失神体験

1/20(月)のおはなし

この日は、朝から体調が悪かったけど、雑誌の締切の日なので休むわけにもいかず、出社することに。

山手線のドア際に立ってたんだけど、だんだんと吐き気をもよおし、目まいがしてきて、

「わ~困った、これじゃ仕事にならない。もうすぐ駅だしどうにかしなくては」

なんて思っていたら、

。。。。。。。。。。

耳元で

「大丈夫ですか」

  (ん?)

「大丈夫ですか?」

と大きな声がするのに気づき目を開けると、、

真上に男性の顔が視界いっぱいに広がっていたのでした。

まるで、映画というかアニメのワンシーンみたいに。

朦朧としつつも咄嗟に何が起きたのか判ったわたしは、

とにかく電車を止めてはいけないと思い

「すみません」

といいながら、ホームにヨロヨロととびだして、

正に藁をもすがる気持ちで

何故か自動販売機と空き缶入れの隙間に逃げ込んで、そこでもう一回意識が途切れる。

。。。。。。。。。。。。

駅員さんは来なかったので、たぶん長くても1分位だと思うけど、意識が戻ると

わたしは、

右手で空き缶入れの丸い穴をつかみ、

左手は白い自動販売機に爪を立てるようにしがみつくようにして座り込んでいました。

。。。。。。。。

締め切りの日には、這ってでも出社しなくてはいけない

というのが鉄則。

とにかく、フラフラしながらも出社。

でも、小一時間ぐらいしたら、仕事ができるほどに回復。

今は、ちょっと疲れているけど、大丈夫です。

「万国の労働者よ、団結せよ」 と書かれている本を読了しました 。

● 「万国の労働者よ、団結せよ」 と書かれている本を読了しました 。
     .
書名: 新装版・共産党宣言
   初版ブルクハルト版(1848年)
訳著:的場昭弘
版元:作品社
発行:2018年8月
     .
ようやく読了しました。
「万国の労働者よ、団結せよ」
という有名な言葉は、この本に書かれています。
日本共産党については、中国共産党北朝鮮などのイメージが先行してしまい、何も知ろうとせずに敬遠している人がほとんどだと思います。
わたしも同じでしたが安倍騒動のおかげさまをもって、この党が主張していることを聞いたり、党員のみなさんの様子を拝見する機会を得ているうちに、悪い政党ではないように思えてきたんです。
そこで、そのベースとなる思想、即ち「共産主義」のことを知りたくなり、この本を読んでみた次第です。
色々なことを書くと、とんでもなく長文で内容も散漫になってしまいます。
ですから、わたしが感じた三つのことを述べ、そして最後に自分なりの結論を書こうと思います。
生まれて初めてこういう思想に接したので、思い違いがたくさんあると思います。
よろしければ、どなたかご指摘いただけると幸いです。
(結局長文になってしまった。ごめんなさい)
・・・・・・・・・・・・・・
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《 共 産 主 義 は 民 主 》

わたしは、「共産」と「民主」という言葉は相対立する考えだと思っていましたが、それは違うようです。
本当は、共産=民主のようです。
資本主義の世界では、民主主義を標榜している国が多いですよね。
でも資本主義という縛りがあると、企業(経営者)が豊かになるのを優先して被雇用者は二の次(トリクルダウン)、このためには被雇用者を犠牲にしても仕方ない(解雇)という考えになりがちです。
(安倍のおかげで、国内の大企業の内部留保は446兆円。 搾取そのものでは?)
(安倍は、法人税率を下げた減収分を、私たちの消費税を10%に上げて補填.)
(安倍は、奨学金の返済に利子をつけた)
(安倍は、要介護1、2の人の支給停止を検討)
(安倍は、7年間も据置きの介護職員の報酬額を見直して、何と引き下げた!)
これが本当の「民主」と言えるでしょうか?
言えませんよね。
共産主義の世界では、一部の人(雇用者)が多くの他人(被雇用者)を働かせて得た富を、生産や経営に必要な分として私物化するのを禁止、私たちが共有します。
そして働いた人が、自分や家族が消費に使用する分を各自で所有するべきだと説いています。
共産主義の世界では、わたしたちは財産を持つことができない」
と思われがちですがそれは間違いです。
こんなことが書いてありました。
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一人の人間が働いてその所有を自分のものにする人格的所有(personlich)と、そうではなく他人の労働を所有することから生まれる私的所有とを区別する(p142より)。
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共産主義は、一人一人の市民のための思想、ほんとうの意味での「民主」だと思います。
『共に生産する、だから共産』
素敵な言葉だと思います。
共産主義は「わたしたちに良かれ」という思いから生まれた思想であって、日本会議の安倍たちが目指す「わたしたちを管理下に置く」ための思想ではありません。
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《 こ れ か ら 世 の 中 は ど う な る? 》

