TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 4月大阪公演『団子売』『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段、『釣女』 国立文楽劇場

今月、3部ともメインがすべて時代物、かつ親による子殺し・見殺しを描いた演目。しかも親殺しもあり。うーん、これぞ文楽

 

(第二部は口上含め4演目の上演がありましたが、上演順ではなく、書きたい順に書かせていただきます)

 

『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段。

襲名披露狂言。珍しい演目ながら、「豊竹若太夫」という名跡に縁故があるということでセレクトされたそうだ。まずは、珍しい演目が観られたことが嬉しい。『和田合戦女舞鶴』は以前から本で読んでおり、観てみたいと思っていた演目だが、人形付きは久しく上演されていないため、このまま消えていく演目かもなと思っていた。
せっかくの襲名披露なら、直前の「板額門破り」もつけて派手にすればいいのにと思うが、ない。そのかわりなのか、昭和40年代以来上演がなされていなかった端場、こども武者軍団がやってくるくだりを復活したようだった(作曲・鶴澤清介)。5月の東京では端場はつけないようなので、大阪のみのスペシャルプログラムとなっている。

 

まず、自分がこの演目の観劇に何を期待して観に行ったかを書いておく。

『和田合戦女舞鶴』の作者・並木宗輔は、非常に緊密な構成を得意としており、また、テーマ性の強い作品を書いた脚本家であった。並木宗輔が追求していたテーマとは、封建制という構造から発生する社会の歪みだ。彼は社会と個人の軋轢を追求した作者で、遺作『一谷嫰軍記』においてそのテーマは顕著だ。「市若初陣の段」もまた、自発的な自己犠牲が強要されるという社会の不条理、異常性を非常に明瞭なかたちで描いている。つまるところ、「そんなことは人間として異常だ」という話なのだ(補足しておくと、この話は、絶対共感できないように、かつ、登場人物の行動原理に違和感をもたれるように書かれているということ)。人間のためにあるはずの社会が孕む非人間的な異常性。出演者は、この深刻なテーマをどう舞台上に表現するかに力量が問われる。

物語の舞台となった時代、鎌倉幕府は、実朝という若い将軍を頂き、非常に不安定な状態となっていた。また、実朝を失脚させ、将軍家を根絶やしにしようとする逆臣が内部に存在していた。この状況下で、公儀を公儀として成立させるため(権威を示すため)には、以下の二つを守ることが必要となる。

①実朝は法を司る者(施政者)としてケジメをつけなくてはならない
 =将軍として逆臣への処罰を行わなくてはならないため、公暁丸の首が必要

②実朝・政子の親子で戦を構えてはならない
 =政子は実朝に背いて公暁丸を保護しており、一種の逆徒である。しかし、親子不和のおおごとを起こすと、実朝の「孝」が立たない

これらは全部、「建前」の話。封建社会では、建前は万事に優先される。
実朝本人は若いので、②を自分の面子のためだけでなく対外的に立てる重要性を理解しておらず、①に必死になって、自分で直接政子に会いに行こうとする。それをやらかすと②が立たなくなるので、幕臣たちから全力で止められる。実朝についている男性幕臣たちは、②を立てるべく、あくまで平和裏にことをおさめようと話を進め、こども武者を派遣してくる。おこさまという封建社会では「役に立たない、一人前ではない」属性の者が首の受け取りに来ることによって、戦を構えるつもりがないことが示される。公儀(施政者)としての建前を立てなくてはいけないという①の問題を解決する折衝を行おうとしているわけだ。ここで政子が態度を変えれば、荏柄平太という逆臣の係累公暁丸をつつがなく処罰することができる。
しかし、公暁丸は実は将軍家の胤のため、本当に公暁丸を殺して首を渡すという手段を取ることは絶対にできない。

公暁丸は将軍家の血を引いているので、安全を守らなくてはならない
 =公暁丸の首を討つことはできない。また、奸臣から守るため、公暁丸の正体を公表することはできない

公暁丸の安全は将軍家の存続に関わることで、封建社会の成立の根幹をなす最大の「建前」であり、何にも優先される。つまり、①②③は同時に成立し得ない。公暁丸が将軍家の血を引いていると知っている者がこの事態を解決しなくてはならない。

「市若初陣の段」は、これらをすべて成立させるために、一番弱い存在であるこども(市若)を犠牲するという「トリック」ひいては「建前」が使われる。物語冒頭では板額は③を知らなかった。①と②を解決するためには、政子が折れて公綱丸の首を渡せばいいと安易に考えていた。しかし③を知ってしまったため、ドラマが発生する。ドラマとは葛藤である。そして、板額(と与市)は、市若という偽首を使うことで、実朝もこれ以上強い手段で政子を追求することはなくなり、政子も実朝の指示に従うことで逆徒ではなくなるというグロテスクな「建前」を作り出した。

以上は物語のテーマについて私なりに解説したものだが、今回の観劇は、この「矛盾に満ちた境遇に陥った人々」をいまの出演者がどう表現するかに興味があった。

なぜならば、封建制度がなくなった現代であっても、社会が非人間性を孕んでいることには変わりがないからだ。自分は非人形的な状況にさらされたことがない、他人が非人間的な状態を強要されているのを見たことがない、そんな人がいるだろうか。そして、そのような非人間的な事態は、毎回必ずしも「救済」されるわけではない。人間の社会がある限り、並木宗輔の作品は、永遠に今日的であると思う。

 

↓ 詳細なあらすじはこちら参照

 

 

政子〈吉田簑二郎〉、市若〈桐竹紋吉〉、浅利与市〈吉田玉志〉、こども武者軍団は、良い。それぞれの人物の佇まいや内面が自然に滲み出ていた。

とくに政子は、出番が短く、セリフもさほどない中に、祖母としての孫への慈愛、臣下の妻に無理強いをしているのはわかっていながら祖母としての愛が勝ってしまうという人間の愚かさが表現されていて、非常に良かった。簑二郎さんの芝居には、感情の流れの表現があるんだよね。その人物が、立場上、本当に思ったことの全てを言うことはできないという状況もよく踏まえられている。人物像の把握が活きた政子だった。

市若はまるで五月人形が歩いているようで、かわいかった。豆大福が動いているような、もっちりちんまりした仕草が愛らしい(ちいかわで開催中の出し物大会に出演できるッ)。屋敷の門に向かって矢を射るところは、本当にちゃんと飛んでいた。市若はこどもサイズの人形なので、弓を構える高さが低いのに、数メートル飛ぶのは、すごい。
市若は紋吉さんに配役されており、「こんな老けた子役、久しぶりに見たッ」と思ったが、長時間の集中力が必要とされるため、これくらいの人でないと難しい役だろうと思った。

与市は若々しく優しげな雰囲気。ずっと屋敷の門外にいるので、文字通り「蚊帳の外」の人だが、出番自体は意外と長い。始終、下手で、わた…!とか、じ…!とか、している。演技設計としては、前半は動きやや多め、後半を絞り目にしていた。リアクションの多い前半は、検非違使のかしらのときの玉志さんにしてはやや動き多め。かしら含めて振りが大きい。後半は通常通り、かしら中心に抑えた表現をしていた。が、屋敷の中にいる人物の演技がのっぺりしているため、言ったら悪いが若干悪目立ちしており、「なんやこの一人で騒いどるおっさんは? そんでなんで最後こんな大人しいん?」状態になっていた(これも言ったら悪いが、ひとりだけ真面目にリアクションしすぎて激浮きする、玉志恒例現象)。屋敷の中がどうなっているか、知らずにやっているのだろう。いや知ってもこの通りだろうが、大阪の状況を受けて、東京ではどう練り直してくるかな。
じ…!としているのが長時間となる前半は、足の下に蓮台(黒い台座)を置いてその上に足を乗せていた。が、途中からは、細切れに位置移動が入るからか、多少じ…!としている時間があっても、蓮台は外していた。蓮台があると、そこに足を乗せられるので、足の位置が物理的に固定される安定するが、蓮台がないと、足遣いが根性で同じ位置に空中浮遊させ続けなくてはならない。一人で離れた場所にいる人形の足がフラつくと、めちゃくちゃ目立つ。頑張れッ。と思った。
与市は男性ではあるが、ほかの浄瑠璃に登場する「いかにもな男性」とは違っている。もし「いかにもな男性」であったら、首の受け取りの場面になってやっと登場するだろう。浄瑠璃的な男性ジェンダーは、「当事者」であることを回避する。しかし、与市はそうではなく、物語冒頭から家族のもとへやってきて、門外でずっと様子を見守り、板額と感情を共にしているところに、彼の特殊性がある。立役専門ながら中性的な雰囲気のある玉志さんが与市に配役されたのは、なんとなくわかる気がする。

