松本大洋の異色にして傑作「竹光侍」

 松本大洋の作品はどれも好きで、ほとんどの作品を読んでいる。最近作の「東京ヒゴロ」も最高傑作と言っていいほどの作品だと思う。もっとも、あれもこれも最高傑作と呼べそうだから、ひとつを選ぶのは難しい。

竹光侍」は松本大洋の初めての時代劇で、いろいろな意味で異色作である。おれの枕元には文庫本版が置いてあって、何かというと、ページを開いて少し読む。一話か二話かを読むと満足する。

 

 

 主人公は目の吊り上がった浪人者で、剣の達人。金に困って父祖伝来の刀を売り、竹光を差している。無垢で優しく、特に長屋の子供たちとのやりとりは楽しく、ほっとする。

 最初のほうは池波正太郎の短編もののように短い読み切り作だが、だんだんと主人公の過去や因縁が明らかになり、化け物のような刺客との戦いも起こって、ドラマチックである。物語が盛り上がる後半も好きなのだが、枕元に置いてつらつらと読むには序盤ののん気なパートがよい。

 松本大洋には珍しく、おそらく和筆を使っている。最初のほうは筆に慣れないのか、ゴツゴツした筆致で、それがまたよい。物語が進むにつれて、筆捌きがこなれてきて、この人の画力というのは本当に素晴らしいと思う。

 原作者は永福一成で、この人は確か、初期のアシスタントを務めていたのだったと思う。ストーリーもよい。松本大洋は絵に専念できて、それがまた作品のクォリティに結びついていると思う。

竹光侍」はおそらく松本大洋の最高傑作として挙げられることは少ないと思うけど、それでも独自の作品世界を築いていて、この人の広さ、真面目さ、稀有の画力が表れている。異色にして、傑作だと思う。

だけ派の人々

「だけ派」とでも呼ぶべき人々がいて、たとえば「利権がほしいだけ」「洗脳されているだけ」などと物事を簡単に片付ける。それ以上深く考えることをしなくて、本人は整理がついたつもりかもしれないが、こちらの勉強になることもなければ触発されることもない。

 似たタイプに、簡単に「反日」「売国」「ネトウヨ」などとレッテル貼りをして片付ける人々がいる。たいがいはレッテル貼りをしたところでやめてしまうから、考えが深まることがない。

 おれは思考停止という言葉があんまり好きではない。そのココロは人間あらゆる方向で思考し続けることはできず、たとえば歴史や政治方面について思考を続ける人がパートナーの気持ちについて思考できなかったり、上司・部下の関係について思考を続ける人が物理学方面について思考できなかったりするからだ。

 しかし、だけ派の人々やレッテル貼りで終わる人々はそこで話が終わってしまって、まあ、考えをやめてしまっている。やめてしまったっていいのだが、考えが浅いので、こちらとしてはあまり話を聞こうという気にならない。

 だけ派の人々は話を簡単に片付けて、悦にいっている「だけ」なのだ。

日本国紀 気持ちよくなりたい人のための歴史

 百田尚樹の「日本国紀」を読んだ。文庫本版のほうである。

 

 

 

 何のきっかけだったか忘れたが、Amazonの読者レビューを見たら、大絶賛の嵐だったのだ。たとえば、こんなふうだ。

 

日本の歴史を学ぶにはこの本しか有りません。

引き込まれた。素晴らしい歴史書

百田さんは凄い

本書は日本人に大和魂を覚醒させる目から鱗が落ちる斬新な日本国通史の決定版、一人に一冊を具備すべき必読書。本文よりもコラムが面白く説得力があり参考になる!

 本当の日本の歴史

日本人よ!読むべきです!

学校で習った日本史止まりの人なら感動すると思う

すべての日本人に読んで欲しい

中学か高校の教科書にしてほしい

 

 実際にはもう少しおとなしいものもあるのだが、大仰な見出しのものを選んだ。

 ここまで絶賛させる歴史本とはどんなものだべさ、と読んでみた。

 結論からいうと、これは日本人を気持ちよくするために書かれた本である。日本の先人たちがいかに優れていたかを説き、実は自分たちは高みにいるのだという快感を覚えさせるために歴史を使っているという印象だ。

 百田尚樹は歴史の中からもっぱら日本人が優れていると語れそうな部分を抜き出し、褒め称えて書く。そういう部分を読んで、気持ちよくなる人も多いのだろう。都合の悪い部分については書かないか、書かざるを得ないときは「残念なことでした」で片付けてしまう。目的が日本人を気持ちよくさせることだから、そういう書き方になる。

