現代思想ってなんだ

貰ってばかりで申し訳ないのですが、またまた研究会のメンバーから。

<68年5月>と私たち: 「現代思想と政治」の系譜学

<68年5月>と私たち: 「現代思想と政治」の系譜学

 

こんどは68年5月を主題とした公開講座の記録で、しかしこんなに立て続けだと、わたくしまで極左だと誤解されるのではないかと心配してしまうのですが、わたくし修正主義者なんでよろしくお願いします。

わたしにとって現代思想というのは、たぶん15、6の時に初めて触れたわけですが、そのときから別の手段による政治の継続に見えていたので、このシリーズはわりと関心を持って見ていました。そういうことを改めて言わねばならないのだなあということも含めて。

ただ、その政治ってなんだよ?といわれるとなにせ高校生が考えたことなので、いまのわたしにはもうよくわかりません。何を考えていたのやら。

この本はしかし意外と、意外とと言っては失礼ないのですが、しかし意外と面白い。すごく単純にいえば、公開講座なんで、語り口調で読みやすいというのはあるんですが、しかしそれだけでもなくて、目次がすでに面白いといえば面白い。ただしそれはSEALDsで有名になった「民主主義ってなんだ!」というコールを68年5月というテーマから連想して(多少そういう気分はなくはなかった)、そこから「学知ってなんだ」という問いに至ってしまって(いやまあたしかにそうなのだけれど、ひどく独創的)、さらにそれを論文のタイトルにしてしまう(大胆極まりない)という天然の輝きが面白いのではありません(いや面白いんですが)。まあどう面白いかは見てもらうしかないですが。お互いにやっぱりちょっと争っている感じがいいですよね。しかしみんな工夫しているのに、「学知〜」は反則ですな。

内容についていえば、わたしより年上の人たち、まあ60代ですね、その人たちが率直な感じで、いろいろ書いている文章は、世間と社会と子育てに、つまり人生に疲れた50代には出せない面白さではありました(これはすでに図書新聞『読書人』掲載時から話題になりました)。しかし50代の人たちも、なんとなく煽られた感じで、懐かしの新左翼のひとたちについて、ニュアンスのあることを書いていて、このニュアンスはまあ50代の疲れみたいなものかもしれないけれど、最後はちょっと見得を切ってというか、エイやっという感じで断言して終わっているところがよかったです。

50代はどこに行くべきなんでしょうか。

わたしより少し、そしてけっこう年下の、だいたい40代の人たちは、やはり相応の距離感をともなっていて、その距離は論考としての真面目さにつながっているように思います。じつは「学知ってなんだ」というのも、タイトルをみるとあれですけど、中身は真面目といいますか、68年5月を歴史として理解しようという感じははっきり出ていて、政治との関わりは、すでに歴史的、もしくは理論的な対象になっているところが、安心して読めるというか、この人たちのおかげで、かろうじて現代思想であったり、思想史の本になったりはしています。個人的には上尾さんの精神医療改革の話が面白くて、とくにマノー二というひと(カステルとちょっと経緯がある)がどういう人なのか、多少雰囲気がわかって勉強になりました。アランの話で終わっている田中さんの話も、結果としてその距離を証言するようなものになっていて、もう少し先を読みたいなという気もしました。

この人たちがいないと、昔あったような左翼雑誌か、この本は!という感じになったかもしれません。

だれが60代で誰が50代で、誰が40代かは各自判断してください。

あと、暴徒ではなくて、冒頭に置かれた故西川長夫氏が撮影した68年5月の風景が意外と面白くてですね、この公開講座、一回だけ見に行くことができて、ちょうど人文研で展示されていたので、現像されてちょっと大き目のパネルになったものを僕は見ているのですが、そのときは特に強い印象をうけなかったのに、書物として印刷されて、ちょっと小さな判型、つまり普通のスナップ写真のようにみると、面白くて見入ってしまいました。紙も比較的いい紙を使っているのですが、それでも、ちょっとザラっとした感じがあって、そのザラっとしたところが西川さんの写真にあっていたのかもしれません。