こども武者軍団は、カラフルでかわいい。これも、人形屋さんの五月人形売り場みたい。休演都合により、2週目の土日は配役日替わり状態になっていたが、全員黒衣なので、さほど気にならなかった。おいこいつ昨日よりクソデカいぞ、とかはあった。

 

 

舞台全体としては、劇評言葉で言えば(?)、「新しい名前となったリーダーが、協同するメンバーとともに、新しい舞台を作っていく過程を目撃した」。自分の言葉で言えば、結構な度合いで未完成感があり、舞台としての問題が多く存在しているように思われた。という感じ。
初日から1週間程度経過してから見たが、物語が曖昧になっているというのが率直な感想。散漫でメリハリがない。上記の人形の脇役メンバーそれぞれのパフォーマンスはいいのだが、軸がないので、彼らを持て余している状態になっていた。物語の緊張感・陰鬱さと、感情の高潮をどう見せていくのか、どこに観客の集中力の頂点を持っていくのか。私が見た段階では、そこが相当に素直なままになっていた。メリハリがないのには多重の要因があり、このあと相当に練り上げないと、「珍しい演目だね」の範疇を超えられないように感じた。

板額〈桐竹勘十郎〉は、内面がわかりづらい状態になっている。最後、与市が屋敷に入ってきてペア演技になると見せ方の方向性が比較的定まるのだが、市若のみを相手にしているところや一人芝居の部分の間持ちがちょっと……という印象。やはり、ある程度芝居の方向性をリードする相手役が目の前にいたほうが得意ということなのかなぁ。ひとりでの演技が難しい理由のひとつに、勘十郎さんの特性として、動きの大きさ・速度が全編で均一というのがある。景事がかった短い演目ではいいのだが、「市若初陣」のような大人の女性主役のドラマ主体の演目でやってしまうと、話がわからなくなる。こどもを持つひとが一番慟哭するのはどこなのか、表現が必要では。今後の再演という話以前に、まずは現状の見せ方を検討するべきだと思う。
そして、袖萩(奥州安達原)やお弓(傾城阿波の鳴門)などでも「?」と思っていたが……、「老女方」って、「娘」の顔違いじゃないんだ、というのは、今回の状態で、よくわかった。その意味では、本当に勉強になった。

新若太夫さんは声量がないので、大きな声でなんかすごそうにハッタリかけるということはしないし、できない。立てるところをもっとしっかり立てて欲しいが、その代わり、政子や板額の独り言的な述懐に焦点を置いた語りになっていた。太夫としては声量があるほうが有利なのは確実だけど、声量があったら即上手いのか、物語描写を正確に演奏できるのかというとそういうわけでもない。「市若初陣」は引き絞るような悲しみがある話なので、向いているとも言える。そういう語りである分、ほかの出演者が物語の方向性、流れを安易に捉えすぎると、「????」な印象になると感じた。抑えるところをどうするかは、本当に、文楽全体の課題。
ただ、いずれにせよ、文楽劇場の下手側の席だと聞こえないのは、このままいくならどうするのか、本当に考えないと、厳しい。

 

 

今回、特別に、板額に陣羽織の衣装を「付け足した」とのことだが……。派手に見せたいとか、目新しいことをしたいとか、正月公演の政岡(伽羅先代萩)とは明らかに違うことをしたいとか、板額の武勇感を出したいとか、板額の役者絵(歌舞伎)には鎧姿で描かれているものもあるからとか……、とかとか、そういうことだと思うけど……、気持ちは汲み取りたいものの、複数の問題点があるように感じた。まだ東京公演があるので批判の理由は一旦伏せるけれど、もろもろ、関係者含めて、よくよく検討したほうがよかったんじゃないかな。少なくとも、派手に見せるとしたら、後半に仕掛けを作る方が良かったんじゃないか。重量のある打掛を着ての長時間演技が厳しいなどの現実的な事情もあるのかもしれないが、新奇なことをすることそのものに固執しすぎているように思った。

会期後半では対応がなされているかもしれないけれど、自分が次に観る東京公演で改善していて欲しい点を述べる。やるならやるで、陣羽織を着た板額の人形の姿を綺麗に見せて欲しい。陣羽織を着ている立役は、肩を開き腕を張った姿勢をしているので、生地のハリが綺麗に出て姿形が美しく見え、人物に風格が出る。しかし、女形は身体の前側に手を置く所作が多いため、陣羽織に常に不自然に大きなシワが寄り、人形の姿全体が崩れてしまっている。従来演出では打掛を着ている場面だと思われるので、板額を美しく堂々と見せるための打掛の扱いがあったはず(少なくとも、過去上演時の板額役・文雀師匠は打掛を有効に使う演技をしていたのでは? 政岡・重の井でも、打掛姿を美しく見せる立ち方とかありますし)。陣羽織にしたのなら、打掛同様、衣装を効果的に見せる遣い方の検証をして欲しい。

そしてもう、本当、劇場はちゃんと調整せいやと思うのだが、第一部『絵本太功記』で、久吉が同じデザインの陣羽織を着ているのがなぁ……。なんで同じ公演で主役級が衣装かぶっとるねん。板額の陣羽織をオリジナルの色味やデザインにしてあげられなかったの? それとも、タマカ・チャン・ヒサヨシが全裸で出るしかなかった?(ほんまに風呂入ってた…ってコト!?)

 

あとは、板額のかしらがいつものお母さん(和生さん私物のやつ)じゃなかったので、私の中の3歳児が「ごんなのおがあざんぢゃない〜〜〜〜!!」と大泣きした。美人なのだが、眉の付け根の下に強い影が出ていて、険がある。和生さんがいつも使っている「お母さん」は優しい顔をしているのに。優しそうなのは、和生さんが遣っているから? ママ〜〜〜〜ッ!どごおおおお〜〜〜〜〜〜!!(第三部に顔は違うけどいますっ)

 

 

 

  • 義太夫
    中=豊竹希太夫/鶴澤清公
    切=豊竹若太夫/鶴澤清介

  • 人形
    平手妻綱手=吉田玉誉(桐竹紋臣休演につき初日より代役)、妻板額=桐竹勘十郎、佐々木綱若丸[黒衣]=吉田玉彦、土肥実千代[黒衣]=桐竹勘介、千葉資若丸[黒衣]=吉田玉路、千葉胤若丸[黒衣]=吉田和馬、市若丸=桐竹紋吉、浅利与市=吉田玉志、政子尼公=吉田簑二郎、公暁丸=桐竹勘次郎
    ※こども武者軍団は休演多発のため、資若丸は勘市さん、綱若丸は玉翔さん、胤若丸は簑紫郎さんが代役で出演した日程あり。本役は五月雨に休演していたため、いつ誰がどうなってたか、忘れた。13日は実千代以外、全員代役だった。大丈夫かその運営。

 

 

 

襲名披露口上。

進行役・呂勢さん、挨拶は太夫部・錣さん、三味線部・團七さん、人形部・勘十郎さんで、兄弟弟子、弟子筋の方が舞台へ並んで口上。

團七さんと勘十郎さんは日による多少のアドリブがあったが(團七さんは完全に「普通にお話しいたします」のスタイルだった)、錣さんは「言うこと」を完全に暗記しているのか、同じことを言っていた。膝元にカンペがあるのかと思って覗き込んでしまったが、本当に暗記しているようだった。逆に怖いッ。

「血筋の正しさ」と前若太夫の実績を非常に強調した話が多かったが……、揚げ足取られるで。言い方、他人事すぎんか……? 團七さんは客の存在、今後の芸の向上、継承への責任へ言及があり、誠実だなと思った。初めて團七を尊敬した。(え?)

