アセンションすること

yoko162007-06-04

アセンションへの旅を書き始めて、
ちょうど6ヶ月が経過しました。


私としては、まだまだしばらくこれを続ける、と
思っていたのですが、「アセンションへの旅」は、これで
終わり・・、との天啓が唐突にやってきました。


ええっ・・。


「地球の癒し方」を書いた時、『完璧』と言う声が聞こえてきました。
完璧? ・・・一体この文章のどこが完璧? と自分でも
突っ込みたくなるようなその言葉に驚きました。



それもなんだか、その声はお祝いのように喜んでいる感じなのです。
私は何がなんだか訳が分からず、自分的には、納得がいかないまま、
今日になりました。


そして朝一番に、なぜか急に『アセンションへの旅はこれからも
ずっと書いていくんだよね?』と聞いてみたくなりました。
すると、速攻で『いいえ』の答え。


「えっ?ずっと続けていくんじゃないの?じゃあ、どうするの?」
その答えには、『別のブログをはじめる』と指令がやってきました。


これまで、ここには5次元に移行する時の心構えと肉体の変化に
対応する為の内容を綴る、ということでしたが、今度のブログに
書くのは、5次元に移行した後のモデルとなる意識の在りようと
実際の状態を書き綴っていくことになりそうです。


アセンションは、夢物語ではありません。
単なる現実の続きです。
アセンションしたからと言って、空を飛べるようになったり、
いきなりヒーラーになったり、超能力者になったりするわけでも
ありません。(笑)


社会もいきなり、戦争のない平和な世界に変化するわけでもありません。
アセンションは、夢物語でも、不思議なことがいつでも起こって、
自分の望みが叶う世界になるのではなく、ただ私たち自身の意識状態が
変わるだけに過ぎないのです。


自分の足を地につけておく事を決して忘れないで下さい。
5次元になっても一見、何一つ変わりません。私たち自身は、唐突に超能力を
発現し始めるわけでもなく、半透明な身体になるわけでもありません。


けれど5次元に変わる時、私たちは意識レベルの変更を余儀なくされます。
意識レベルが変わる事、それが私たちが体験する5次元への移行です。
意識レベルが変わる事は、思考回路が変わることです。


意識レベルが高くなることによって、自動的に私たちの思考回路は
変更されます。
それによって、これまで自分にとってこだわりや執着の対象だったものが、
それほど意味のなかったものだったことに気付くでしょう。


今、私たち3次元の世界では、経済にまつわることがもっとも価値あるものと
されていますが、5次元のモデルでは、それはすでに古いものに過ぎません。
次のブログではそのことについて、もっと具体的に触れていく事になりそうです。



また次の世界では、意識の高さこそが真に価値あるものと、理解していただくための
水先案内として、次のブログを書いていく事になると思います。



と言うわけで、このアセンションへの旅のブログは、これで終了です。
次にお目にかかるのは、別の場所の別のブログと言うことになりそうです。



このブログを楽しみにしていてくださった皆さん、どうもありがとうございました。
これからは、また新しいタイトルでブログを立ち上げることになっています。
人間的には、このまま続けていく形の方がずっと楽なのですが、なぜかそれでは
いけないらしいのです。
その理由は、今の所、私にも分かりません。


私のHPエンジェルサポートを立ち上げて以来、ずっとこんな調子ですから、
なじみのお客様は、『ああ、またか・・』と苦笑していらっしゃるかもしれません。(^^;)
エンジェルサポートが魂の声に従うものである限り、このスタイルは変わらないものと
思われます。(突然終了の憂き目に遭ったりするのも・・・)



ともあれ、私はただ魂の声に従うだけ・・・。
新しいブログを読みたいと思ってくださった方は、私が主催するエンジェルサポートのHPを
ご覧下さい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~ange16/

用意ができ次第、こちらに新しいブログのアドレスをUPする予定です。
ご縁がありましたら、新しいブログを見に来てくださると嬉しいです。
しばらくこのブログはここに残し、本を作成した後、消去する予定です。


こちらからのお知らせが欲しい方は、メルマガ『魂の学び』にご登録ください。

『魂の学び』まぐまぐ
http://www.mag2.com/m/0000181800.html

新しいブログやイベントのお知らせなど、こちらからお送りさせていただきます。



それでは、短い間でしたが、『アセンションへの旅』をご愛読くださいまして、
ありがとうございました。

YOKO

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地球(自分)の癒し方

yoko162007-05-29

心の問題を解決するために
何ができるか・・・?、ということで、
意識してみると、ふっと私の心に浮かんだのは、
小さな地球。


両の手のひらにすっぽり納まるほどの大きさの小さな小さな地球が
私の目の前の宇宙に浮かんでいました。


それは奇妙にところどころ赤黒く、別のところは焦げたように黒くなっていて、
私のイメージする瑠璃色の地球の美しさはありません。
傷ついて、息絶え絶えに横たわっている地球の女神の姿が見えました。
白い顔をした彼女は、それでも地球に生きる人々を愛してやまず、
自分の子供である人間たちが、彼女をこれほどまでに苦しめたにも関わらず、
なお愛し続けるその姿は、痛々しくもあり、神々しくもありました。


赤黒い大地は、人々の怒りをあらわし、焦げついたような黒色は、
人々の絶望を現わしているのだ、と私は気づきました。
地球の大地は、この黒色のエネルギーに覆われようとしていました。