などなど。時間がないので、全部ちゃんと読めてもいないし、この辺にしておきますが、随時書き足していくかもしれません。

いまふと思ったのですが、このブログのタイトルは「現代思想ってなんだ」にすればよかったんだなと気がつきました(ので変えました)。販促をするときは、「現代思想ってなんだ」「コレダ!」っていうコールするといいと思います。

さいきんいただいた書物。赤い本その他。

むかしは本をいただくと、ブログに書いたり、ツイッターに書いたりして、いちいちお礼をしていました。その前は、わりと丁寧に読んだり、ざっと目を通したりして、いろいろ感想とか書いていたのですが、あるときからなんだかおっくうになって、書くのをやめてしまっていました。

まあ理由は自分ではなんとなくわかるんですが、つまんない dis になるので、それはやめておきます。で、なんとなく、ほとぼりも冷めてきたので、気晴らしにちょっと書いてみたりします。いや、ストレスがたまっているんですよ。

今回ここに上げていくのは、いま同じ研究会に参加しているメンバーの方々からいただいたもの。宣伝する必要もないような有名なものもあれば、たぶん、あんまりひとに知らないような本もあります。

いただいた順番で。

感染症と法の社会史?病がつくる社会

感染症と法の社会史?病がつくる社会

 

 これは著者の西迫さんから。博士論文がもとになっているとのこと。公衆衛生の話なので、以前、某書の翻訳のためにあれこれ調べていたこととネタがかぶっています。もちろん阪上孝の『近代的統治の誕生』も引かれているのだけれど、なぜか関東の人は皆、坂上孝と誤記する。誰かが間違えてそれが伝承されているんでしょう。こういうのは200年ぐらいたつと文献学の研究対象には……ならんか。ならんな。

アドルノ音楽論集 幻想曲風に(叢書・ウニベルシタス)
 

これは翻訳者のひとり藤井さんから。 藤井さんには、むかしなぜか東大阪遠足の引率をしてもらったことがあります。研究者ばっかりで、ぞろぞろと東大阪を歩いたのですが、いま考えるとよく分からないことをしていました。

ちなみに、法政大学出版局のツイートをみると「20代から晩年に及ぶ著作を収めた自伝的論集。日本を代表する音楽学者と次代を担う思想史学者が贈る、躍動感にあふれた新鮮な翻訳!」とあります。これはもう躍動しつつ担っていただくしかないな、と私もそう思います。

 それとマツジュンこと著者の松本潤一郎さんに。じつはまだ冒頭の5ぺーじくらいしか読めていないのですが、その冒頭の調子がすごくよかったので、家に持って帰りました。わりと調子のいい本をトイレで読むという習慣があって、家族に迷惑がられているのです。先日もお会いしたので、正直に5ページだけ読みました! と言ったら、すごく鷹揚に、気にせんでいい(大意)というようなことを言っていただきました。ありがとうございます。

 *

それと老いてなお、生産性の高い著者の小泉義之さんからもいただきました。前著の『あたらしい狂気の歴史』もいただいていたのですが、さっきも書いたように、書くのがおっくう時代だったので、ネット上でのお礼はし損ねています。これはいわゆる文芸批評で、『ユリイカ』とか、『現代思想』とか、あんまり読まないものですから、こういうものを書いているとは実は知りませんでした。これも家に持って帰って、トイレの中でちょこっと読んだりしているのですが、著者独特のサービス精神というか、煽り芸があって、これは意外と向いているではないかと感心しました。ただし「バトーは、罵倒する」というのはちょっと褒められません(世間話)。

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

 

 これを読みながら、蓮実重彦というのは何者であったのだろうなとふと考え直したり。何も考えずに読むととても気楽でいいんだけれど、ふと一歩退いてみると、なにやら素朴といっていいようなイデオロギーへの意固地なまでのこだわりが、いまとなってはむしろ印象に残る。

