電子書籍出版した。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00BOZ3ESK/
150円。
どうもkindleを貼り付けられないようなので、URL貼るだけだ。
作者自身がkindleもっていないというまことにお恥ずかしい状態の出版なので、心許ないが、それでもこいつの小説を読んでやろうという奇特なお人がいれば是非。

コトノハデカダンス

まず百川リサさんがリンクもスターも付けるな(それも大量と言う訳では無い常識的な範囲内である)、といわれるのでその通りに従おうと思う。俺は百川さんを批判している訳で別に嫌がらせをしている訳では無い、と言う事をここに明記しておきたい。俺のしたいのはただ批判だけなのである。それは自分の「表現の自由」「思想・良心の自由」を重視したいがためで――俺は憲法を絶対のものとしないが――百川さんのその権利を弾圧している訳ではない。
それから別に批判専用のためにこの場を設けた訳では無い、ということを長らくの読者は分かっていただけるのではないだろうか。スパムメールを送った事実もない。百川さんに送ったメールは一通だけである。もともとはてなでは議論などが盛んに行なわれているし、攻撃的な発言が行なわれる風潮もある。だが俺はそういう風潮に棹を差したい訳ではなく、これは一言物申しておくべきだなと思っているから書いているのである。
まずこの場合百川さんは子供のころに考えていた事を、批判せずに正しい事として書いておられる。ということは今も正しいと思っておられる事になるでは無いか。
実際百川さんも書いておられる。

小学生のころの「言いえて妙/目から鱗」という分類が決して間違っているとは思ってはいない。それが確かに稚拙であるということは何度も述べたが、間違いではないと思っている。

前の記事でも書いたとおり「レトリック」は「言い得て妙」や「眼から鱗」などと言うものとは全く違うのだから、それを話の枕においている時点でそれは間違いなのだよ、と俺は言っているのだが。
間違った事を前提にしている以上、今どれだけ「レトリック」に詳しくなったよ、と言われても随分と怪しいものがあるじゃないか、ということだ。子供の頃にした分類が間違っているのに、それを正しいと言い張るのだから、それから後の発言も間違っている可能性があるじゃないか、ということである。
おかしいというならその後にある「リアリズム作家」「前衛作家」という安易な区分けもおかしい。少なくともまともに文学を勉強したことがある(それは文字通り作品を読む、作家の事を知る、ということである)者ならば、このような安易な区分けをちょっとでも持ち出して語る事自体慎むようになるからだ。そしてある作家の「レトリック」を云々するからには、その小説全体の効果を論じなければならない(ご存知の通り、その場の「レトリック」というのは作品全体を読まないと、違った意味で取り違えてしまう可能性があるからだ)筈なのにそれも怠っている。だから俺は齋藤美奈子や池田晶子ならば大丈夫だ、といっているのだ。まぁその怠惰もわからないではないが。それほど小説を読むと言うことは大変だ。小説家の「レトリック」に言及している以上、小説は語っていないんです、「レトリック」についてだけ語っているんです、と言い切ること自体に随分と無理があるのではないだろうか。だから俺は批判したと言う訳だ。「小説認識」の甘さが「レトリック」に対する認識の甘さを生むのであろう。子供だから、で許される訳はない。幼稚だったと思っているのならば黙っておけば済む事だ。思い出せば恥ずかしいことなど沢山あるだろうから。わざわざ持ち出して語っている時点でそれを肯定していると言う事になるではないか。
確かに百川さんが意見を言う権利はある。だがその意見が間違っていると思った場合それに反論する権利が俺にはある。
まぁ確かに最初に書いた文章が攻撃的だったことは認めよう。だが、百川さんの書いた文章を幼稚だと思った事は確かであるし、また高慢だと思った事も事実ではある。そして今でもそれは変わっていないわけだ。

追記:普段から好きな事垂れ流しているくせに「ご連絡」とか畏まりやがってよう。笑っちまうぜ。

追記2:全く「ストーカー」とは大きく出た話だなw

「最後の応答」に対する応答

まず、重大な勘違いをされているようなので言っておくと、id:momokawa-yさんにスパムメールを送ったのは別に俺ではなくて、id:momokawa-yの思い込みだと言う事である。「test test testtest testt test testtt」というのはどうやら俺の使った捨てアドなのだろうが、これをスパムと勘違いされているらしいのだ。「匿名、攻撃的で、卑怯で陰湿な手口だったからである」というのもはっきり言えばおかしい。俺からすればid:momokawa-yさんは匿名だし、実際この人のサイトを訪れる方の大半にとっても匿名だろう。攻撃的な記事も随分と書いておられるように思われる。とにかく匿名が匿名に吼えてもなにもねぇんだよ、という話ではなかろうか。id:momokawa-yさんが実名を晒される時は、俺も喜んで実名を晒したいと思う。勿論出来るならばメールにしてほしいところではあるが。「卑怯で陰湿な手口」というのもおかしい。俺はid:momokawa-yさんにメールを書き、コメントを書いただけに過ぎないからだ。勿論それは攻撃的な物であった事は認めるが、「卑怯で陰湿な手口」といわれることについては変な話であろう。あと少なくとも俺が見た限りではid:momokawa-yさんの書き振りは匿名掲示板の固定ハンドルと似ている。ちょっと反論すればすぐに怒り出す当たりまさにそれだ。それからid:momokawa-yさんは「寝る時間を何でお前ごときのためにわざわざ削ってやらなきゃ」といっておられるが別に俺はid:momokawa-yさんに寝る時間を削っても反論を書いてくれ、などといった覚えはない。時間がある時に出来るだけ書いていただければ結構なのだ。
以上をもってid:momokawa-yさんは大きな勘違いをしておられると思うし、事実を読み間違えておられると思われる。
何しろid:momokawa-yさんの書く文章が余りに高慢で自己中心的なものとこちらは取れたため、批判の対象にしたというわけであって、別に「レトリック」以外にもこの人の書くものに突っ込みどころは多い。批判してあげる人がいないのを可哀想に思って、先手を切って批判して差し上げたと言う訳である。まぁ高慢の鼻を圧し折ってあげたい、と思った訳なのだ。ここまで大騒ぎされるとは思っていなかったが。勿論「レトリック」に関しても俺が正しいと思うわけだが、その反論は以下書いていくことにしたい。
まず根本的なところから行くとしようか。

