51年前の5月25日・スカイラブ2

  我が友、丸山徹也の作品が『第80回記念現展』、さらに『日仏現代国際美術展』でも入選。

「現展」の方は、奨励賞&会友推挙ともなり、なんだか我が事みたいに嬉しやピ〜ヒャララ。

 

 この先がいっそう愉しみというか、作家はいっそうのプレッシャ〜を味わうコトになろうけど、のんのんズイズイ〜っと進んじゃって欲しいぞよ。

 入選と受賞の木彫り作品たち。左より「新世界Ⅰ」、「新世界Ⅱ」、「新世界Ⅲ」↑

 いずれも息するのを忘れるくらい素晴らしい。

 次作として「新世界Ⅳ」かと思いきや、好いヒノキを入手したらしく、別テーマの作品に挑むらしい。表現者としての意欲のでっかさにも乾杯だ。

 わずか数時間、あるいは数分で描き追えるような現代絵画じゃなく、おなじ現代でありながら木彫りに要する時間は昔のそれと変わらない。

 その忍耐的コツコツと根気的ジワジワでもって、丸山徹也は脳内幻想をカタチある実在物として彫り上げる……。

 けれど作品には製作時間の堆積は感じられない。感じられるのは作品そのものに彫り入れられた悠久の時間のみ。そこが素晴らしい。

 

 展示日程は下記の通り。

 第80回記念 現展  5月29~6月10日 国立新美術館

           7月9日~15日  愛知芸術文化センター

           7月23日~28日   京都市京セラ美術館

 日仏現代国際美術展 6月12日~24日   国立新美術館 展示室3A

 

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 さてと模型の話。

 米国のフランクリンミント社は今はもう存在しないけど、秀逸な置き物を製造直販し続けた良き企業で、アポロ計画の模型も6種類ほど限定で出していた。

 幸いかな全部を持っているけど、そのうちの1つ、同社のアポロ・シリーズの最初のものは倉庫にうっちゃったままに放置していたゆえ、汚れに汚れて気の毒な状態になっていた……。

           黄ばみ、塗装も部分が剥げ落ち……

 それをば引っ張りだし、チョイっと思案の末、スカイラブ2仕様の模型に変じてやろうと、決めた。

 洗剤で洗い、湯で拭いてやると、『千と千尋の神隠し』の風呂上がりの神さんみたいに綺麗になった。

 よし……、改装だ。

 

 アポロ計画が17号でもって打ち切りとなり、次の18号、19号に向けて宇宙船やらサターン・ロケットが造られていたのを有効活用するために、NASAが実施したのが宇宙ステーション運用だった。

 スカイラブ1という実験棟を宇宙空間に置いてヒトを滞在させ、諸々な試みをおこなう計画だ。

 スカイラブ1はサターン・ロケットのパーツを大改造したモノで、無人で打ち上げられ、次いで3人が乗った宇宙船スカイラブ2が打ち上がって、1に搭乗するというダンドリだ。

             スカイラブ本体(実験居住区)部分

   

              発射台のスカイラブ1

  

              こちらがスカイラブ2

 

 51年前の1973年5月25日、スカイラブ2はケネディ宇宙センターから発射された。

 ホントは15日が打ち上げ予定だったけど、先行で打ち上げられたスカイラブ1が打ち上げ時に深刻なダメージを受けており、その修理修復も兼ねるというコトで10日遅れのスタートとなったワケだ。

  

    準備中のスカイラブ2。はるか後方にスカイラブ1が見える

 

 船長はアポロ12号で月面に立ったピート・コンラッド。宇宙に出向くこと4回めのベテランだ。

上写真:アポロ12号打ち上げの朝、ステーキ食を食べるコンラッドさん。左腕に刺青をいれているのが特徴で好感度高いナイスガイ。手前はアラン・ビーン

 軌道上のスカイラブ1に接近したスカイラブ2からコンラッドは外に出て、打ち上げ時にちぎれてしまったスカイラブ1の太陽電池部分や熱保護のシートがけなど、修復にかかる。

 本来は実験棟の船体左右で展開予定だった太陽電池パネルは、片方は完全に失われ、もう片方は足が折れて展開出来くなっている。それをコンラッド船長が宇宙遊泳しつつ修理し、展開させて居住区をかねた実験棟の電力を回復させたワケだ。

 本体の外壁も破損しているので、壊れた屋根にブルーシートをかけるのと同様、太陽光直射での室内高温化を抑制のためにゴールド箔シートもかけた。

 コンラッドさんは忙しかったろう。

 

 以上の作業をこなし、実験棟室内の温度が下がってからスカイラブ2の3人の乗員はスカイラブ1に移乗。以後28日間、3人は滞在し続け、米国発の宇宙ステーションとしてスカイラブ1を機能させた。

        スカイラブ1船内でトレーニングマシンのペダルを廻すコンラッドさん

 

 スカイラブ計画は、いわばアポロ計画の応用と流用でもあって、コンラッドの修復作業で保持されたスカイラブ1には、以後、スカイラブ3,スカイラブ4と乗員を迎えいれて宇宙での諸々な実験をおこなうコトになる。

 野口さん滞在などでお馴染みのISS国際宇宙ステーション)の礎となったのが、本計画だ。

      

 1/116スケールのペーパーモデル:右がスカイラブ1搭載のサターンロケット。左は通常のアポロ・サターン

 

 ま~、そんな背景を念頭に、フランクリンミント社のアポロ司令船の置き物を、スカイラブ2号にスリ換えてみたのだった。

 とはいえ大きな改造は必要なし。そもそも同社のは置き物としてのウエートが高く、部分詳細まで造り込んだ精密模型とは一線を画す。

 そのあたりのサジ加減もくわえ、ほどほどの改造。ほどほどにオモチャらしさも残す。先端の金属バーは同時期に発売の月着陸船をくっつけるためのもの。

  

 先端コマンド・モジュール部分は、フランクリンミント社がデカール処理で再現した排気孔などはそのまま活かし、全体は実物同様にアルミ箔で覆った。

 本物のそれは、スコッチ・テープ社がアポロ計画のために開発した断熱素材としてのマスキング・テープで覆われていた。

 そのゴールド・バージョンは、月着陸船でも大量に使われ、かの「太陽の塔」でも使われている。「太陽の塔」の呪術的黄金の顔部分は、だから当時のピッカピカなハイテクニカルなフェ〜スでもあったワケだ。

 

