾンに登録すらされていない
なんだこりゃ
売る気あるのか?
三浦雅士が編集長だということだが
「大航海」って、図書館に置いてあるのはよく見るが
Web上ではろくに露出していないようだが、ちゃんと売れているのか?
あるいは、どこかからの助成金メインで持っている雑誌なのか?
「大航海」で検索しても、「船」の方のネタでばかりヒットする
ネーミングセンス最悪だ
「学者の時代は終わったか」という村上陽一、樺山紘一、三浦雅士の対談がある
いやあ、学者になるのなんて無理だよねえ
と思わせられます
彼らの時代に比べて、学者志望者が3桁増えたらしい
3桁ってなんじゃ
大学院生は、ニート人口を増やしているというお話
ぎくり
日本で評価すべき学者は101人もいるのか?
とか、
あんな人もこんな人も入ってないじゃん(笑)
とか、
まあ、そんな楽しみ方もできる雑誌です
漠然と学者たちの名前と業績を眺めているだけでも、楽しめました
しかし、小谷野敦は、こういう雑誌の執筆に参加できるってすごいな
ドストエフスキー特集、どんなもんじゃいと思って読んでみた
そこらへんの文芸誌より、ユリイカ掲載作品の方が、論文っぽさは出ている
しかし、編集の側での紙面の体裁が素人臭いのは、いつも不思議
さらに、アマゾンに目次を載せていないのは売れていないからか
困る
一番面白かったのは小谷野敦のもの
小谷野も、あちこちで大活躍だな
ドストエフスキーって、宗教臭い
セカイ系臭い
そこを真正面から小谷野は叩いていて、その点で独立した批評たりえていた
ドストを褒める人たちは、みんな宗教っぽくなるからね
山城むつみも、Webで話題になった「リアルアンパンマン」という動画と結びつけてドストを論じていて、目新しいと思ったけれども
でも、ちょっとグダグダで、ウケを狙っているのだろうけれども、何言ってるのか
わけわかんね
あとは、バフチンとプラトンの方からドストを論じている論文が、ちょっと興味を持てた
◎「三田文学」
○No.91(秋季号)
座談会「昭和文学(戦後〜昭和末年)ベストテン[小説篇]」秋山駿、井口時男、富岡幸一郎、田中和生
選ばれている作品は「必読書150」とそんなに変わらない
田中和生が、大庭みな子をむりやりごり押しして、戦後文学のベストテンに入れてしまったのが印象的
富岡幸一郎がめちゃくちゃ嫌がっていた
女の作家とか、入れなくていいよ、みたいな発言とかもあり、普通に失言じゃないか?
文壇って、ほんとにひどいところなんだな
女性文学って、確かに、似たようなものばっかでつまらないものが多いけど
田中が大庭の『浦島草』を押し込んだのは賛成できる
しかし、昭和文学なんて、ほとんどの人はもう読まないんじゃないか……?
○No.89(春季号)No.90(夏季号)
若松英輔「越知保夫とその時代――求道の文学」「須賀敦子の足跡[あしあと]異端者の信仰とその祈願」
三田文学新人賞評論部門受賞作と、その後の第一作を読んでみる
ぼくなどより、はるかに文章がうまいなと思う
しかしね
マルクス主義だキリスト教だ!
評論は宿命だ!
悪い意味で宗教がかっている、古臭い文学的文体
こんなノリでいいの?
越知保夫とか須賀敦子とか
読む意味あるのかな
日文科近現代って、学生のお金を多く使ってこういった雑誌を作っているのでしょ?
ほとんど、趣味的な感じがします