などなど

今年の三冊と思ったら、四冊あったし、今年のじゃなかった。

そろそろ今年度の三冊とか書こうかとか思っているのだが、なかなかうっかりしていて、いつも忘れてしまう。書くのも忘れてしまうし、読んだものも忘れてしまう。読書の忘却装置みたいなものだ。いつものとおり、仕事に直接関係のない本、もらったわけではない本という縛りをかけて思い出そうとするとますます思い出せない。

これはなるほどと読んでいて膝を打ったのが、 岡崎乾二郎の『抽象の力』亜紀書房で、芸術関係の本を最近ときどき読むようになったのだけれどこれはピカイチ。納得するわーといいながら読んでいたら妻にとられた。

抽象の力 (近代芸術の解析)

抽象の力 (近代芸術の解析)

 

同じように妻にとられたのが紀平英作『ニュースクール』岩波で、いろいろと謎が多い学校であったのだけれど、ああーそういうことかーという感じで、これを読んで色々腑に落ちた。なるほどなるほど、そういうことかーと言いながら読んでいたら、やっぱり妻にとられた。 

ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち

ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち

 

で、そしたら驚くべきことに書評の依頼が舞い込んできたから、ついつい50枚も書いてしまって、怒られた。いまは反省している。なんとなく行きがかり上なんだが、リベラル万歳! みたいなことになっていて、まあお前がいうかみたいな感じなんだけれど、書いているうちにそうなっちゃったから仕方ねえ。とにかくケインズとコルムを出してくるところがなかなか余人には思いつかなくてよい。

シュトラウス? は? そんな人もいましたねえというあたりの見切りもよい。これが噂の老人力であろうか。

これは去年買ったわけじゃないけど、神崎繁『内乱の政治哲学ーー忘却と制圧』講談社。なんども読み返しているのでもうボロボロになっている。しかし読んだわりにはわかったという感じはまだしない。著者が何をしたかったか理解が届くまでに、もうちょっと時間がかかる感じだ。

内乱の政治哲学 忘却と制圧

内乱の政治哲学 忘却と制圧

 

 そして木庭顕『憲法9条へのカタバシス』で、とくにその7 「Hobbes, De cive における metus 概念」で、これは感心した。だいたいこの著者の言うことはよくわからないことが多いのだが、よくわからないのは著者も悪いのかもしれないけれど、こっちも悪くて、やっぱりちょっと確認しないとウンとは言えんなあということがあるにもかかわらず、しかしギリシア語もラテン語もよめないので、確認のしようがない。ホッブス論もトゥキディデスやんかといえばそうなんだけれど、さすがにちょっと勘が働くので、これはなかなかガッチリ作ってあるなあと感心した。さすがに国家学会雑誌はいいものが載っとるな。人類のためにリポジトリにあげてもらえんやろか。ウチのアレとは大違いだ。

憲法9条へのカタバシス

憲法9条へのカタバシス

 

 

ちょっと意図的にというか、なんとなーくリラクタントな気持ちになって、送ってもらった書物をアップして、ありがとうと書くのをやめていたのだけれど、そろそろ復活しようか。

なんとなくブログから離れておったが、アプリになると、なんかiPadでちょっと書くのが気楽でいいな。しかしこれリンク貼るのはどうすんねん。

 