 改造後。

 誰が見たって、

「あ~、アポロの模型っすね」

 としか映らないんだけども、資料写真を元に、コンラッドさんが船外に出て修復作業するための、手すりなんぞも付け加え……、

「ちゃいます。これ、スカイラブ2でごわす」

 云いはるのだった。

 厳密に云えば、アポロ15号〜17号にもこのテスリはあるのだけど、それはそれ、これはコレ、ですわ。

  

 完了後は倉庫に戻さず、60〜70年代のグッズを集めたガラス棚に収めた(最下段)

5月の庭 近所の火事

 

 昨日19日。ウルガ2Fにて、井山あきのりのミニ・ライブ。

 昨年10月には、あがた森魚のバックでピアノとアコーディオンを担当し、さらに同月の岡山神社音楽祭では単独プレーで観客席を大いにわかせた彼。

             昨年の様子。右は我らが黒瀬御大

 早い時間に会場入りし、久しぶりという感じがまったくしないまま、大阪から新幹線でやって来た彼に再会。

             

 ステージ作りなど若干のヘルプをおこない、本番を楽しむ。 ↑ リハーサル中

手前CDは「浪花クレオール」名義のバンドとして。後ろは彼の単独CD。

 

 むろん、そのまま打ち上げも愉しむ。Wakameちゃんの美味しい差し入れにゲキレツ感謝。

 井山氏の笑顔を見、関西風味な笑い声をきくたび、なにやらホッコリさせられるのは、彼の良き持ち味ゆえにだろう。

 楽しく柔らかな好い時間が過ぎてった。

 

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 4日前の木曜の午後、ウチのごく近所で火事

 強風だったゆえ我が宅の庭も白煙に包まれ、黒く焼けた砕片が幾重と飛んできて、それは大丈夫だったけど、周辺住民、皆な路上に出て、騒動。

 平日の午後にこれほどのヒトが居るんだなぁ~、とも驚きつつ、しばし外に出ていて煙も浴びたので、眼は痛く、着ていた服はきな臭い。

 昭和20年の岡山空襲で焼け残った人達も、同じ匂い、いや、より強い匂いにくるまれたろう……。焚き火のそれとは違う不穏なイヤな匂いだ。

 

 火元は全焼ながら類焼なくケガした人もなかったのは不幸中の幸い。

 美容院の若女将が機転きかせ、マスクを配布してくれたりと好いカタチもみられたけど、けども火元の方はこれからメチャに大変だろう。たちまち住まう所もなく、突然に数トンの重い苦痛と悲痛を容赦なく背負うことになって……、とか思っていたら翌日のニュースによれば、住人みずからの放火だったらしく、逮捕とのこと。

 うむむ。


 ともあれ、火事と地震はホントに怖い。

 火の用心、大事なり。

 

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 上記騒動はさておいて……、5月の庭は、アレもコレもが成長著しい。

 樹木は、時に空恐ろしいと思うほどに枝葉を伸ばす。

 丸裸状態だったセンダンも葉を茂らせ、早や、木陰を造りかけている。

 毎年このシーズンになると見知る光景ながら、生命の逞しさ、その躍動に感心させられる。

  3月頃までは、複雑なカタチの白い杖のようだったイチヂクも、葉がおごり、左右に展開し、占有面積を拡大しつつある。

 刈り込んでいた山椒も葉をおごらせ、当然に鋭いトゲも育っている。

 このトゲが怖くっていけないけど……、何かと重宝な山椒の香り。

 1玉28円のうどん玉でも、こやつをのせれば72円くらい価値あがる。

 スーパーで買ったゲソ天が山椒の香りで格段に上品になる。レモンは生口島で買った一山500円のもの。

 数年前に買って植えたレモンは、買った当初はか細い苗でしかなかったけど、毎年このシーズンに大きくなっていく。まだ実はつけずで生口島のそれとは比較にもならないけど、どこか何とはなく頼もしい。

 

 今期はやたらイチゴが採れる。

 全国津々浦々の家庭菜園でイチゴは育てられていようから、家庭で採れるイチゴ総量は、ひょっとして数千トンに及ぶのじゃなかろうか? あんがいとドエライ量のイチゴが「生産+消費」されているよう思える。

 ま~、もっともスーパーで売ってるような、粒揃って甘みもたっぷりというレベルじゃないはずで、当方宅のも、適度に甘いのもあるにはあるけれど、たいがいは酸っぱくて不味い部類の実りでしかない。

 でも、それでイイじゃんか。

 育てるのがカナメ、でしょう。ナメクジやらの虫どもに喰われる危機を背負いつつ、ほどよく赤くなった朝の、「収穫の喜び」が大事ポイントであって、お味はその次なんだ。

 

 先週頃、ホームセンターでイカメロンの苗を、初めて買った。

 スイカは小さな玉が出来るヤツで、伸びたツルは上方に導いてやる計画だ。

 どちらも、一玉でも出来たらラッキ~かな。

 陽当たり良くって雨があたらない軒下にセットして数日後に、私よりチョット年長の親戚が遊びに来たので、

「実ったら食べさせちゃるけ~」

 と云ったら、親戚は大口あけて、

「カカ、カッカ~」

 と笑った。

 

 それでまた思いだしたけど……、過日の火事のさいは、いつもなら視界のどこか、電線のどこかで、ほぼ必ず眼に入る鳥の姿が1つも、なかった。

 モクモク猛々あがる黒や灰色の煙に、カラスもスズメも怯えて退避したのだろう。

 火事はヒトのみならず、鳥たちをも不安不幸にさせるワケだ。

 皆さん、ともかく、火の用心をば怠りなく――。

飛騨高山から福井へ駆ける

 

 Kosakaちゃん、Nakatsukasa君、わたしと、早朝から車を駆けらせ、岐阜県に向かう。

 瀟洒な山岳都市たる高山に泊まり、次の日は福井県に足進めるというザックリ大まかスケジュール。

 わたしは運転しない。

 車に関しては、どれほど運転しようがさほどに疲れないヒトと、3時間程度でくたびれちゃうヒトの、2種があるような気がする。

 当方は後者。長く運転すると眼がかすみ、視界がボワ~ンとしちゃうのでヨロシクないのだ。

 同行2人幸いにして前者。よって当方、後部席にゆったり座して流れゆく高速道路の景観眺めたり、ウトウトしたり、お気軽だ。

 およそ6時間後、飛騨の里の直前で、ワサビすって蕎麦すすり、意気揚々と飛騨の里に入ったものの、数年前までは素通りできた道が、地元住民以外の車の乗り入れを禁じている。

 ガードマンさんに誘導されるままに河川敷の駐車場に直行させられ、

「はい千円」

 ……えっ? 

