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陽一の空手いきあたりばったり――渋谷陽一が空手をやっていた頃

理由は聞かないでいただきたいが、これからたまに渋谷陽一の著書からの引用をお届けしたい。

今回は渋谷陽一『ロック微分法』ロッキング・オン)の「陽一の空手いきあたりばったり」と題された章から引用する。渋谷陽一は、1982年から1983年にかけて、雑誌「月刊空手道」で連載をやっていた。

しかし、なんで渋谷陽一は空手をやりだしたのか? この連載の初回も、「本格的なスポーツ体験もない僕が、何で三十になってから空手なのか?」という文章から始まる。

彼は三つの理由を挙げる。まず、とにかくスポーツを始めたかった。第二の理由の理由として、何か自分を追い込んでみたいマゾヒスティックな衝動があった。そして、三番目の理由が少し面白い。

 第三の理由としては、最終的には相手を具体的に倒せなければ、という論争好きの売文屋としての本音である。ケンカというのはやった事ないし、なぐられた経験もない。ただ講演中にビールをひっかけられたり、殺してやるなんて投書をもらう事は日常茶飯事である。空手も評論家の教養のひとつなのではないか、などと思ったりもした。(p.94)

そういう教養は必要ない方向でお願いしたいが、空手は彼の気質に合っていたようだ。

 とにかく、そんな動機で始めた空手だが、やってみてまず思ったのは、非常に論理的であるという事だ。個人教授をしてくださっている前田先生(六十五kg級世界チャンプ・全空連五段のあの、前田利明なのだ)の指導がよいのか、一動作、一動作が、常に論理的な裏付けを持っている事がわかる。最もロスの少ない方法で、相手を的確に倒す、それが見事に空手の形として完成されている。理屈に合わない動作はなく、無駄もないのだ。(p.94)

ここで名前が出される前田利明氏は、明空義塾塾長と同一人物と思われる。

続けて渋谷陽一は、空手には(彼が恐れていた)不毛な精神主義がなくきわめて合理的であり、そして有段者の形が美しいことを指摘している。もっとも後半については、読者からたしなめられている。

 そう言えば、この本の読者の中にもロック・ファンが居るらしく、僕がNHKでやってる番組へ投書をくれた人が居る。
 毎月読んでいるこの本をパラパラとめくっていると、どこか見た事のある顔が奇妙なスタイルで空手をやってる写真がある。記事のタイトルを見ると、渋谷陽一の空手いきあたりばったりとあり、思わず椅子からずり落ちたそうである。
 それはそうだろう、空手と渋谷陽一という取り合わせは、手術台の上におけるミシンとコウモリ傘の出合い以上にシュールである。第一回目の原稿についての感想も書いてくれて、入門者のくせに形について云々しない方がいいと忠告してくれた。(pp.96-97)

最後の忠告に笑ってしまったが、そういえば「ミシンとコウモリ傘の~」というフレーズ、最近あまり聞きませんね(参考:デペイズマン)。

ロックミュージシャンで空手をやっている人として、EL&Pカール・パーマーについて、レコード会社の担当ディレクター氏の話として、「限りなくて下手で、結局昇段できなかったらしい」と書いている。これがどういう経緯か本人に伝わり、抗議とともに「来日の際にはお手合わせを」みたいなメッセージがきて焦った、という話を後の著書(渋松対談の本かな?)で読んだ覚えがある。

空手とロックといえばこの人、ストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルにももちろん触れられる。

 ヨーロッパ支部で黒帯を取っているので自信満々に日本にやって来た。とにかく体はデカいし、力にも自信がある。意気ようようと極真の道場へやって来て、あっという間にアバラを折られてしまった。
 その後、僕は彼にインタビューをしたが、極真の道場でコテンパンにやられた事によって人生観が変ったそうである。それまで力で負けた経験がなかっただけに、人生観が一八十度、転換してしまったのだそうだ。
(中略)
 以来、彼は暴力は無効だというイデオロギーに転向したようだが、やはり本当に強くなるには暴力の無効性を学習しなければならないのかもしれない。(pp.98-99)