こんなことが書いてありました。
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被雇用者は、雇用者が創り出しているようなものだ。
雇用者がお金儲け(=被雇用者の分け前を搾取)をしたければ、人を雇用(=搾取)する必要があるから。
雇用者は、お金儲け(搾取)をよりしたいがために、より沢山創らなくてはいけない被雇用者(被搾取)との間で自ずと対立が発生、結局多勢に無勢となり雇用者の崩壊と被雇用者の勝利は、どちらも避けることができなくなる。
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われわれは『最後に必ず勝つ』と楽観視しています。
わたしも、今までの世の中には『最後に必ず勝つ』というベクトルが、確かにあったように思えます。
でも、、、、、。
これからも、このベクトルは健在なのでしょうか?
つまり、、、
これからは、雇用者は必ずしも被雇用者を必要としないのでは?
・スーパーのレジは無人になりつつあります。
無人の電車はすでに実用化。
・タクシーも自動運転が発達して無人化するでしょう。
ほとんど全ての人たちの雇用や存在を失くしても、雇用者は痛くも痒くもない。
『最後に必ず勝つ』のは、わたしたちではなく安倍等ごく一部の人のように思えてきます。
安倍という名前が象徴する流れに対峙する戦いは、今まではなかった新しい戦いなのでは?と思うんです。
ですから、共産主義の新しいベクトルを示してもらいたいし、わたしも自分のこととしてそのベクトルを探し求めなければいけません。
このままでは、、、
「人(例:人権)」より
「世の中の仕組み(例:国)」が優先されて、
「仕組みを動かすことができる一部の大金持ち」、
即ち安倍が言う「美しい日本人」だけの世の中になってしまいそうな気がします。
現に安倍は、この度の改憲騒動で「第97条_基本的人権」の条項を削除しようとしています。
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       .

《 意 外 に 思 っ た 》

最も意外に思ったのは、共産主義の思想的な根底にはキリスト教の精神が根付いているように思われることでした。
党の草創期のお話の中には、キリスト教の組織との関わりがしばしば登場します。
『自由、平等、博愛』
という精神をベースにしているようです。
何故だろう? フランスの三色旗と同じです。
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共産主義は、本源的にはキリスト教にまで遡るプロレタリアの福音であるが、この二つが共通してもっているものは、その教義が大学のような場所ではなく、貧しいものの仕事場や住居で普及されねばならないということである。
ユダヤ人にとっては怒りであり、ギリシア人にとっては愚かなことであったキリスト教の福音と同じように、共産主義は、特権階級にとっては怒りであり、世界の賢人にとっては愚かなことであるといった性格をもつ。(p339より)
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わたしは数年間だけキリスト教の教会に通っていたことがありました。そして通い詰めるにつれて、自分みたいな人でもシスターになれるだろうか?と思うようになっていました。
父のお気に入りだったコーヒーショップのマスターのお姉さまがシスターなので、思いをうち明けたら、
「あなたみたいに自由に生きてる人は、難しいんじゃないの?」
実は、党員のみなさんの様子を遠くから拝見していると、何故かシスターや修道士の立ち振る舞いと重なって見えることがあり、自分でも不思議に思っていました。
無駄口を発せず、粛々と、テキパキと、時には生き生きと活動されている様子が重なって見えたものです。
なぜ重なって見えたのか、この本を読んで初めて理解できたように思えました。
          .
いろいろな人がいます。
みんながみんな、こういう風にはなれないと思います。
でも日本共産党は、LGBTなど人々の多様性を受け入れて、
「自分たちは、そうでない人たちともいっしょにやっていく」
と常日頃より声を挙げています。
日本共産党は、中国共産党のような一党独裁ではなく、連立政権を目指しています。
そんな日本共産党がこの日本に存在するのは、わたしたちにとって幸い(福音)なことではないかしら。
わたしは、党員のみなさんをリスペクトします。
          .
          .

《 結 論 》

『本来の共産主義は良い思想である』
日本共産党の方々から、折に触れて聞く言葉。
中共などは共産主義が目指す本来の姿ではないし、日本共産党はこういう国づくりを目指しているのではない」
今のわたしはこの言葉を信じてよいのでは、と思っています。
          .
※ 追 記
やっぱり長文になってしまいました。
ごめんなさい。
ここまで読んでいただいた方、おつかれさまでした^^。
恐縮してしまいます。ありがとうございました。
最後に志位さんが奏でるショパン、聴いてください。

アーリーバード


昼休み、何気に父の名前を検索したら、こんなものがヒットしてビックリ。
父がテレビ局に勤めていた時代に書いたリポートです。

ネットってすごいというか何というか。。。。
その昔、父が勤務していたテレビ局は年末年始になると「いく年、くる年」という特番を組み、「アーリーバード」というユーロの衛星を使って、当時としては珍しくも世界の主要都市を結んでの同時生中継を放映していました。