あら? 今ふと思ったら、 ・・この感じ・・・。どこかで見たような・・・?
ああ、思い出しました。
ネバーエンディング・ストーリー』です。
このストーリーの世界に虚無が襲い来て、何もかもがなくなってしまう・・・!!
消えてしまう・・・というもの。


なんだか、これに似ています。
虚無・・むなしさは絶望に変わり、人は生きる気力を失い、自暴自棄になり、
時に暴力的になり、何もかも壊してしまいたくなる・・・。
もし人がそんな状態にあるとしたら、その人はきっとこの虚無の力に侵されているの
です。


でもこのお話では、一旦すべてが消え去ってしまうけれど、小さな一つの光から
すべてのものがもう一度新しく生み出されていきます。
どんな世界も思いのまま・・・。


新しい世界を思い描く時、人は本当の自由を夢みるでしょう。
今の自分に科せられた(と感じている)がんじがらめのしがらみなど何一つなく、
自らなりたいものになり、ありたい状態であることが許される世界・・・。


人の本当の喜びを何か皆さんはご存知ですか?
私たち人間が実は、心の底からそうしたいと欲しているものが何か、
あなたはその欲求をご存知でしたか?


それは、「人の役に立ちたい」という思いなのです。
人間というのは、どんなに欲が深くて残忍であっても、本当はその心の底に
人の役に立ちたい、という思いが隠れているのです。
こんな言葉をあなたは信じられないかもしれません。


そんな人を見たことがないかも知れません。
でも、それは単にその人たちがそれに気づいていないだけなのです。


人は生きている以上、誰でも人に認められたい、と言う思いを抱えて生きています。
人に認められて初めて、自分は生きている!と言う喜びを感じるものです。
『あなたがいるから嬉しい』『あなたがいてくれて助かった』『あなたは、私にとっ
て大切な人』
そんな風に、心の底からあなたを認め、受け入れてくれる場所を人は常に
求めています。
でも、人は大人になるまでにその素直な感情を違うものにすり替えて行きます。


人に文句を言ったり不満をぶつけるのは、その典型的な例で、自分の心の中の感情を
上手く処理できないでいるのです。
でもこの人たちの心にあるのは、たとえ口では何を言おうが、自分を認めて欲しい、
愛して欲しい、ということなのです。
子供の頃、この大切な素直な感情を受け入れられずに育つと、その思いはゆがんで
発現するのです。けれど、この心はたいていの人の心の中にあります。
もちろん、私の心の中にもあります。


たいていの親は、そのことに気づいていませんから、その大切な部分を
知らずにないがしろにしてしまうのです。
それは、その人たち自身もまるごと受け入れてもらった経験がなかったからなので
す。



神は、自分に似せて私たちを創りました。
私たちは、神が自分を経験するために、この世界に創られたのです。
何しろ、一人では「自分を経験すること」は、できません。
だから、たくさんの人を作り、自然を作り動物を作り出しました。


様々な経験をするためです。
それは、神が自分を経験するために、創られたこと・・・。
だからこそ、私たちは人の認証を必要としています。
人の認証によって、私たちは生きる喜びを見出し、人によって怒り、
人によって悲しみ、人によって嬉しさや楽しさ、あらゆる体験を
経験するように私たちは形作られたのです。


だからこそ、人は他人の認証を必要としています。
だからある人は、切望と言ってもいいほどの強さで、他人からの賞賛
注目を勝ち得ようと努力するのです。
努力がいやなら、犯罪を犯してでも、成し遂げようとするのです。
もっとも、それとても努力を要するのですが。


人の認証を求めることは、ある意味とても自然なことなのです。
恥ずかしいことではありません。
ただ、それをどのように表現するかで、その人のレベルは変わってきます。
私たちは、魂のレベルを上げるためにこの世界に存在するのであって、
認証の為に生きているわけではありません。


必要以上の欲求は、欲求とは呼ばれず、欲望と変化します。
精神に支配されている間、本当のことが見えてくるようにはなりません。
同じ映画を観ても、人の価値基準によって、面白さは千差万別です。
人と自分の感想が違うことに気づくでしょう。


私たちは、自分の価値基準に従って行動しているために、
自分の価値に従わないものを敵とみなす傾向があります。
それはまだ、正義か悪かの二元性の中に生きることです。
でも、その中にどっぷりはまっていても、誰も幸せにはなれません。


心の問題を解決するために、苦しみをぶつけても何もなりません。
むしろ、それが自分に戻ってきて、大変な思いをするだけです。
人の言葉に左右されて、心が動く時、必ずあなたの心の中に、
何かが存在しているのです。


私は、最初に見た小さな地球は、再生する必要があるのだ、と
思いました。
それは、まさしく私の心です。
私の中に現れたのだから、私の地球なのです。
私は、自分の地球を美しい元の瑠璃色の地球にしたかったのです。


怒りと絶望には、平安と希望を与えて、水をやり、元の美しい緑の地球の
姿を取り戻させましょう。
愛の緑の光で地球を包み込み、穏やかさと優しさで包みたい・・・。
この地球が本来の光を取り戻し、輝かしい瑠璃色の光を放つまで・・・。