それにしても、腹筋百回、足あげ腹筋五十回、側筋六十回、背筋五十回、拳立て二十回、それに柔軟体操が「準備体操」というのはハードである。渋谷陽一も最初の頃はこれをこなすだけでボロボロになったようだが、それも最初の数回だけで、急速に体が順応していったというのに驚く。

 家に帰ってからも、整理体操だとか言って腹筋をやって見せ、カミさんを不気味がらせたりする。(p.100)

渋谷陽一はこの連載で、空手のイメージを向上させ、もっと多くの人に空手をやってもらい、空手仲間を増やすにはどうしたらよいかというのを考えて書いており、連載当時公開された映画『少林寺』のヒットに期待しているのに時代を感じる。

そのように空手の形の美しさ、指導の論理性に感服しても、現実には思うように上達しないのを嘆いているあたり、共感できる情けなさがある。

 前田空手塾において僕はかなり出席率のいい生徒である。週二回の練習に対し、六十%から七十%の率で出席している。一回の練習時間は二時間から二時間半。世間一般の常識からすれば立派なものだ。それを一年間やっているのだからそれなりの進歩があってしかるべきである。
 しかし、はっきり言って、それはほとんど進歩らしい進歩ではない。
「渋谷さんも十年やれば黒帯になれるよ。」という一緒にやってる有段者の言葉は、はげましというよりは、僕に早くやめた方がいいという忠告に聞こえる。(p.115)

ワタシはこの連載のリアルタイムの読者でないので正確には知らないが、この後、確か腰か背中を痛めて渋谷陽一は空手を止めていたはずである。

AI企業がオープンソースという言葉を都合よく利用する「オープンウォッシング」の問題をNew York Timesも取り上げる

www.nytimes.com

一部の AI 企業が「オープンソース」の看板をユルユルに使っていることに対する批判を取り上げた記事だが、まさにワタシが WirelessWire News 連載このブログで以前に取り上げた問題ですね。

オープンソース AI の支持者たちは、その方が社会にとってより公平で安全だと言うが、一方で反対者たちは悪意をもって悪用される可能性が高いと言う。この議論にはひとつ大きな問題がある。オープンソース AI が正味のところ何なのか合意された定義が存在しないのだ。それに AI 企業を――「オープンソース」という言葉を使って自分たちを不誠実にもよく見せようとする――「オープンウォッシング(openwashing)」と非難する声もある(オープンウォッシングという非難は、オープンソースの看板をあまりにも緩く使ったコーディングプロジェクトに向けられたことがある)。

ようやくこの問題が New York Times くらいのメディアにも取り上げられるようになったのかと思うが、オープンソースソフトウェアは誰でも複製や変更が可能だが、AI モデルの構築にはソースコード以上のものが必要という理由にもきちんと触れている。

Linux Fundation も「オープンウォッシング」の言葉を使って以下のように意見表明していたのね。

この「オープンウォッシング」の傾向は、オープン性――調査、複製、共同の前進を可能にする知識の自由な共有――の前提そのものをむしばむ恐れがある。その危険性を軽減しながら、AI の計り知れない可能性を実現するには、AI モデルの開発ライフサイクルのすべての段階を通して真のオープン性が必要である。

そして、例によって OSI によるオープンソース AI の定義策定の動きについて触れているが、記事の最後には David Gray Widder など真のオープンソース AIが可能か疑っている関係者が多いことが書かれている。まぁ、難しいよね。

ネタ元は Slashdot

静的ウェブサイト作成ガイドは個人サイト再興に資するか

www.staticguide.org

Markdown Guide の著者として知られるテクニカルライターMatt Cone が、HTML と CSS、そして何より Hugo の静的サイトジェネレータを使って静的なウェブサイトを作成するガイドを書いている。

要は、このサイトの記述に従えば、スクラッチからウェブサイトを構築するプロセスを経験でき、ウェブサイトがどんなもので、そこでどんなテクノロジーが動いているか理解できるというわけだ。