 

私が新若太夫さんに期待しているのは、「多様な演目を上演できるようにする」「新若太夫さん自身の得意なものを伸ばし、積極的に打ち出す」の二つ。
特に前者。いま、客はみんな(これは本当に字義通りみんな)「同じ演目ばっかやるんじゃえねよ!」と感じている。これには、劇場制作だけでなく幹部技芸員にも大きな責任がある。大名跡を襲名したからには、それに相応しいリーダーシップを発揮していただきたい。その意味では、襲名披露に『和田合戦』を選ばれたのは素晴らしい。今後も、ほんまに、頼む!!!!!!!!!!
新若太夫さん自身の得意なものを伸ばすというのは、本当に、そうしたほうがいいと思う。私は、新若太夫さんは、時代物を「豪快」に語るより、世話物にあらわれる普通の人のこころの機敏を精緻に語ることのほうが上手いと思う。これは誰にでもできることではない。最近、そこを捨てているのは、本当に勿体無い。他人の曖昧な言葉に踊らされず、ご自身の良さを伸ばし、積極的に打ち出して欲しい。

 

 

 

 

 

 

団子売。

タマカ・キネゾーが良かった。何が嬉しいのかわからないが嬉しそうに出てくるところがいい(ダメだよ)。杵造はなかなかうまくいっていないことが多いが、今回は朗らかな雰囲気が出ていて、良かった。
一輔さんは、手拭いをかぶる役のとき、いつも、人形の目元が見えないほどに深くかぶっているが、どういう意図があってのことなのだろう。普通に考えると、人形は目元が見えないと表情がわからなくなり、表現力が下がる。お臼は舞台上でかしらを替えた際に手拭いをかぶるため、本人が被せているわけではないけど、お光(新版歌祭文)とかお絹(桂川連理柵)のような最初からかぶって出てくる役でもそうなので、ある程度本人の意図があるのか。

先日、『加賀国篠原合戦』という浄瑠璃を読んでいたら、途中の道行のシチュエーションが『団子売』そのままだったので、驚いた。『加賀国篠原合戦』の道行「連理のかちぎね」は、現行の『団子売』と同じく、杵造とお臼という夫婦が「飛団子」を路上(道中)であきなうという内容。ただし、ここでの杵造とお臼は一般人ではなく、木曾義仲の四天王のひとり、今井四郎兼平とその妻・戸無瀬で、京にいる斎藤実盛に会って義仲への加勢を頼まんがために旅をしているという設定。現行の『団子売』は文政期初演の清元「玉兎」をもとにしているようで、話している内容そのものは全く異なっている。なにか関係があるのか、それともないのか。

 

 

 

  • 義太夫
    お臼 豊竹藤太夫、杵造 豊竹靖太夫、豊竹咲寿太夫、竹本織栄太夫/鶴澤清志郎、鶴澤寛太郎、鶴澤清允、鶴澤藤之亮

  • 人形
    団子売杵造=吉田玉佳、団子売お臼=吉田一輔

 

 


釣女。

古典芸能は「知られていない」から客が来ないと思っていらっしゃる方がいるようだが、私が文楽を見るまで古典芸能を敬遠していた理由はひとつ。差別的で不快な演目が多そうだと思っていたから。文楽の存在を知らなかったとか、難しそうとか、敷居が高そうとかではない。
文楽よりも前に見たとある伝統芸能は実際にそうであり(古典伝承ではないアドリブ部分に、女性差別をおもしろがらせようという内容があった)、本当にこういうこと平気でやってるんだ〜、終わってんな〜と思った。文楽の伝承曲ではそこまでの差別的内容の演目は少ないが、最初に文楽を見たときに『釣女』があったら、同じ反応になっただろう。
こういった演目が頻繁に上演されていることが話題にもならないから、まだ「お客さん少ないですね」で済んでいるだけで、もし世間に広く知られたら、文楽のイメージは下がるだろう。やるなら十分なエクスキューズが必要だ。たとえば、いまどきは文化への評価としての「吉原」を紹介するのでも、かなり慎重に人権問題への前置き解説をしている(それでも批判されている)社会状況を、見て見ぬふりしてるのかな。私は、「人をたくさん使えるから」程度のことで安易に差別的演目を上演している薄っぺらさに加担したくない。

 

 

  • 義太夫
    太郎冠者 豊竹芳穂太夫、美女 竹本聖太夫、醜女 竹本南都太夫/野澤錦糸、鶴澤清馗、鶴澤友之助、鶴澤燕二郎

  • 人形
    大名=吉田簑一郎[代役]、太郎冠者=吉田玉也、美女=吉田玉誉[前半]吉田簑紫郎[後半](桐竹紋秀全日程休演につき代役)、醜女=豊松清十郎

 

 

 

『和田合戦女舞鶴』の観劇に際して期待していたことを記事冒頭で述べたが、なかなか難しい状況だと感じた。物語に意図的に仕込まれた矛盾というのは難しい概念だ。技芸員さんは、この手の演目に対し、社交辞令なのか「心情的に理解しがたい話ですが……」とおっしゃる方が多いが、そういう話だからこそ、舞台ではそれがどう表現されているかを見たいと思っている。

最近よく思うのは、本(浄瑠璃)を理解するには、勉強が必要だよなぁということ。この「勉強」というのは、芸の鍛錬(客なら鑑賞眼の向上)ではなく、時代背景を踏まえた教養そのものという意味。そもそも、いまの演者や観客より、江戸時代の作者のほうが、頭、いいから……。そこを無視していると、よくわからないピント外れが起こる。自分自身も、江戸時代の社会状況、観客の意識について、より一層、見識を深めてゆきたいと思った。

もろもろ、形だけは固めたのかなというものを感じる面も多く、状況柄、いろいろと仕方ないのかなとも思うが、東京公演での向上に期待したい。

ほかにも、これ、どうなってんの?と思うことがあり、なんだかモヤモヤの多い4月公演だった。


今月の文楽劇場は、部にかかわらず、比較的客がたくさん入っていた(いるように見えた)。いつもは前方中央ブロックにのみ人が固まっているが、今回は客席全体にバラバラとなんとなく分布していたので、人が多く見えたのかも。「XXさん老けたな〜」という話をされている方を何度かお見かけしたので(文楽劇場恒例、上演中に出演者に聞こえるレベルで喋るツメ人形)(隣のツメ人形がすかさず「お互い様やで〜」と突っ込む)、ずいぶんご無沙汰だった方の足が戻ってきているのかもしれない。
しかし、いちばん増えたのは、訪日外国人観光客だろう。部によっては観客の1〜2割は外国人観光客では。ロビーに英語ガイドのスタッフが立っていたり、展示の解説を日英併記にするなど、劇場側でも対応がとられていた。劇場常連客も、写真のとりあいっこなどで、大阪弁と英語で観光客と会話していた。いやなんで大阪弁と英語で話通じるんや。大阪弁はグローバルランゲージなのか。
第二部は、隣席が西欧系の外国人観光客の方になった日があった。市若が切腹するとき、板額が市若の首を切るときに、Oh...とドン引きされていた。でも、こういった異様な悲劇が文楽の真髄だから、仕方ない。社会問題を扱った悲劇であることこそ、文楽人形浄瑠璃)の一番の個性だと思う。文楽が一般にみられる人形芝居のような「子供向け」とは異なり、大人向けと言われるのもそのためだ。歌舞伎との最大の違いもこの点だろう。今後はいかにその部分を打ち出すかが課題となってくると思う。

 

 

のぼり。

f:id:yomota258:20240427001310j:image

2Fロビー装飾。そのほか、場内全体に、八重桜の装飾も追加されていた。

f:id:yomota258:20240427001332j:image

旧・市若の衣装。ボロボロになっていたので今回のものは新調とのこと。

f:id:yomota258:20240427001348j:image

うしろがわ。

f:id:yomota258:20240427001409j:image

 

 

 

 

 

 

文楽 4月大阪公演『絵本太功記』二条城配膳の段、千本通光秀館の段、夕顔棚の段、尼ヶ崎の段 国立文楽劇場

文楽劇場の場内アナウンス、「尼ヶ崎の段」の「あまがさき」が訛ってるような気がする。大阪公演だから?