不思議なことに、地球が自分の中で輝きを取り戻した時、
私の心も平安と安らぎを取り戻していました。
自分を癒す方法がこんなところにあったとは・・。


自分の地球を癒す事は、すべての人にできることです。
怖れや怒りや不安を感じたら、ぜひ一度、イメージで自分の地球を
癒してみてください。
やり方は簡単です。

ただ、愛の光でイメージの地球を包むだけ。


心の問題は、心の中にしかないので、平安を取り戻せば、
何事もないかのように、自分の中は平和になるのです。


苦しい時には、一度お試しあれ。
もし何も起こらなくても、少なくとも副作用はありませんから。(笑)




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考える事と意識する事の違い

yoko162007-05-24

今、私、実はものすごく眠いんです。
自分がなぜそんな時にパソコンを開いているのかもわかりません。

でも今、このタイトルで「ブログを書きなさい」、との要請に従って、
パソコンの前に座っています。


多分また、考えずに書け、ということなのでしょう。
というわけで、今日のタイトルは、『考える事と意識することの違い』を
書こうと思います。


滋賀県は、今日とっても暑いです。
我が家は、琵琶湖に近いせいか、様々な鳥がたくさんやってきます。
今もベランダの外で、愛らしく美しい小鳥たちの歌が聞こえてきます。


でもこの小鳥達の声が美しいと感じるのは、今この時、私の心が穏やかだからです。
だから、小鳥の声が歌に聞こえ、太陽の光がまるで降ってくる宝石のように見えます。
それは、今この瞬間、私がそのように意識しているから。


私の心の状態を、今の感情は映しています。
もし、私がイライラしていたら、小鳥の声よりもむしろ、道路を走り去るトラックの音が
気になっているでしょう。
それをうるさくて仕方がないと感じながら、これを書くことでしょう。


『頭で考えること』は、物事の一部分だけを切り取ったものの見方をさします。
なぜなら、どこか一点に意識を集中させて、それについて考えなければ、考えというものは
まとまりを失うからです。その行為は、ものの見方を狭めてしまいます。
だから高次元からのメッセージでは、いつもいつも「考えるな」と言われるのです。


それに対して、『意識すること』は、物事をまるごと受け止めること。
まるごと受け入れて、初めて意識することができる。
この場合の意識する、は、良いとか悪いとかいう観念からは
自由になったものを指しています。


『こうなろう』『ああなりたい』は考え。
『こうあろう』『こうなる』は、意識なのです。



「考え」は、私たちを迷路に迷い込ませますが、
「意識」は、私たちを自由にします。



『考え』からは、悩みが生まれます。
『意識』からは、光を見つける事ができます。



私たちは、いつも自分の在りようを、見つめる必要があります。
考えに支配されている間、私たちは真の幸福からは遠いのです。


「意識すること」を覚える時、人は、自分の足にかけられた見えない鎖を
解き放つことができます。


本当のことは、いつもシンプルです。
使い古された言葉の中に真実は存在しています。


よく耳にするからと言って、その本当の意味を私たちが
理解しているとは限りません。
むしろ、全く理解していないことがほとんどでしょう。
私も友人もメッセージを受け取るたびに、過去の観念の中から、その言葉の意味に
見合ったことを探そうとしてしまいますが、結果はいつも、惨敗です。(笑)


その時頭で考えて、解釈することは結局何の役にも立たなかったことが、
どれほど多かったことか。


考えることを放棄する、と言うのは何も考えるな、という意味ではありません。
悩むな、という意味には取れるかも知れませんが、本当は「意識して生きなさい」
という意味です。


意識することは、慣れないと意外に難しいものです。
試しに、いつも右手で歯を磨く人は、今日から左手で磨いてみてください。
靴を左足から履いてみてください。いつもとは反対の足から踏み出してください。


意外なほど簡単に思えるこの行為が、しっかりと意識していないと、
いつもと同じ行動をしてしまう自分に気づくでしょう。



これは、わたしたちに染み付いた習慣のなせるわざですが、私たちの「考え方」もまた、
これと同じように習慣づいています。

もし、あなたが何でもマイナスに考える癖が付いているとしたら、
どうやってプラスに転じることができるでしょう?


マイナスの考えは、あなた自身の行動をすべてマイナスへと導きます。
逆にプラスの考えは、あなたをプラスの方向に導くでしょう。


これは習慣力と呼ばれるものです。
この力は、私たちが意識しない限り崩れることはありません。


ここで皆さんにおたずねします。
あなたはいつもいつでも、自分が幸せだと感じることができているでしょうか?
もしノーなら、自分が不満や怒りを持った時、一瞬立ち止まって、意識してみてください。


『今私は、プラスの思考で考えているだろうか?
マイナスの思考で動いてはいないだろうか?』と。


物事は、すべてが自分の意識によって形作られています。
あなたが何を意識するかによって、そのすべては変化します。
あなたの今の感情、あなたの今の状態、あなたの今の考え、すべてあなたが
自分の力によって、作り出したものです。


状況によって、あなたの感情や考えが生まれたのではありません。
あなたがそう意識し、そう考えたから、あなたの感じる状況がうまれたのです。


まず、意識ありきです。


何を意識するのか、それをまず心に決めましょう。
自分を不幸にするのか?それとも自分を幸せにするのか?
それもまた、あなたにしか決められません。



諦めも時には必要ですが、自分の望みは、最後まで諦めないでいれば、
必ず叶うものです。
意識することを実行していくことは、自動的にあなたの望みを
叶える生き方になっていくでしよう。