 1本道のどん詰まり、なんだかゴキブリが誘導されるような、“駐車ホイホイ”っぽい感拭えず。

 山道駆けてせっかく来て、合掌造り見ずに引き返すのもナンだから、お支払いはしましたが~ぁ、そっからの高低差ある徒歩が、どえらくシンドイのでありまして、とてものこと、見て廻れず。

 駐車場は谷間の河川敷で下の方にあり、見学すべき集落は谷間の上の山中なので、集落に入る以前に足ヘトヘト。

                  photo : hirokazu.Kosaka

 しばらくは歩いたけど、ヘたれ気味で谷間の駐車場まで戻れそうでない当方の足腰弱体をみて、Kosakaちゃんが、

「待っててチョ。車、下から取ってくるから」

 いたわってくれて大助かりぃ~。

 シルバーシート、という単語がそよそよソヨギッたねぇ。

 

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 飛騨の里から1時間ほど駆け、高山市中心部へ。

 北アルプスを眺望できる丘に立つ。

 駐車は無料。

 乗鞍岳、焼岳、穂高笠ヶ岳槍ヶ岳などの高峰名峰の雄大を遠方に味わう。

 借景としての雪山……。好い好い。

 

 丘から移動し、高山の街中を歩く。

 雨天たればググ~ッと冷えるらしいが、幸いかな日中は晴れ。

 でも日陰に入ると、なるほど岡山方面とは違う低い基礎温度が感じられ、旅情の何たるかをおぼえる。

 新旧いずれの家屋にも雪害防止柵があって、こういう光景は岡山では見られない。

 町並みのチャ~ミングさに、眼が悦ぶ。

 古い家屋に現在の創意工夫が溶け入って、佇まいとしての襟を正してる。

 今、岡山市街中心部、とりわけ岡山駅から桃太郎大通りにかけて、再開発という名の建設工事がドンドン進行中で、アレも失せ、コレも消えで……、マンション林立の、つまらない街に成り下がりつつある。

 城下公会堂というカフェ&ライブハウスの入ったビルも、この秋には取り壊されてしまう。県営でも市営でもない私営施設ながら、淡い色合いの文化的香りを発散させていたそんな空間までが、失せてしまう……

 高山市街と岡山市街を単純に比較するワケではないけれど、「ちゃんと残る街」がどちらであるかは自明。

 

 そういう次第を踏まえたワケではないけど、飛騨高山レトロミュージアムに行き、昭和のアレコレを眺めて眼をほそめる。

 こういう施設はどこにでもあり、岡山の湯郷にもコレクションが尋常でない私設博物館があるし、柵原鉱山資料館の地階には昭和の息吹きを観られる施設があるけども、ここは規模大きく、かつ昭和のゴッタ煮的なアレコレが味わえ、なにより展示物に触れられるのがイイ。

 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で使われたミゼットに、堤真一ではなく、大村崑イメージで乗ってみる私……。

 

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 飛騨高山といえばヒダギュ~じゃないか。

 ここに来た以上は素通りはなるまい……

 超絶人気の飛騨牛にぎり寿司「金乃こって牛」は長蛇の列。

 しかし、辻一つ向こうにある2号店は誰も並ばず、というか、その存在がまだ知れていないようで、これはラッキ~。

 店を独占のカタチで飛騨牛三種三巻セットを頬ばる。

 ビールは隣りの店で買ったのを持ち込みだが、双方の店が連携していて、その辺りの具合も心地良し。

 皿ではなく、焼きせんべいに寿司がのっかり、せんべいも喰ってゴミいっさいなしの配慮もチャーミング。 

 素晴らしく美味かった。牛肉が口の中で溶けていく初めての驚きが、旨味に輪をかけた。

 

 高山といえば高山ラーメンも念頭に浮く。

 ここに来た以上は、これもたべなきゃ~なるまい。

 が、しかし、高山の町は閉店時間早いのだった。

 夕刻4時には暖簾が降ろされる店が多く、目当てにした店も例外でなかった。

 不夜城めいた町の貪婪ではなく、メリハリがキチリとした町として思えば、その潔さは逆に、とてもイイ。

 という次第で、しゃ~ない、高山ラーメンは自分用土産に乾麺買うのみ。

 夜に食べた朴葉味噌焼きが美味かったので、翌朝、それも買う。

  朴葉(ほうば)の葉の上に味噌がのり、その上に刻んだキャベツがのって網焼きされただけの素朴ながら、味噌の辛みと朴葉の風味がからみあい、日本酒にあう〜。

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 翌日。

 早朝7時前にホテルを出て、宮川朝市を散策。

            ヒダネギ…… お子さんが束を作ってた

 赤カブラの漬物買ったり、赤味噌を買ったりで、いい気分に浸るが雲模様妖しく、やや早めに福井県に向けて移動開始。

 しかし、トンネルだらけの東海北陸道を駆ける内に、雨あめアメ~。

 山間の九頭竜湖の脇を駆けて福井に入った頃は、昨日が嘘のような濡れっぷり。

 

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 福井県は恐竜王国……。

 いつからそうなったのか知らんけど、とにかくイチ押しで恐竜だ。

 道の駅「九頭竜」(JR越美北線の終点・九頭竜湖駅と合体の施設)にも恐竜が、いる。

            線路はこの駅で終点。先はもうない

                  アンモナイトの椅子がいかす♥

 駅前の恐竜は15分置きに動くというから待ってたら、雨の中、20分くらい動き続けた……。



 次に立ち寄った道の駅は、その名も「恐竜渓谷かつやま」というくらいで、一押し二押しの恐竜大会。

     

           売ってる品々、みな恐竜じるし……

 

 なワケだから、新幹線も遂に入線の、もっともメインとなる福井駅前ともなれば、恐竜オリンピア

 駅ビル壁面も恐竜一色のビッグ迫力。単色っぽいカラーリングがすこぶるイイ。

           オブジェはリアル・サイズゆえでっかい……

  

 それぞれの恐竜は予想した以上に柔軟な動きが仕掛けられ、

「ほほっ~」

 気持ちが15歳ほど若くなったような新鮮すらおぼえさせられた。

 ……観光客に強く訴える施設少なき岡山市は、そうさなぁ、福井駅前を真似て、全長20mくらいの動く桃太郎像でも設置するのがイイんじゃない?

 30分に1回くらい、憤怒の形相に変じ、眼が真っ赤ランランに光って、

「おどりゃ~、ぶち殺したろかっ」

 周辺800mまで轟く音声など仕掛けて、初めて岡山駅に降りた他県観光客をビビらせ、旧来の桃太郎イメージをもぶっ壊して、強くインパクトを与えるのは、よく……、ないか。

    恐竜以外ではこのポスターが眼をひいた。何のキャラクターかしら?