小学生のころに「言いえて妙派」と「眼から鱗派」に分類したことがあったという事実を書いただけで、様々なレトリックがあることは「今ならば」知っている

しかし、そのそもそもの「言いえて妙派」と「眼から鱗派」が「レトリック」ではなかったとすれば? そんな物は俺個人として「レトリック」だとは思われない。キーヨに心酔したことがある者からすれば尚更だろう。

レトリックが「読む私」に関するというのは間違いであり

これも変な話だ。何しろ俺はそんな事は言っていないからだ。レトリックというのは「書く私」に関するものであり、「読む私」に属する訳がない。仮に読まれるとしたら「書く私」の作法に則って読まれなければならない訳だ。「レトリック」というのは文字通り「書く技術」なのであり、読者の感情が入り込んでくる、というのはおかしい。作者の意図と、読者の見解は絶望的なまでに食い違う。読みやすく書いたつもりなのに晦渋で分かり難いといわれることは多いし、その反対もしばしば起こる。そういう場合に「レトリック」、などと言うだろうか。勿論誤魔化すのが好きな人間であれば言うかもしれないが、実際は違う。「レトリック」と言うのはあくまで書き手が「どう書くか」という問題に過ぎない。だから「漫画の修辞学」と言うサイトを出したのだがお分かりにならないようだ。あそこではいちいち漫画のコマを使って、どういう修辞か、どういう「描き方」をしているか、という事を解説しているからだ。ここで分かるのは読者に言い得て妙だと叫ばせるものでも、眼から鱗を出させるものでも、それは読者側の読み取り方なのであって、「書く技術」とは関係がない、という話なのだ。
つまりid:momokawa-yさんはそもそもの始めから失敗している訳であって、「様々なレトリックがあることは「今ならば」知っている」といわれても本当に「レトリック」の何を知っているのだ、という話になってしまうでは無いか。「十年一日」と書いたのはそういう訳であったのだろう。

明らかに100人が読めば100人が判断できるものである(ただこの当事者は理解どころか判断すらできていない)。たとえば直喩を考えてみればいい。ひまわりのような笑顔だ、と子どもがいうとき、その子どもはイメージを「分かり易く」相手に伝えるために比喩を使っているわけだ

確かにある文章があって、それを百人に読ませれば百通りの読みが出来るのは当たり前の話である。だがそれと「レトリック」が何の関係があるというのか。「レトリック」というのは畢竟するに書き手の問題である。読むとすれば「こういう書き方をしているよ」という以外に読む方法はない。

ひまわりのような笑顔だ、と子どもがいうとき、その子どもはイメージを「分かり易く」相手に伝えるために比喩を使っているわけだ。

まさかそんなませた子供がそう居るとは思えないが、仮にレトリックとして判別すればそれは「比喩」でしょう。別に読み手を憶測させるであれば色々といえる。その「子供」個人にひまわりに纏わる記憶があって、それが他人の顔面に現われたある兆候と偶然の一致を果たしたのだ、という具合にだ。

サファイアのような涙」(ちょっと本が手元にないのでこの通りではないかもしれんが)とはいわないだろう。お前そういう分かりにくい比喩をリアルに聞いたことあるか? 

さて、肝心の「サファイアのような涙」である。これも「レトリック」としてみれば「比喩」であり、子供の「比喩」と差はあっても同じ「レトリック」だろう。それに憶測をすれば鹿島田だって感じたイメージを「分かり易く」伝えるつもりでそう書いているのかもしれないでは無いか。だが分かり易いか分かり難いかは「レトリック」ではない。断じて、と言わせて貰おう。id:momokawa-yさんのいう「子供」にしろ鹿島田にしろ、使っているのは同じ「比喩」という「レトリック」だ。用法の違いにしか過ぎない訳で、使っているものとしては同じだ。RPG世代には寧ろ「レトリック」を「魔法」と言ってもいいかもしれないだろう。RPGの世界観では、子供も魔術師も「ファイア」を使えたりする事がある。だが同じ「ファイア」でも子供が使うのと魔術師が使うのではまた話が違う。だがそれが「ファイア」である事にまず間違いがないのは確かだろう。つまりはそういうことだ。ここまで言えば分かってもらえるだろうか。
勿論「比喩」自体は使い古された「レトリック」で、村上川端横光を上げるまでもなく、普通の人でも本当に日常的に使っている。そしてそれが「比喩」という「レトリック」を使っている事に間違いはない。日常的に使われるものなのである。勿論id:momokawa-yさんはそういう日常的に使われるものとは別に芸術的な使われ方がある、といっておられるのだが、「言いえて妙派」や「眼から鱗派」などと分けられるものではなく、そんなものは「読み手」の問題だと俺は言う訳だ。書き手にとっては「比喩」を使っている事に変わりはないのだ。
せいぜいid:momokawa-yさんの意見をまともに取り合ってあげる点があるとすれば「用法」だろう。「レトリック」の「用法」という訳だ。その点では確かに「子供」と鹿島田の「比喩」は違う。だがはっきり言って小説などを読もうとする場合、作者の意図を汲もうとする事は最大の目的では無い。ただそこに投げ出されたものを徹底的に鑑賞し尽くすことが重要であって、そこに作者の想定した意図や「用法」は関係ないのだ。
もういい加減に「言いえて妙派」やら「眼から鱗派」とかいった下らない言葉を使うのはやめにしようではないか。それはただ単純に読み手が、いやもっと正確に言えばid:momokawa-yさんがどう「感じる」かの指標でしかない。そもそも「レトリック」というものの意味を根本的に誤っておられるのだから、それ以降覚えた「レトリック」とやらも「本当に大丈夫?」と聞かねばならなくなるからである。お分かりだろうか。
それから後は単純なのだが、