 

 

第一部、絵本太功記。
『絵本太功記』は近年何度も出ている演目のため、感動的な展開!このシーンに震えた!このフリがカッコイイ!とかの素直感想は書きようがなくなってきた(元から書いてねぇだろ)。あまりに見すぎて演技を覚えてしまっているので、この人はこれやってるけどあの人はやらないとか、細かい差異が目につくようになっている。そこで、今回の感想は、極めて微細な部分に注目し、それを通して演者の性質を考察するという方向でいかせていただこうと思う。

 

『絵本太功記』は、文楽の中でも大好きな演目。また、光秀は時代物の男性の役の中でもクソデカい部類、かつ、最も派手な演出がついているので、玉男さんに似合いそうな役として、観るのが楽しみだった。
実際、今回の『絵本太功記』は配役が良く、『絵本太功記』の世界が存分に表現されていて、文楽の舞台として大変充実していた。しっかりくっきり濃い、という印象。よくよく考えるとそんなに長い上演時間ではないのだが、ずっしりとした重量感、充実感があった。配役上、タマ・ブラザーズがやたら集まっていたが、この配役こそ、時代物に力強い口当たりと辛口の切れ味を出している理由とも思える。(集結している理由自体は謎)

その筆頭、玉男さんは、光秀を底知れない豪傑として表現しているのかなと思った。光秀にも、玉男さんの演じる役全般にみられる、不気味さや、なにか隠されたもの、秘められた内面があることが感じられた。光秀は、漫然とした一般論で言うと「悲劇の英雄」風の振る舞いが期待されていると思う。が、玉男さんは、そこを通り越して、「決意の方向と太さが完璧に異常なヤバイ人」になっていた。逆にさつきのほうに感情移入できるッ。的な。

玉男さんと玉志さんは、光秀の方向性が違うんだなとも思った。玉志さん(2022年12月東京鑑賞教室公演)は、光秀の意志の強さが全面に出る。誇り高い叛逆者としての「威ありて猛からず」が突き抜けている。三手、五手先を読んで動くような、雑味のまったくない精度の高い演技だったため、より一層、光秀の意志の強さがクッキリと立ち現れていたのだと思う。
玉男さんは、演技の正確性自体は比較的高いけれど、精度そのものにはこだわらず、自然な所作として動いているように思われる。また、所作を振り付け的に処理しすぎて、動きのスピードが不規則にならないようにしていると思う(所作を過剰に旋律に乗せすぎない。また、演奏に間に合わないからと言って所作を素早くするとかはしない)。本や基本的な型に合っているけどマイペースは絶対崩さないという点、もしかして、これが玉男さんの遣う人形たちの「隠された意志」の印象に繋がっているのかもしれないと思った。

また、玉志さんと玉男さんでは、細かい芝居が違っていた。玉男さんは、じっとしているように見えて、意外と細かくリアクションしている。玉男光秀、なんか、さつきのこと、めっちゃ気にしてるんだよね。刺されたさつきの述懐を聞くところ、さつきが「これを見よ!」と言って刺された姿を見せつけてくる部分。セリフは「これを見よ!」だけど、芝居としては、「親の無惨な姿を直視することはできない(目を逸らしてしまう)」という趣向だと思う。ただ、玉男さんは、その時点で即座に振り向くまではしないが、そのあとに続くさつきのセリフのあいだに、ちょっと、見てますよね。わりあい素直な目線で。光秀がさつきのほうを見ていないようで見るという芝居は玉志さんも同じだが、玉男さんのほうが明瞭。帰ってきた瀕死の十次郎から「父上!」と呼ばれるときも、ちゃんと十次郎のほうに向き直って、「ぱし!ぱし!」していた(玉志さんは回によって違うのだが、十次郎のほうを向かずに扇で腿を打つ返事だけをする場合が多い)。このあたり、何も考えていない人や、人形を遣うのに必死すぎて考えが及ばない人は、リアクションをすること自体が目的となって所作を漫然とやって場合が多いのだが、玉男さんはタイミングがよく図られており、光秀の意図をあらわす演技としてやっているように感じられた。
逆に、冒頭、風呂場に竹槍を突っ込む部分は、玉男さんは(相対的に)かなり演技を切っていた。玉志さんのほうが注意深く中を伺ったうえでやっている。扉に左手を当て、人形の目を風呂場側に寄せさせて様子を観察し、一度扉を軽く叩いてから素早く突き刺す。玉男さんはこのあたり、そこまで細かく演技を入れず、扉のところまで行ったらぱっと刺すという演技。この竹槍を突っ込む部分、実は勘十郎さんも玉志さんに近い細かめのフリを入れているので(ただし、玉志さんと勘十郎さんで、演技が細かい理由は根本的に違うと思われる)、玉男さんだけがシンプル化しているということになる。

このあたりを考えると、玉男さんは光秀の家族関係の描写を重点的に、重めにやりたいということなのかな。彼にとってはやはり家族も大切というか。そういう意味では、異様とも思える稀代の反逆者にも家族への情愛があったという、本来の物語に立ち返った芝居なのか。ただ、個性としての不気味さが強いので、本人の意図からは少しずれて見えているのかもしれない。玉志さんは信念と家族が別次元に存在しているような演技で、実際には、玉志さんのほうが自己と他者との遮蔽は強いのだが(浄瑠璃の内容には合っているが、芝居の慣例としては相当イレギュラーな解釈)。

それはともかく、光秀、まじで、デケェ!!!って感じだった。巨大ロボットがガションガション歩いている感じというか。220cm以上あるだろ。第三部「弁慶上使」の弁慶よりデカい。終演後、「明智光秀 身長」を検索した。(諸説あり)
「人形があたかも大きく見えるように遣っている」というのはもちろんあるが、おそらく、人形を構える位置がほかの人より若干高いのだと思う。座っているときにも人形の脚のラインが見えて、下半身の見え方がほかの人よりすっとしている。つまり人形の胴体の位置が高いのではないかと思った。木登りをして、松の木の上で決まる際も、人形の胴体がしっかり伸びている。光秀は、じっとしている状態でもぐらつきがなく、アクションで人形の位置をさらに高く上げるときも安定していた。相当大変だと思うし、事実、大変そうだと思ったが、本当にようやるなぁと思った。
2022年1月大阪公演で『絵本太功記』が出たとき、勘十郎さんが光秀を遣っていたが、「尼ヶ崎」の最後のほうで、人形の位置が尻餅をついているように下がっていた。ああこの人……と強いショックを受けた。玉男さんがこの状態になったら、私は舞台を直視できなくなくなると思った。そういう意味では、今回の『絵本太功記』は不安もあったのだが、玉男さんは玉男さんで、良かった。大変な役には間違いないが、玉男さんだった。

 

 

 

◼︎

以下、そのほかの感想。

二条城配膳の段。

蘭丸〈吉田玉翔〉と十次郎〈吉田玉勢〉は、非常に良かった。
蘭丸は、かしらや衣装にふさわしい、張りつめてやや険のある、若者ならではの鋭さがあった。目線がしっかり定まっているのが武士らしい。迷いやごまかしがなく、所作は以前の同役配役時より相当に洗練されている。ご本人が自信を持って演じられているのだと思う。前回見たとき、ターン綺麗すぎだろと思ったが、やはり今回もかなり綺麗だった。
蘭丸は、動く時、止まる時、ちょっとだけかしらにアクセントとなる動きを入れている。やはり初代玉男師匠を踏襲しているのかな。このアクセントがあると人形にメリハリがつくので、自分に合う方法を模索しながら深めていって欲しいと思った。

この段の十次郎は非常に可憐。パール色にいろとりどりの刺繍の入った、乙女チック(?)な揃いのスリーピース(スリーピースではない)と、ほやんとした表情のかしらに合った演技。漠然と、玉勢さんは、久我之助とかの美少年、美青年の役のほうが似合うのかもなあと思った。

浪花中納言兼冬〈吉田文司〉は、なんであんなにパンツの丈が詰まってんの? (答え:勅使だから) 「わんこ(ゴールデンレトリバー)を散歩後に風呂場で洗ってあげた人」みたいになっとらん?