 

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 ま~、福井へ来た以上は……東尋坊であろう。

 類例少なき奇景であろうし、それゆえ絶景でもあって、どういう次第か「自殺の名所」という不名誉な事実もくっついているけど、なるほどなるほど、近くば寄って眼下を眺め下ろすと、眼と頭の中間で「壮観」の一語がピカピカ点灯する。

 くわえて、悪天だ。

 雨で岩場は滑りやすく、さらに風がとんでもない。

 観光地化される以前は、東尋坊は凄まじい荒涼とした景観だったろうと想像でき、やおら感慨深い。

 と、そう思うと、ここに来るのは嵐の日こそがイチバンに、

 Insanely Great

 を味わえるのかもと愚考した。

 日本語で云えば、『異様に素晴らしい』だ。

 ま~もっとも、前日我々が高山をウロウロしていた頃にも、一人が飛び込んで亡くなったというニュースもあって、うむむむ……。浮かれてばかりもいられない。

 しかも遊覧船から身を投じたというから、うなだれる。



 雨で客足少ない備長和牛(若狭牛)の店で串焼きを求め、立ち食い後、東尋坊すぐすばの雄島に歩いて渡る。


 強風でウインドブレーカーにくっついた水滴が吹き飛んでく……。

 雨足も強まってきたので、近場の、東尋坊からチョイ離れた、人気ランキングにも載らない(と思われる)店で刺身盛り合わせの定食をお願いし、ハマチのぶ厚さとイタドリの漬物に感心しつつ美味しくいただき、うろつき終了。

 帰路につく。

 好天と悪天の両極での他地域を味わえ、印象深い一泊二日だった。

 

 

ガメラ対大魔獣ジャイガー -1970年大映映画-

 

 1970年3月15日に開幕した大阪吹田での万国博覧会は、巨大で豪奢な、寄せ植えられた花々が一気に開花しきった見事なイベントだった……、のだけど、1970年というのを俯瞰で眺めると、輝きとは異なる面も多々あるのだった。

 

 たとえば、この年1月、中国電力は、

「公害のない現代科学の最先端を行く、花形産業原子力発電所

 というキャッチフレーズを掲げて、日生町鹿久居島(現在の備前市での原発立地を正式表明し、同町に申し込んでいる。

           雨の日、備前日生大橋から見た鹿久居島。2021年8月撮影

 

 既に1967年より中国電力は計画をすすめ、当時の県知事・加藤武徳は「誘致に前向きに取り組む」と言明していて、現場たる日生町うんと云えば計画実施という段取りだった……。

 対して日生漁協と頭島漁協は組合加入者全員が中電の説明会に参加し、ついで万国博覧会がはじまった3月に、自費でもって100数十人の組合員が福井県美浜や敦賀などの原発推進地を視察。

 

 一方で中国電力は、原子炉安全専門審査会の東大教授を日生町に派遣し、

「不安を感じるのは核アレルギーゆえ。原発は安全」

 と、いかもに御用学者らしい発言の講演をさせる。

 さらに中国電力は同年5~7月にかけて、日生町全世帯(一家から一人)を、11月より可動予定の美浜町原子力発電所(加圧水型商業炉)に招待し、その安全性をアピールした。

 が、逆に日生町のピープルは、不信を抱く。

 高温の冷却水がもたらす漁場荒廃を心配し、万が一の事故での放射能汚染による壊滅的被害を看過できないとした。

 日生町は漁協を中心に、自主的勉強会なども重ね、署名活動もし、反対表明の旗を降ろさなかった。海続きの隣県兵庫の漁協も賛同し反対の声を大にする。

 その結果として、1972年に加藤県知事が断念を表明……。

       

 以上の詳細は『原発を阻止した地域の闘い(日本科学者会議編・本の泉社)を参照されたいが、当方、鹿久居島にそのような計画があったというのをついつい最近に知って、

「あらま~っ」

 息をのまされた。

 不明を恥じつつ、狭く閉じた内海、その牡蠣の養殖地に原発を造ろうとした電力会社に、呆れた次第なり。

 シンガーソングライターの尾崎ツトム氏はこの鹿久居島の件を唄にしていらっしゃる。この唄を聞かなければ当方も知らないままに過ごしたであろうけど……、知っちゃったんだから仕方ない。明もあれば暗もあった1970年――――。

   
 

 

 鹿久居島のすぐ隣りの頭島の漁港で水揚げされたばかりのを、漁港そばのお好み焼き屋さんで食べたなぁ。ミックスお好み焼きが焼き上がるのを待ってるさい、サービスで提供されたんだ、ありがたや。

 

 さてと本題。

 万国博覧会開幕の1週間後3月21日に、大映が全国封切りしたガメラ対大魔獣ジャイガー』

 ガメラ・シリーズ第6作目で、舞台は、な~んと、その万国博覧会会場。

 かねてより、そのコトは承知ながら、な~かなか観る気にならなかったのは、その頃のガメラがさほど好きでなかったというコトもあるし、ましてやジャイガーの怪獣デザインが破綻レベルのブッサイクにも思えた…… ゆえなんだけど、ともあれこたび初めて、観たワケなのだ。

        

 大映の最後の断末魔……、と云っちゃ~気の毒だけども、大映倒産まぎわの作品だ。

 倒産は翌1971年だけど、既に同社内では会社が潰れそうだというのはスタッフ誰もが肌で感じていて、撮影予算もカッツカツ。 

 しかし当時、ほぼ唯一、一定の観客動員が見込めるガメラ映画ゆえ、現場では何とかしようという気骨が前面に立ってはいたようである。

 建造中の博覧会会場でロケもした。場内ではなく、現在の大阪モノレール線あたりからの撮影だったようで、建造中のエア・ドーム球体によるフランス館と清水建設の看板が背景に映ってる。

 が、世界アチャコチャの国家が参入のパビリオンを怪獣が破壊するというのは、リスクがデカすぎた。

 どっかの国から、どっかの企業パビリオンから、訴えでもされたら、オジャン。

 そも、予算がないから万博協会とのタイアップも取れていない。

 東宝は三菱未来館でミニチュア・ワークを含め特撮技術を活かした仕事をやってのけたが、大映は陽のあたる所に出られなかった。

 なのでモンスターが暴れるのは万博会場ではなく、大阪市街なのだった。

             通天閣に向かうジャイガー。もちろん、壊します♥

 