つまり「サファイア」と「涙」が繋がるということを発見せざるを得ないだろう。もしお前がこのふたつの繋がりを考えたことがなければ、それは必然的に「発見」になりうるわけだな。読み手がイメージしたことがなければ必然的に発見せざるを得ないのだから、読み手の判断などどうでもいい。つまり「発見する」ということは、「発見したことがない→知らなかった」ということだから

この辺りには溜息が出る。この人はまだ「新感覚派」の時代に生きておられるのだろうか。もうそういう意味での「眼から鱗が出る表現」等といったものは今の時代では普通に陳腐化している。俺がまぁ鹿島田を余り評価していないのはそういうところにある、とこっそり言わせて貰おう。面白い評論があったので教えて差し上げよう。ちゃんと「レトリック」として「直喩」であるとか「喚喩」とか言う言葉を上げて横光の小説を分析されている。もっとも、id:momokawa-yさんにしても、

こっちは隠喩換喩提喩についてもさんざん

などと喚かれるのではあるけれども、はっきり言ってその意味が理解できているかは怪しいのだ。まぁ「俺はレトリック研究者じゃない」とも仰られるが、「レトリック」なんぞと言うのは文学の基本であって、ちゃんと説明も出来ないのがおかしい。「隠喩換喩提喩」だけが「レトリック」であって「言いえて妙派」とか「眼から鱗派」いうのはレトリックでもなんでもない。ただid:momokawa-yさんの「感じ方」にしか過ぎないのだ。「ねんね」という言葉はそこから出てくるのだろう。何度も繰り返すが(繰り返さないと分かってもらえないようなので)漠然とした「言いえて妙派」とか「眼から鱗派」とか言うのは「レトリック」ではありえないのだ。
結局そもそもの話としてid:momokawa-yさんは「眼から鱗が出る(とご本人が「感じる」)「表現」が何か「日常生活(これもよく正体の分からない区切り方だ)」に対立するものである、とお考えらしい。またそういう表現が実際「日常生活」で使われ、「日常生活」を補強する物にしかならない(これはid:momokawa-yさんのタームを使っていっているわけだ。実際はこんな甘いものではないのだが)場合すらあると言う事にお気づきにならないらしい。
それは拙すぎる「現実認識」だといわねばならないだろう。現在の我々の生活はそういう「眼から鱗」なんぞをとうの昔に通り過ぎたところに居るのであって、「言い得て妙」だろうがなんだろうが混ざり合い、混沌としたところに居るのだと言う認識が欠如している。それ故、「レトリック」を勝手に二分してしまう愚を犯すわけだろう。11月02日の記事は「昔はそういう二分法があると思っていたのだけど、今はそういう風な二分法自体が間違いで、それ自体は「レトリック」でもなかった」というような懺悔文ではまるでない。まるで昔考えた二分法が(それが「レトリック」では無いのは明白であるのに)通用しているような書き方をしているところに最大の問題があるのだろう。そしてid:momokawa-yさんの勘違いはこの記事だけにとどまらず他の発言まで波及しているのが最大の問題なのだろう。まさか総ての記事にいちいち返答などはしてられないが。

どうも。

id:momokawa-yさんが俺にお怒りらしい。勿論その理由は分かる。id:momokawa-yさんのサイトに俺が批判的な事を書き込み、批判的なメールをしたからだ。以下のページの「A」のコメントをご覧になれば(こっそり書き込んだものなので、当然文体は変えてある)実態は分かる。余り体調の良い状態で書き込んだものではないのだが、その発言を変えるつもりはない。実際この記事を見て思った通りをそのまま書いただけの話である。批判と言えば批判だ。id:momokawa-yさんを批判するような事も書いたがこの当たりは記事で言われている「レトリック」とでもお思い頂きたい。これに対してid:momokawa-yさんは「以後はコメントなど要りません。全く生産的でないですからね。妄想ではなく、具体的な反論なら答えますが、こういうレベルのものであれば容赦なく削除しますので」と返答したのだが、こちらはその返答を所用あって見ることが出来きなかったのと、id:momokawa-yが閲覧不可能な状態になったので、仕方なくメールをしたのである。そのメールもまた同レベル程度には攻撃的な物だった。
それでもid:momokawa-yさんが俺を「荒らし」だとするのは以下二つのid:momokawa-yさんのサイトでは公開されていないコメントによってである。

