6月21日のこと。

髪を切った。初めて行った店だが、初めて納得のいく仕上がりになった。今まではどれだけ妥協していたか。
私は、私自身が酒を飲めることを幸福に思う。酒が飲めない人には分からないかも知れないが、それは他人の事情である。私にはどうすることもできないし、第一、私には関係の無いことだ。私は、誰かに迷惑のかからない範囲で、本当の意味でそういった範囲で酒を飲むのである。そうしなければ、私は私から逃れることが出来ない。
私の住むのはとても深い山の中であったが、それでもわりとすぐに海まで到達してしまうという、何とも説明の難しい土地であった。梅雨に入ったというのに雨はほとんど降らず、私の車のフロントガラスは砂に曇っている。今の私と同じように。
あれだけ憧れであった海が、まさか毎日の事になるとは思わなかったし、まさか、私にとってある意味を持つ重要な記号になるとも思ってはいなかった。嫌いにはならなかったが、私を無痛のまま責め続けるのは確かだった。
何もかもが甘やかで、だからこそ毒を持っていて、それは今まで言葉で発してきたのだけれども、やはりそれは事実であって、私はこれまでに無いくらい、長い期間をかけて、ゆっくりと涙を流しているのである。全ては、誰にも知られずに、海に届く前に枯れてしまうけれども。
いつか終わるのだろうか。始まるのだろうか。

夏と秋の間の夜に。

 正午より少し前、空には雲が重く、それでも夏は私に汗を要求する。抗うことは出来ない。
 駅までは歩いて10分と少しの距離だったが、Tシャツが湿るには十分だった。
 平日のこの時間帯のホームには、私が思っていた以上の人が居た。学校はまだ夏休みである。
 程なく電車はやってきて、私は後ろから2両目の車両に乗った。冷房はそんなに強くは効いておらず、そのことは却って私を安心させた。客はまばらであったが、進行方向に対して一番前の3人がけの席に、男の子と女の子(男の子の方が兄であろう)とその母親が座っていて、女の子は何が不満なのかずいぶん派手にぐずっていた。乗客は皆、見るとはなしに聞くとはなしに、その様子に気を配っていた。女の子の不満の原因について私もあれこれと思案したが、彼女はやがて泣きだし、本格的に母親があやしにかかると、程なく静かになった。車両の雰囲気は、どこにでもあるそれへと落ち着いて行った。
 私は携帯用の音楽プレイヤーを持っていたが、イヤホンを耳に挿すことは無かった。そうすることで、日常が発する世界が軋む音を逃してしまうのは、今日は何だか勿体ないような気がしたのだった。

雑音。

 雑音が多すぎるんだろう。それでも公開しようというのだから滑稽ではある。いらいらは募るばかりだ。どうして多くの人は他者との比較の中で優位に立とうとし、そのことでしか自信を確立できないのだろうか。たとえば酒に酔わないことは全くアドバンテージではないというのに。

酩酊日記。

どう転んでも好い、などというのは口実であって、勿論好い方向に転ぶに越したことは無いのである。それが分かっていて私たちは当たり前に予防線を張り、そして当たり前に敗北してゆく。生活の上での勝率は何に喩えられよう、天文学的な数字さえそこには定義できる。量の話題だけを持ってい歩いているわけではないが、どうしても目に付きやすいものに目は行く。それが道理である。
人々は分からないということに対して不安であり、だから死が不安なのである(ところで、南直哉和尚(宗派によってこの呼び名は違うのかも知れない)が述べるように、死は生ける者の中に在るのである。死者の中に在るものではなくて、生者の中にのみ現出してくるものである)。そしてそこに宗教が生まれ、時に商売が生まれる(全ての新興宗教は断罪されるべきだ)。私も先の見えない、全く足元の固まらない事象に振り回されて、消耗し、或いは摩耗して意識を遊ばせている。
誰か首にひもでも付けて私を固定させてくれないものか。

酩酊日記。

遠くに星がいくつも出ていて、私は夜を自分の中に認識する。こうも明るい都会に住んでいては、夜は畏敬の対象ではなく、ただ寝るだけの時間帯である。闇の輝きを、人はどこへ忘れてきたのだろうか。今でも私は生まれ育った土地の、夜に潜む安心感と、それと同等くらいの怖さを簡単に思い出すことが出来る。私はその深淵に命を落とすことさえ出来るだろう。それほど、夜の持つ力は絶対的なものである。
誰かが決めたルールに、命の次元で従うことはない。表面上、従っていることにして遣り過ごせば好い。波風の立たない穏やかな水面のように、ほぼありのままの自身が映るほどの透明度を、果たしてどれだけの人が無意識の世界で示すことが出来るだろうか。たとえば本当の意味での僧侶にはそれが出来るのかも知れない。
誰が正しく生きろ、と言ったのだろうか。上手く生きる術の方が、この浮き世を渡っていく船には余程必要である。出来る相手ならば、そのことをも知った上で、結果を第一義として過程をも評価してくれるだろう。わずかな犠牲であれば自身の身を切ってでも出来るだけ多くの事情が丸く収まる方策を考えるべきである。否、考えるだけではなく、実行し、決着をつけ、欲を言えば次の歩を繋ぐべきである。動いていることと休まないことは同義ではない。
夏はやがて終わる。すぐに、明日は明後日に変わる。悪が勝(まさ)って栄える日々など来ない。抱える意志に与える意味、それを支える道にはいかなる未知が潜む。挑むことから逃げず、急ぐ者には見えぬ本物の影を追う過程に、やがて光が灯ることを信じて歩け。まるで視界が滞ることを禁じて、明日へ。