書評 ロベール・カステル『社会喪失の時代』

社会喪失の時代――プレカリテの社会学昨年に出版されたロベール・カステルの『社会喪失の時代』(北垣徹訳、明石書店)の書評です。あまり直接的な書評になってはいないのですが、途中で出てくる『トリスタンとイズー』は、この書物のなかの第10章、「社会喪失の物語 −− トリスタンとイズーについて」を念頭に置いたものです。カステルにとってはわりと重要な論文です。そのことを書けばよかったんですが、うっかりしていました。
なんか昼間さんが訳した、ドアノーとサンドラールの本(写真集)、そしてフーコーの『狂気の歴史』の書評かよ、 みたいなことになってますが、カステルについては行きがかり上、あれこれ書いたりしゃべったりしないといけなかったので、あれもこれも書いちゃったし、喋っちゃったしなーということで、頭をひねった結果こうなりました。かなり苦労したんですが、妻に見せたら思わせぶりでよろしくない(大意)と言われまして心に傷を負いました。
半年ほど前に、某『図書新聞』に載ったものですが、太っ腹にもブログ掲載のOKをいただきましたので、blogにあげます。その号には、訳者の北垣さん、羊先生こと宇城さんの書評も掲載されています。私の書評よりは内容に即したものになっておりますので、リンク先を読んでいただければ、中身と背景、そして今日の日本においてなぜカステルのこの書物を読むべきかということについて、よく分かるのではないかと思います。

ただし、実際に載ったものは、ここからさらに手直しが入っています。どこをどう直したのかもう分からなくなってしまったので、直しようもありません。公表一歩手前のバージョンということです。テニオハの狂いも含めてそのままです。怠惰なものでご了解ください。

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狂人、放浪者、賃金労働者――ある中世への回帰


社会問題の変容 ―賃金労働の年代記―もうひとりのロベール、ロベール・ドアノーの写真に「ヴィルヌーヴ・サン=ジョルジュの鉄道歩道橋」という写真がある。この写真が撮られたのは1945年、おそらくは戦争が終わった直後である。『社会問題の変容』の表紙カバーに選んだ写真だ。
いかにも郊外にありそうな巨大な鉄道操車場の歩道橋のうえに、膝丈のフード付きレインコートを来た人物が、こちら側に背中を向けて立っている。年齢も性別もよくは分からない。が、背丈は橋の欄干ほどしかなく、少年のようにもみえる。冬の朝だろうか。機関車からの煙が風に流され、曇り空に溶け込んでいる。カスパー・ダービッド・フリードリッヒの有名な絵画――雲海に周囲を覆われた山の頂で、黒いコートをまとった男性が雲の彼方を見つめている――を一瞬は思い起こさせるけれど、その連想も長くは続かない。ドアノーの写真は、視点が低くに据えられ、霧の中で途方に暮れているようにもみえるからだ。ただ、フリードリッヒの、このいかにもロマン主義的な絵画が「雲海の上の放浪者」と題されていたことの連想かもしれない。この少年も放浪のすえにようやくここにたどり着き、ホボと呼ばれたアメリカの放浪者たちがそうしたように、貨物列車に忍び込み、あてどのない旅を続けようとしている、そんな想像をしてしまう。
この写真は、『パリ郊外』として知られる写真集のなかの一枚である。ドアノーのパリとはあくまでその郊外なのだ。彼の写真に文章を寄せたブレーズ・サンドラールとともに、そう強調しておこう(昼間賢訳『パリ南西東北』月曜社刊)。ビストロのカウンターで新郎と並んで喜びに満ちた花嫁の手前には煤で汚れた労働者がいる。風のなかに佇む少女の背後にはバラックが立ち並ぶスラム。住宅地のなかに突き出た煙突を縫って走る鉄道、煤煙を吐く河岸の工場群、そしてその煙突を背景に自転車に乗って城壁裏の労働者共同菜園に向かう太陽王。「郊外の日曜」と題された写真の背景には真新しい団地を見ることができる。人民戦線内閣誕生の舞台ともなったビヤンクールのルノー自動車工場を写真に収めたのもまた彼、ドアノーだ。こうした眼差しはカステルの眼差しでもある。
もちろん私たちが郊外という言葉から連想されるさまざまな困難――失業と貧困、未就業、不安定雇用、そして将来展望の喪失、さらには社会の分断といったものは、49年に出版されたこの写真集をまだ覆い尽くしてはいない。たしかに、印画紙に写しとられた人びとはまだ若く、歩道橋を渡りきれば、黄金の三十年が彼を待っているはずだ。だが、不安を覆い隠してくれるはずの成長という物語もまた、この時点ではまだ彼らのものにはなってはいない。『パリ郊外』に収められているのは、そうした両義的な瞬間なのである。
ドアノーがとらえた郊外の両義性について、もうひとりの著者サンドラールは、いくらか意外なことにそれを中世的な性格をもつものとして描き出している。彼によると「民衆に関心を抱く芸術家はみな伝統に帰る」のだが、伝統とは「フランス人にとっては民衆の中世である」ということになる。もっともそれはモリス風のそれとは少しばかり異なっており、ここで彼が挙げる民衆は、聖堂建設という土木工事に引き寄せられ、市外から流入した人びとである。「細民、放浪者(ヴァガボン)、巡礼者たち、少しばかりの金持ちの商人も……。」なるほど見事な社会混合だ。もう少し耳を傾けてみよう。「流れ込んでくる狂人、障害者、狂信者、信心家、説法師、乞食、酔っ払い、ブルジョワ……」。郊外という都市の終わりを告げる周辺部分は、いまもむかしも変わらぬ不安定さをたたえており、そこには放浪と帰属という相反するふたつの属性が拮抗している。「このように、今日の郊外は、中世のころから変わっていない。」わたしたちは郊外において、異邦人となり、放浪者となり、そして浮浪者となる。
こうした視点は、やはり中世に遡った書物であるミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読み直すにあたって、いくらか示唆を与えてもくれる。その排除概念ゆえにカステルが、いくらかの距離を保とうとした書物である。フーコーはそこで『トリスタンとイズー』のある興味深い場面を引いている。王に謁見するために、主人公トリスタンが狂人に身をやつす場面である。ここでフーコーは、狂人にはあらゆる敷居を踏み越える力が付与されていることに注意をうながしているのだが、それはカステルの言い方を借りれば、トリスタンが社会喪失者であるがゆえに与えられていた力、ということになろう。社会の規範を踏みこえるとはそういうことである。その力は移動を強いられたがゆえに、運命としてそれを引き受けねばならなかったがゆえに、主人公に付与された力でもある。フーコーにとって狂人とは、なによりも放浪する存在であり、しかもどこにもたどり着かないがゆえに、そのひとつのリミットとして登場していたのだということに気づかされる。阿呆船についての彼の記述を引いておこう。