やはり、「静的ウェブサイト」というのがポイントだろう。著者自身、Introduction でその理由を説明している。

Static Site Guide が静的ウェブサイトだけを対象とするのは、静的なウェブサイトこそ大多数の人にとって最適な選択肢だと思うからだ。静的なウェブサイトで、ブログ、企業マーケティングのウェブサイト、個人用やプロ用のポートフォリオなどを作成できる。WordPress や商用ウェブサイト構築サービスを使って動的ウェブサイトを作ることにした場合でも、静的なウェブサイトがどのように動くか知るのは、より良い動的ウェブサイトを構築する助けとなりうる。

こういうガイドが作られるあたりに、ワタシも「WEIRDでいこう! もしくは、我々は生成的で開かれたウェブを取り戻せるか」で書いた個人サイト再興の動きとのつながりを感じるのである。

このサイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 ライセンス(コードには MIT ライセンス)が指定されているので、どなたか日本語訳やってみませんか?

ネタ元は Pluralistic

カズオ・イシグロの新刊はジャズシンガーのステイシー・ケントに提供した歌詞集

カズオ・イシグロFacebook で彼の新刊 The Summer We Crossed Europe in the Rain を知る。

小説ではなく、ジャズシンガーのステイシー・ケントに提供した歌詞を集めたものとな。

Bianca Bagnarelli によるイラストもオシャレですな。

カズオ・イシグロStacey Kent に歌詞を書いている話は何かで読んでいた覚えがあるが、世界的に成功している小説家で歌詞も書いている人というと意外に浮かばない。

この本に収録されている全曲ではないが、カズオ・イシグロがステイシー・ケントに歌詞を提供した楽曲のプレイリストも作られている。

「こいつ映画撮ったことあんのかよ?」――映画『メガロポリス』制作時の『地獄の黙示録』にも劣らない混乱ぶり

www.theguardian.com

第77回カンヌ国際映画祭でワールドプレミアが行われた、1億2000万ドルの私財をなげうち、構想40年を経て完成したフランシス・フォード・コッポラ監督の新作『Megalopolis』はかなりの怪作、というか端的にいえば失敗作らしいが、Guardian にその制作模様を取材した記事が公開されている。

コッポラの映画制作にまつわる混乱というと『地獄の黙示録』がよく知られており、後にドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(asin:B01LTHLC86)が作られたくらい(これの共同監督にクレジットされているエレノア・コッポラ先月亡くなっている)。

この記事でも『地獄の黙示録』の話を最初に持ってくるあたり、同じくカンヌ国際映画祭でデビューする『メガロポリス』が、どのような評価を得るか掴みかねている感じだが、『地獄の黙示録』にも負けない制作にまつわる混乱があったことを示唆している。

アダム・ドライバーをはじめとするキャストは、この映画での経験を肯定的に語っているそうだが、あるスタッフによると、この映画の制作は、「来る日も来る日も、毎週毎週、列車事故が起きているのを見ているようで、そこにいる皆がその列車事故を避けようと懸命に努力している感じだった」そうな。

メガロポリス』については、上にも書いた構想40年、製作費1億2000万ドルというのがよく言われるが、脚本の書き直し300回というのも気が遠くなる。

シャイア・ラブーフなどコッポラと揉めたキャストもいるし、ミーティングをやるたびにアイデアが変わるというコッポラの即興的な演出と、SF 映画なので必然となる現代のデジタルな映画制作手法とのかみ合わせの悪さに苛立ちを覚えるスタッフもいた。クルーやキャストを待たせたまま、何時間もトレーラーでマリファナを吸い、出てきても指示が意味不明で、時間ばかりが無駄になったこともあったという。

あるクルー曰く、「こんなことを言うとヘンに聞こえるけど、『こいつ映画撮ったことあんのかよ?』と全員が立ち尽くしたことが何度もあった」。

しまいには2022年の12月、16週にわたる撮影の中盤あたりで、視覚効果チームと美術チームのほとんどが解雇されるか自分から辞めたという。

他にもいろいろ書かれているが、この映画制作の現場を『リービング・ラスベガス』で知られるマイク・フィギスがカメラをまわしてメイキングが撮られているようなので、それこそ『ハート・オブ・ダークネス』のようなドキュメンタリーが何年後かに公開されるかもしれない。

とにかく混乱に満ちた制作現場だったというのは分かったが、今のワタシが思うのは、「コッポラの『メガロポリス』が駄作と言われるたびに、むしろ必見の映画だと思えてくる」という記事タイトルがすべてだったりする。

