つらぬくような軽いいたみ

毎日は書くことができない日記

ダイアリーとブログ

はてなダイアリーが消えるらしいと知り、ダイアリーをブログに移行したところ

10年以上前のダイアリーと、3年くらい前に書きかけたブログがつながって

1つのブログになった。

なんということだ。

 

10年前には10年前の、3年前には3年前の気恥ずかしさがあり

その2つが融合したときの気恥ずかしさは形容しがたい。

激痛と言うほどではなく、鈍痛というほど重くもないのだが

どこか細く深く突き刺さるものがある。

ちょうどこのダイアリー改めブログのタイトルのように。

 

ちょうど今日は12月8日だ。

13年前にはその後の人生を大きく変える人事が発令された。

77年前には国の運命が変わっていることを思うと大したことではないのだが

何か始めたほうがよい日ということなのかもしれない。

戦争以外の何かを。

子どもの名前

わたしたちには、舞子と琴子という2人の子どもがいる。名前の由来は色々あるが、時々忘れそうになるので、ここに記しておきたい。


まず共通するのは「子」。「子」の付く子どもは賢い、という言い伝えを妻が尊重した結果である。

そこまでいかなくとも、嫌みではない程度に育ちの良さを感じさせる名前、というのはわたしたちの共通の思いではあった。最近では「子」の付く名前が激減しているので、「子」は無個性な名前ではなく、前述のコンセプトを打ち出しやすい名前になってきている。ありがたいことだ。


次に意識したのは、日本人的な名前であること。国際化に伴い、英語風の名前、欧米人に発音しやすい名前を付けるという人も増えているが、わたしは必ずしもそれがよいとは思わなかった。

不特定多数の認知を得る必要がある社名などならいざ知らず、人名でそれが必要か。人間が仲良くなるのに名前の呼びやすさが重要か。仲良くなれば自然と愛称などでカバーされるだろう。むしろ、一目で日本人とわかる、日本語の個性が出た名前の方が国際人として役に立つ場面もあるのではないか。


語感も大切だ。名字と合わせて呼んだときの語呂の良さは、自分で付けた名前ながらとても気に入っている。舞と琴で、意味的に対になっているのもいい。


個別の話でいくと。妻によると、舞子の名前はすごく美人だった妻の友人に由来するらしい。同じく美人で有名なバレーボール選手、狩野舞子にも。

舞子は日本的な名前、と言ったが、外国の子どもから「Boy’s name!」とからかわれたこともあった。舞子。Michel。言われてみれば、響きは男の子の名前と近い。微妙といえば微妙だが、天使の名前と思えば悪くない。ドイツ語読みしたらミヒャエルだし、ミヒャエルといえばエンデだし、エンデは妻の故郷にも縁がある。本が好きで、モモのように髪がふわふわした舞子に幸あれかし。


琴子は、わたしの故郷の海の名前でもある。その海は外海と小さな海峡でしか繋がっておらず、湖のように波が立たない。大村湾、またの名を琴海。湾の中には世界初の海上空港、長崎空港が浮かんでいる。空港の島、箕島は母の実家に縁があり、母の実家は島の木材でできている。父の実家の墓は小高い丘の中腹にあり、琴海を見渡すことができる。

はじめに

長女が生まれてから、妻の勧めにより夫婦で書き始めた紙の10年日記。

毎日書けてはいるが、スペースが小さいこともあり、その日あったことを書いて終わりになることがほとんどだ。それは、当事者にとっては物足りない。


大切なのは、そのときの考えや想いだ。「あったこと」の記録は、そのときの考えや想いを思い出すのに役に立つ。でもその記録だけあって、結局考えや想いを思い出すことができないと、かなしい。


なので、もう少し、今考えていることを書き留めておきたいと思う。10年後の自分のために。わたしはどんどん忘れっぽくなっているので、このままだと何も残らないから。


10年後、生きているといいけど。

ラストノート

 この日記に登場する全ての人、そして今まで私に関わってくれた全ての人に感謝。
 そしてこの日記を支持し、書くようにプレッシャーをかけてくれた全ての人に感謝。特にシギサワカヤさんには感謝してもしきれない。いつもすみません本当に。
 それではまた。しかしこんな日記の終わり方も珍しいことだ。

後日談

 結局2006年の春に、八戸にマネージャーとして赴任した。その直前に彼女ができた。色々苦心したものの、結局遠距離恋愛には耐えられず、2007年の夏に会社を辞め、東京に戻った。そしてすぐに彼女と別れる。何のために好きな会社を辞めたのかわからないまま転職活動をして、何とか今いる会社に拾ってもらう。その年の冬、前の会社は今いる会社のグループに買収されてしまうのだが。
 色んな偶然がある。ものすごく優秀で誠実で面白いメンバーに恵まれなかったら、マネージャーとしてはやっていけなかった。マネージャーとしてやっていけてなかったら、わずかなりと管理職としてよい経験を積めていなかったら、今の会社には転職することはできなかっただろう。今の会社の転職に当たっては、すっかり忘れていた大学の専攻も生きた。彼女がいなかったら、そもそも転職活動をしていない。あのタイミングで辞めていなければ、結果として会社は買収されてしまうのだから、脱出しようとしてもうまくいかなかったかもしれない。転職するには好況期というのも良かった。いや、そもそも1年目の末に当時の部署に異動できていなかったら。
 今の妻に会うにも、家を買うにも、様々な偶然があり、とっさの判断がたまたまいい方向に転んだり、で。不思議なことだ。本当に。

この日記について

 この日記は、新卒入社した会社での1年目の終わりから3年目の終わりにかけての、約2年間について書かれている。日記の更新は遅れがちで、1ヶ月前の日記をさも昨日のことのように更新することも少なくはなかった。今日に至っては、5年前の更新をしている。日記という概念に対する挑戦とも言うべき試み。ではなく、単なる怠惰さの表れであるが。
 前の会社の会長が、新卒1年目のことはものすごく鮮明に覚えているが、2年目3年目のことはびっくりするほど覚えていない、という話をしてくださったことがある。これは本当にその通りで、私もびっくりした。幸いに、たまたまこの時期の日記を付けていたために、私はこの時期のことを思い出せる。
 それにしても、私は成長しない。むしろ退化している気すらして、少し笑える。人生が3周目に入る頃には、多少の成長を実感できているといいのだけれど。

今日という日について

 今日は愛する父の誕生日。父は還暦を迎える。私は自分がこんなに生きるとは思っていなかったので、父が還暦を迎えるということも当然想定していなかった。父母は子供である私を養育し、そこで終わり。
 なぜかそう思っていた私は20歳を過ぎても生きており、失われた10年よろしくふらふらと過ごして、30歳を過ぎた。気がつけば結婚生活も2年目である。今年の春には家も買った。子供はまだいない。が、何かしらを養育する立場になったのは確かなことだ。
 人生は2周目に入った。父母にとってみれば、3周目か。