やぁ、送ったメールに関してはちゃんと参考にしてくれたようだね。だいたいこの程度の論争でサイトを閉じられたりしたら滑稽だ。
だがまぁ、やれやれ、こちらの言った事の半分も伝わっていなかったようで何よりだ。君は「レトリック」だと自分の言った事を言い張るけれど、それはないよ、と言わせてもらおう。何しろこちらは敢えて誤読したのだから(笑)
レトリックというのはまず何だい? 君によれば「レトリック事典」を観れば分かると言う。でも君の言う「言いえて妙」「眼から鱗」なんてのは「レトリック事典」とやらにはない。念のために(漫画の修辞学)http://www.geocities.jp/balloon_rhetoric/というサイトを見てみよう。それは「頓絶法」、それから「隠喩」などといった、書き手がまさにどう書くか、つまり「書く私」はどうかという問題なんだ。読み手がそれを読むときにはメソッドにしたがって読み解かなくてはならず、一般にレトリックが誤解(この場合、君もだよ(笑))されている「文章の書き方にならなんにでも使える葵の御門」などではないことがはっきりするだろう(笑)
ところが君の言っているのはそうじゃない、きみの言っているのはただ単にそれを「読む私」がどうか、という問題に過ぎない。作者として勘案していなくても、君(この場合は君の想定したよくわけの分からない「日常生活」だな)に「言いえて妙!」と叫ばせたら「言い得て妙派」であり、「眼から鱗」を出させたら「目から鱗派」のようだ。こんなのは断じて「レトリック」ではないだろ。ここまで教え諭してやらなくちゃ理解できない訳かな。
また下の人が言っているように、「比喩」のことでも無いだろう。「比喩」と言うのは必ず書き手が読み手にその効果比喩を使うを計算して書く、ということでは無いからだ。書き手の「比喩」が読者に想定外の影響を与える事はある。だがそれはそれでもそれはあくまで「比喩」だ、という風にレトリック上では扱われる。比喩としたがこれは他のレトリックでもそうであって、読み手の憶測は別とすればレトリックというのはある文章から正確に割り出せる。だから漫画の修辞学でも分析が出来ているのだろうね。
つまり君の言っている事は、書き手不在(あるいは勝手に脳内で想定)の読み手からの勝手な思い込み(それも精査な読みを排除した単なるレッテル付け)でしかない。
それから折角花田清輝の名前を出してやったのに、気づく事が出来なかったらしい。花田といえば本来レトリック、レトリックのまるでセットのようにはやし立てられているけれど、その実態は殆どあきらかにされていない。かろうじて由良君美によれば複数作品のコラージュで体をなしている、という話だけれどね。だがその花田の文章もレトリックとしてみればある程度分析は可能だ。複数の文章からなるコラージュも、引用法ならば引用法ということは出来る。
はてなキーワードにもある「単なる言い回し」というカジュアルな意味でも君の言っている事が「読み手がどう思うか」に過ぎず、作者に責任を取らそうとする態度には随分とふざけた物を感じさせる。しかもそこで「日常生活」などという訳の分からない怨敵を作り出すから臍で茶が涌かせるじゃないか。このあまちゃんぶりには辟易して、「現実認識」とか言う君が言うところの「某掲示板の陰湿な手口」(これだけは正しい。だが連中の使う言い分にも聊かなりの理があることは確かだ。「ぼく(あたし)は偉大な芸術家になるの!」「何寝言を言っているんだ、さっさと働け」などというものは明らかに後者に分がある。そしてそういう理論を「日常生活」とレッテルを貼りたいのだろうけど(だってそうとしか思われない。他のところでも「大衆」とか言うタームを気軽に使っていたけど、まさかいまどきオルテガでもあるまいし、現代日本でそんなざまでいいの? とか思わせられてしまう)それでは余りに安直過ぎるんじゃないのかい?) じみた「言い回し」を使わせてもらった、という次第さ。
以上から君が実は「レトリック」を語りたいのではなくて、「小説」を語りたくてうずうずしている事がはっきり分かってくるじゃないか。君は「レトリック」について何も書いていないんだもの。綿矢の名前を出すが綿矢は殆ど小説以外の文章を書いていない物理的事情もあるだろう。ここで君が言った「殆ど小説の世界には用いられない」とか言う理論は突き崩される。つまり君は小説の「レトリック」を論じているのだ、といいたいのだろうけど、はっきり言ってしまうと小説と言うのは論説文などとは違い、「レトリック」のみでかかれるものでは無い。小説と言うのは時として声が混じり合ったり、時には絵を浮かばせる物であり、これが分からない奴はいつもレトリックの陥穽に嵌ってしまう。勿論先にあげたメソッドにしたがって小説家の書くものを「レトリック」で当て嵌め、誤魔化してしてしまう事はできるかもしれないが、小説家はレトリックだけでは小説を書かない。言ってしまうえばレトリックなんていうのは最初に書いた通り、こういう書き方をしている、なんていう方法であって小説を読むための何の一助にもならない。ロッジの「小説の技法」ぐらいは読んでいるだろうな? あれを読んで「レトリック」「レトリック」ばかり口に出来るようならば小説は止めにした方が良さそうだ。
どちらにしろ君が単純な二分法しか使えない人であるというのは明白だろう。
「たとえば作者がAとBをいかに組み合わせ直喩を拵えるか、というのは、単にそのAとBのことばの組み合わせという枠を超えて、その作者自身の態度を表」さない。言葉の組み合わせから作者の態度を勝手に読み込んでしまうのは読み手の暴走であり、作者に全く責任はないだろう。そしてその前に「小説をよむということはありえないのだ」とか断言している時点で君が「小説認識」を晒しているとこっちは見させてもらったね。「どのように作者が小説に向かい合っているか」これも作者に責任はない。あるとすれば読み手だけにだろう。君は最初から読み手の問題視しか言っていない。「私には読めませぇん」が本音としたらそれを早速言葉にしてみる事だ。勝手に作者の意を忖度してこう書いてある、なんていうことは気持ち悪いだろ?(笑)
それからこれが齋藤美奈子と池田晶子を例に挙げている(それにも随分政治性を感じるわけだが)であればこっちもそれほど噛み付きはしないだろう。だがこれが綿矢と鹿島田という文字通り二人の小説家の書いたものを例に挙げている文章であってみれば、これは明らかに小説を読んだ文章だと認定させてもらった。その上で君が小説を読めない人であるということは明白になった。
君が「リアリズム」や「前衛」の区分けで語っていないなんていうことは百も承知だ。だがそれにも拘らず「リアリズム作家」「前衛作家」という言葉を使ってしまうところに最大の問題がある、といっているのだよ(笑)君が「古臭い」「紋切型」呼ばわりしている理論家達だってほんとにそいつらに向き合ってそういう事を言っているんだか。大体君はその「リアリズム」や「前衛」とか言わせている作家の作品をまともに読んだことはあるのかね。とてもまともに読んだとはいえないものだろうな。そういうこともせずにそういう「作家」を作り出して勝手に妄想しちゃうところからも「現実認識」なんて言葉が飛び出して来たに違いない。
「シンパシーとかいう愚劣なものではなく」これも滑稽だろう。シンパシー必ずしも愚劣ではない、愚劣なものと認定するからにはそれを証拠立てる必要性があるだろう。それがない以上「愚劣なもの」よばわりするには無理があり、ある作品(作者ではなく)を呼んでシンパシーを感じた、というのもそれはそれなりに受け入れられる発言ではあろう。
後必要以上に小難しく書いていることも滑稽だな。頭のいいという事を見せびらかしたいのかい? という「人格攻撃」が想定され、それは確かに幾分かは事実ではあるだろう。