「船のなかに閉じ込められ、脱出もできず、狂人は千もの方向に手を伸ばす川、千もの航路を抱く海、あらゆるものの外部というこの巨大な不安に、その身を委ねられる。このうえなく自由で、このうえなく開かれたこの航路のただなかで、狂人は囚人となる。つまり永遠の十字路で鎖につながれているのだ。狂人とはすぐれて旅人であり、つまりは移動路の囚人である。たどり着くはずの大地は、誰も知らない土地である。上陸のあとも、狂人はみずからがどこからやってきたのか知ることもない。狂人に真実や祖国があるとすれば、それはただ、二つの大地の狭間の不毛な余白においてだけであり、いずれの土地もみずからのものとなることはありえないのだ。」

 狂人が、移動に閉じ込められた人びとであるとすれば、たしかにそれはカステルがいうように、中世における近代的個人でもある。鉄道操車場から伸びる千もの航路、この巨大な不安に立ちすくむわれわれがたどり着くべきはずの祖国――郊外――が、大地の狭間の不毛な余白でしかないとすれば、ではわれわれ――賃金労働者――とはいったい何者であるというべきなのか。ここにあるのはマジョリティであるはずのわれわれが、本来引き受けるはずであった条件、われわれのなかにある不安定性という核である。いまやそれを見誤る者はいまい。

社会喪失の時代――プレカリテの社会学

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社会問題の変容 ―賃金労働の年代記―

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パリ南西東北

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La banlieue de paris

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トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

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狂気の歴史―古典主義時代における

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