 1970年頃の日本映画は、TVに押されに押され、観客激減。

 大映も日活も青息吐息で、日活はロマンポルノに舵を切り、大映もエロ系な作品にシフトせざるをえなくなってた上に、大映最大のドル箱スター・市川雷蔵の死(1969年7月)で、いき詰まる。

 

 万国博覧会では360度のフル映像やら、スモークをたいてそこに映像をのせるとか、新たな表現としての映像活用に盛大なエネルギーが使われ、観客もそれを大いに堪能した次第ながら、映画館上映の映画は、1970年は最悪どん底の状態なのだった。

 万博で各社家電メーカーは自社パビリオンを設け、広告宣伝にも最大限のチカラをいれた。それでカラーTVの普及も加速し、多くの家庭が月賦(ローンとは当時はいわない)で買った……、のだけど、それゆえ余計、映画館にヒトの足が向かなくなっちまった。

      

           サンヨー館(鯉のぼりが目印だった) 長蛇の列……

            

                        同社の宣伝

 

 そんなさなかで造られたのが、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』なのだった。

 よもや、こんな年齢になって本作に接しようとはゆめゆめ思いもしなかったけど、ともあれ観ちまったのだ。

        

                       当時のポスター

 主人公はエキスポランドで使われる遊戯用潜水艇の設計を仕事とし、下請け工場社長の子供を連れて会場に出入りする。

 一方その頃、南太平洋、赤道直下のウエスター島で発見され発掘された石像が展示物として持ち込み予定となるが、それは地底で眠る魔獣ジャイガーを封じた石像だったから、さ~大変……。

 遊戯用だったハズの潜水艇に乗り込んだ子供が海中に潜ってガメラの体内に入ったり、一施設の設計に携わっているだけの主人公がいつのまにやら博覧会運営者にまざって大きな顔で指示を出したり、ウエスター島の発掘調査をやった外国人博士の子供がいつのまにか大村崑演じる町工場社長の家にいるとか、さ〜さ〜大変奇っ怪の連打……。

                 大村崑が早口な関西弁でいい味を出してた

 

 70年万国博覧会が巨大な目映い光ならば、本作はその日陰の奥で小さく囁いた隠花植物と云ってもいいか。

 花がつかないままに本作は忘れられつつあるけれど、1970年という同じ土俵にあったのはマチガイないし、大横綱たる万博とガップと四つに組もうとしたのは、いい。

 何も壊せずの大惨敗じゃ~あるけれど、チカラを出し切ろうと努めた当時の撮影スタッフ一同には、拍手をおくりたい。

 会社が倒産すれば給料もヘッタクレもないんだけど、妻子抱えて路頭に迷うかもな、その恐怖をこらえてミニチュア造って撮影し1本にまとめたのは賞賛だ。 

 彼らが使ったエネルギー消費は万国博覧会のそれと変わらない。

 ま~、当方の眼では怪獣ジャイガーの姿はまったくカッコよくないし、東宝のそれと較べるとミニチュアの町並みも平坦で、時代の中の棲み分けとしてこの映画は、やはり「暗」の部位に置かれるとも思うけども、観た立ち位置によっては……、わけても当時はじめて怪獣映画に接したのがこの作品だったという子供にとっては、インパクトが尾をひいた「明」としての「大事な映画」というコトになるんじゃなかろうか。

 万博会場近くでのガメラとジャイガー。↑  なんか合成が変。スケールも変。

 手前の人達はどこに立ってるんだろ? 小さ過ぎるソビエト館はベニヤか何かで作ったセットらしきで、もちろん……、壊さない。ガメラは会場敷地内には一歩も入らない。(^_^;)

 

    

 プラモデル・メーカーだった日東科学が販売したキット。ゼンマイで動いたようだ。当時これを買ったヒトが多数だったかどうか、不明……。今はヤフオクで1万ちょっとのプレミアム価格で出品されたりもしてるけど、それが高いのか安いのか、これまた不明。

 されど3000人は見向きもしないけど、1人っくらい、本作に影響を受けたヒトが触手うごかし、買うかも知れないな。過ぎし1970年のメモリアル・グッズとして。

 

 

連休狭間に

 

 5月の連休はどこもかしこもヒトが多く、出来るなら寝て過ごしたい。

 寝正月のように、寝連休が望ましい。

 けど、そうもいかない。1月と違い、5月ともなれば、陽気が勝って温かく、ウチにこもってるのが不健康のような気がしてしまうから不思議……。

 この数年の5月連休は、柔道家の車に乗っかり、福山の友人宅に向かい、友人の亡き妹さんの神前神道なので)に献花し、それから近場のどっかへ、友人交えて出かけるというのを繰り返している。

 当然、ヒト多し。

  人みな集い、群れて同じゅうする。

ガリバー旅行記』にそんな一節があったっけ。

 こたびは5月初日、しまなみ海道をわたり、生口島に降りる。

 終日の

 サイクリング・ロードをカッパからげて駆ける方々はケッコウいるものの、意外や、ヒトも車も多くなく、拍子抜け……。これひとえにゆえか?

 天気がよくってヒトの出が多いと、午前中に売り切れると噂の、しおまち商店街・玉木商店のローストチキンにもありつけ、ラッキ~。

 即座に頬ばる。

 ごく最近に400円から450円にと値上げしたようだけど、すぐに食べると告げると店主さんは食べやすいよう切り分けてくれる。でもボリューム絶大。路上にて大口あけて囓りつく。焦げた表皮と中の柔らかい肉のコントラストが艶やかで舌は大喜び。

   

 

 傘さして耕三寺の広い境内をめぐり、冷んやり空間の地獄トンネル抜けて大観音菩薩像の足元に出て、大理石庭園の「未来心の丘」のテッペンまで昇った頃には、シューズもズブ濡れて重みを増し、かなり不快。

 されど、大理石の丘に幾重と咲いたジャスミン(たぶんハゴロモジャスミンの香りが、不快を解消してくれる。

 開花が早いよう思えるけど、温暖な内海の山の頂きだから、雨でなきゃ〜日光具合と温度具合はサイコ〜なんだろう、と同行の一人がいう。

 前を行く手をつないだカップルは甘く品あるジャスミンの香りに気づいていないようで、大理石ロードをスタスタ歩いてらっしゃる。……もったいない。

 もうチョいっと左側を歩けば、きっと気づくはずなんだけど、惜しいな、損したなぁ、このカップル。

             

 耕三寺の山の頂上、彫刻家・杭谷一東氏の「光明の塔」の足元に立つ。雨に煙っているとはいえ、生口島全域と島々を見下ろせ、眺め壮観。

「大理石のお山の大将、俺一人」という感触を味わう。

 けども、これを英語にしちゃうと、

 General of Marble Mountain, I'm the only one.