後は、実行する勇気を持つこと、それだけです。



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人の心には宇宙が在る

yoko162007-05-23

って、まだ大分の続きも書いてませんでしたね〜。(^^;)


おほほ・・。(汗)


なんとなくタイトル変えたかったもので・・。


大分でのオーラハーモニーは、すでに楽しかった〜としか思い出せない
状態になってしまいました。(笑)
友人によく「yokoちゃんの過去は、もう過去世なんだね」と冗談を言われるのですが、
それはまさしく本当のことかもしれません。


だいたい普通にしゃべっていたはずなのに、後になると、
何にも記憶がなくなっている事は日常茶飯事です。
それなのに、その時のことを相手の人は克明に覚えていて、
後で『yokoさんにあの時、こんなことを言ってもらって助かった』なんて
よく言われます。
でも、私は何にも覚えていない。

それで私は『ああ、それは私じゃないから。』と思うこともしばしば。(笑)
親友の言うことには、私は相当な巫女体質らしいので、たいていその時も知らず知らず
何かにつながっているのでしょう。


だいたい、オーラハーモニーも正にそういうこと。
私は、単に身体を貸してエネルギーを通しているだけであって、
私が決めて声を出しているわけではないのですね。
だから、その光の通り道になっている自分をどれだけ透明にするかだけが
大切なわけなんです。


どんなエネルギーもメッセージもその人を通してやってくる。
だから、その人のエネルギーに染まったら、純粋なエネルギーは、ゆがんでしまう。
そこで私が一番、気をつける必要があると思っているのは、そこに
一部でも自分を差し入れないこと。


ただ私はその光を受け取る媒体だから、通り道をぴかぴかにしておくこと、
それだけが私のやることだと思っています。
後は、その器にふさわしいエネルギーがやって来るのを待ちます。
だから当然、私が変わればやって来るエネルギーのレベルも質も変わります。


人という存在は、人間の器の中に入っているけれども、
その本質は光ですから、望めば、その瞬間にいかようにも変わる事ができるのですが、
たいていの人はその力を信じていません。
つまり、本気で信じていればできるのです。信じることで一番強い意識って、
何かご存知ですか?
『知っている』ということなんですよ。(笑)
皆さんも知ってる事を信じることはできないでしょう?
知っている事は、信じるよりも強い意識、つまり「信じる」、は未来形だけれど、
「知っている」は、過去形なんです。この意味が分かったら、あなたは信じることから
知っている事に変える準備ができた事になりますね。(^^)



私がオーラハーモニーという名前をつけたのは、以前からあるものには、
たいてい『〜協会』なるものが存在していて、誰かが決めた決め事があるので、
それに支配されるのを望まなかったのです。


全く誰にも知られていない、0から出発することで、自分の望むまっさらな状態では
あったけれど、その分『一体、オーラハーモニーって何なんだろう?』という疑問が
ありました。自分が決めたのに、自分が不安に思うなんて、どういうこと?
と思われるかも知れませんが、これも基本的には『これをしなさい』という魂の指示のもと、
それに従ったのであって、実のところ『オーラハーモニー』として自分の中で確立するまで
には2年の歳月がかかりました。


その時までは、ずっと自分の頭が勝っていて、人に『理論的』に説明するにはどうしたら
いいか、とそればかり悩んでいました。私は、自分で言うのもなんですが、結婚するまでは、
仕事に関してはかなり有能な方であったろうと思います。
いくつもの職場でそういう評価を受けていましたし、実際力仕事以外なら、たいていの事は
こなせる自信がありました。
しかし、それは現実世界でのことであり、この自分にとっても未知の『オーラハーモニー』が
いったい全体、どういうものなのかが、私にも全く計り知れず、どうにか数値に置き換えて、
客観的にその存在の意味を知りたい、と切に願っていました。


それは、何にも知らない他人に説明するため、と自分では信じていたのですが、
実のところ、自分の頭を納得させるためだったのだ、と後になって気が付きました。
その事に気が付いた時、私はオーラハーモニーを今の科学で計ろうと努力するのを
やめました。心の奥底では、そんなことに何の意味のないことはわかっていたのです。


数値がどんなものであろうと、オーラハーモニーの本当の価値を測れるものなど、
まだこの世界に存在していないことくらい、頭のどこかでも分かっていたのです。
ただ、自分がそれを仕事にして拡げて行くにあたって、まず私は、自分自身を納得させる
必要があったのでした。


最初に、大きな屋外のコンサート会場のような場所で、オーラハーモニーを歌う自分の
ヴィジョンを見たとき、自分の心の中に『ありえない』という気持ちと同時に
「気持ちいい、最高!」という思いが同時にありました。
そして、私がオーラハーモニーをやってみたい、と思うようになった最大の理由は、
この時のあの心地よさを体験したい、という思いからでした。


自分の中から溢れてくる、湧き上がってくる不思議な何か・・・。
それが何か、その時にはまだ、形にして表現することは叶わなかったけれど、
その『思い』こそが、私にとって啓示だったのだ、と今の私にはわかります。


抑えようとしても抑えきれない、大きな感動にも似た情動。
私は、その波にさらわれることを望み、その大きな光の渦の中に
入っていくことを望みました。
そして私は、それが自分がここに生まれてきた、本当の意味であると、
頭ではなく、感情でもって、確信したのです。


