日本の合唱はもっと感情を乗せていいんじゃないか

 ローリング・ストーンズの「You Can’t Always Get What You Want」を久しぶりに聞いた。聞くたびに、冒頭の合唱部分で「あー、なんでこんなつまらないもの入れてしまったんだろうなー」と感じる。まあ、聞いておくんなさい。

 

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「You Can’t Always Get What You Want」はストーンズの数えきれないほどの曲のなかでも十本の指に入るほどの名曲なんだが、頭の聖歌隊みたいな合唱が硬直した感じで実につまらない。合唱部分が終わるといい感じのイントロが入り、だんだんと高揚していく。ストーンズらしい、黒人音楽の実りを取り入れたカッコウよい盛り上がりを見せるのだが、終わりのほうでまた合唱隊が「Ahー」と入ってきて台無しにしてしまう。

 誰がこんなものを入れようと考えたのだろうか。あるいは、入れてから、「こりゃないよな」という話にならなかったのだろうか。不思議である。

 おれはクラシックの流れから来る合唱が苦手で、まあ、毛嫌いに近い感覚を持っている。学校時代に良い子ちゃん風の合唱をやらされて、それが尾を引いているのかもしれない。日本の学校の合唱は窮屈で、硬直していて、つまらないと思う。

 なんで日本の学校の合唱はああなんだろうか、と考えながら、YouTubeでつらつらといろんな合唱を見てみた。たとえば、南アフリカの民謡「ショショローザ」を歌うこんな動画があった。

 

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 南アフリカラグビー代表スプリングボクスを壮行するためのイベントらしい(音は別に録音しているのではないか)。声が輝いていて、歓喜に溢れていて、実に素晴らしい。こういう感情を爆発させるような合唱というのは日本にない。

 次はアメリカのゴスペルのもの。

 

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 オルガンのビリー・プレストンビートルズとも共演している名手である。序盤のオルガンにおれはやられてしまって、いやあ、凄いなあ、と思っていたら、その後の合唱がまた素晴らしい。ゴスペルの声の響きはクラシック系統の合唱とはまた違って、豊かで好きだ。信仰心も声に働いているのだろう。

 しからばクラシック系統の合唱がどれも嫌いかというと、そうでもなくて、次の演奏なんかは実に美しいと思う。

 

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 ソロを取る少女の声の美しさ(顔も美しいけど)が素晴らしいが、それを支える合唱もいい。クラシック系統の合唱はキリスト教の伝統から来ているのだろうから、ヨーロッパの正統ど真ん中な演奏なのだろう。

 なんで日本の学校の合唱はああも窮屈でつまらんのだろう、と疑問を抱きながら見ていたら、こんな動画に当たった。プロの声楽家による解説である。

 

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 長いので、簡単にまとめると:

 

・中高生の声はまだかたまっておらず、不揃い

合唱コンクールでは音程、リズムの正確さと、声の揃い方が審査される

・不揃いなものを無理に揃えようとすると、はみ出る部分を切り落とすような変な発声方法になってしまう

・そういう教育を繰り返しているなかで、目を見開いて、眉を吊り上げるような不自然な発声方法が当たり前になってしまった

・揃えることばかりを考えるうちに感情の乗らない合唱が普通になってしまった

 

 なるほどなあ、と思った。

 合唱であるから、「合わせる」部分は大切なのだが、一方で日本の(中高生の)合唱はこじんまりと「合わせる」ことにばかり意識が行ってしまっているのだろう。感情の部分が足りないというか、そこに重きを置いていないというか、あったとしてもごくごく狭い良い子ちゃん的な感情に囚われてしまっているように思う。

 もっと感情を解き放つような合唱が日本にもあるといいのだが。

 ・・・などと思っていたら、こんな動画にぶち当たった。

 

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 もう凄いことになっている。歓喜の大爆発である。合唱でもここまで行けるのだ。

 キリスト教の神への信仰と聖歌の伝統があってこそ、だろうから、日本ではこうはいかないだろうが、先のショショローザやこの動画の合唱のような喜びの表現を日本の合唱はもっと大切にしたほうがいいと思う。でないと、おれみたいな(学校系統の)合唱嫌いはいなくならない。