この父のリポートに出てくる「アーリーバード」という名前で
「あ〜、「いく年、くる年」のリポートなのね、、、」
と判りました。
あの頃、お正月明けに海外から帰ってきた父は楽しそうに
『「アーリーバード」がどうのこうの』
と、小さなわたしに、何かにつけて話しかけてきました。
お話の内容は全く解りませんでしたが、子供ながらに、
「きっと良いお仕事ができて、うれしかったんだろうな」
と思い、何度も同じ話を聞いてあげたものです^^。

あの頃は、年末年始になると海外に行ってしまう父。
父が不在のお正月だけれど、寂しくはありませんでした。
東京の母と姉とわたしの三人で「いく年、くる年」を見ているとき、父も同じ画面を、真剣に見ているのですから。
どうか番組がうまくいきますようにと、父と遠く離れていても、祈るような思いで心をひとつにすることができました。
画面には映っていないけど、いつもそのすぐそばに父もいるんだろうなって思いながら。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/itej1954/21/2/21_2_129/_article/-char/ja/

年末・年始の総括

(1/4FaceBookに書いたものをコピペしました)
●12/28_木
実家や母の世話をしてくれる老人ホームがある八王子へ。
帰路、新宿西口の活動に遅刻しつつも参加。
そして、早めに現場を退散。
現場では、FBのお友達に遭遇(^ ^)

●12/29_金
朝遅くまでお布団の中。
お昼までのんびり。
お昼ご飯をいただいてから、新宿の病院へ。
そのまま新宿にて、活動で知りあった八王子在住のお友達と二人女子会。
二軒目はゴールデン街(^ ^)。
解散してから、帰りがけに一人で三軒目(≧∇≦)。
有楽町のいつものお店。
飲み納めとしました。

●12/30_土
昨年は、父の成年後見人がやらかした多数・多額の未払いを立替えたけれど、その明細を全体の収支と合体させる為のデータベース作り。
おかげさまで、エクセルのスキルが少しだけ上がりました。
と同時に医療費控除申請のための医療領収書を整理。

●12/31_日
母がいるホームへ。
カレンダーなどを持参。
帰宅してからは、データベース作りの続き。

●01/01_月
終日、前日の続きをしながら、録画したままのTV番組をDVDに落としまくる。

●01/02_火
お昼まで前日の続き。
それから実家にある写真を、自宅にてデータ化する作業に取りかかる。
iPadで母に見せてあげるため。
膨大な量なので、なかなか手をつける気になれなかったのです。
何ヶ月かかるのか、見当もつきません。
データ化したオリジナルは処分するつもり。
処分しないと、実家のお掃除ができないから。

●01/03_水
・実家にて
翌日のダンボール・書籍のゴミ出し。
まだまだ実家に残っている沢山の写真の一部を紙袋をいっぱいにして持ち出す。
・母のホームへ。
最初にデータ化した画像数十点を、iPadで見せてあげる。
母は恥ずかしいのか最初は嫌がっていたけど、段々と機嫌が良くなり楽しんでいる様子(^ ^)。
iPadの使い方も次第に慣れてきたようです。
少し安心しながらの帰宅途中、ホームの職員から電話。
母から伝言で
「1月下旬の通院予約をキャンセルしろ」
とのこと。
理由は色々聞かされたけれど、
『どれが本当の理由なのか不明』

●01/04_木
母をホームの事務室の電話口まで呼び出して、キャンセルの理由を問いただすことも気が引けるので、仕方なく、嫌々八王子のホームへ足を運ぶ(溜息)。
でも母は、わたしの連日の訪問を喜んでくれたことで、わたし自身の気持ちを取り直してくれた。
母の力はすごいなぁ。。。
わたしが女性として足りないものは、正にこの力だと痛感。
ちなみにキャンセルしたい理由は、
「1月は寒いし、インフルエンザの患者が集まってくる病院には行きたくない」
とのこと。
高齢になると、こういうことにも気をつかわなくてはいけないんだろうな、、と思いました。
病院だけでなく、日頃お世話になっている付添いサービスの担当者にキャンセルの電話をしなくては。(申し訳なく憂鬱なので、気持ちを整えて明日連絡することにします)。
この日は写真のデータ化だけでなく、髪をカットしたりする時間を作りたかったのに。。。
おかげさまで明日は、ボサボサの頭で初出勤をすることになる。
口には出さないと思うけど、女性社員からヒンシュクを買ってしまうだろうな(悲)。
という訳で先ほど帰宅して、今こうしてキーボードを叩いているという次第です。