尾田春長〈吉田玉輝〉は、ガングロサーファーみたいだった。玉輝さんにしてはオーバーリアクションが多いように思ったが、かなり割り切っているのか? 解釈の幅を持たせるため、もう少し落ち着いていてもよさそうに思った。

 

今回、『絵本太功記』は4/13・14・15の3回見たが、「二条城配膳」「千本通光秀館」は、13日黒衣、14日出遣い、15日また黒衣だった。一般に大序や端場、人形がガチャガチャ出てくる段は黒衣にする場合があるが、なぜ日替わり? 出遣いでいいと思う。

 

 

 

◼︎

千本通光秀館の段。

墨絵の襖のある、クリーム色主体の座敷の屋体。上手には、床間を神棚にした一間。床間に「八幡大明神」の掛け軸がかかり、左右に榊。操が塩を供える。下手は廊下。芝居は屋体の中のみで行われ、船底は使われない。

千本通光秀館」は伝承がなかったものを復活した段のようだ。観てみると、確かにいらんな、という印象だった。話としてはあったほうがわかりやすいけど、舞台として上演するほどの意味があるかは首をかしげる。現状では、「光秀が謀反を決意した」というあらすじ説明以外のものが何もないというか……。演出なりで、もう少しドラマティックさや異常性を盛ったほうがいいのではないかと思った。
今回は光秀が玉男さんのため、フラットな状況のなか、突然発狂したような行動を取るというのは、不気味な光秀像への演出として、合っているといえば合っていた。本来はダメだが、どこに心の変わり目があるのか全然わからないことがプラスに働いている。玉男さんのクマ感が活かせるというか。あまりに唐突すぎる謀反の決意、悠々とした動きに、玉男様のクマ・オーラ、ぴったり。くそでかツキノワグマ。月の位置、違うけど🥺 

九野豊後守は、佇まいや所作があまりに上品なので、春長が監視のためによこしたお目付け役かと思っていた。実は普通に光秀の家臣。めちゃくちゃ上品な理由は、配役が勘市さんだからです。

四王天田島頭は、短慮ながらそれが短所とならないところが、文哉さんに似合っていた。しかしこの人、8年ぶりくらいに見たな。8年前に見たときは、プログラムで、「四天王」と誤植されていて、お詫びの紙片が入っていたことだけ、はっきり覚えている。

謀反を決意した光秀を見て、操〈吉田勘彌〉がプルプルして顔を伏せるのは良かった。

 

 

 

◼︎

夕顔棚の段、尼ヶ崎の段。

非常によくまとまっていて、良かった。

操は艶麗で良い。以前の感想にも書いたが、操って、氏素性、謎ですよね。「夕顔棚」で家事の手伝いをする際、謎に小汚いエプロンをつけたり、尋ねてきた久吉の足を洗ってあげたりするけど、あれ、大名の奥方という身分にしては、不自然な行動ですよね。もともと氏素性知れないことをバカにされている光秀の妻だからなのか。普通はかなり違和感があるのだが、勘彌さんの若干鄙俗というか、しどけない味がプラスに出て、私の中の高校生男子が大興奮のお色気奥さん感があった(絶対にご注進しないでください)。

今回の番組編成で、操はかなり難しい役になったと思う。操は、「千本通光秀館」で1度、「尼ヶ崎」で2度、クドキ(光秀を諌める、あるいは独白する)がある。それぞれ、なにを訴えかけているかが違うのだが、区別があまりわからない。訴える内容は、それぞれ主君、姑、息子についてと異なっており、操にとっての本当の意味での大切さや切実さは実際には段階ついてるのでは。「尼ヶ崎」の区別だけでも曖昧になっていることが多いのに、たいして意味がない段でも中途半端に見せ場があると、混線するな。ただ、操は悲劇を盛り上げるリアクション係の役割しか与えられていない、中身のない人物だ。たとえば『一谷嫰軍記』の相模と比較するとわかるだろう。この薄っぺらさこそ、若手会含め、誰が操をやってもそれなりに見える理由でもあるのだが、ある程度力量がある人が配役されると、彼らの力量の見せどころである内面表現を深めることが難しく、逆にそこが足を引っ張ってくる。
勘彌さんは上手い人ではあるが、独自のリズム感がある方で、床が盛り上がっていないと、独立して勝手に人形のみで盛り上がることはしない部分がある。十次郎が帰ってきた部分の操はリアクションが大きくなり、非常に悲しそうなんだけど、もっと大きく突き抜けて欲しい感があった。そのあたり、今後の変化があるといいなと思っている。独自の操の人物像をみずから構築しなくてはならないと思う。

操の足の人は真面目そうだった。勘彌さんは一見ゆったりとしているように見えて、感情の動きが非常に速い。そして、人形が決まるまでの動きもかなり早い。速度だけでなく動き始め自体が数手早く、左や足が追いつかなくなることが多々ある。「取りつく島もなかりけり」で、操は船底中央で背後姿勢になり、屋体の中の光秀と向かい合って決まるところなど、二手、三手前から決まる準備していたが、今回の足の人は勘彌さん同様、比較的早くから準備しており、手すりに突き当たったら人形の上半身が完全に決まるより早く、自分はすぐしゃがむなどして、人形が目立つよう配慮がなされていた。えらいっ。

なお、「取りつく島もなかりけり」での光秀の決まり方は、軍扇を広げる方法。玉男さんが軍扇を広げず腰に手をつけるやり方にする日は来るのか。「普通と違うほう」、「難しいほう」をやればなんでもいいというわけではないが、玉男さんはやるべき水準に達しているのでは。そこでなんか言ってくるやつがいたら手打ちにすればいいと思う。

 

十次郎は、実に良かった。刀をついて思案に沈むとき、鎧姿に着替えたとき、傷を負って帰ってきたとき、それぞれ的確に演じ分けがされていた。思案に沈む姿は、「思案に沈む姿を演じている」以上のものになるのがかなり困難なところ、十次郎自身が持つ愁いや、それが若さゆえの懸命さによるものであることがよく表現されていた。出陣のため鎧姿に着替え、暖簾奥から出てくる場面は華々しく、腕も若武者らしい力強さですんなりと伸びて、綺麗に決まっていた。
十次郎は、上手い人がやれば、もっと「上手い」とは思う。だが、十次郎という役の持っている懸命さ・青さと、いまの玉勢さんの限界まで頑張ったうえでの技術がうまくマッチしていて、非常に魅力的な十次郎となっていた。

しかし、尼ヶ崎の十次郎の刀の下げ緒、変色しすぎ、ズタボロすぎんか? おじ武士が持ってるならともかく、若武者なんだから、もっと綺麗なんに替えてやってくれ。刀といえば、この段でまじで意味わからんのが、初菊が十次郎の刀を受け取るくだり。初菊、水汲みがうまくできなくてウネウネしていたり、鎧櫃をゴチャラゴチャラと時間をかけて引きずったりしてますけど、あいつ、十次郎の太刀を片手で軽々と受け取るよね。太刀って、結構、重いよ。いまの片手での受け取り方、慣例なんだろうけど、『仮名手本忠臣蔵』判官切腹の段で、力弥が由良助から太刀を受け取る所作を安易に流用してるだけで、なにも考えられていないように感じる。頼まれてもいないのに刀を受け取るのは、わたしは十次郎の妻よッ!という意味であって、初菊という人物にとっては重要な行為であると見せたほうがいい。振袖を両腕に巻いて、十次郎にそこに乗っけてもらうという受け取り方のほうが、姫役っぽくて、よいのでは。そもそも直接素手で鷲掴みするのも違和感がある。と思った。(鷲掴み自体は配役された人の問題だが)

 

久吉は玉佳さん。玉佳さん、最後にキラキラになって出てくる役、良すぎ。久吉は、正体を顕わして奥から出てくる「♪三衣に替わる陣羽織〜」のところでいかに燦然と出られるかが勝負。超、キラキラしていた。キラキラは玉志さんも相当強いが、知的で美麗な方向にいく玉志さんより、武張って若い印象に寄っている。腕の突き出しや顔振りが強い。タマカ・チャンお得意の「陣屋」の義経に近いな。
最後に光秀と久吉が睨み合い、立ち位置が入れ替わりになって、同じフリになるところ。ここ、揃わない場合がかなりあるが、ちゃんと揃っていた。睨み合うところは、上手(かみて)にいる玉佳さんが光秀の人形が振り返るのを目視確認し、それに合わせて久吉を振り返らせていた。しかし、最後に振り付けが合うところは、玉男さん(上手)も玉佳さん(下手)も相手を見てないですね。演奏に合わせて動いているだけで合っている。いや、演奏に合わせて動いているからこそ合っているのだろう。ここまで揃っているのは驚異的だが、かつて師匠の光秀の左や足についていたときに「師匠はこのタイミングでこうしてた!」というのをお二人ともよく覚えていて、それを二人が同時に完全再現しているのだと思う。師匠が亡くなっても、師匠が舞台でやっていたことはこうして残っていくんだなと思った。
陣羽織になってからも良いが、旅僧姿の軽快さ、朗らかさもいい。若干頭悪そうなのもいい(よくねぇよ)。普通に考えて、あんな女性3人の住まいに僧侶と言えど泊めてくれとかありえない。そのへんの草むらで寝とけやと思うが、玉佳さんなら「どうぞー!」感、あるな。と思った。タマカ・チャンゆえに、ここが安達原なら、あとで鍋の具材にされて食われそう感もあるのも、また、良い。

 