コッポラには素晴らしい映画をいくつもみせてもらった。自分の人生をさらに2時間あまり彼のために差し出すのはなんでもないことだ。

悪は存在しない

自分の観測範囲で評判になっているのを知って映画館に足を運ぶ場合もあるが、この監督の新作と知れば当たり前のように行くと決めている人もそれなりにいる。『ドライブ・マイ・カー』により、濱口竜介もワタシの中でそういう位置づけの監督になったのだが、はじめから映画館で観ると決めている新作は、できるだけ事前情報を入れずに観ることにしている。

本作の場合、予告編も観ることなく臨んだ。が、情報を完全にシャットダウンするのはどだい無理な話で、山奥の集落にグランピング場建設の話が持ち上がり――というあらすじと、あとラストに驚く人が多いというのも、さすがに小耳に挟んでいた。

主人公の娘が、その山奥の自然の中を歩く場面から本作は始まるが、『ミラーズ・クロッシング』を少し思い出した下から見上げるカットをはじめ、本作はとにかく映像が美しい。どのカットも素晴らしいのだ。というか、この映画には良くないカットがない。特に横方向の移動のカットにハッとさせられた。

冒頭流れるメインテーマと言える美しい音楽がブツ切りされるのをはじめ、本作で音楽が何度もブツ切りされているのも意図的なはずで、これが作品に緊張感を加えている。

『ドライブ・マイ・カー』と異なり、でてくる演者はワタシの知らない人ばかりだったが、それもまた本作に合っているように思った。

住民説明会の場面も良かったし、芸能事務所でのクソコンサルとのオンライン会議も本当に良くて、そして、集落に向かう車中でも芸能事務所の男女二人の会話が無茶苦茶良い。男性が、女性の同僚をどうしても「お前」呼ばわりしてしまうところといい、大声を出して同僚に引かれ、拒否反応を示されるところなど、この男性の人物造詣がよくできている。うどん屋で「身体が温まるというか――」と、住民説明会のときと同じく自分の言葉でない紋切り型の文句を言ってしまい、「それ、味じゃないですよね」と冷たく指摘される場面では笑いがもれていた。

果たしてこの素晴らしいカットに満ちた映画にどんな結末が待っ……待ってええええっ!!!!!?

そこで思考が停止したまま映画は終わってしまったのだが、本作で語られる、鹿は人を襲わない、襲うとしたら手負いの鹿だけだという主人公の台詞を踏まえれば、というのに後から合点がいった。

ジョン・レノン 失われた週末

柳下毅一郎さんに啓示を受けて(おおげさ)観ることした映画である。

ジョン・レノンの70年代において、オノ・ヨーコと別居していた期間は、この映画のタイトルにもあるように「失われた週末」と呼ばれ、酒浸りの非常に荒んだ生活を送っており、音楽的な成果も乏しい時期という固定観念がワタシの中にもあった。

本作は、その時期にジョンと生活をともにしていたメイ・パン本人の証言を中心に描くドキュメンタリーである。

この時期のジョン・レノンは、オノ・ヨーコというくびきから解き放たれ、コラボレーションを活発化させている。エルトン・ジョンと共演した「真夜中を突っ走れ」は彼にとって初の全米1位シングルとなり、デヴィッド・ボウイと共作した「フェイム」はボウイにとって最初の全米1位シングルとなり、二ルソンの『Pussy Cats』をプロデュースし、自身も『Walls and Bridges』(彼の生前最後の全米1位アルバム)と『Rock 'N' Roll』という2枚のアルバムをものにしている。

正直、『Walls and Bridges』も『Rock 'N' Roll』も評価が高いとは言えないが、特に前者については、「失われた週末」の時期のアルバムという印象が先入観になっているところもあろう。発表から半世紀のタイミングで、その死後忌々しくも「聖人」視されることとなったジョン・レノンの、そのイメージに合わない『Walls and Bridges』こそ再評価が必要なのではないか。