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成年後見人制度には、くれぐれもご注意のほどを! 》
亡き父の成年後見人には、未払いの他にも色々とやらかされ、大変な思いを強いられました。
ほぼ全権を委任する後見人制度は、後見人が良い人ならば、任せて安心&とても助かるけど、、、、
悪い人だと やりたい放題のことができてしまいます。
そして後見人を指名した家裁にクレームしても、ほとんど動いてくれません。
家裁の担当官の対応ぶりは、安倍をかばって国税庁官に出世した佐川とおんなじ!
数ヶ月間にわたり家裁や後見人とやりあった末、たった一通の詫び状が届いただけで、ペナルティーは全く無しでした。
要注意な制度だと思います。

差別とは何?_富岡八幡宮の事件に思うこと

どんな家でも、今存在するのは祖先がいたからこそ。
ですから祖先を尊ぶ気持ちは大切だと思いますが、だからといって、その思いが家柄により貴賎があるという思想は間違っていると思います。
血筋を尊重するという思想は、
『絶対的に自分が秀でているという価値観を作りたい欲望に、悪用されやすいのでは』
と思っています。
そういう思想であれば、他の血筋を排除でき、無条件で自分だけが君臨できますからね。
わたしは差別という言葉の定義について、こんな仮説をたてています。
・・・・・・・・・
『本人の努力ではどうすることもできないことについて、他人を蔑むこと』
たとえばLGBT、肌の色など、民族、性別、血筋など。
・・・・・・・・・・
これを逆手にとれば、自分が絶対的に優位に立てます。
たとえば、
「わたしの家は血筋がよい」
という理由だけで、どんなボンクラな人でも無条件で人の上に君臨できる訳ですよ。
だからわたしは、家柄をことさらデフォルメして威張っている人が嫌いなんです。
あるいは、他人の血筋を嫉妬して、理由もなくその人に挑んだリいじめようとする人も嫌いです。
・・・・・・・・・・・
血筋を過分に尊ぶ思想は、差別意識の原点なのかもしれない
・・・・・・・・・・・
と思っています。

サンタさんの思い出です。


小学校2年生のクリスマスだったと思います。
つまり昭和38年のクリスマスですね。
まだ、サンタさんを信じていたわたしは、イブの夕暮れ時、外遊びに疲れ、ぼんやりと線路に沿った道を行き来する人や自動車を、少し高いところから眺めていました。
と、そのとき大きなトラックが、サンタさんの服を着た沢山の男性を むき出しの荷台に乗せて、目の前をゆっくりと通り過ぎていったのです!!!
・サンタさんはひとりのはず。
・サンタさんは太っていて
・欧米(アメリカ人)のおじいさんで
・おひげも髪の毛も白いはず。
荷台に乗っていた、沢山のサンタさんは、、、、
・日本人!!!
・髪の毛は黒く、ひげもない、
・おじいさんじゃない、
・みんな痩せている
ショックでした。。。。。

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そのあと、家に急いで帰り、母を追求したのです。
こういう重大!なことは父に質問したかったのですが、あいにく父はまだ帰宅していなかったので。。。
『たった今、外でこんなものを見てしまった、あれは何だ!?(サンタさんなんか居ないじゃないか!)』
と。
母の答えをはっきりとは憶えていません。
憶えていない訳は、たぶん母の答えがあいまいだったからなのでは?と思っています。
でもたしかこんな感じだったはずです。
「あれは、人間がサンタさんの格好を真似しているだけだ」
「本物のサンタさんはあなたの心の中にいる」

4年ぶりに自動車を運転しました

この日、弘美ちゃんと母の入院のサポートのためにレンタカーを借りて、おそらく4年ぶりくらいだと思うけれど、ハンドルを握ることに。。。。
小さなスクーターばっかり乗っていたわたしには、久しぶりの自動車の運転がすごく快適に思え、新鮮な驚きでした。

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二輪車って、乗る前には必ず面倒な「儀式」をしなくてはいけません
 ・ジャケットを着たり、
 ・ヘルメットを被ったり、
 ・音楽を聞きたければ、必ずヘルメットを被る前に 、iPhone
  のイアフォンを耳につけなくてはいけないし、
 ・グローブをしたり、、、
もちろん乗り終えたら、同様の真逆の「儀式」を行わなくてはいけません。これが、結構鬱陶しいんです。

自動車の場合は、
 ・「儀式」は不要、
 ・スクーターみたいにガタピシ飛び跳ねず、滑るように走る、
 ・雨にも濡れない、
 ・暑くも寒くもない。。
 ・止まっているときも倒れない、
 ・音楽を聴くために、耳にイアフォンをねじ込む必要もない。。。
一言で言うと、スクーターを運転するときに伴う;
「緊張感=悲壮感」
が不要なんですよね(笑)。
当たり前なことだけど、自動車の「快適さ」に「ありがたみ」を感じた気分でした。