これが11月02日付けの記事に書いたコメント。

いや、大学って物凄く能天気なところなんだなと実感した(笑)一年にたかだが映画千本、本千冊読めばokですなんてさ。それで生産消費を嘲笑っている教師だったら余計面白いな。映画を観る・本を読むって言うのは文字通り消費じゃないのかい?
しかも読むと言う事にここまで鈍感な意見も久しぶりに見たな。五百冊読みました(はぁと)てな具合に自慢が入ってきてるのもまた泥臭いと言うか。しかもきわめて読みにくい悪文と来た。もう少し読みやすさは心がけた方がいいよ。
読書メーターって知ってる? 数百冊ぐらい読む読書家さまは世間には結構居るわけだ。しかもそれは殆どな具合に消費だ。笑うべき消費、というわけだ(笑)
しかも読まない奴との差別化を計り「読書していない人のことは分からないものなのだとおもいますけどね」(笑)この厭味を聞くと、読書してない奴はおしなべて馬鹿だ(ではないからお前はダメだ)という連中の方がまだ可愛げがあるというもんだろうね。
読書をする事が文字通りの空疎な浪費だと君は思ってる? それならこんなところに文章を晒したりはしないだろうな。本も読みもしないだろ。ましてや同人なぞ(笑)本を読むこと何れ何かに繋がると思っているから読んでいるんだろう。
そんなんで「野望とか夢とか、さまざまな人参をぶらぶら吊り下げられて、夢を見て全速力で走っている人たち」(妄想の可能性高し)をよく嫉妬できるもんだねえ(笑)

これが11月25日付の記事「1年に1000冊読むこと」に書いた「反論」である。
勿論この反論が「荒らし」と(id:momokawa-yさん個人に)言われる事については反論したいところがある。id:momokawa-yさんの記事に誠心誠意「具体的」な対応したコメントである。おそらく攻撃的だ、という意見が出てくるのは確かであろう。だがそれは寧ろid:momokawa-yさんの記事の調子に合わせたもので、こちらとしてはそれ以上のものでは無い、と言わせて貰おう。

ねこねこ(kagami)さんの暴走

とうとう、ねこねこ(kagami)さんが宮台真司氏の生放送に特攻したようである。
http://anond.hatelabo.jp/20081128214919
かつてはベタ誉めしていたサイトを突然攻撃しだしたり、奇行が多く見られたので、当然の所業という所だろうか。内容はといえば次の通りである。報告者に感謝して、以下に録して広く知らしめんとする次第である。

345 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2008/11/30(日) 18:59:00 id:EwQXak8F0
神保「もしもし江戸川区のkagamiさん。はいどうぞ」
kagami「あの鬱病をしてまして鬱病にかかってるですね。それでですね以前東浩紀先生っていうですね哲学者の先生とある程度の仲があったので、助けていただけないあのお金を貸してくれってことじゃなくて、もうどうしていいのかわからないから助けていただけないでしょうかってお願いのメールを送ったんですけど、なんかもう縁を切るみたいな形でメールするなみたいな形で切られまして、それでもう生活がメチャクチャな状態でもう困ってて、いろんなところ相談行ったらですね東京大学の人を信用するだなんて凄くバカな事なんだよって言われまして」
一同「(苦笑)」
神保「面白いですね」
kagami「それでですね宮台真司さんの本も僕たくさん読んでいて、僕ねこねこブログっていうのやっててその前はロリコンファルってブログやってたんですが」
宮台「あー」
神保「お知り合い?」
kagami「宮台さんの一族がすべて東大の出身者の一族で、それで宮台さんのおじいさんは昭和天皇に御高診した皇族に非常に信頼をもたれているおじいさんで、宮台さんが今までやってきたことっていうのは、 日本の庶民から政治へのなんていいますか注目をそらしてそれであの援交とかそういったものいいといってそれで日本の国民の知能レベルが下がったところで、宮台さんが皇国史観に転換する」
一同「(爆笑)」
kagami「そのことで皇国史観の方向に進めていくことを抹殺しようとしているみたいな、いやあのそうじゃなくて社会福祉やってる人にやってもらってもう本当に死にそうな状態なんですけど、どうしたら生活保護がはねられていましてどうすればこの後生きていけるかわからないんですけど、宮台さんのおっしゃる世界っていうのはすごいエリーティズムな世界で生活保護の事とか全然考えてないと思うんですけど、どうやって今生きていけばいいのか」
神保「生き方はまあご自分で考えていただくとして」
鈴木「どぅえー!」