そして、この時期ジョンはポール・マッカートニーとの交友も復活し、シンシア・レノンとの離婚後、(オノ・ヨーコが間に入るため)コミュニケーションがとれなくなっていたジュリアン・レノンとも親子の時間を過ごせていた話は心が和むものがある。それを実現させたメイ・パンに感謝したくなる。

本作が始まったとき、あ、この映画はビートルズはもちろん、もしかしてジョンの曲すらかからないのか? と身構えたが、さすがにジョンの曲は問題なかった。このような映画が実現したのは、オノ・ヨーコが大概高齢になり、コントロールが緩くなったところもあろう。

本作でジョン・レノンの解放された姿を見れたように思うが、結局のところ、この人の身勝手さ改めて感じたというのが正直なところ。ワタシは表現者とその表現は分けるべき主義の強硬な支持者なので、ジョン・レノンの作った音楽に対する愛は基本的に変わらない。ただ上に書いたように、自分の中での評価のし直しは必要だと思った。

そして、メイ・パンについて好奇の視点からでない、本人の証言を中心にした本作のような映画ができたことは、彼女の名誉のためにもよかったと思う。

ルハ・ベンジャミンも新刊でTESCREAL批判をしていたのか

books.macska.org

実は「TESCREALふたたび:AGIが約束するユートピアはSF脳のディストピアなのか?」を書いていたときに、プリンストン大学のルハ・ベンジャミン教授の「ケンドリック・ラマーやヤシーン・ベイのヒット曲みたいにこの論文をずっと待ってた!」という反応を取り上げようと思ったのだが、ルハ・ベンジャミン、日本では知名度ないしな、と諦めていた。

その彼女の新刊 Imagination: A Manifesto(表紙デザインがインパクトある……)でやはり TESCREAL を批判していたんだ。

著者がとくに警鐘を鳴らすのは、技術の進歩による問題解決を目指すテクノユートピア主義や、はるか未来の人類のためと称していまここにいる人たちを見殺しにする長期主義倫理など、いわゆるTESCREALと呼ばれる思想群。これらの思想が形を変えた新優生主義を抱えたイマジネーションであることを指摘する本書は、短いながらテクノロジー社会論と人種主義を専門とする著者ならではの力作。これからも注目していきたい論者の一人。

Ruha Benjamin著「Imagination: A Manifesto」 – 読書記録。 by @emigrl

やはり「テクノロジーと人権」についてちゃんと書かれた本が翻訳されないといけないと思うのだが、彼女の本の邦訳は難しいんでしょうね。

そういえばルハ・ベンジャミンといえば、ガザにおけるイスラエルの大量虐殺と親パレスチナ派の学生への弾圧を非難していたが、先月末には学生14人とともにプリンストン大学のクリオ・ホールを占拠したというのに驚かされた。行動派ですな。

アンディ・グリーンバーグ『Tracers in the Dark』(とそれに続く新作)の邦訳を出す出版社はありませんか?

wired.jp

ひと月前の話で恐縮だが、この記事を読んで、「アンディ・グリーンバーグの『Tracers in the Dark』、やはり邦訳は出ないのかねぇ」とつぶやいたところ、まさかの著者から「興味のある日本の出版社をご存じだったら紹介いただけるとありがたいんだが!」という返信をいただいてしまった。

アンディ・グリーンバーグというと、ロシアのサイバー戦争の内実に迫る『サンドワーム ロシア最恐のハッカー部隊』の邦訳が昨年出ているが、その彼がその次に出した Tracers in the Dark に興味ある日本の出版社ありませんか?

その内容は、実は Wired.jp で一部読める。

正直、クリプト+犯罪がテーマの本は邦訳が出にくいようで、難しいかなとは思う。

「シルクロード」を取材したニック・ビルトン『American Kingpin』21世紀最大の詐欺をやらかした「クリプトの女王」についてのジェイミー・バートレット『The Missing Cryptoqueen』も邦訳は出ていない。