 朝鮮や中国をことさらに貶めるような記述も多い。そんなに蹴落としたり引き摺り下ろしたりしなくてもよかろうに、と思うのだが、人々の中にある嫌韓、嫌中気分を刺激することを狙っているのだろう。朝鮮や中国の悪口に快哉を覚える人も多いのかもしれない。百田尚樹聖徳太子の十七条憲法を絶賛しているが、その第一条の「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」を大切にする気はないようだ。 

 語り口はうまい。意外にも明治・大正あたりまでは楽しく読み進めることができた。ベストセラー作家の筆力というのは大したものだと思う。

 歴史学の定説と自分の感想・意見を分けて書いているところも巧妙だと思う。自分の感想・意見だと明記することで、史実についての客観性を担保しているように見せている。

 もっとも、それは途中までで、大東亜戦争に入るあたりでだんだんと怪しくなる。戦後のGHQによる占領からは、百田尚樹の口の臭いがどんどんキツくなる。自分の主張のために歴史を書くようになり、読んでいて、少々げんなりした。

 それにしても、冒頭のレビューのように大絶賛、大感動する読者の心理というのは何なのだろうか。書かれたものに対して素直なのか、歴史についてうぶなのか、批判精神(否定するという意味ではない)をあまり持たないのか。もしかすると、大絶賛、大感動する人々というのは何らかのコンプレックスを抱いており、こういうものを読むと、コンプレックスから解放された気分になって、気持ちよく感じるのかもしれない。そうでないとしたら、あそこまで大仰に大絶賛、大感動する理由がよくわからない。

 自虐史観もくだらないが、自慢史感もくだらないとおれは思う。どちらも、見たいものを見たいように見ているからだ。また、自分たちの歴史を自慢げに語るのは、家系を自慢する人に似て、少々みっともないようにもおれは感じる。

70歳を過ぎてから監督として花開いたクリント・イーストウッド

 クリント・イーストウッド監督の「ブラッド・ワーク」を見た。

 

 2002年の作品である。心臓移植を受けた元FBI捜査官が強盗事件の犯人探しをするうちに、実は事件は自分の心臓移植が関係していることに気づき・・・というなかなか面白そうな筋書きなのだが、作品自体は少し平板に話が進み、メリハリがあまりなく、まあまあというところか。

 クリント・イーストウッド監督といえば、「ミスティック・リバー」「ミリオン・ダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「インビクタス/負けざる者たち」など、緊張感が高く、メリハリの効いた作品を作る印象がある。映像は独特のブルーがかった色調で、それが作品にクールな印象を与える。しかし、「ブラッド・ワーク」にはそういう良さはあまりなかった。まだ作風を確立していない感じがした。

 監督としての作歴を見ていてわかったのだが、クリント・イーストウッドは1930年生まれ。「ブラッド・ワーク」の時点で、もう72歳である。普通なら監督業を引退してもおかしくない年齢なのだが、その後、「ミスティック・リバー」(73歳)、「ミリオン・ダラー・ベイビー」(74歳)、「グラン・トリノ」(78歳)、「インビクタス/負けざる者たち」(79歳)と、作品のクォリティがぐんと上がる。70歳を過ぎて監督として成長を見せた人というのはあまりいないのではないか。おれの好きな「リチャード・ジュエル」なんて89歳のときの作品だ。ハリウッドでの尊敬度も非常に高いと言う。

 普通、クリエイティビティというのは40歳くらいから下がり始め、50代ともなるとかなり落ちると言われるのだが、クリント・イーストウッドは全然当てはまらない。

 異常値と言っていいくらいの尻上がりのキャリアである。

末端の人々

 朝早くに家を出て駅に行くと、駅前で日本共産党がビラを配っていた。70代とおぼしき爺さんと婆さんである。

 この人たちは今でも共産党のために活動しているのだなー、どういう人生を歩んできたのだろうか、などとぼんやり思った。

 70代だとすると、いわゆるベビーブーマーで、1970年前後あたりにはおそらく学生運動に参加していたのだろう。共産主義がまだ多くの人にとって理想的と思われていた時代だ。

 その後、1990年あたりにソ連と東欧の共産主義政権が次々と倒れ、また、共産主義系統の社会主義の欠点があらわとなった。官僚主義が幅をきかせ、人々は「計画」なるものに基づいて命じられたように働かざるを得なくなり、自由がないので創意工夫は発揮できず、労働意欲は低くなり、物の乏しさばかりが目立つようになっていく。中央の言うことへの不満や反対を表に出した者は矯正という名の下で強制労働に従事させられたり、下手すると処刑されたりする。

 そうした歴史の光景を見てきて、駅前でビラを配るあの爺さん、婆さんは今、共産主義をどう考えているのだろうか。まだ信じているのか、もはやあんまり信じずに、ただ何らかの社会正義の実現を目指して党のために働いているのだろうか。