“大将”という悪ガキ感がBad Boyではダメなワケで、ジェネラル(将軍)という律儀な単語でしか表せずで、ぅ〜ん、ザンネン。

 英語はアイマイなユーモア含有な下地がないんだ、なっ。

 

 レモンの島たる生口島ゆえ、ポストもイエロー。

 このポストの近くで、カゴいっぱいテンコ盛りのレモンを500円でゲットし、また車上のヒトとかし、移動、大三島にわたる。

                    大三島橋

 雨降り止まず……。

 宮浦の小さな港すぐそばの「よし川」で、海鮮を味わう。

 同店は家族経営&運営で、1時間待っても席につけずの人気スポットらしきだけど、3分と待たずに入店でき、これまたラッキ~。

 ビッグフットは4分でペロリ海鮮丼たいらげ、福山住人は牡蠣唐揚げ定食を30分かけて食べる……

 

 食後に大山祇神社に詣でる。

 ここに来るのは何十年かぶり。

 大山祇と書いてオオヤマヅミと読む漢字の難しさというか難解さに同行者一同で、

「判っからんなぁ。祇って、ギ、以外読めんがなぁ」

 ブ~ブ~、いう。

         樹齢2600年と書かれている、外周200坪越えのでっかい楠の威風

 この神社は日本の山々を崇める神さんの総代。

「祇」とは地の神さんを示す古語であるのは知ってはいるけど、それを何で「ヅミ」と読ませるのか……、釈然としない。

 ほかの使用例もなく、唯一この神社のみ「祇」が「ヅミ」になる不思議。

「日本神話」の伊弉冉尊(いさなみのみこと - 伊弉冉(いざなみのみこ)と結婚した女性)の子供として生まれたのが、山の神たる大山祇命(おおやまのつみのみこと)ながら、「ツミ」に何で濁点ついて「ヅミ」になったのか、そこも不明で……、うむむ、ぉ、お、おもしろい。

 

 鳥居は「一の鳥居」、「二の鳥居」と2つあって、どちらもすぐそばの海に正面向けて建っているから、海神も迎えいれているのは確か。

「海神」と書いて「ワダツミ」と読む。

 ワダツミの「ツミ」との符合として「祇」と書いて山の神を示すと同時に海にも関わっているゆえ、「ヅミ」と、海陸を積み重ねたのかな?

 余談ながら、アカデミー賞とったゴジラ-1.0』での対ゴシラの作戦名は「わだつみ作戦」だったねぇ。

 

 とかとか、思ったりしゃべったりしつつも、とにかく、

「やんでよ、雨……」

 天を仰ぐんだったが、神さん味方せず。

 シューズもソックスもグッショ濡れ。足先冷えび〜え。

 降り止んだのは、帰岡し玄関ドアを解錠した直後。

 あまりのタイミング……。神さんの皮肉な薄笑いがチラリ見えるようで、当方もしゃ〜ない、にが笑う

 

 翌日、晴天……。

 前日の雨中の闊歩ゆえか、右足裏がひきつけ起こし、痛たたった〜ぁ。

 ゆえによ〜よ〜、寝て過ごせた次第。

 

妖怪百物語 -1968年の映画-

 

 久々に観る。

 1968年、学校が春休みだった時に封切りされた映画。江戸時代が舞台。

 千日前の岡山大映文化劇場(今はもうない - 最後の頃は千日前文化シネマ2という名だったかな)で観た。

 マイ・マザ~と弟、ファミリ~で観た最後の映画だったかもしれない。

 小学生の弟は同時上映の『ガメラ対宇宙怪獣パイラス』に興奮したけど、当方はもはや中学生、な~んとはなく、“子供映画”とバカにするような中途半端な年齢になっていた……。       

                       

 ま~、けども、本映画の一部は鮮やかな記憶として残っている。

 吹田の万国博覧会の2年前だな。

 岡山駅前に、博覧会まで後何日……、といった大きな看板というかカウントダウンの装置があったような気がするが、時期確かでない。

       

                    公開時のポスター

 

 すでにTVでは前年10月より『ウルトラセブン』が放送され、1月からは『ゲゲゲの鬼太郎(カラー番組にあらず。モノクロだ)がはじまって、妖怪は怪獣に次いで、ちょっとしたブームだった。

 だからこの映画の初見時でも、登場する妖怪いずれも、な~んとはなく、馴染みがあって怖いモノじゃ~なかった。

 イチバンに怖いのは、悪徳高利貸しの但馬屋が、同じムジナの悪徳奉行宅で百物語の会を主催し、そこに呼ばれた林家正蔵がハナシを語りだすシーンだな。

 江戸時代の初代・林家正蔵を8代目の正蔵(後の彦六)が演じているのだけど、怪談噺で定評だった彼ゆえに、今観返しても凄みがある。

 照明がとても効果的で、さりとて照明と感じさせず、落ち着いた大映カラーというか、淡く濡れたような色彩の中に彼の噺が沈み込むように定着して、凄みに輪がかかる。

 子供の時も、今も、

「うわぁ~、いよいよ始まるぞ……」

 と、ゾクゾクさせられるんだった。

 

 で、怪談というか妖怪が出て来るエピソードにシーンがつながっていくのじゃあるけど、そこはさほど怖いもんじゃない。

 小僧役のルーキー新一と唐傘オバケのくだりなど、むしろヒョウキン感が先行し、オバケ屋敷の滑稽が映画になったような感触で、恐怖感は薄い。

 むしろ、初めて接したカラーの妖怪ゆえ、

「ぁあ、こんな色してるんだっ」

 と、当時はそっちに感心が向いた。

 今観ると、意外なほどにしっかりした時代劇で、悪徳高利貸しが善良な長屋の大家の娘(高田三和)を欲求するあたり、子供映画の造りじゃない。

 で、アレあってコレあって、最終シーンの百鬼夜行の行列が壮観だ。

 この映画の良さがそこに凝縮されているよう、今も思える。

 今眺めると、百鬼に足らず、せいぜい20〜30鬼の乱舞。でも、かつて昔の絵巻のそれが動いているという絵画的情感と躍動があって、味わいが余韻として残るんだ。

 

 しかし、マザ~と弟と3人で観たのは覚えているけど、見終えてどこで何を食べたとか、そういうコトはいっさい記憶にない。

 1968年頃(昭和43年)は、我が宅から千日前に出るにはバスなどなかったから、東岡山駅から岡山駅に出て、そっから路面電車に乗るか、岡山駅前から天満屋までバスに乗るか……、なのだけど、そこも記憶なし。