もっとも、それが分かってもまだ、それで何をどうすれば、いいのかは
さっぱり分かっていませんでしたが。(笑)



ただその後、自分がこれをやりたい、と感じることを少しずつ形にしていくことにしました。
感じて、実際に行動に出ること、それが自分の道につながっていく・・、と当時は
分かっていたわけでなかったのですが、自分の強い直感と突き動かされるような情動に
従って行動することによって、本当の自分とは何か、本当の自分の使命が何なのか、
理解する事ができたのです。


もちろん、その間には、様々な助けとサポートが入り、人間的には悩み続け、
それが苦しい時期もありましたが、結局のところ、私は自分が本当に望んでいたのは、
『人類すべての進化を助けること』だったのだ、と思い到った時には、
その意味する大きさに自分でも、相当驚きました。
けれどその事は、すうっと私の心の中に入ってきて、本当にそれがしたかったのだ、と
それまでで一番、落ち着いた納得がありました。


そして、それが『オーラハーモニー』という形をとったのだ、と。
人間の私は、人の進化を助けるなんて大それた事をなぜ考えるのか、と思います。
けれどもう一人の私が、それは考えたことではなく、私という存在がそのように
在るべくして、ここに生まれてきたのだ、教えてくれました。


いくつもの過去世を自分で見て、私は過去にも何度も同じことに挑戦してきていたことを
知りました。そして自分が、元々は違う星からこの地球に志願してやってきたこと、
人は私の事を『選ばれし者』と呼ぶけれど、私は選ばれたのではなく、
私の魂がそれを選んだのだと感じること、私の魂が今の自分の在り方をとても喜んでいること。


今でも、頭では、まだ理解できないことだらけです。
けれど、不思議なことは、どんな質問にも答えられないと感じないこと。
その答えは、無尽蔵に私の中からやってきて、私に答えを教えてくれる・・・。
私はただ、それを翻訳して、人に伝えるだけ・・。


私の中には、ありとあらゆる知識も答えも詰まっていて、ただ私はそれを
言葉として吐き出すだけ・・・。
そのように感じます。だから、求める必要もない。そこに在るのだから・・・、と。



たいてい敏感で、奇妙な能力の持ち主の子供だった私は、自分が20歳になる頃までには、
死ぬか狂うかするだろう、と思っていました。
あまりにも奇妙な体験の為に、自分の神経はそれ以上持たないだろう、と
思っていたのです。


そこで、私はこの世界のありとあらゆることをできる限り、吸収してから死んでやろうと
考えました。それが小学生の頃だったと思います。
それから私の知識への探求は始まりました。学校の授業は退屈な上に、
僅かなことしか教えてはくれない。そこで私は最大限に図書館を利用して、
一日にどれだけ知識を得ることができるかに、挑戦していきました。
一日20冊もの本をすごい勢いで読みふけり、その知識を我がものにしようと
躍起になっていたのです。


その頃読んだ、北欧の神オーディンの話にその時の私は強い共感を覚えました。
オーディンはあらゆる知識、叡智を得るために、彼は自分の片目を贄として差し出すのです。
私はそれを読んだ時、私も片目を失ってもいいから、その知識が欲しい、と
心の底から思っていました。
今思えば、そんなことを考える小学生って、ちょっとぞっとしますね。(笑)


そうこうしているうちに中学生になり、相変わらず本の虫だった私の耳に、
妹達が見ていたアニメの歌が飛び込んできました。


その歌はこう、歌っていました。
『人の心には宇宙がある・・・』と。


それを聞いた瞬間、私の頭のなかで何かがスパークしました。
その時、唐突に私は悟ったのです。
『そうだ、本当に人の心には宇宙が在るんだ・・・』と。


そして気づいたのです。自分の中に宇宙が在るということは、
すべては、私の中に存在するということではないか・・・?
それなら、世界中の知識も実は、私の中に存在するのではないか・・・?


私は、正に宇宙の図書館を自分の中に持っているのだ、と突然直感したのです。
それならば、私は無理して自分の外に答えを捜し求める必要はないんだ・・・、と
奇妙にほっとしたことを覚えています。



それが「アカシックレコード」と呼ばれるものだったことは、もちろんその時の私は
知る由もなかったのですが。


それから、私は外に知識を探求し続ける事をやめてしまいました。最も、本の魅力に
取り付かれているのはいまだに変わらないのですが。(笑)


そして、そのアカシックレコードは皆さんの中にも存在しています。
私たちが望みさえすれば、その図書館は開かれ、あなたに答えを指し示します。
その答えは、もちろんあなたのレベルに合わせてやってきますから、
最初は何のことか分からないかもしれません。


あなたの魂のレベル、受け取っても良いレベルでしか、アカシックレコード
内容は明かされません。
というか、逆ですね。知識はいつでも開いているのですが、その人が受け取れるレベルに
なっていなければ、どんな言葉も意味をなさない、というのが本当のことでしょうか。


自分の魂を磨くことは、私たちは自分の本当の姿・・・、大きな光で在ることに
近づくことです。

自分の魂の光に気づいてください。



あなたが魂であることにまず気づき、そこから行動していくならば、あなたの人生も
あなたの周りの人生もまるで違ったものになるでしょう。


あなたは、これまでと全く違ったものを自分の人生や世界に見出し始めるでしょう。
愛はいつでもあなたの側で息づいています。


あなたがただそれに気づくだけで良いのです。
神はあなたの側で、いつもあなたを愛していることに気づくなら、あなたの人生は
輝きを増すのです。
(注意:私は宗教とは全く無関係ですので、誤解しないでくださいね!笑)


