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ヨムヨムエブリデイ

スパゲティ小説

年度末、新年度、GWとここ数か月間に乱れに乱れまくった勤務状況がやっと通常に戻りつつある。ルーティンがいいのはコンスタントに本を読めること。通勤時、昼休み、寝る前、特に昼休みに土産物の阿闍梨餅などをつまみながらの読書タイムが戻ってきたのは救い。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)の著者三宅香帆さんは、本が読めなかったから会社をやめたという目黒考二さんみたいな人だ。それができたら一番なんですけれどね。

疲れているときは、どうしても、ミステリやエンタメや軽めのエッセイに手が伸びてしまう。ここのところ読んだのは、早見和真『笑うマトリョーシカ』、桜木紫乃『ヒロイン』、花房観音『果ての海』、櫛木理宇『氷の致死量』など。エンタメだともうスイスイ読めちゃう。村上春樹のいうところのスパゲティを茹でている最中もつい手に取ってしまうスパゲティ小説。

この間読んだ頭木弘樹 横道誠『当事者対決! 心と体でケンカする』に、ASDADHD当事者の横道誠氏は、本屋大賞をとるような大衆文学は、定型発達者への共感を求められる作品が多くて読んでて息苦しく感じる、感じ方が定型的ではない自分には理解できなくて難しい、むしろ純文学のほうが究極的な心理の探求という目的があるから単純でわかりやすくて楽しんで読める、とあった。スイスイ読めるエンタメを難しく感じる人もいるのかと、ハッとさせられた。

ちょっと気持ちに余裕がでてきたところで、積んでいた、町屋良平『生きる演技』(河出書房新社)を読む。町屋作品には苦手意識があり、読み始めは、エンタメスイスイ脳には手ごわいなあ、なかなかページが進まない、脳に大リーグボール養成ギプス(古い!)を付けているみたい、またはサイドブレーキを引いたまま前進しているみたいだと思っていたが、3分の2を過ぎるころからひき込まれあとは一気に。ラストにえっ?と驚いた。昼休みに読み終えたのだが、帰りもぱらぱら読み返しながらこの小説のことをぼんやり考えていた。松浦理英子の『最愛の子ども』を思い浮かべたり。

みどりの日


みどりの日。渋滞を避けるため朝5時前に友人が迎えにくる。まだ空気にうっすら青さが残っている。今日は友人の車(ボディーが白でルーフが黒のツートンカラー)で出かける。次々に友人たちを拾い、4人揃ったところで出発。私は後部座席に座る。運転しなくていいので気が楽だ。まだ眠気が残っていてうなだれていると、警察車両に護送される犯人みたいだと言われる。パーカーのフードを被ってみたりした。あ、パーカーじゃなくてフーディー。
音楽を聴きながら流れていく車窓の景色をぼんやり眺めているだけで疲れが抜けていく。ドライブはやっぱり楽しいな。特に自分が運転しなくていい時は。SAでなんか食べたり買ったり、蕎麦屋や道の駅に寄り道したり、神社にお参りしたり。午後は木陰にレジャーシートを敷いてみな思い思いに過ごす。マグボトルに入れてきた熱いコーヒーを飲む。寝ころんで見上げると新緑の鮮やかさに圧倒される。風で葉が揺れると光の加減で黄緑、うすい緑、濃い緑、様々に色調が変わり、見飽きることがない。目を閉じると波のように寄せては返す葉ずれの音。あまりに気持ちがよくて、ついうとうとする。帰りもあちこち道草を食いながら、ちょっと渋滞にも巻き込まれ、ファミレスにも寄って、日付が変わるころに帰宅。もう明日が今日になっていた。

明日を配らないで

10連休になるような職場でいまだかつて働いたことがなく、今もカレンダーの赤い日だけが休みと決まっている。やっと明日から待ち望んだ4連休。それまでが長く険しかった。底に穴の開いた船に溜まった水をみんなで汲み出しているのに、汲んでも汲んでも水は減らず、たった数日休むだけなのになんでこんなことになるのか。津村記久子の小説にでてくる「一日コラーゲンの抽出を見守るような仕事」に憧れる。