 不思議なもんじゃね。

 還りみるに、当時は、岡山市街と国道2号線以外はほぼ道路は舗装されていなくって、もちろん、まだ新幹線もない。

 山陽本線沿いの未舗装の道路をおよそ1キロばかし、宅から東岡山駅までを親子3人テクテク歩いて電車に乗ったはずなんだけど、そのテクテクが当たり前だったから苦痛と感じずで、記憶にも残ってない。

 当たり前のコトはあんがい記憶されないんだな……。

 しかし今これを書いてるさなか、あの日、弟は水色っぽい服を着せられていたような記憶が、ホワ~っとわいて来た。

 映画館の暗がりの中、隣席の弟の服が輪郭のない色彩として、わきあがって来た。

 映画『妖怪百物語』も、そう思えば、ストーリーよりも、そのカラーがイチバンに印象されていたような感が、チラリ。

 TVは既にカラー放送がはじまっているけど、カラーTVは圧倒的に高額だから我が家も白黒のそれだったと……、思いなおしてみると、色彩に飢えていた時代だったのかも、知れないな。

 だからそれゆえ、2年後の、吹田での万国博覧会の絢爛たる色彩が激烈に印象されて今に至っているような気が、しないでもない。

 くわえて場内にはどこにも土の気配がない。もちろん樹木もあれば日本庭園もあるんだけど、自分の日常とはかけ離れた「未来空間」の中に自分がいるという感触は、おそらくは上記の通り、まだまだ舗装も進んでいない当時だったからゆえの、“360度すべて非日常的光景”の感動でもあったんだろう。

 真っ赤な尖塔やクンニャリ曲がった家屋が我が宅のそばにも出来るかもという未来待望じゃなく、うちの前の道路もやがて舗装され、泥ハネなんぞが軽減されるだろうなぁといった「日常の不便解消への期待」が吹田万国博覧会には逆巻いていたと……、思う。

 

 ハナシを戻すが、『妖怪百物語』の好きなシーンはといえば、池で鯉を釣ろうとする2人の浪人と、池周辺の佇まいだなぁ。

 草がボ~ボ~に茂った小さな池だけども、今観ると妙に鮮烈で、「土と自然への郷愁」というか、なるほど確かに怪異が起きて当たり前のようなフィールド感が演出されていて、実にまったく絵になっている。

 土地の老人に、「ここで魚をとってはいかん。たたられるぞ」とたしなめられるのを無視し、酒を呑みつつ鯉を一匹釣り上げた2人が、それを肴に場所をかえて一杯やろうと帰りかけると、池から声がする。

「置いてけ~ぇ」

置いてけ~っ

 で、これの説明はいっさいないんだけど、説明がないのがイイね。

 説明できないから怪異なんだから、な。

 2年後の吹田万国博覧会というのは、説明出来る合理で埋め尽くされたのだけども、岡本太郎太陽の塔と母の塔と青春の塔3点のみは、それを拒否したトコロがオモシロイ。

 百物語の池同様に不可解極まった存在として建ったのが、いいのだ。

 アーキテクチャーとかアートといった領域までを粉砕する呪術的表現が、合理を土俵際でうっちゃっている。

 ま~、だからそれゆえか、EXPO’70が終わった5年後にまで、全国の子供達・大人達が博覧会協会・施設処理委員会に向けて投書し続け、

「残してけ~ぇ」

残してけ~っ

 音叉ならぬ怨嗟めいたコダマとして声を響かせ、顔のある塔にエールをおくったワケなのだ。

  

 もっとも、その1975年には、お祭広場大屋根と地下展示室も残っていて、保存可能な状態であったコトを思うと、太陽の塔のみが脚光を浴びて、塔と対峙しつつ共存する大屋根と、塔の意味を強化させた地下迷宮空間が無視されたのは、まっこと……、残念なことだった。

 妖怪はニンゲンがいるからこそ炯々としている存在だけど、太陽の塔もしかりで、大屋根のない太陽の塔は、醍醐味のかなりを失って久しい。

 太陽の塔が見せていた大屋根がもたらす刻々の影とその反映を、今はもう味わうことが出来ない。炎天下に置かれた唐傘オバケ同様に、魅力が失われ……、気の毒でしかない。

大江山酒天童子 -1960年の映画-

 

 この頃は、太陽の塔を含めたEXPO'70あたりを軸に、60年代前後をまさぐって、「その時代」と「今の時代」を天秤にかけて測りみているようなコト、多し。

 懐かしみでなく、違いの中に浮きあがる泡みたいなものが過去の残滓なのか、それとも時代を経た末に現れた光沢ある泡なのか……、そのあたりの消息に、眼が向かうまままに……、そそられている。

 で、こたびは1960年の年末に封切られた映画。

 きっと、派手なシーンが出てくるだろうと見始めた、大映の『大江山酒天童子』。

     

 この映画では酒天としているが、今は通常、酒呑と記す。

 シュテンドウジといえば、安倍晴明花山天皇の信頼を受けて陰陽道の儀式を盛んにやってた頃のハナシ。

 京都近くの丹波国大江山に住む鬼の頭領で、多数の悪鬼を従えて、都の婦女子をさらったり、強盗、暴行、殺傷、悪さの仕放題。

 が、遂に源頼光(みなもとのよりみつ-通称らいこう)に討たれ、首をはねられるという、ま~、誰もが知るハナシ。

 室町時代初期頃に原本となる本が出ているらしいが、例の足柄山育ちのまさかり担いだ金太郎さん源頼光の家来だねぇ。

 本名は坂田金時で、この映画では本郷功次郎が演じてる。

 まさかりを持って立ち回るけど、うむむ……、基本は薪を割るための道具なんだからねぇ、画面でみる限りでは武器としては有用ではないと思えたなぁ。まさかり振り廻すというより、まさかりを軸にニンゲンが振り廻るという感じがしなくはなかった。

 この映画のDVDパッケージはなかなか賑やか、おどろおどろしくて、童子たち VS 頼光たちの派手なチャンバラ合戦となるだろうと予測していたけど、しかし、そうならないんだよ、この映画は。

 上写真は大江山童子らの隠れ家の入場門。でっかい。

 写真では判りにくいが、門の端に小さい滝があって屋敷内に川の流れがあるらしきで、なんだかフランク・ロイドの風雅な現代建築・落水荘(E・カウフマン邸宅)を和のテーストで再構築したようなカッコいい感じを受けたが、その大きな隠れ家で最終シーンとなる。