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オーラハーモニーin大分

yoko162007-05-16

大分でのオーラハーモニーが終ったら、
ちょっとゆっくり?かと思っていたら、
まだまだなんだか毎日がばたばた・・・。


でも、大分でのオーラハーモニーは最高でした。
あ、えーとオーラハーモニーが何か、たいていの人はご存知ないですよね。


オーラハーモニーは、音(声)と波動によって
場と人のエネルギーを調律するワークです。
これはヒーリングと違って人を治したり癒したりするものではなく、
その人の本来の在り方へと導くものです。


オーラハーモニーの名は、天使が『あなたは場と人のエネルギーを
調律するマスター』と言ってくれたことから私がつけた造語です。
ですから、今のところ、後にも先にも『オーラハーモニスト』は
私しかいません。(笑)
だからご存知なくても当たり前ですね。


この言葉が光と共に私のところに降ってくるようにやってきた時、
私の魂の中で、私はこのお仕事をするのだと決めていた気がします。
もっとも、人間の私は一体、誰がそんなことをするの? と思っていましたが。(笑)


そう言いながらも、今色々なところに出向いて、オーラハーモニーを
行っています。
そんな自分がちょっと不思議かも。(^^)


毎回、同じテーマでやっても、その会場によって、空気もパターンも人も違うので、
内容は全く異なります。今回、滋賀、東京、大分で同じテーマでやりましたが、
その全部に参加してくださった方も、どれも全く違う、とおっしゃっていました。


もちろん、波動を調律するオーラハーモニーそのものも全く違うのですが、
その他、筋力反射を利用したキネシオロジーの使い方や実際の体験の中身も全く違っていたり、
今回の大分では、参加者全員のオーラを皆さんに見ていただいたり、オーラって
こんな風に見えるんだ・・・なんて実感して下さった方もいらっしゃったのでは
ないでしょうか。


実際、お互いのオーラに触れてもらう体験では、『えーっ、何で風が吹いてるのー?』とか、
『暖かくて手が汗をかいてきました。』とか、『その人が近づいてくると圧迫感を感じます。』
など、それぞれの人が目に見えないものの存在を身体で認識する事ができたようです。


そもそもオーラは、私たちの本来の姿であって、肉体はその中に少し形を作って存在しているに
過ぎませんから、肉体を敏感な状態にしておけば、誰でも必ず感じているものなのです。
ただ、学校や親からそのことを学ばなかったので、それがどういうものか、
知らないだけなのです。


私たちの人生の半分は、思い込みでできています。
オーラに関しても、ほとんどの人が視える人は、はっきりと極彩色で見ているのだろう、と
思っているようですが、決してそうとも限りません。
はっきりと克明に視力で見るように見える時もあれば、頭の中に突然ビジョンの
ように映ることもありますし、はたまた、ただぼんやりと陽炎のように視える事だってあるのです。



はっきりと、「りんごが赤いと見えるように見えなければ、見えたとは言わない」などと
思っているなら、それこそ思い込みというものです。
だって、オーラが見えると主張している人が、どんなものを見ているか
どうやって理解できるというのでしょうか?
あなたが思い込んでいるものを見ているとは、限らないのです。


少なくとも私の体験から言って、「不思議」と思われるものに遭遇した時、
私が思っていたような姿かたちで遭遇したことなんて、ただの一度もありません。
例えばかなり前、こんなことがありました。


その時の私は、夫とそれまでにないくらいの喧嘩をして、
とんでもないくらい怒っていました。


「それで、明日は絶対、市役所に離婚届を取りに行ってやる!!」とすごい剣幕で、
お茶碗を割りそうな勢いで、洗い物をしていたのです。
その時の私は、容易に想像できると思いますが、頭の中は夫に対する怒りで
いっぱい。他の事を考える余地なんてこれっぽっちもありませんでした。


それなのに。


唐突にその声は聞こえてきたのです。
『まぁまぁ、許したってぇなぁ』と、間の抜けた関西弁が。
思わず反射的に振り向くと、いたんです、そこに。


黄色のクマの天使が。


いや、冗談だと思うでしょ?
でもね、確かにいたんですよ、黄色いクマのぬいぐるみに羽の生えたような天使が。
大きさは30センチくらいで、しかもべたべたの関西弁で。(笑)
パタパタ小さい羽根を動かして。


でもその時の私は、ものすごく怒っていたので勢いが止まらず、思わず
「あんた誰っ!」と聞き返していました。


すると、そのくまの天使ちゃんは、またまた関西弁で
『わいはなぁ、あいつの守護天使や』と、私の夫をさすではありませんか。
そして、なおも『この辺であいつを許したってぇなぁ』と言い募っています。


それを聞いた瞬間、あまりにおかしくて、私は腰くだけになりました。
夫の守護天使がこんな可愛い関西弁のクマだったなんて、と思っただけで
おかしくておかしくて、もう私はその時、何で怒っていたかも忘れてしまいました。