文章ではkagami氏の電波感は伝えられませんが文章起こししておきます
5ちゃんねる error 1503

さらにその様子に関しては、

349 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2008/11/30(日) 19:36:12 id:EwQXak8F0
>>347
音声は所々呂律が回らない、感情の抑揚で泣き出しそうになりながら話しているように聞こえる、などヤバさがプンプン伝わってきましたw
冗談抜きで犯罪に走らないか心配です
5ちゃんねる error 1503

その後の経過

383 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2008/12/01(月) 19:36:22 ID:5swzLIs/0
マル激補足
「どぅえー!」の後鈴木が前質問に引きつけて卓越主義的リベラリズムの必要性を宮台に振る
     ↓
宮台が卓越主義的リベラリズムと官僚エリート主義の違いを説明し、
行政官僚の既得権の固定を問題視しチェック機能の必要性について語る
     ↓
萱野がもやいを紹介(>>273参照)
     ↓
宮台が設計主義を主張
     ↓
次の質問へ(大麻報道について)

電話代は質問者持ち←ここ重要
5ちゃんねる error 1503

この通り随分と危険な領域に足を踏み入れておられるようである。kagamiさんを知識人と見ている方は(まさか居ないとは思うが)こうなれば知識も無効、と言うことを心得ておいた方がいいだろう、ということである。

パクリのid:lain06 6

松岡正剛の千夜千冊からもlain先生は引き写される。

ジュリア・クリステヴァはこの本を書くあいだずっと、二つの書物を念頭においていたらしい。ひとつはジグムント・フロイトの遺作となる『モーセ一神教』であり、もうひとつはフェルディナン・セリーヌの小説『夜の果てへの旅』だ。二つとも20世紀の超問題作であるが、共通しているのは「負性」と「負性の反作用」を描いていることである。
クリステヴァはこの超問題作を「浄め」と「穢れ」が両義的にあらわれているテクスト、あるいは「魅力」と「嫌悪」が両義的にあらわれているテクストと捉え、そこから人間にひそむ裏腹な関係を問いただしていくという関心をもった。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1028.html

書影をあげたPouvoirs de l'horreur(邦題『恐怖の権力』)において、クリステヴァフロイトセリーヌを念頭に置いている。
この二人に共通するのは人間の負性を正面から見据え、聖なるものと穢れたもの、あるいは魅力あるものと汚らわしいものなどという、人間において相反する作用をなすものに関心を抱いた。
http://d.hatena.ne.jp/lain06/20080511

巧みな要約である。

何を問いただしたかというと、その問いは本書の副題の「アブジェクシオン詩論」に集約されている。本書は第1行目から最終行まで、アブジェクシオンを徹底的に問題にすることを貫いている。それ以外の問題は扱わない。アブジェクシオンが何を意味するかはこのあとすぐ説明するが、そこで検証されるのは、たとえば穢れの儀式(中略)クリステヴァはこれらがいずれもアブジェクシオンだと言っているのである。そして、このアブジェクシオンを問いただすことが「恐怖の権力」の正体をあきらかにする有効な方法になると考えたのだった。

abjectionアブジェクシオンとは人間の不浄なもの・穢れたものにかかわるありとあらゆるもの・ことを包含する。このabjectionを突き詰めていくことで恐怖の権力とは何かが明らかになる。

この辺りは些か削りすぎ、と言った印象を受ける。言っていることは変わらないが。

ひとまずアブジェクシオンとは「おぞましさ」という意味だと思われたい。「おぞましさ」にはむろん多くの意味があるし、いろいろなおぞましい候補がある。
ごく素朴な意味は、嫌いな食物、汚物、はきだめ、死体などに対する嫌悪感としてあらわれる、さまざまな生理的な経験にもとづいている「おぞましさ」である。
(中略)その嫌悪の理由がつきとめにくいときもある。(中略)
クリステヴァはこのような「おぞましさ」の根底にある作用をアブジェクシオン(abjection)と名付けた。たんなる嫌悪感ではなく、嫌悪しているにもかかわらず、その嫌悪が当人の感情や心に入ってくるぎりぎりのところで弾きとばされたり、隠されてしまうような、そういう「おぞましさ」がアブジェクシオンである。

aboectionを日本語で表せば嫌悪やおぞましさといって表現が近いだろう。それは可視的や感覚的に説明がつくこともあれば、生理的にわけが分からないこともある。これらある種あいまいな心情の根底にあるのがabjectionなのである。嫌悪感であるにもかかわらず、当人の心にこびりついて離れなかったり、しかし心の奥底に隠されて分からなかったりと、なんとも厄介な代物かもしれない。

この辺りも見事な要約であるが、薄い松岡正剛の文章がさらに薄く引き伸ばされた趣がある。味の無くなったガムを噛むような感覚であろうか。

アブジェクシオンという言葉はもともとはフランス語の"abject"から派生した言葉で、「分離するためにそこに投げ出した」という原義をもっている。そこから一般的には「放擲」とか「棄却」という意味となった。
クリステヴァはここに、あえて"abjet"という1字ちがいの造語を孕ませたのである。これは"abject"からクリステヴァが勝手に派生させた概念で、察する通り、"objet"とは微妙に裏腹の関係をもつ。すなわち"objet"(オブジェ)が「対象」をあらわすのに対して、"abjet"(アブジェ)は「いまだ対象になっていない」というニュアンスをもった。

abjectionの語源はフランス語のabjectで、これは放擲と訳される。大雑把に意味を述べると分離する・投げ出すことなのだが、クリステヴァはここからabjetという語を派生させた。abjetはabjectさらにはobject物体・対象とも相関を持つ語であり、いまだものの形になっていない・対象になっていないという含意を有する。