欧米コンプレックスを生きる

 暇つぶしに浦沢直樹の「MONSTER」を読み始めた。

 内容はなかなか面白いのだが、それとは関係なく、表紙を見ていてふと思った。

 

 

 日本語の漫画なのだが、ほとんど欧文ばかりで構成されている。日本語は左端の小さな文字で、作者名、タイトルのみである。

 ドイツが舞台の話だから、演出として欧文を使うのはわからないでもない。しかし、テキストはなぜかドイツ語ではなく、英語である。

 日本には欧文、特に英文をカッコいいとする価値観がある。日本語の本で、特に使う必要はないのに英文が入ることが多い。たとえば:

 

 

 太宰治と英文は全然関係なさそうだが、なぜか著者名の二行目が「Dazai Osamu」となっている。名前の読み仮名として入れたのかもしれないが、「だざい おさむ」ではなく、「Dazai Osamu」だ。ひらがなだとださいからか。ださいおさむ。すみません。しかし、そのひらがなをださい、英文をよし、とするところに今の日本の価値観が隠れていると思う。

 Amazonで適当に例を拾ってみよう。

 

 

 

 

 どれも読んだことはない。ともあれ、英文が入るこことで洒落た感じや海外でも強うする話のようになる。どうやら、ひとこと英文を入れると洗練されて見える、というのが表紙のテクニックであるらしい。

 この、洗練されて見える、というのがポイントで、なぜ我々(日本で生まれ育った平均的な人々)は英文が洗練されて見えるのだろうか。

 生まれてから見るもの聞くものから刷り込まれてきたと考えるのが順当なところだおると思う。もっとほじくれば、明治の文明開化以来の呪縛というか、特に戦後のアメリカを中心とする欧米文化のなだれ込みによるものが大きいのだろう。英文で書かれている内容そのものは別に洗練されているわけではなく、上にあげた本でいえば、「怪物」「太宰治」「人と組織の潜在能力を解放する」「パフォーマンス」「なんて素敵な世界」というのを英文で書いただけである。

 欧文、特に英文を、書かれた内容とは関係なくカッコいいと思ってしまう。欧米をカッコいいと感じてしまう。そういう価値観のなかでわしらは育ってきたのだと思う。

 一方、その反動で、妙に日本を持ち上げたくなったり(もちろん、日本には素晴らしいものがいっぱいあるが)、極端なニッポン・バンザイ論者になったり、という反応もある。青少年が親に反発するような心理だろうか。欧米は親じゃないけど。

ディズニーが作ったと思うと・・・

 おれはディズニーが苦手で、出くわすと、うえっと思ってしまう。お伽話のご都合主義的なところが嫌なのと、あのあからさまに人に取り入るような絵の感覚が嫌なのと両方ある。ディズニーランドは「嘘とまやかしの国」だと思っている。

 映画を見ていて、冒頭にあのディズニーのロゴが出てくると「ああ。この映画は嘘とまやかしなんだなー」などと思ってしまう。

 昨日、映画「タイタンズを忘れない」を見た。

 

 

 1970年代初頭のヴァージニアで白人と黒人の高校が統合される。高校のアメフトのチームも白人・黒人混成チームとなる。両者は対立しながらも、だんだんと融和していき、勝ち進んでいく・・・というストーリーで泣かせるところもあってなかなかいい映画である。おれは何度か見ている。

 しかし、冒頭にディズニーのロゴが出るのだ。見るたびに「ああ。この映画は嘘とまやかしなんだなー」と思う。

 昨日、見直してみたら、ご都合主義的な展開や、わかりやすくなるように誇張した演出が鼻についてしまった。やっぱり、ディズニーの映画なんだな、嘘とまやかしなんだな、(実話に基づくと書いてあるけど)お伽話なんだな、と思った。