 鬼(悪党という意味での武装集団)の軍団と帝の命でやって来た頼光の軍団が、小競り合いし、双方対峙するコトはするんだけど、刀を抜いたまま話し合いに移行し、で、酒天童子は自身の組織解体を宣言して戦闘せず、頼光たちもそれをヨシとしてホコを収めるんだから……

「えっ?」

 アッケにとられた。

 まがまがしいコトになると思いきや、LOVE&PEACEへの大転換なのだ。

 長谷川一夫が演じる酒天童子は多数の部下を「仲間にいれてやってくれ」と頼光に預け、ゆるやかな笑顔でもって馬にまたがり野にくだっていくところで「終」となるんだから、

「あんらま~」

 なのだった。

                 長谷川一夫童子

 ま~、そうなる経緯としては、酒天童子の妻(山本富士子)の悲劇があって、その妻を思うがゆえに悪しき童子として山に籠もった男の物語という伏線があるんだけども、観ているコチラは、その結末ゆえに何だかハシゴを外されたような感じもなくはなかった。

 けど……、戦争せずに話しあいで決着したコトに関しては、悪かろうハズがない。

 例の憲法9条が示唆するトコロの非戦の平和主義が、この昭和35年の映画には反映しているような気がしないではなかった。

 逆に大袈裟に還りみると、今はこの映画みたいに、戦わずしてジ・エンドに向かう映画というのは創りにくいというか、観客を呼び込めないタイプの“甘い幻想的理想映画”というトコロに立ち位置が置かれているような感がなくもない。

 が、ともあれ、1960年当時の気分の一部は感じ取れたようには、思える。

                         

 1960年(昭和35年)は、タカラの「ダッコちゃん」が異様なほどに大ヒットした年だけど、日米安全保障条約の締結に反対する運動がピークとなった年だ。

 昭和20年の敗戦以後続いている米軍の駐留継続と、その米軍が攻撃されたら日本の自衛隊は共同で防衛にあたるといった戦争に結びつく義務条約を、東条英機内閣の閣僚だった岸信介首相の内閣が決めたというコトによる大きな不安が反撥となって、大反対運動となる。

        

               1960年6月、国会を取り巻いた大群衆

 

 連日、国会前を埋め尽くした反対の人達を警察だけでは抑止できぬとみて、岸内閣は信じがたいコトにも数万人規模の暴力団員やテキヤまでを動員する。で、暴力での鎮圧と対抗のさなか樺美智子さんの悲劇も起きる……。

 そんな時分に創られた映画がこれだ。

 安保条約が日本にまた戦争をもたらすのではないかという不穏な感触と、2度と戦争はゴメンだという気分が、この映画には色濃く滲んでいるよう、当方にはみえた。

               市川雷蔵演じる源頼光

 

 ちなみに、あんがい知られていないけど、坂田金時のお墓は岡山にある。

 伝承の中の金時は、九州方面の賊を征伐するための移動中、岡山県勝央町にて病いに倒れて没したそうで、勝央町(たいら)に彼は葬られ はるか後年明治になってその場所が栗柄神社となった。

(栗柄 - くりから - 倶利伽羅権現 - くりからごんげん - 剛勇の神さんという意味らしい)

 ま~、実際の人物であったかどうかはかなり不明瞭ではあるけれど、金太郎さんが岡山で没し、今は神社として祀られている……、というハナシはそれはそれでなかなかインパクトがあるような気がしないでもない。

 

 その坂田金時をこの映画で演じた本郷功次郎が、岡山出身、それも表町(上之町)出身というのは伝承や伝説ではなく、事実だ。

 当方が中学生の頃は、大映の『ガメラ』シリーズで馴染みの顔だった。

      

 彼は、亜公園とも縁が濃ゆい光藤亀吉の玄孫(やしゃご)にあたる。

 亜公園がオープンして3ケ月め。明治25年6月に夏目金之助(のちの漱石が岡山にやってきて台風に遭い、その彼を避難誘導させたのが光藤亀吉だった。

 岡山市街はほぼ水没。

 漱石(金之助)は天神山の懸庁もしくは亜公園で2晩ほど過ごした後(旭川のすぐそばだけどこの2ヶ所は水没をまぬがれた)、光藤家の離れ屋敷(当時 - 弓之町126番地)の2階に移動、そこに7〜8日滞在し、水がひいた頃合いで内山下(うちさんげ - 地名・親族の片岡家)に戻ったものの、畳も濡れて寝るところにも不自由でお腹を壊し、赤痢の危険が高いゆえか、旅程をきりあげて松山の子規の元に旅立った。

         岡山逗留直後の夏目金之助岡山市議会議長だった頃の光藤亀吉肖像画

 

 亀吉は明治45年大正元年に没しているから、本郷功次郎にとっても、もうだいぶんと前の血縁という感もなくはないけど、亀吉の子が産んだ子供が亀吉の孫となり、その孫が産んだ子がひ孫で、ひ孫が産んだのが玄孫だから、そう極端に離れているワケでもない。

 なワケで、本郷功次郎の名をきけば、光藤亀吉や亜公園のコトが同時に我が念頭に浮いてしまうのだった。

             本郷演じる坂田金時とヒロイン役中村玉緒

 が、1つ、問題があって、光藤亀吉が没すると、光藤家ではその弟の定吉が2代目亀吉となっており、それゆえ岡山の明治・大正史が書かれた一部の本では2人の亀吉がゴッチャになっていたりする……。

 2人とも当時の岡山の政財界を代表した人物だ。初代亀吉の名は甚九郎稲荷の手水鉢や岡山神社の随神門そばの大きな石碑などに、今もみえる。彼は明治後期の岡山神社の総代でもあった。

 なので本郷功次郎が、初代亀吉(彼は金物商だった光藤家に養子として入ってる)の血縁となるのか、2代目亀吉(初代亀吉が光藤家に迎えられた後に誕生の光藤家の直系)の血縁か、不明というトコロがネックなのでありました。

 

 ま~ま~、ともあれ、『大江山酒呑童子』という映画が1960年に創られ、長谷川一夫山本富士子市川雷蔵勝新太郎本郷功次郎左幸子中村玉緒、などなど絢爛のスター達が、戦争ではなくLOVE&PEACEな方向へと転がっていくのをDVDで眺めて、小さく驚きつつ、

「妙な味わいだったなぁ」

 当時の時代の空気みたいな一部分を、日本社会が右回転じゃなく、左回転だったらしき大気構造の一片を味わった。