この辺りは少し頭のいい中学生ならできる要約であろう。例えば「放擲」と言う言葉をフランス語ができるlain先生は他の言葉に言い換えて誤魔化す事もできるのではないか、と我々門外漢は思う。だがlain先生はそうはされずそのままの言葉を使うと言う訳だ。

そうすると、このような"abjet"を含むアブジェクシォンは、二つの意味が相反して絡みあうことになっていく。ひとつは「禁忌しつつも魅惑される」という意味であり、もうひとつは「棄却する」という意味である。これらが二つながら孕む。ということは、アブジェクシオンとは、身に迫るおぞましいものを棄却しようとしている一方で、その棄却されたものが自分にとって実は身近なものであったという意味作用をもつとともに、それに関して自分の中をさらけだすこと自身をおぞましく思っているというニュアンスもつきまとうというような、そんな状態や作用をあらわすことになったのだった。
クリステヴァは、禁忌していたのに魅かれる作用が秘められている問題に注目したのである。避けているのに惹きつけられるもの、「浄め−穢れ」や「魅力−嫌悪」といった対比的で裏腹な関係がアンビバレントに襲ってくるようなもの、それをアブジェクシオンとよんだのである。さて、そのように見てみると、アブジェクシオンは必ずしも個人の生理的な基準によって対象化されたものだけでなく、そこには社会や歴史や民族や家庭が"abject"していたものもありうることになる。話は俄然、類的な様相をおびてくる。

すると、abjetを含むabjectionはおぞましいものを投げ捨てつつ、しかしそのおぞましいものは自分にとって近しいものであり、おぞましいものが自分の中にあり、またそれをさらさなければいけない自分自身をもおぞましく思っている……といったような、相反する心情の状態を表すことになる。つまり、聖なるものと穢れたものといったように、相反するものがアンビバレントに否応なく内包されている状態、それがabjectionであり、abjectionは個人だけでなく歴史や民族へと敷衍できる。さらに遡り、相反するものがいまだ派生せず形にならない状態、それがabjetだということになる。

この辺りは非常に難しい所なのであろう。lain先生の文章にもそのまま引き写したと思しき箇所が見つかる。これはどういうわけなのだろうか。

第895夜にやや詳しく書いておいたように、フロイトが『モーセ一神教』(中略)ユダヤ人という民族の起源にまつわるアブジェクシオンが、フロイトという個人の父親とのあいだに生じたかもしれないアブジェクシオンと強くつながりうる可能性(あるいは危険性)が暗示
(中略)『トーテムとタブー』で(中略)原初の父殺しがその後の社会の道徳や宗教をつくったという説である。フロイトはこの一連の動きに、はからずも父をめぐるアブジェクシォンを組みこんでいたのである。

クリステヴァが参照したフロイトを顧みるなら、『モーセ一神教』ではユダヤ民族の起源にabjection/abjetが適用され、『トーテムとタブー』では父性の期限にabjection/abjetが適用される。クリステヴァフロイトのこうした問題意識を引き合いにしつつ、abjection/abjetに恐怖の権力の正体を求めていく。 

ダラダラと書かれている部分がザッパりと綺麗に纏められている。
「期限」は「起源」の語気であろうか。続いてセリーヌの箇所はばっさりと削除されている。

それを掴むには、多少ともクリステヴァの生い立ちの履歴と彼女が提起しつづけた問題の遍歴を知っておいたほうがいい。いや、クリステヴァの思想遍歴そのものにアブジェクシオンの秘密が痛打されている。
(中略)
1965年に給費留学生としてパリに留学して、ルシアン・ゴルドマンやロラン・バルトセミネールに学んだ。(中略)最初からミハイル・バフチンの対話原理やポリフォニー理論にとりくんだ。

クリステヴァがabjectionへと到達した背景には、彼女の思想遍歴があるだろう。彼女は1965年にパリに留学後、ゴルドマンやバルトのセミネールに学び、テクスト理論の研究に当たった。そこで最初に参照したのがバフチンであり、対話原理やポリフォニーについて考察を深めていった。

ほぼ引き写しである。

現代思想のテクスト理論は、こうした書誌学的な問題からスタートしたのだが、そこに構造主義以前と以降における決定的な相違が生まれた。(中略)
ロラン・バルトの説明を(中略)われわれはつねに「テクストの前に立たされた意識」にすぎないか、「そのテクストと意識のあいだに立たされている存在意識」ということになるわけなのだ。
若きクリステヴァはこの見方を強調し、また拡張して、われわれ自身の存在にまつわる「間テクスト性」(intertextualit )という概念を提案した。インターテクスチュアリティである。
これは自立したテクスト相互間の関係のみならず、一連のテクストの内部で生み出される副次的なテクストの動向にも留意したもので、たとえば、あるテクストが歴史を記述しているとき、そのテクストには「歴史をそのように読んだ」という潜在的なテクスト性も浮上しているとも考えられるのだが、クリステヴァはこのような可能性があることをバフチンの研究から取り出して、この主テクストと副テクストともいうべきテクスト間に一種の構造が生成されてくるのではないかとも考えた。
このとき、一方のテクストを「ジェノテクスト」(生成するテクスト)、他方のテクストをフェノテクスト(現象するテクスト)と名付けることにした。また、この二つのテクストは相互に対話をしているのではないかと見た。クリステヴァ自身はこう書いている、「いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべてもうひとつのテクストの吸収と変形になっていく」。
これはかなり冒険的な見方だとうけとられたのだが、いまでは「テクストにおける相互編集性の発見」だったということになる。とりたてて格別のものではない。クリステヴァが「引用のモザイク」と言っているのはまさしく編集作用のことなのである。ここまではお膳立てにあたる。