 お伽話をわかりやすく、面白げに見せて売る、という点ではディズニーは徹底していると思う。ブランディングが徹底されていて、そういう意味では大したものだと思う。

 苦手だけど。

松本大洋の異色にして傑作「竹光侍」

 松本大洋の作品はどれも好きで、ほとんどの作品を読んでいる。最近作の「東京ヒゴロ」も最高傑作と言っていいほどの作品だと思う。もっとも、あれもこれも最高傑作と呼べそうだから、ひとつを選ぶのは難しい。

竹光侍」は松本大洋の初めての時代劇で、いろいろな意味で異色作である。おれの枕元には文庫本版が置いてあって、何かというと、ページを開いて少し読む。一話か二話かを読むと満足する。

 

 

 主人公は目の吊り上がった浪人者で、剣の達人。金に困って父祖伝来の刀を売り、竹光を差している。無垢で優しく、特に長屋の子供たちとのやりとりは楽しく、ほっとする。

 最初のほうは池波正太郎の短編もののように短い読み切り作だが、だんだんと主人公の過去や因縁が明らかになり、化け物のような刺客との戦いも起こって、ドラマチックである。物語が盛り上がる後半も好きなのだが、枕元に置いてつらつらと読むには序盤ののん気なパートがよい。

 松本大洋には珍しく、おそらく和筆を使っている。最初のほうは筆に慣れないのか、ゴツゴツした筆致で、それがまたよい。物語が進むにつれて、筆捌きがこなれてきて、この人の画力というのは本当に素晴らしいと思う。

 原作者は永福一成で、この人は確か、初期のアシスタントを務めていたのだったと思う。ストーリーもよい。松本大洋は絵に専念できて、それがまた作品のクォリティに結びついていると思う。

竹光侍」はおそらく松本大洋の最高傑作として挙げられることは少ないと思うけど、それでも独自の作品世界を築いていて、この人の広さ、真面目さ、稀有の画力が表れている。異色にして、傑作だと思う。

だけ派の人々

「だけ派」とでも呼ぶべき人々がいて、たとえば「利権がほしいだけ」「洗脳されているだけ」などと物事を簡単に片付ける。それ以上深く考えることをしなくて、本人は整理がついたつもりかもしれないが、こちらの勉強になることもなければ触発されることもない。

 似たタイプに、簡単に「反日」「売国」「ネトウヨ」などとレッテル貼りをして片付ける人々がいる。たいがいはレッテル貼りをしたところでやめてしまうから、考えが深まることがない。

 おれは思考停止という言葉があんまり好きではない。そのココロは人間あらゆる方向で思考し続けることはできず、たとえば歴史や政治方面について思考を続ける人がパートナーの気持ちについて思考できなかったり、上司・部下の関係について思考を続ける人が物理学方面について思考できなかったりするからだ。

 しかし、だけ派の人々やレッテル貼りで終わる人々はそこで話が終わってしまって、まあ、考えをやめてしまっている。やめてしまったっていいのだが、考えが浅いので、こちらとしてはあまり話を聞こうという気にならない。

 だけ派の人々は話を簡単に片付けて、悦にいっている「だけ」なのだ。

日本国紀 気持ちよくなりたい人のための歴史

 百田尚樹の「日本国紀」を読んだ。文庫本版のほうである。

 

 

 

 何のきっかけだったか忘れたが、Amazonの読者レビューを見たら、大絶賛の嵐だったのだ。たとえば、こんなふうだ。

 

日本の歴史を学ぶにはこの本しか有りません。

引き込まれた。素晴らしい歴史書

百田さんは凄い

本書は日本人に大和魂を覚醒させる目から鱗が落ちる斬新な日本国通史の決定版、一人に一冊を具備すべき必読書。本文よりもコラムが面白く説得力があり参考になる!

 本当の日本の歴史

日本人よ!読むべきです!