だって、想像しただけで笑えませんか?
自分の夫の守護天使がくまのぬいぐるみの天使で、
べたべたの関西弁しゃべってるなんて。


それからすっかり仲直りした私たち夫婦ですが、あの時、あのクマちゃん天使が
現れてくれなかったら、あの時本当に離婚していたかもしれません。


そしたら今、私は生活に追われてこんなことを書いている場合
じゃなかったかも知れません。


それにあの時、あの姿で天使が現れてくれたからこそ、私は
怒る気力をなくしたのであって、もし、私の想像するような美しい姿をした天使が
現れてまともに『あなたの夫を許してあげましょう』なーんて、言っていたら
きっとあの時の私なら、逆ギレしていたに違いありません。(爆)


今思えば、その時のそんな私の心理を理解していたからこそ、
そんな姿で現れてくれたんだろうなぁ、やっぱり神様っているなぁ、と思います。
もちろん、後にも先にもこの天使を見たのは、これ一度限りでしたけどね。(笑)
(もう一度見てみたいです。笑)


って、話がどんどん脱線してしまいました。
という具合に、いつも私の予測のつなかい事だらけなんです。
オーラハーモニーをお仕事にすることだって予想外。


子供の頃から、この奇妙な人の見えないものを見てしまう、自分の状態が嫌で嫌で、
絶対、そういうものには、自分からは近づくまい、と心に決めていたし、
まさか自分が魂のお仕事を自分から進んでやることになろうとは、
夢にも思っていなかったのです。



それでも結局、生まれ持った能力は消すこともできず、
自分にとっては、迷惑だと思いながらも、長年付き合ってきて、
このお仕事をはじめて、ようやく、自分のこの能力を容認することが
できるようになったのです。


あらら、これだけ書いたら、またまた長くなってしまいました。
続きは、また次回・・・。

あ、そうそう、次のオーラハーモニーは、6/17に滋賀でやる予定です。
http://www.h6.dion.ne.jp/~ange16/aurahar-s.htm


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何が善で何が悪か

yoko162007-05-11

「何が善で何が悪か」この言葉の二元性に振り回される間、
私たちは本当のことは何もわからない、と前々から思っていました。


誰しも、自分の正義を振りかざすけんかや、争いや戦争のもとに
なっているこの意識。
これに振り回されていても、何一つ解決しないのです。


例えば、かつては世界一安全と謳われた日本も、今や
安全な国とは言い難い国になりました。
子供が外で一人で遊ぶこともままならない世の中に、
ため息をつきたくなる人も多いでしょう。


少なくとも、私が子供の頃には、幼い子供が理由もなく、
道端でさらわれたり、暴力を振るわれたり、さらには、
殺害されるなんて事はありませんでした。
けれど、今は子供が遅く帰ってくれば、親は誰かに襲われたのではないか、
誰かにさらわれたのではないか、などといらぬ心配しなければならない
世の中です。


それを社会が悪い、犯罪を犯したらその親が悪い、
それをきちんと取り締まれない警察が悪い、ひいては、
こんな国にした政府が悪いといえば、いくらでも、
悪者を作り出すことができますね。
でも「誰かが悪い」と言っている間、何にも解決しませんよね。
かといって「自分が悪い」、なんて思っても結果は同じです。


良い、悪い、という観念の中では、結果はこの二つしかありません。
『良いか、悪いか』です。


人間としては、この意識にのっとって、
あの人が悪い、この人がいけない、という気持ちがあるのは事実ですが、
冷静になってみれば、この『決め付け』からは何一つ生まれてこないことに
気づくのです。


犯罪が凶悪化すれば、罰則を厳しくしようと言います。
けれど、罰則を強化したところで、犯罪はなくなることはありませんし、
犯罪を犯した子供の親をなじってみてもどうにもなりません。
考えてみれば、自分の子供を犯罪者に育てようなんて思う親が
どこにいるでしょうか?


先日、ニュースを見ていたら、こんなことを放送していました。
生徒が荒れてしょうがない学校で、それを調整する仕事をする人に
荒れる生徒達をまかせることにしたというのです。


その調整役をやる人は、元暴走族の総長をやっていたといいます。
けれど、あることがきっかけで、暴走族をやめ、また後には
その暴走族の仲間でボランティアをはじめたという、
とてもユニークな経歴の持ち主でした。


その人は学校にやってきて、荒れた少年たちを、
決して叱ったり、声を荒げたりすることはなく、
まずは仲間に入り、信頼関係を作ることからはじめていました。
そしてさりげなく、問題のない方に誘導していくのです。


もちろん、時には真剣勝負のやりとりもありますが、
彼は荒れた少年達の心の中に、土足で入り込むのではなく、
彼らを本当に愛しい子供たち、として扱っているのが
わかりました。
頭ごなしに分からせようとするのではなく、
心を開かせて、相手に寄り添うのです。


そうすることで、彼は少年達の本当の信頼を勝ち得ていました。
それを見たとき、私はなんだかとても感動しました。
彼は決して、職業だからその仕事をしているのではないのです。
彼は、心から子供たちの為に行動しているのであって、
その仕事は、彼にとってライフワークなのだろうと感じました。


その人と生徒の間には、心からの信頼関係が出来上がっていくのが見えました。
その人への信頼が、子供たちを変化させていきました。
そして、あれほどまでに荒れていた子供たちが、卒業式では
誰よりも先に、涙を流して泣いていました。