「夕顔棚」の床、三輪さんは、さすがにベテランは急に音程が上がるところ(マカン)の処理が自然だなと思った。ただ、演奏が途中で詰まった日があった。直接的には、床本のページがうまくめくれなかったのが原因のようだが……、次になにを言うか自体はわかっていたとは思うが、演奏を止めたのは、自分のペースが崩れるからか。それなりの年齢の方だし、何かあったのかと思って、ちょっとドキッとした。人形は、そういったトラブルをうまいこと流れせるタイプの人の演技の番だったので、まあまあなんとかなっていた。翌日からは、なにごともなく、いつもの三輪さんに戻ったので、よかった。そういえば、太夫さんはどんなジジイでも床本のページちゃんとめくってるけど、出る前にハンドクリーム塗ってるのかな。

千歳さんは良かった。自分が見に行く前の日程で数日休演されており、大丈夫かと思った。実際、3回見たうちの最初の2回は、のどの調子が悪そうで、盛り上がりにも欠けた。しかし、3回目は、思う存分の演奏ができているようだった。光秀やさつきの語りには、旋律や拍子に乗りすぎない破調した部分が作られており、そこが「ささくれ」となって、人物の切実性が滲んでいた。
「尼ヶ崎」が出るといつも気になることがある。それは、二度目の操のクドキ「母は涙に正体なく『コレ見給へ光秀殿……』」の部分が、直前のくだりとシームレスすぎること。どこから操のクドキになるのかわからない。「母は涙に正体なく」以降の声量を目に見えて(耳に聞こえて?)上げたほうがいいのではと思っていた。で、今回、実際にそうなっていたのだが、それでも「?」な感じ。
そこで津太夫の「尼ヶ崎」の録音を聞き直してみたところ、「母は涙に正体なく」をデカい声で語っているというより、直前の「愛着の道に引かるゝいぢらしさ」を抑えた声で、かなり遅く語っていることに気づいた。このうち、「かなり遅く」というのが一番重要で、「母は涙に」から急速にテンポを上げていることが劇として、つまり操の内面表現として効果を生んでいるのだと思う。大きく盛り上がるところを作るには、引いて抑えるところを作らなデコボコはできんわな。義太夫という音楽および人形浄瑠璃という人形では、速度のメリハリは重要だと改めて思った。
昔の録音を聞くと、「ゆっくりしたところ」は本当に「ゆっくりしている」ように聞こえる。本当に今よりゆっくりしていたのかな。それとも、舞台で生聞いているときと、好き勝手な環境で聞いているときの、自分の感じ方の違いかな。
「尼ヶ崎」の三味線について、最後の「♪みわ〜た〜す、沖は中国よりおいお〜い〜いい数万(すまん)の兵船」のところ、三味線が非常に細かくなるが、あそこ、結構ミスするもんなんですね。過去の鑑賞教室でもかなりのミスが発生していたが、「若造」はともかく、ここまでのベテランでも難しいのか、と思った。観た回全部失敗したわけではないけど、いいところなので、失敗すると、目立つ。

 

 

今月は人形に休演が多い。「夕顔棚」の冒頭、妙見講に参加しているツメ人形は、通常4人だと思うが、3人になっている日があった。人を出しきれなかったのか。それでも、出されている湯呑みの数は4個。お茶注ぎ役の人は「あ」と思っただろうが、なんとなく少し触って、誤魔化していた。
それにしても、冒頭の「ナンミョーホーレンゲーキョー」、良すぎ。上手袖のカーテンの裏に若手太夫が隠れてやっているのだが、席によっては、若手たちツメ人形のように並んでワーワー言っているのが見える。ツメ人形、めっちゃおるwwwwwwと嬉しくなる。

 

 

 

  • 義太夫
  • 人形
    浪花中納言=吉田文司、尾田春長=吉田玉輝、武智光秀=吉田玉男、森の蘭丸=吉田玉翔、武智十次郎=吉田玉勢、妻操=吉田勘彌、九野豊後守=吉田勘市、四王天田島頭=吉田文哉、赤山与三兵衛=桐竹亀次、母さつき=桐竹勘壽、嫁初菊=吉田簑紫郎、旅僧 実は 真柴久吉=吉田玉佳、加藤正清=吉田玉延[前半]吉田玉峻[後半](吉田玉延、吉田玉峻休演につき、代役・4/14〜吉田和馬)

 

 

 

 

◾️

玉男さんの光秀を見て、改めて、光秀は、配役された人によってイメージが変わるなと思った。
私は、人形を見るとき、人形遣いがその人形(役)をどのような人物として捉えているのかに関心がある。また、演者がそれをいかに高い精度で舞台へ定着させるのかを見たいと思っている。光秀だけでなく、ほかの役でも同じだが、「既存のその役に期待されるもの」をコピペしたような慣例的な芝居は、現代ではもう通用しない。「既存のその役に期待されるもの」自体をいまの観客はわからないから期待していないし、慣例的な芝居は好まれない。一般の舞台演劇、映像等の芝居で、近年、「憑依型」の俳優、あるいは「憑依型」という言葉が褒め言葉としてもてはやされるのも、その裏返しだと思う。歌舞伎を真似しても、じゃあはじめから歌舞伎行けばいいじゃんって話になるし。文楽文楽として、芸能としての特性通り、浄瑠璃の文章に沿い、その演者がよくよく考えた、独自の像を作っていく必要があると考えている。その意味で、今回の玉男さんの光秀は、興味深い人物像だった。

「尼ヶ崎」が近年繰り返し上演されているのを見ていると、人形の操演技術と、それが導く表現力だと、玉志さんがぶっちぎった状態になったと思う。精度が高すぎて、真正面からぶつかっても、もう誰も勝てない。そうなると、どのような解釈をどう表現するかという個性自体が争点になる。そういう意味でも、今後光秀を演じる人がどのような光秀像を描いていくのか、楽しみである。

 

 

 

 

文楽 4月大阪公演『御所桜堀川夜討』弁慶上使の段、『増補大江山』戻り橋の段 国立文楽劇場

ロビーに弁慶の生首が爆誕していた。
なぜ弁慶? 弁慶にしても、なぜ「勧進帳」ではなく、「五条橋」「大物浦」??

でも、お客さんがツメ人形のように「弁慶さんやーーー!」とたかっていたので、良かった。

f:id:yomota258:20240420133659j:image

 

◾️

第三部、御所桜堀川夜討、弁慶上使の段。

「弁慶上使」は俗味が極めて強い演目で、それゆえに「かなり手慣れた人向け」の出し物だと思う。2022年2月東京公演で出た際には、非常に厳しいことになっていた。
しかし、今回はかなり良かった。具体的には、人形のおわさに和生さん、弁慶に玉志さんが配役され、物語の描写力が上がり、同時に、俗味に必要とされる「こけおどし」に強度が出たことによるものだと思う。

 

おわさは和生さんでないと成立しない、と思った。
和生さんには珍しく、おわさは「普通のオバチャン」の役。娘に呼ばれて久しぶりに来ましたよ〜!と侍従太郎ハウス(異常レベルのビッカビカ)へやってくる、縫い物で生計を立てている一般人。オバチャンならでは(?)の押しの強さで、ありとあらゆることにグイグイ来る。武家女房や乳人といった格式の高い役よりも、所作が全般的に シャコシャコシャコ! としているのが良かった。動きの幅が狭くて、その分、間が詰まっている感じ。「びっくりして後ずさり」のところとか、驚いた小動物みたいに、ピコピコピコ! と(あくまで抑えめに)動くのがかわいい。

おわさは3度、一人語りをする場面がある。卿の君の懐妊祝いに、おもしろおかしいおしゃべりを交えて海馬のお守りを差し上げる場面。娘時代、顔も知らない稚児と契った一夜の恋の思い出を恥じらいながら語る場面。最後に、愛する娘・信夫を失い、嘆き悲しむ場面。それぞれに、おわさという人のうちにある、まったく異なる一面が出ていて、彼女のさまざまな表情を楽しめた。和生さんはなかなか娘役をおやりにならないので(やるとめちゃくちゃかわいいのだが)、おわさに時々挟まる娘風の表情はかなり良かった。