 昔は共産党の末端の組織を「細胞」と呼んだ。元々は組織的に他と切り離されても自立的に運動できることから細胞と呼んだらしいが(アメーバ的なイメージ)、全体組織が確立されていくと人体の末端の細胞のように中央(脳神経系のイメージ)の命じることをこなす存在になっていく。細胞は全体の中に組み込まれ、自立性は持てなくなり、言われたことを忠実に行う者が評価される。少なくともおれにとっては嫌なイメージである。

 あの爺さん、婆さんは細胞として活動しているのであろうか。

 若い頃理想を信じて、そのまま運動を続けているうちに命じられたことをこなす小さな細胞になってしまったとしたら、何やらさびしい感じがする。

動物感動物語への違和感

 YouTubeでこんな動画がレコメンドされて、見てみた。

 

youtu.be

 

 おれはこの手の(野生)動物感動物語にどうも抵抗がある。人間と野生動物の心の交流みたいなことはまあ、タッチングだが、野生動物をペットみたいな目線で見るところに違和感を覚えてしまう。

 この動画で黒ヒョウを育てた女性は野生動物の野性を理解している。一方で、動画の制作者は「どうです? 友情ですよ。感動でしょ?」という見方が先に立っていて、ありていに言うと、ペット目線で野生動物を見ている。

 野生動物にはそれぞれの物事の捉え方があり、それは種が違う以上、人間には完全には理解できないものだろう。また、野生動物の野性・それぞれのあり方に敬意を払うべきで、野生動物をペット目線で見ることは相手に対して大変に失礼だと思う。 

 この動画のチャンネル名は「どうぶつ愛護センター 〜こころの隠れ家〜」だそうだ。わくわく動物ランド的な甘ったるいファンタジーとして野生動物と人間の関係を捉えているのだということがわかる。

 一方で、野生動物と友達になろうとして大失敗した例も世界にはあるはずだが、そういう例をおそらく「愛護」「こころの隠れ家」などという甘ったるい言葉遣いを好む人たちは見たがらないのだろうと思う。ヒョウは人間を威嚇するのがヒョウらしいあり方であり、熊は人間を襲うのが熊らしいあり方で、それは尊重すべきことだ。わくわく動物ランド的に野生動物を捉えることと、たとえば猟師が熊に敬意を払いつつ戦うことには大きな違いがある。

 動物愛護の人々は自分の狭い了見の愛を押しつけているのであって(ある種の一方的で身勝手な恋愛に似ている)、本当の意味で相手のことを理解していないし、する気もないのだと思う。

志ん生を聞いてほしい

 おれは古今亭志ん生が好きで、よく昔の録音を聞く。

 志ん生は昭和二十年代から三十年代に活躍した落語家で、息子は金原亭馬生古今亭志ん朝である。驚くほどのネタ数を誇るが、人情噺より滑稽噺が得意で、まあ、この滑稽噺の破壊力ったらない。同時代の桂文楽三遊亭圓生を今聞くとさすがに古いなと思うが、志ん生の噺は今でも通用する。そういう意味では現代的というか、むしろ普遍的なのかもしれない。

 独特の口調で、文字にするとさして面白くないギャグも、志ん生が言うと無性におかしくなる。たとえば、「タコが山に寝ていて、タコ寝山(箱根山)」とか、「蛇が血を出して、へーびーちーでー」なんて、文字づらだとつまらないが、志ん生が語ると笑ってしまう。

 志ん生の凄さはいろいろあるが、ひとつ取り上げると見立ての上手さ、おかしさがある。たとえば、夫婦の口喧嘩で女房のほうが大声を出すと、「おまえね、そういう船を見送るような声を出すんじゃないよ」。船を見送るときは確かに大声になる。無性におかしい。

 同じ夫婦の口喧嘩で女房のほうが「この上げ潮のゴミ!」。そのココロは夫が出かけると廓やなんかで「引っ掛かる」から。志ん生があの口調で言うと、たまらなくおかしい。

 全身これ落語家という人で、脳溢血で半身不随になった後、あるとき口座で後ろにひっくりかえった。「お〜い、前座ぁ〜」と楽屋の前座を呼び、起こしてもらった。「えー、というわけで」と何もなかったように話し始めたときは、めちゃくちゃ受けたそうだ。そうだろうなあ。何を言ったら受けるか、瞬間に判断したんだろう。

 ともあれ、笑いの好きな人は志ん生を聞いてみてほしい。いくつかおすすめのCDを紹介する。

 

 

 

 

 おれの愛情の押し付けになってしまった。でも、聞いて後悔はしないと思う。なんせ、おかしい。