実は、7月にはアンディ・グリーンバーグの新作 Lords of Crypto Crime が出る。書名をみる限り、新作のテーマもクリプト+犯罪のようだ。

「Wi-Fi」は何の略か? 話は簡単ではない

この話は前にも何かで読んだことがあったと思うが、「Wi-Fi」は何の略か? という話が Mental Floss に出ていた。

Wi-Fi は無線 LAN の登録商標の名前なんだから、Wi-Fi の Wi は wireless の略にきまっている。で、「Wi-Fi」と聞いて連想するのは、音響機器に関する用語である「hi-fi」だ。これはは high fidelity の略なんだから、「Wi-Fi」の Fi は fidelity の略で、つまり「Wi-Fi」は wireless fidelity の略で決まり! 簡単な話である。

……というわけではないようだ。オックスフォード英語大辞典にも、「この言葉が wireless fidelity の短縮形と後に合理化されたというのは正しくない」と明記されているとな。

Wi-Fi」は何の略でもない、というのが正しいらしい。これは Wi-Fi Alliance の創設メンバーである Phil Belanger も認めている

もう少し正確に書けば、確かに Wi-Fi Alliance の前身である WECA のメンバーは Wireless Fidelity というキャッチフレーズを考えたが、これは無線 LAN の利用者を混乱させただけで、それにつながる言説を取り下げたということらしい。

というわけで、「Wi-Fi は何の略でもない。頭字語でもなく、それ自体には何の意味もない」が答えということだ。

……そういえば、ワタシは20年以上前に Wardriving HOWTO を訳していたな。

WirelessWire News連載更新(TESCREALふたたび:AGIが約束するユートピアはSF脳のディストピアなのか?)

WirelessWire Newsで「TESCREALふたたび:AGIが約束するユートピアはSF脳のディストピアなのか?」を公開。

個人的な事情で恐縮だが、今回は書いている間に寝不足の問題を抱えており、それは残念ながらこの文章にも影響を及ぼしている。文章の精度もあるし、何より文章のタイトルがイマイチである。

実は最初、ゴールデンウィークの間に今回取り上げた論文を訳そうかとぼんやり思っていたのだが、そんな馬力は今の自分にはない。その代わりといってはなんだが、今回は一つの論文を手短に論じただけで、この狂った長さになってしまった……。我ながら異常としか言いようがない。

それだけ長く書いても、書ききれなかった話がいくつもあるので、少し書いておく。

まず、ゲブルとトーレスの論文の謝辞にダグラス・ラシュコフの名前があり、「テクノ楽観主義者からラッダイトまで」で TESCREAL の話からラシュコフの『デジタル生存競争』(asin:B0C8MB9J7F)につなげたこととの符合を感じた。

そして、この論文を収録した First Monday の2024年4月号全体について触れておくと、TIME 誌が AI 分野でもっとも影響力のある100人に選んでいたアベバ・ビルハネが二つの論文に著者として名前を連ねていたり、その片方の「形而上学的、倫理的、そして法的にロボットの権利の嘘を暴く」に、こないだ紹介した『ブラックボックス化する社会』のフランク・パスカーレも著者に名前を連ねている。

なにより、この特集号のすべての論文に共著者、協力者として、ダナ・ボイドが10年前に立ち上げたテクノロジーの社会的影響について研究する非営利団体である Data & Society のメンバーがクレジットされている。つまり、この号は完全に Data & Society 主導ということ。

ダナ・ボイド自身は2022年に President を辞しており、昨年には Board Member からも外れているが、この人はこの10年、3人のお子さんを産み育てながら、Data & Society を大きくしたことになる。すごい話である。この団体のメンバーの活動は注目しておくとよいでしょう。

あともう一つ、今回の文章で名前を挙げながらあまり語れていないエリーザー・ユドコウスキー、並びに彼が立ち上げた LessWrong については、2018年(!)に木澤佐登志さんが書いた「人工知能はロシア宇宙主義の夢を見るか? ――新反動主義のもうひとつの潮流」がひたすら面白い。さすがにこれまで盛り込むことはできなかった。木澤佐登志さんは、もちろんワタシとは立場も志向も違うが、当時も今も氏が書くものがすこぶる刺激的なのは変わりがない。

こっそり本文に紛れ込ませたが、レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』(asin:B009QW63BI)の続編が来月出るぞ!