私はそれを見たとき、これなんだよ!と思いました。
人間の私はまだまだ修行不足ですから、年中子供とけんかしていますし、
それを反省する毎日ですが、頭からいいとか悪いとか決め付けられた瞬間に、
相手はその通りの行動を取り始めるのですね。


ほら、思い当たるふしはないでしょうか?
「お前が悪い!」と決め付けられると、なんだか相手がすごく憎くなって、
逆に相手が悪い、と思うものなんです。
すると当然、言動も行動も荒くなりますよね。
ところが、逆に『あなたは本当に優しい人ですね。』なんて
言われると、その人の前ではなんとなく、優しくなれてしまうんです。


人間って、自分の意志で動いていると思っているのですが、自分の行動の大半は、
思い込みと、相手の自分に対する態度への反応だったりします。


相手をどのように見るかは、結局「自分自身をどのように見ているか」の
雛形です。
何しろ、相手を通して自分を知るのですから、相手に対する思いは、
まさしく自分の自分に対する思いに他なりません。


人をさげすんで見ていれば、その人から恨まれます。
そのさげすむ相手は、本当はあなた自身です。
逆に憧れを持つ人もあなたのもう一つの写し絵です。
すべての人は、あなたの中にいるから、あなたの世界に存在するのです。


「何が善で何が悪か」と決め付ける事は、自分自身にレッテルを
貼り付けているのと同じなんですね。
自分自身を変えることは、なるほど、自分の世界を変えること・・・。
私が見て感じるものは、誰でなく、私自身のものなのですね。


一番大切なのは、『何が善で何が悪か』ではなく、「どうすれば幸福か」を
意識する事だと思います。
この一瞬に、どの思考を選び取るのか、そのことが私たちに
幸せも不幸ももたらすのです。

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アセンション、その後

yoko162007-05-08

って、こんなこと書いている場合じゃないくらい、
毎日ばたばたしているんですが、なぜか書いてますね。(笑)


アセンションしたって言ったって、何にも変わらないねー、と
言うのが友人と私の二人の感想。
本当にあまりにも変わらないんで、拍子抜けするほどです。


うちに来てくださるお客様達は、「YOKOさんの側にいると軽いです」と
言ってくださったんですが、うーん、本人はその自覚すらないんです。(笑)


友人と二人、「別にアセンションしたら超人になるとか、悟りを開いてすごい人に
なるなんて思ってなかったけど、せめて感情的でなくなるとか、穏やかになるとか、
怒りっぽくなくなるとか、そんな変化もこれっぽっちもないよね。」
と言い合っています。(笑)



ただ「思いは重い」、と自覚したので、なんだか、感情の中にのめりこまなくなった
気はします。でもなぁ、これも別にアセンションしなくっても気づけば終わりやん、
と思ったりして・・。(笑)
まぁ、私たちのアセンションは、魂のお仕事の一環だったわけですから、
それでどうこうという訳ではなく、これも楽しんでいるのですが。


そういう意味では、「先にお風呂に入る人」って表現は我ながら秀逸だったかも。(ぷっ)


そう早い話、これならどんな人もアセンションできる!と思いました。
5次元って、すごい壁でもあるのかと思っていたのに、越えてみれば、何のことはない
グラウンドの白い白線みたいなものじゃない?
3次元の意識だった時には、超えられない大きな壁に思えたのに、
越えてしまうと、ものすごく楽でシンプルなものに見えるんですけど・・。



って、 あ、違いといえば、これですね。
意識。


うん、やっぱり意識は軽くなったみたいです。
苦しいのは、思いがあるから。
大変なのも思いがあるから。



3次元の私は、この思い(考え)がものすごく大切なものだと思っていました。
それを大切に大切にして、真理を振り捨てても、心の中に入り込む
「思い」こそが大事なものだと思っていた気がします。


たしかに大事だった・・・。
けれど、それは今の私にとっては、なんだかとても重いものに感じる・・・。
何か違うとしたら、この一点。
たったこの一点こそが前の私と今の私を分かつもの・・・。



違いは、精神に支配されない自分というものがこんなに楽なのか、と
感じることでしょうね。きっと。


苦しいは、くさかんむりに古いと書きます。
薬は、くさかんむりに楽と書きます。
ふと思ったのは、なるほど、このくさかんむりが思いだとすると、
古い思いは苦しいんだ。思い続ける事、はなるほど苦を呼びます。
楽しい思いは薬になるんだ・・・。


風邪を引いた娘が『楽しいと鼻水が出ないの。』と言っていました。
その通り!楽しい事は薬なんですね。


そういえば、昔読んだ精神性免疫学の本に、
楽しい話ばかり聞いて、コメディ映画ばかり見て、笑い続けて
末期がんを克服したアメリカ人のおじいさんの実話が載っていましたね。
実際、笑い続けると、白血球の数が増えるそうです。
恋をして癌を克服したという例もありましたし、いかに、
人の心が肉体に影響しているかの証明のようです。



とりあえず、大きな変化はないものの、自分の意識が変わってきたのは、
どうやら確実なようです。
(おや、そうすると何か変化があったんですね!笑)

なんだか物事が、やたらとシンプルに感じられるようになりました。
そういえば、やって来るメッセージは、いつもシンプルだったなぁ・・・。


真理もシンプル。
愛から発信する・・・、結局、この事だけが大切なんですね。


何にも変わらない人からの発言でした。(笑)

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