学校で習った日本史止まりの人なら感動すると思う

すべての日本人に読んで欲しい

中学か高校の教科書にしてほしい

 

 実際にはもう少しおとなしいものもあるのだが、大仰な見出しのものを選んだ。

 ここまで絶賛させる歴史本とはどんなものだべさ、と読んでみた。

 結論からいうと、これは日本人を気持ちよくするために書かれた本である。日本の先人たちがいかに優れていたかを説き、実は自分たちは高みにいるのだという快感を覚えさせるために歴史を使っているという印象だ。

 百田尚樹は歴史の中からもっぱら日本人が優れていると語れそうな部分を抜き出し、褒め称えて書く。そういう部分を読んで、気持ちよくなる人も多いのだろう。都合の悪い部分については書かないか、書かざるを得ないときは「残念なことでした」で片付けてしまう。目的が日本人を気持ちよくさせることだから、そういう書き方になる。

 朝鮮や中国をことさらに貶めるような記述も多い。そんなに蹴落としたり引き摺り下ろしたりしなくてもよかろうに、と思うのだが、人々の中にある嫌韓、嫌中気分を刺激することを狙っているのだろう。朝鮮や中国の悪口に快哉を覚える人も多いのかもしれない。百田尚樹聖徳太子の十七条憲法を絶賛しているが、その第一条の「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」を大切にする気はないようだ。 

 語り口はうまい。意外にも明治・大正あたりまでは楽しく読み進めることができた。ベストセラー作家の筆力というのは大したものだと思う。

 歴史学の定説と自分の感想・意見を分けて書いているところも巧妙だと思う。自分の感想・意見だと明記することで、史実についての客観性を担保しているように見せている。

 もっとも、それは途中までで、大東亜戦争に入るあたりでだんだんと怪しくなる。戦後のGHQによる占領からは、百田尚樹の口の臭いがどんどんキツくなる。自分の主張のために歴史を書くようになり、読んでいて、少々げんなりした。

 それにしても、冒頭のレビューのように大絶賛、大感動する読者の心理というのは何なのだろうか。書かれたものに対して素直なのか、歴史についてうぶなのか、批判精神(否定するという意味ではない)をあまり持たないのか。もしかすると、大絶賛、大感動する人々というのは何らかのコンプレックスを抱いており、こういうものを読むと、コンプレックスから解放された気分になって、気持ちよく感じるのかもしれない。そうでないとしたら、あそこまで大仰に大絶賛、大感動する理由がよくわからない。

 自虐史観もくだらないが、自慢史感もくだらないとおれは思う。どちらも、見たいものを見たいように見ているからだ。また、自分たちの歴史を自慢げに語るのは、家系を自慢する人に似て、少々みっともないようにもおれは感じる。

70歳を過ぎてから監督として花開いたクリント・イーストウッド

 クリント・イーストウッド監督の「ブラッド・ワーク」を見た。

 

 2002年の作品である。心臓移植を受けた元FBI捜査官が強盗事件の犯人探しをするうちに、実は事件は自分の心臓移植が関係していることに気づき・・・というなかなか面白そうな筋書きなのだが、作品自体は少し平板に話が進み、メリハリがあまりなく、まあまあというところか。

 クリント・イーストウッド監督といえば、「ミスティック・リバー」「ミリオン・ダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「インビクタス/負けざる者たち」など、緊張感が高く、メリハリの効いた作品を作る印象がある。映像は独特のブルーがかった色調で、それが作品にクールな印象を与える。しかし、「ブラッド・ワーク」にはそういう良さはあまりなかった。まだ作風を確立していない感じがした。

 監督としての作歴を見ていてわかったのだが、クリント・イーストウッドは1930年生まれ。「ブラッド・ワーク」の時点で、もう72歳である。普通なら監督業を引退してもおかしくない年齢なのだが、その後、「ミスティック・リバー」(73歳)、「ミリオン・ダラー・ベイビー」(74歳)、「グラン・トリノ」(78歳)、「インビクタス/負けざる者たち」(79歳)と、作品のクォリティがぐんと上がる。70歳を過ぎて監督として成長を見せた人というのはあまりいないのではないか。おれの好きな「リチャード・ジュエル」なんて89歳のときの作品だ。ハリウッドでの尊敬度も非常に高いと言う。

 普通、クリエイティビティというのは40歳くらいから下がり始め、50代ともなるとかなり落ちると言われるのだが、クリント・イーストウッドは全然当てはまらない。

 異常値と言っていいくらいの尻上がりのキャリアである。