野球と私

野球ファンの気持ちを聞いてみた。スポーツを見る習慣がなくて、なんでそんなに夢中になるのか、わからなかったから。

彼曰く、野球は好きな球団の試合を一人で内野席で見る。球団の存続がほとんど人生の存続とイコールで、もし好きな球団がなくなったら、生きている意味があるんだろうかと思うんだって。見るときはグッズも買うし、応援歌も歌うけど、群れず、ひとりで野球の試合と向き合い、勝っても負けても、今日の試合のよかったことを家で思い起こすのが、なによりも楽しい。ストイックになってきていて、最近はビールも呑まないで、観戦するようになってきた。

そんなにまで愛するものがあることは、すごいことだ。他に趣味がないから、というけれど、打ち込む趣味といえるものがある人は少ない。私にはないし。

いつもの夏野菜ごはん

冷しゃぶ ゴウヤとナスの花山椒辛味和え 冬瓜とごぼうと青菜の揚げびたし 山芋短冊 セロリと塩昆布の即席漬け やっこ ごはん 茗荷とじゃがいもの味噌汁  一食25品目これで5人前。

感情移入

他人の情報としての苦しみを体が受け取ってしまう性分をどうにかしないと、映画でお腹を蹴られるシーンを見ると、お腹が本当に痛くなってしまうみたいな・・・客観情報と主観的な現実の区別が、感情的にできないのは、きっと病気。だから韓流とか渡る世間に・・・が見れない。他人の苦しみを見ると、自分も辛い。耐え難い、どこかに逃げてしまいたい。

そういうエクストラな状態は、ニーチェの言っていたこと?感情を交歓することができれば、超のつく状態がつくれる?中沢新一が言っていたことも?感情の量質が酷似していて、まるで自分の感情のように動く心をもつ人を見つけたら、それが扉なのかも。周波が増幅される、掛け値なしの超幸福。恋愛の完成形なのかも。芸術と似ているのかも。

パンを踏む

アンデルセンのパンを踏んだ女の子は、お母さんにあげるおみやげのパンを靴やドレスを汚したくないからって、沼に落として踏んで行こうとして、神様に落とされてしまう。両生類や魚にまとわりつかれ、水草にまかれて、暗くて冷たい沼の底に沈んでしまう。ずいぶんたって、お母さんからこのお話を聞いたやさしい女の子が「かわいそうに」と涙を流したとき、鳩になって沼から飛び立つ。子どもの頃に読んだこの話が好きだった。特にパンを踏んだ女の子が沼に沈んでいる絵が好きだった。カエルや水草に絡まれて、まるで沼の底にひっかかった釣りのオモリみたいにゆらゆらしているの。濁った水、冷たいデンマークの森の沼で、諦めたような哀しいような顔をして、でもどこかほっとしているような。この子はこれ以上ひどい目には合わない、他の人間の手が届かない深い沼の底に沈んでしまったから、みんなが忘れてしまえば、すごく安全な気もした。鳩になんてならないで、ずっと沈んでいればいいのに・・・かわいそうなんかじゃないのに・・・8歳の私は思った。はっきり覚えてる。

今もそんな気持ち、暗くて冷たい沼の底で・・・どうぞ忘れてしまってくださいな。

蛇骨湯

浅草には、銭湯の料金で入れる源泉かけ流しの温泉がある。隅田川に沿って火山性のものとは違う鉱泉があって、それを沸かして使っているのだけれど、湯量がすごい。で、それではと子どもと行ってみた。午後2時半、空いているだろうと思ったのは、地元のおばあさん連中だけではなかったのか、湯船はわりと満員。無理やりなかんじの露天風呂があるんだけど、そちらはおばあさんで一杯だったので、おばあさんがまばらな屋内風呂に入る。石鹸がないので、もう洗うとかなんとかはあきらめて、熱めのお湯に。子どもにはかなりの高温だったみたいで、はなかなか入れない。茶色のほうじ茶みたいなお湯で、洗い場の湯も温泉という徹底ぶり。汗で浮いていたせいもあるけれど、ファンデーションなどの化粧が、鉱泉水で洗っていたらきれいに落ちてしまった!えええええ!すごい洗浄力。

すしや通りのちょっと奥、なんだかすごいね、東京って。