『ポストトゥルース』の著者による偽情報、誤情報への姿勢を学べる邦訳が2冊続けて出る

yamdas.hatenablog.com

今年のはじめに書いたエントリだが、ここで新刊を紹介した、『ポストトゥルース』(asin:4409031104)の邦訳があるリー・マッキンタイアの本の新たな邦訳が先月、今月と立て続けに2冊出るのを知る。

といっても、今回邦訳が出たのは、上のエントリで紹介した本ではなく、その前に原書が出ていたものである。

まず、先月に『「科学的に正しい」とは何か』ニュートン新書から出ている。これは『ポストトゥルース』の次に原書が出たものである。

 科学と科学ではないものを分けるものとは? 研究の不正や捏造があってもなお,科学を信頼できる理由とは? 世界的ベストセラー『ポストトゥルース』の著者が贈る,現代人に必須の科学論。

「科学的に正しい」とは何か | ニュートンプレス

そして、今月末に『エビデンスを嫌う人たち』国書刊行会から出る。これは彼の前作にあたる。

彼らはなぜエビデンス(科学的証拠)から目を背け、荒唐無稽な物語を信じてしまうのか? 
その謎をさぐるべく、神出鬼没の科学哲学者は陰謀論者の国際会議に潜入し、炭鉱労働者と夕食を囲み、モルディブの海をダイビングする……。
はたして科学否定論者は何を考えているのか? 
知りたくない事実に耳をふさぐ人たちに、どうやったら事実を受け入れてもらえるのか?

エビデンスを嫌う人たち|国書刊行会

いずれも科学的とは何か? どうやってそれを受け入れてもらえるかという問題意識に貫かれているのが分かる。やはり、信頼なき時代、偽情報についての本が求められているということなのだと思うのだが、ただ、見る情報がすべてデマかもしれない状況というのはツラいものがあるわなぁ。

エビデンスを嫌う人たち』については横路佳幸氏の解説が国書刊行会の note で全文公開されている

肩をすくめる絵文字「¯\_(ツ)_/¯」をコピペできる(だけの)サイト……ってなんじゃそりゃ!?

copyshrugemoji.com

One Click Shrug Emoji Copy というサイトだが、肩をすくめる絵文字「¯\_(ツ)_/¯」をコピペしたいときに使える……というか、それ以外に使いようがない。

この「¯\_(ツ)_/¯」だが、「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2017年版)」で紹介した The Ambivalent Internet: Mischief, Oddity, and Antagonism Online の表紙に使われているのをみて、この絵文字って英語圏でも通じるんだな! と驚いたのを思い出した。

そして、こんなサイトができているということは、それだけこの絵文字が認知されているということでしょうね。

なるほど、Urban Dictionary の404ページでこの絵文字が表示されるのか。というか、Urban Dictionary には「ツ」が項目になっているのな!

ネタ元は kottke.org

マイケル・ペイリンが、北朝鮮、イラクの次に旅行番組で赴いたのはナイジェリアだった

www.theguardian.com

今ではモンティ・パイソンよりも旅行番組のプレゼンターとして知られる(という枕詞を書くのも何回かの)マイケル・ペイリンだが、北朝鮮イラクに続いて、Channel 5 の旅行番組でナイジェリアに赴いたとのこと。

しかしなぁ、モンティ・パイソンのメンバーでもっとも若いマイケル・ペイリンも80代を迎えており、昨年には、15歳のときに出会って恋し、その後結婚して57年(!)連れ添ったヘレン夫人を亡くしている。旅行番組どころでなくてもおかしくないのだが、Guardian のインタビューによるとマイケルは、この番組の旅は彼女を亡くして数か月しか経ってなかったが、この番組の仕事が自分を再生させてくれたとまで語っている。

前々回の北朝鮮、前回のイラクに比べて、今回のナイジェリアは現地で出会う人がとにかく陽気でエネルギッシュだったので、マイケルも元気をもらったという感じのようだ。

しかし、ナイジェリアの人たちとの邂逅は楽しいものばかりではなく、英国の植民地主義の罪を彼になじる女性も出てくるという。

ナイジェリアといえば、ChatGPT の語彙にナイジェリアが関係しているらしい話が少し前に話題になったばかりである。さすがにそんなところまで垣間見れる番組ではないはずだが、日本でも放映されないかな。