おわさの難易度が高いなと思うのは、上記した3度の一人語りの区別。お母さん役として一番派手に盛り上がる「娘を失った嘆き」よりも、「お守りの語り」と「恋の思い出」のほうが大きな動きの振り付けがついている。小道具を持っていたり、特殊な動きもあったりして、見た目が派手になる。しかし、信夫が死ぬところでは、振り付けとしてはよく見る女方の慟哭の演技になる。そのまんま素直に振り付けだけをやってしまうと、一番盛り上げなくてはならない「子供を失った嘆き」が一番地味になる。
これがどうクリアされていたか。和生さんの場合、「お守りの語り」と「恋の思い出」は三味線に乗って舞踊的に緩慢に動き、「娘を失った嘆き」では演奏から離れて破調し、時折かなり素早い所作が挟まる動きにされていた。物語の構造として、前者二つは他人に聞かせるためのセリフの延長としての語りだが、最後の嘆きは自らの心のうちを自発的に述懐する、内面が漏れ出る場面という違いがある。それを表現に活かし、「娘を失った嘆き」はおわさの心の乱れ、慟哭、心拍の速まりがあらわされた、速く鋭い所作にしているのだと思う。突然不規則な動きになることによって、観客の注意を自然に、しかし強く引きつける印象があった。義太夫や歌舞伎のセリフは、七五調を外れた部分にこそ演者・観客ともに注意(集中力)が集まるという。それと同じことだと思う。やはり和生さんはよく考えて人形を遣っていると思った。

信夫〈吉田玉誉〉とテンポがしっかり合っていて、抱き合いなどが非常に自然なのも良かったな。これはまず玉誉さんが非常に上手い人だというのと、和生さんの左についていた過去があり、玉誉さんが和生さんのテンポを読み切っているのが勝因だろうな。ポーズ的にも、おわさの胸にちゃんとはまっていた。弁慶とタイミングを合わせる場面も的確で、お互い床の演奏をしっかり聞いてやっているからだろうと思った。相手が動いてからやったのでは間に合わない。二人とも曲と身体が一体化しているからこそのマッチングだと思う。

私が観た回のうち一度、和生さんがめちゃくちゃ喋りながら遣っている回があった。今回は休演が多く、人手が足らずにイレギュラーな左や足がついていたのかもしれない。少なくとも和馬さん休演してたし。だからと言って見た目として人形に違和感はなかったが、大変だったんだろうな。もはや実況中継だろというくらい喋っている状態になっている場面もあった。普段はイヤホンガイドいらない派だが、和生・実況中継・イヤホンガイドがあったら、借りたい、と思った。

 

弁慶は、派手さに大きく振り切った爽快な演技。
玉志さんはとても上手い人だ。しかし、こけおどしが強く要求される役は、技術面では十分及第しているにもかかわらず、派手さに思い切り振り切るところまで割り切れていないように感じていた。玉志さんの『妹背山婦女庭訓』の鱶七は、クールでかっこいい。「荒物だから雑でいい」に寄りかからない、古典への新機軸を打ち出した本当に素晴らしい演技なんだけど、押し出しが足りなくて、玉志さん自身の巧さ自体が立ってしまい、テクニックで押しているように見えていた。玉志さんは文楽において人物の内面描写が一番重要だと考えていて、表面的なものに拒否感があるのではないかと思う。ただ、こけおどしでしかない役も演目も文楽にも現実に存在しており、芸人としては「やらなくてはならない」。そこは弱いよなあと思っていた。けど、今回の弁慶は良い意味で割り切って、派手な役であるということ自体を全面に押し出していた。むしろ、前半はしっかり抑えて後半に華を持っていくという設計力があり、緊密な動きが可能な技術力のある人がやると、弁慶ってここまでカッコよくなるのかと思った。ここにきて、欠点が裏返って強みになったんだ、と感動した。また鱶七役が来たときには、物語の結尾を飾るに相応しい勇壮さを見せてくれると思う。

大きな動きがバタバタ見えないのは、伸びやかさがあるからだろう。相当、のびのび、しとるっ。すらりとした背筋とぱんと張った胸、ぴんと伸びた腕。大きく回す肩と上体がダイナミックに動く円弧は美しく、人形自体の大きさ以上のスケールを感じる。以前、玉男さんの演技にも使った言葉だが、アスリート的な美しさ。肉体のパフォーマンスを最大限に引き出すためにフォームの鍛錬を重ね、無駄が一切なくなった結果、極限的な美が出現しているというか。この弁慶、めちゃくちゃ運動神経よさそうッ!!!!! スポーツマン・オーラ、あるでっ!! インターハイ優勝かっ!? と思った。見ていて、あたかも自分が運動したかのようなスッキリした気持ちになった。(他人が運動しとるの見て自分が運動した気になるという、運動不足のアホの典型的感性)

また、玉志さんは動きが相当クッキリしている。動き、ポーズ、型がかなり明瞭。最後にどのような姿勢で止まるかを意識して動き始め、そこにピタッと合わせるスキルが高いのだと思う。また、大きく動く場面では、最初の姿勢よりも一旦引いてから動きを開始し、また、反動をいかし最終の停止位置を若干オーバーさせてから引き戻すことで、動きの大きさを強調しているようだった。「人形を安定して持てない」という意味で動き始めと止めにブレが出てしまうと見た目が汚くなってしまうが、始点も終点もしっかり安定させ、静動のメリハリをつけているため、スッキリとして見える。フィギュアスケートやバレエのような、鍛えた身体による洗練された所作で魅せる競技・芸術の身体の動かし方とでもいうべきか。
クッキリと見える理由として、腰以下の下半身をしっかり固定しつつ、上半身を大きくひねる動きがある。腰以下をしっかり止めることで、上体のダイナミックな動きがよく活きる。しかしこれ、どうやってるんだ? 人形の腰って所詮頭にぶらさがっているだけなので、上半身の動きにつれて腰から太ももくらいまでがブラつく人形はよくいるし、安定度の高い玉男さんあたりでもひねりが大きくなるとそうなる(実際、今回の「尼ヶ崎」光秀、最後のほうの石投げの見得はそうなっていた)。だが玉志さんはそうならないは、結構、不思議。本人の心がけだけで出来ることとは思えないので、足と左によくよく指導しているということか? あまりに下半身がびしっとしているので、めちゃくちゃお尻が「きゅっ🍑」として見えた。(人間に向かって言ったら一発アウトのセクハラ発言)

特徴的に感じたのは、前編通じて、弁慶の人形の身体に力が入っているように見えること。たとえば、第一部『絵本太功記』の光秀〈吉田玉男〉を見ると、同じように大型の人形、二の腕から肘にかけての上腕を張ったポーズを基本形としていても、光秀のほうが若干リラックスしているように見える。光秀は、「尼ヶ崎の段」ではすべての覚悟を決めており、また、武将だけあって悠々としているということなのか。弁慶は逆に、不本意な使命を帯びており、言動は悠々としていても、始終、緊迫した雰囲気を漂わせている。そのために所作を全般に鋭い方向に寄せ、止めを強くして力んでいるように見せているのだと思うが、「人形の身体に力が入っている」という表現ができること、そして、それを最後まで維持できるというのは、すごいなと思った。

でも、弁慶は、大きな演技だけをしているわけではない。最後、おわさや花の井を振り払うときの仕草は繊細で、優しい。振り払っているはずなのだが、「そっ」「そっ」と、自分からよけてあげているように見える。引き留めようとするおわさに、「……」と言っている感じがするのも、良い。弁慶は途中までは本心を出せないため(本心を出せないがためにこうなっているという話なわけだし)、本来の内面をそこに集約して出しているのだと思うが、こういった優しさが出てくるのが、玉志さんらしいなと思った。

ところで、今回の弁慶は、「プルルッ」とはしていなかった。
なんでや。
あの外見だと、普通の役以上に「プルルッ」としそうなのに。弁慶はこの程度(?)の用事でも立烏帽子に大紋という正装で来訪しており、「私」ではなく、あくまで「公」として振る舞っている人物だから? それとも、「弁慶上使」の弁慶は真面目が限界突破した性格だから? 第二部の浅利与市のほうが「プルルッ」としていた。

なお、弁慶は身長227cm設定とのことで、人形を通常よりもかなり高く差し上げて遣っていた。人形を高く差し上げた際、手・腕をそれ以上挙げられなくなり、人形の動きがちぢこまってしまう人もいるが、腕の位置もかしらの位置に応じた高さで演技がされていたため、極めて自然だった。玉志さんの場合、男性の役は動作のアクセントに「シュッと背筋を伸ばす」演技を必ず入れるので、基本姿勢でも本当の限界まで差し上げているのではなく、背筋伸ばしのための余白をとっている。そのために腕も動かしやすいのかもしれない、と思った。
ただ、身長自体は残念ながら(?)光秀のほうがバカデカかった。玉志がんばれッ。