連休の前夜は気分がゆったりしている。スーパーで寿司や柏餅なんかも買って、本屋に寄りぶらぶら歩いて帰る。夜風が冷たくて気持ちいい。リュックに入れている読みかけの黒川博行『悪逆』が重くて、小ぶりの石地蔵を背負っているよう。暗い夜道を歩いていると小ぶりの石地蔵が「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」とか言いそうだ。
食事、入浴など済ませ、あとは寝るだけ。疲れたー。


寝た者から順に明日を配るから各自わくわくしておくように 佐伯紺「歌壇」2014年2月号

お願いだから明日を配らないで。一日減っちゃうから。そのために今夜は、雪山にいると思って、眠らんぞ眠らんぞ眠らんぞー。明日、明日というが、目が覚めると明日ではなく今日だった、という尹東柱の詩「내일은 없다(明日はない)」にあるとおり、実際明日を体感することはできない。寝て起きたら、もう今日だからだ。でもたとえ眠らなくても、午前零時を過ぎたら、どっちみち今日になってしまう。わくわくしてるのに何だか悲しい。

僕の好きな文庫本(26)

カフカ短篇集

池内紀編訳『カフカ短篇集』(岩波文庫)解説・池内紀
長谷川四郎訳『カフカ傑作短篇集』(福武文庫)解説・川村二郎

先日、頭木弘樹 横道誠『当事者対決! 心と体でケンカする』(世界思想社)をとても面白く読んだ。病気がテーマなので面白いという言い方はふさわしくないかもしれないが。
頭木弘樹氏といったら、潰瘍性大腸炎の当事者であるが、他にもアンソロジストの印象が強い。さらに山田太一の熱烈なファンであり、カフカの人でもある。その頭木弘樹編の『決定版 カフカ短編集』 が新潮文庫から今月刊行される。これまで長らく、上の2冊の文庫版カフカ短篇集を愛読してきたのだけれども(他に光文社古典新訳文庫版もある)、ここに新たにもう1冊加わることになる。しかも「決定版」だ。自身の作品への評価が厳しかったカフカが特に愛した15編を厳選したのだそう。それぞれの短篇集に収められている作品が微妙に違っているのが興味深い。ちくま文庫カフカ・セレクションだったらほぼ網羅できそうだが。

WEBみすず(月刊みすずからWEBに移った)に頭木弘樹「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」が連載されている。カフカの『変身』を新訳しながら、超スローリーディングしていく企画で、宮沢章夫横光利一の「機械」をぐずぐず11年かけて読んだ『時間のかかる読書』の『変身』版といえる。

自分のために料理を作る

四月も半分が過ぎたが、なかなか落ち着かない毎日。

山口祐加 星野概念『自分のために料理を作る』(晶文社)を読んだ。他人のために料理を作ることはできるのに、自分一人のために料理を作れない人が、自分のために料理を作れるようになるヒントが色々書かれているのだが、あまりピンとこなかった。というのは私は、まったくその逆で、自分のための料理はじゃんじゃん楽しくできるのに、他人のために料理を作るとなるととたんにいやになるからだ。

前に、作りたくないのに作らされる女と食べたい男という組み合わせで生活していたときはほんとにしんどかった。毎日ヘロヘロに疲れて帰って料理しているのに、なーんもしない(する気がない)でごろごろくつろいで、ただごはんができるのを待っている人がそばにいると、え、なんでわしばかりがこんな目にというネガティブ思考にはまり込んでしまう。そしてできあがった料理が、気に入らない、口に合わないなどで、ひと口食べて、あるいは全然口をつけずに脇へ押しやられ、ふりかけや佃煮なんかでいいわーとなったときの絶望感。そういうのが続くと自分がどんどん削られていくような気がした。

それが自分のためだけに、となると俄然やる気がでる。自分が食べたいときに、食べたいものを、食べたいだけ作ればいいし、体がしんどいときは、外食やテイクアウトのものでいい。失敗しても、次はこうしようとチャレンジできる。ストレスフリーですこぶる快適な生活。なんとなく孤食ってネガティブに語られがちだけれど、それをこれだけ享受している者もいるのだ。野村麻里『ひとりで食べたい わたしの自由のための小さな冒険』(平凡社)もその楽しさについて書かれていて面白かった。
誰も無理せずに、作りたい人と食べたい人の需要と供給がバッチリうまくいっている家は素晴らしいと思いますよ。