例によって彼の旅行番組は書籍化もされるようだが、刊行はずっと先の見込みである。

Across Nigeria

Across Nigeria

Amazon

そうそう、マイケルが主役をはった映画『ジャバーウォッキー 4Kレストア版』Blu-ray が出るんだね。思えば、テリー・ギリアムの監督作では、これだけ未だ観てないんだよな。

ポール・オースターとルー・リードが1995年に行った対談をはじめて読んだ

www.dazeddigital.com

先月末、米国を代表する小説家であるポール・オースターが亡くなった

その追悼として、ポール・オースタールー・リードが1995年に行った対談記事が公開されていたので読んでみた。

正確にはポール・オースターニュージャージーの生まれ育ちらしいが、二人とも生粋のニューヨーカーのイメージがある。年齢ではルー・リードのほうが5歳年長で、彼は2013年に亡くなっている

この二人の最大の接点というと、オースターが脚本を書いた映画『スモーク』の続編というか姉妹編の、彼が共同監督を務めた『ブルー・イン・ザ・フェイス』にリードが出演し(役名は「ヘンな眼鏡の男」)、アドリブで独特のニューヨーカー哲学(?)を滔々と語っていることになる。

対談だが、まずオースターが「一生かけて音楽をやることになると思ったのは高校時代?」と聞くと、ルードが「違うね! 俺は君みたいなことがしたかったんだよ。作家になりたかったんだ。ちゃんとした作家だ」と答えていて微笑ましい。

その後、若い頃に生活費を稼ぐためにやっていた仕事の話になり、オースターは数えきれないほどの仕事をやったが、「キャリア」と呼べるものは何もなかったと述懐している。若い頃にやった仕事で興味深いものとして、1970年にハーレムで国勢調査員の仕事をしたときのことを挙げているが、そのときの体験が『スモーク』(というか、その元である「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」)のエセルおばあちゃんの元になっていることに数日前に気づいたという。

オースターが国勢調査員としてドアをノックすると、ほぼ盲目の老婦人が部屋に入れてくれた。彼女は部屋の明かりを消したままだったが、人を中に入れたので明かりをつけ、「あなた、黒人じゃないじゃない!」と声をあげた。そのときオースターは、自分がこの部屋に初めて入った白人なのを悟ったという。

その後も貧乏暮らしの話の流れで、オースターが1970年代後半に深刻な危機にあったことを語ると、リードもやはり70年代の半ばから後半にひどい危機に直面した話をしている。もっともその時点でリードは「ロックスター」だったわけだが、マネージャーと金のことで揉めて裁判沙汰になった件で、これに彼はかなりダメージをくらったらしい。

もちろんその後二人とも貧乏からは離れたが、そうなるとこれから不運に見舞われるのではないかと不安になることをオースターが話すと、やはりリードも同調する。スターリング・モリソンの死もあり、(ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの)ロックンロールの殿堂入り後に同じような心境になったという。パティ・スミスにそのことを打ち明けたら、「その場に入れない人の分も、あなたには倍楽しむ義務がある。それは大変なことだけどね!」とアドバイスをもらったと語っている。

このように紹介しているときりがないが、最後にポール・オースターが語るハーヴェイ・カイテル評だけ紹介しておく。

ハーヴェイ・カイテルはセルアウトしていない数少ない有名俳優だ。彼が出演している映画が皆良いというわけではない。けれども、彼はそれでよいと思っているし、心から楽しそうに映画に取り組む。私は彼のそうした決断をとてもリスペクトしている。

カイテルは、『スモーク』、『ブルー・イン・ザ・フェイス』、そして後にオースターが監督した映画『ルル・オン・ザ・ブリッジ』のすべてで主演を務めている。上の引用の最後の「決断」とは、映画も役柄も気に入らないからと、カイテルが300万ドルの出演料の仕事を断ったことを指している。

さて、個人的にはポール・オースターといえば、最初に読んだ『幽霊たち』と『鍵のかかった部屋』がとにかく鮮烈だったが(『ガラスの街』は柴田元幸の翻訳で読めるのを待ったので、同時期には読んでいない)、一番好きなのはやはり『ムーン・パレス』だろうな。

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