思いもかけない景色

あまり僕はこの景色が観たいとか、気になる観光地があるからといって旅にでないタイプの人間だ。
出来るだけ室内でのんびりとしていたい。
そんな僕が旅にでるのは人に会いに行く時くらいだ。
お金持ちではないので出来るだけお金のかからない手段で旅をする。
あの時も、房総半島を南下する予定なんかなかった。
南下する予定なんか。
荒々しい太平洋と、海風で錆びた町。
あまりにも呆気無い旅立ったが、その景色は心地よく僕の中で生きている。


さよならだけが人生だ

フランスにいる友人が「花に嵐のたとえもあるささよならだけが人生だ。だ。だ。da?」というツイートをしていた。
このツイートの元ネタは「山椒魚」や「黒い雨」で知られる小説家、井伏鱒二が、八世紀(晩唐)の漢詩人、
干武陵(ウブリョウ)の漢詩 「歓酒」を訳したものだ。


この盃を受けてくれ 
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ



この詩は唐の時代(日本では平安時代)に作られていて1000年以上も昔のものだ。
昔の人もさよならを惜しんでいたんだとこの詩をみるといつも思う。

特にこの時代は飛行機や新幹線もないし、携帯やインターネットもない。別れをするとなると東京、大阪間の距離でも一生のお別れになってしまう時代だったと思う。

今ではすぐに会えるしすぐに連絡がとれる。
終わらない人間関係が続く。
さよならは喧嘩別れか、自然と縁が遠退いてしまうか死別だ。
物理的にお別れになるのなんてのはほとんどない。
その分お別れに実感がわかなくなってる。
人間関係に終わりがないなんて考えるとその分一緒にいる時間を大切にしようとは思わなくなる。
後、色んなコミュニティがあり選択肢が多く戸惑ってしまう。
ネットによって救われてることもあるし、全国色んな人に会えるメリットもあるので一概に言えないけど。

後、フランスの友人がが「花に嵐のたとえもあるささよならだけが人生だ。だ。だ。da?」と末尾に?マークをつけていたが何でだろうと考えた。
フランスにいようとも飛行機で日本に帰れる。日本にいる家族や友達に会おうと思えば会える。
昔だと海外に行くということは故郷には帰って来れない旅だったはずだ。

現在は生きる場所の選択肢が多い分生き方を決めることが大変になってくる。

「さよならだけが人生だ。だ。だ。da?」なんだけど、好きな人たちとだけ一つの場所に居続けるのは不可能なんだろうと思った。

さよならが割り切れない時代だ。