 

玉誉さんは大忙しだ。第二部の「市若初陣」の代役を含め、前半は3役ついている。一番大変なのがこの「弁慶上使」の信夫〈前半配役〉だと思うが、ずっと出っ放しになってしまっていることを感じさせない、余裕のある丁寧で優美な姿。優しくてかわいい若い女の子そのままで、とても良かった。若い女の子って、本当にこんな感じだと思う。

卿の君〈吉田簑悠〉はものすごい前のめりになっていたが、わざと? テーブルの上に夕ご飯のお刺身が並べられているのを首を限界まで伸ばしてガン見しているネコちゃん(テーブルに乗ったらド叱られるので乗らないが、すきあらばおこぼれにあずかろうとしている)のようだった。
意図かどうかはともかく、卿の君のような品格の高い女性が子供っぽい変な姿勢というのはやめたほうがいいが、「妊婦さんなんだから、大人しくしてなきゃだめですっ!」と言われてあそこに一日中座らされているけど、暇してるところに面白オバチャン来ちゃって興味津々なのは仕方ないので、ある意味、間違ってない。

 

床は2022年2月東京公演と同じく、錣さん・宗助さん。当時はコロナによる出演規制が厳しく、濃厚接触者認定や感染による休演でこの本役が勤めた期間は短く、また、稽古不足からか、微妙な出来になっていた。しかし、今回は思い切り演奏ができたようで、良かった。
錣さんはこういった俗味の強い演目を躊躇なく俗に語ることができるのが良い。こけおどしでしかないものをしっかりと「こけおどし」に落とし込んでいる。そして、そこにじんわりと心のゆきかたを染み込ませている。このあたりのバランス取りは無二。また、錣さんの女性は本当に可愛らしい。ただただ初々しくて可愛らしい「娘」ではない年配になった、歳を重ねた女性ならではのチャーミングさがよく出ている。実際にはおわさが主役ということをよく立てた演奏だったと思う。

 

ところでこの話、最後に侍従太郎が自害して、信夫の首とともに自分の首も一緒に持って行かせる理由は、私は、「頼朝や、受け取り係として派遣された使者・梶原景高に偽首を黙認させるため」だと思っていた。でも、「卿の君を殺害され、乳人として責任を取ったと見せかけ、首が卿の君のものであると疑わせないため」というのが一般的な解釈なのか? プログラムの解説ではそう書かれている。
この部分、侍従太郎のセリフでは、「卿の君の乳人とは、鎌倉殿も知ろし召したる、侍従太郎がこの首を添えて渡さば、天地を見抜く梶原も、身代はりとはよも言ふまい」となっている。これ、「よも言ふまい」であることが重要なのでは? 「疑ふまい」ではなく、あくまで、「言ふまい」。
普通に考えて、義経の妻、しかも平家方の要人の娘の顔を、梶原や頼朝、あるいは鎌倉方の関係者が誰も知らないというのはあり得ない。だって、所詮乳人の侍従太郎の顔ですら、頼朝、知ってんでしょ。「その場しのぎ」にしても、弁慶がそのへんの小娘を殺して持ってきたのではなく、侍従太郎という重臣の首を添えて(つまり義経方もそれなりの犠牲を払い、頼朝の意図を承認している)実検に差し出されるからこそ、鎌倉方はあえて真っ赤な偽首を承認するという話なのでは。
直前の段で、義経へ卿の君の首を差し出すよう命じる使者は、梶原景高。しかし、その対面で、梶原は義経に重大な借りを作ってしまう。梶原は、彼ら父子の名前が書かれた平家の連判状を義経に焼き捨ててもらったのだ(=自分こそ頼朝へ不義を働いていることをもみ消してもらった)。義経自身は恩着せのためにやったことではないが(こんなもの存在しても誰も幸せにならないという判断)、梶原にとっては重大な借りができた以上、梶原は偽首を確実に承認する。頼朝の意図は義経を試すことであり、卿の君を殺すこと自体を目的としているわけではないので「梶ちゃんOK? ホナわしもOK」とする。そういう、建前さえしっかりしていれば「その場しのぎ」を正当化できるという、「武家社会の建前」の話のように思うな。「陣屋」の義経と同じ。あるいは「市若初陣」の裏返し。みなさんはどう思われますか?

 

 

 

  • 義太夫
    中=豊竹睦太夫/野澤勝平
    切=竹本錣太夫/竹澤宗助

  • 人形
    卿の君=吉田簑悠、妻花の井=吉田簑一郎、腰元信夫=吉田玉誉(前半)吉田簑太郎(後半)、母おわさ=吉田和生、侍従太郎=吉田文昇、武蔵坊弁慶=吉田玉志

 

 

 

◾️

増補大江山、戻橋の段。

インバウンド向けに派手な演出で上演しますってことなんだろうけど、人形は演技自体をしっかりやらないと、演出に負けている。特にこのような景事的ニュアンスが強い演目では、全身の動きが客席からどう見えているかを相当に意識しなければ、単なる雑に見えてしまう。2年ほど前に同じような配役で『紅葉狩』見たときも同じ感想を覚えた。これからも同じなんだろうなー。と思った。

しかし、人形の毛振り、配役どうこう関係なく、良いと思ったこと、一度もない。人形の背後に人形遣いが立っているせいで、「歌舞伎と同じ」ようには振れないんだし、根本的に人形に向いていない振り付けなのでは。玉男さんとかがやったら違うのかもしれないけど。玉男、やって!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

◾️

「弁慶上使」、今回、おわさを和生さんが勤めてくれて、本当に良かった。
おわさの演技中、周囲の女方系の方が、みんな、和生さんの演技をじっと見ていた。みなさん、いつかおわさをやりたいのだろうか。本当に、そうなるといいのだが……。
逆に和生さんは弁慶を見ていた。普通に客のように見ていた。和生、弁慶上使の弁慶、一生やらんやろ。玉志に「ご指導」してくれるんか? それなら頼むわ!!!!!!!!!!!

弁慶は、正直、玉志さんがここまで上手いとは思わんかった。ひとかわ、むけた🥺と思った。
「弁慶上使」の弁慶は豪快の典型……というイメージがある。でも、文楽でいうところの「豪快」という言葉は、「大きく遣う」「色気」と並んで、意味するものが恣意的すぎる。いまの文楽では、フリが大きく「雑」な演技をよしとする言葉として、「豪快」が使われていると思う。恣意的だからこそ、どんな人にも使える言葉として、劇評なり技芸員の芸談では便利に使われているのだろうけど。正直、この言葉を遣っている人は信用できないですね。海鮮丼の「豪快」とかは大好きですけど(特に、盛り付け、物理的に「豪快」であれば、あるほど、よき…🥰)。
「豪快」は、本来は、「雑」や「精緻さがなくてよい」という意味ではない。あらためて「豪快」を国語辞典で引いてみると、以下のような説明があった。
人の性格、やり方、また、物の動きなど、規模が大きく、のびのびとして気持のよいこと。また、そのさま。(日本国語大辞典
今回の弁慶は、本来的な「豪快」だわ、と思った。

ところで、今回販売されているプログラムに、玉志さんが「弁慶上使」の弁慶を遣っている写真が掲載されていた。おや、こんな良い役、前にもやったことあるんだ。と思ったが(失礼)、もしかして、若手会の写真? 調べると2007年の若手会で「弁慶上使」の弁慶の配役がついている。写真の玉志さん、見た目が今とあんま変わらんのやが。計算すると年齢もわかるが、研修生出身だから入門自体は遅いとはいえ、そんな歳になるまで「若手」扱いされるって、厳しいよなぁ。よく耐えたな……。と思った。

↓ あらすじ解説

 

↓ 2022年2月東京公演の感想

 

 

◾️

文楽の「弁慶さん」一覧。

f:id:yomota258:20240420155713j:image

そういえば弁慶って書冩山圓教寺出身なんですね。西国三十三所回ってるときに行った。姫路だよね。なにもかもかめちゃくちゃデカかったことを覚えている。

 

生口島公演にあった『二人三番叟』のパネル、文楽劇場に引っ越してきていた。顔出しパネルというより、普通の記念撮影スポットとして活用されていた。

f:id:yomota258:20240420133804j:image

 

あいま時間に、大阪限定ちいかわグッズ、購入!

f:id:yomota258:20240420133843j:image