構造主義以前のテクスト理論は書誌学的な色が強く、作者と読者ははっきりと区切られていた。しかし、恐らくはバルト以降にテクストが多次元化し、作者も読者もテクストという言語の群れの前または間に立たされた存在意識である、ということになった。クリステヴァはここからintertextuality間テクスト性という概念を見出し、テクストの間およびテクストの内部で作用が起こり、副次的なテクストが生み出される可能性をも見出した。これはバフチンから想起されたものでもあり、主テクストと副テクストとしてテクスト間の構造を規定する形になった。ここにジェノテクスト―フェノテクストという生成―現象の関係が生まれ、相互対話するテクストの網目が引用のモザイクを形成するという、クリステヴァならではのイメージが形成された。

中略するの憚れるぐらいに纏められているようだが、松岡個人の意見を一般する辺りは強弁ではなかろうか。

クリステヴァはこうしたテキスト理論を深めるとともに、記号学と心理学に深入りし、「サンボリック」と「セミオティック」ということを考えつづけ、(中略)「サンボリック」は生産物としての秩序のことを、「セミオティック」は生産物を生みだす生産そのものの秩序のことをいう。
クリステヴァ以前の記号学言語学や心理学では、記号や意味を生みだす秩序については、サンボリックなプロセスばかりが重視されていた。しかし、これはどうも片手落ちのようである。生まれていくものばかりが強調されすぎている。いっさいの象徴がそこに集中しすぎている。生んだものへの注目がない。さきほどのフロイト理論でいえば、暴虐な父を殺して子が成長していくプロセスばかりに光が当たっている。これでは、そこでの「負の父」と「大いなる母」とが描かれない。(中略)
(1)生成するもの(=生産物)
(2)生成するものを受けいれているもの(=コーラ)
(3)生成するものに似せて生じてきたもの(=モデル)

クリステヴァはテクスト理論からさらに心理学や記号学へと接近し、サンボリックとセミオティックという有名な概念を生み出すことになる。サンボリックとは生産されたものとしての秩序であり、セミオティックとは生産活動そのものの秩序のことだ。クリステヴァはサンボリックな側面のみだった記号学言語学セミオティックな側面を付加し、生み出すもの、つまり負性を背負った父母の存在を明らかにしたのである。さらにクリステヴァは生成について、

生産されるもの

生産物を受け入れる場(コーラ)

生産物に似せて作られたもの(モデル)

この辺りも要約である。何か勘違いをされているような部分もあるが。

セミオティックなのは(中略)「コーラ」(場)とよんでいた。これはきっと「母」ではないか。コーラは生成する場を用意する母なるものではないか。そうだとすると、これは次のように配当できるではないかというのが、次なるクリステヴァのアイディアだった。

(1)生成するもの(=生産物)=子
(2)生成するものを受けいれているもの(=コーラ)=母
(3)生成するものに似せて生じたもの(=モデル)=父


これはフロイトの理論の読み替えである。のちに流行した用語でいえば、脱構築だ。フロイトがサンボリックな父プロセス(生産物としての秩序)に加担しすぎたことに対する、母セミオティック(生産物を生みだす生産そのものの秩序)のほうからの逆襲である。

という三重の構造を見いだす。これらのうち、コーラとはセミオティックな、生成する場を用意するものであり。すなわち母である。一方、モデルとはサンボリックな、コーラに作用を及ぼすものであり、すなわち父である。すると、この関係は次のようにまとめられる。

生産物⇒子

コーラ⇒母

モデル⇒父

これはフロイトの理論をたくみに移し変えたものであり、フェミニズム的にいえばコーラ/母からのアプローチとなる。

この辺りは普通に要約であろう。

しかし1975年に出産を体験すると、自身の思想を新たな胚胎に向けて大きく組み直していったのである。それが『ポリローグ』(1977)であって、本書『恐怖の権力』(1980)だった。
この組み直しの中核となったのはあきらかに「母」である。それとともに「負の父」の役割をアブジェクシォンとして描出しきることだった。これでだいたいのことが見当ついたとおもうのだが、クリステヴァは「いまだ主体ならざる父」が「いまだ対象ならざる母」を棄却していたプロセスを明示化することによって、母なるものの奪還を画したのだった。
これ以降、クリステヴァは「想像的な父」というアブジェクシォンを伴わない父親像を想定しつつ(ソレルスのことかもしれない)、さらに深層意識の底辺を邁進して「母なる起源」の解明に向かっていく。
クリステヴァはジェノテクストそのものの発露に生きることを決意したようなのである。

最初、テクスト理論を主に研究していたクリステヴァは、自身の出産を機に大きく思想をフェミニズム的に転回していくことになる。その表れの一つが『恐怖の権力』なのである。
この思想転回の中心にはまぎれもない母がいる。そして、負性を負った父がabjectionとして描かれている。クリステヴァは父が母を投擲していた過程を暴きだし、母の復権を目指したのだ。この後、クリステヴァは胎児を含めた、母なるものの意識や身体の深層を目指して論を進め、母なる起源の探究に突き進んでいく。その根源にいたる探求の核となる概念の一つがabjetなのだと思う。

さて、全てが要約されている。
これが所謂「間テクスト」という奴であろうか。門外漢には分からない。だが一般市民がこれを見て言う事は分かっている。即ち「パクリ」であるということだ。