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道ゆく人たち

 今度の年末年始は、二人のドイツ人を思い浮かべながらトルコへ向かった。
 一人は皇帝ウエルヘルム2世。イギリスの3C政策に対抗して、ベルリンとビザンチウムバグダッドを鉄道で結ぶ3B政策を打ち出すも世界大戦に敗退して帝国は崩壊。もう一人はハインリッヒ・シュリーマンイリアスで描かれるトロイが現実に存在すると信じて生涯をかけこれを発掘した。今回の旅では、黒い服の男たちを背景に世界中のテレビに出るわけにはいかないのでバグダットは断念し、ベルリンからイスタンブールまで鉄道に乗った。そして大晦日はチャナッカレを基点にトロイ観光をした。
 起点と終点の航空券だけ購入して、あとは風の向くまま気の向くままというのが私の旅のスタイルだから、トロイへ行くのもいいかと思いついたのは往路の飛行機の中でのことだった。正直なところ、この選択が良かったのかは分からない。遺跡そのものは30分あれば見終わるような小さなものだったのに実質2日間も費やしてしまっており、それくらいならベオグラードとソフィアに一泊づつ割いたほうが良かったのかもしれないと思うからだ。とはいえトロイの丘でホメロスと心を通わせ、その心の営みをもってシュリーマンと心を通わせることは、やはりトロイでしかできない。それゆえにこそ、トロイの2時間は私にとって宝物になるだろうし、行き損ねた場所に未練を残すのもまた放浪の旅の醍醐味である。
 ベルリンを出てからはプラハとウィーンに泊まってブタベストへ向かったが、例によって中欧世界遺産の町並みはどこも同じように見えてあまり惹かれなかった。しかし、プラチスラバで米エール大学の院生だという韓国人の女の子と知り合ったり、電車が大幅に遅れたりして、真夜中にブタベストに着いたあたりから旅が面白くなってきた。冬の夜に両替もできず走って城や町並みを回ったりしながら、ふと気がついたのは、日本人に近い顔立ちの人の何と多いことか。マジャール人は混血が進んで匈奴の面影がなくなったというのが私の教科書での理解だったが、必ずしもそれが絶対的なものではないと感じた。
 ブタベストからイスタンブールまで2泊の電車で一気に駆け抜けることを選択したのはトロイのためでもあったが、列車が日一本しかないので柔軟の調整をできなかったためでもある。しかし、そういう不便さは、あまり外国人を見かけることの多くない地元の人と仲良くなるためには、むしろいいことなのかもしれない。ニーシで乗車した英語も話せない彼らとのウオッカを手にしてのコミュニケーションは、なかなか楽しいものだった。酔っ払っていくうちに、どうやらセルビア語はロシア語にかなり近い言語らしいということに思いが到り、知っている数少ないロシア語を使ってみると随分と喜ばれた。
 最近思っていることであり、今回の旅でより意識させられたのは、旅の本質が人との出会いだということ。旅の中では地元の人との会話があり、一人旅同士の会話がある。メールアドレスを交換することはあっても、旅が終わってからも関係が続くことはなく、いつも一期一会ということを意識している。また、同じ場所に立って心を通わせることができる歴史上の人も旅の大切なパートナーである。そういうことを思うと、パックツアーで効率的に世界遺産を回って……などということはますますできなくなってしまう。

本の楽しみ

 芥川賞の候補作が発表されてから図書館でコピーした候補作を読み、受賞作が発表されるまでの間に私なりの選考をするのが、このページにおけるこれまでの大きな楽しみであった。しかし、中央図書館を含めた札幌市立図書館では予算減少を理由として数年前から文芸雑誌の購入を中止しており、北海道大学図書館でも在庫管理の省力化のつもりなのだろうか年明け早々に前年の雑誌を製本に出してしまうため、この時期は書架の裏側は空っぽになっている。つい数年前、江差にいたときでも、文化センターに間借りしている小さな町立図書館が、北広島市の図書館から在庫を取り寄せてくれるなどして私に選評の機会を与えてくれたのだが、今は何という変わりようだろうか。
 それで年二度のお祭り騒ぎもできなくなったわけなのだが、ひとこと言わせてもらうと、市民に対して月刊誌すら提供できないのは行政の怠慢である。単行本であれば、各自が自分の興味に合わせて買えばいいのであるから、むしろ書店などの市場に供給を委ねてもよいのかと思うけれど、月刊誌の場合、特定の冊子に個人の特定の興味が毎号継続的に掲載されるわけではなく、そうでありながら買うのであればつまみ食いではなく継続的な購入が必要になる。他方で、一人が擦り切れるまで読むという性質のものではないから、不特定多数による共有の利点も大きい。そういう特性のある月刊誌こそが公共の担い手である図書館が真っ先に市民に提供すべきものであると思うから、私のささやかな楽しみを奪った市の文化行政の不見識に怒りを覚える。

 それはそうと、私は十年くらい前から「百冊読書」を自らに課している。ジャンルや文字量を問わず、何でもいいから一年間に百冊以上の本を読むということなのだが、十年たつから、21世紀に入ってから千冊は超えただろう。百冊はあくまで目安だから、一昨年の「ローマ人の物語」などのように年の後半に巻数の多い文庫にめぐり合う年は百五十冊になることもある。逆に昨年のように洋書を何冊も読むと、洋書に和書の十倍の時間とエネルギーを要する私の英語力では、読んだ満足感に相違して百冊ギリギリということになる。もちろん冊数が目的というわけではないから、できるだけそのとき読んで楽しそうな本を手に取るようにしている。
 毎日もっとも確実に読書の時間が取れるのは通勤時間だろう。電車の中だけでなく、雨で本が濡れる日や交差点でなければ、歩行中も本を読むことができる。よく人にぶつからないか聞かれることがあるが、毎日同じ道を通っているから、その懸念はない。

 タイムリーということではインターネットには及ばないとしても、書籍は人間にとって抜きん出た情報源であり、奥の深い娯楽でもある。ローマ皇帝が市民にパンを保障したように、もう少し社会全体が、本を大切にする文化を作っていけたらと思うのだが。

魚の天地

 私が生まれ育った富山では、鰤(ブリ)をよく食べる。大根と一緒に味噌で煮込む鰤大根は私にとって定番の魚料理であったし、米の変わりにカブラを用いるかぶら寿司もよく口にした。フクラギから出世した鰤は脂が乗り切っており、これに匹敵する魚はないというのが、小学生の頃の私の常識であった。
 仙台の中学校に転校し、初めての太平洋側で驚いたのが秋刀魚の味であった。富山のスーパーに置いてある秋刀魚は脂の落ちたものばかりだったので、秋刀魚はそういう魚だと思っていた。ところが仙台の秋刀魚は脂が乗っており、逆に鰤は耐え難いような食感だった。日本海側の街でも太平洋側の街でも同じ名前の食材を口にすることができるのに、その魚はこれほどまでに違うものかと衝撃を受けた。
 札幌の大学に入学したとき、仙台の経験があったから鰤を味わうのは諦めていたし、北海道の地の魚には大いに期待したのだが、その期待は大体において裏切られることはなかった。大学時代に安い居酒屋でいつも突付いていたホッケ、江差へ赴任してはじめてその透明な弾力を知った烏賊、カズノコがない方がむしろ身は美味しい鰊など枚挙に暇はないが、やはり一つ選ばなければならないならば、やはり鮭を挙げるべきであろう。
 鮭のイメージを悪くしていたのは缶詰の鮭フレークではないかと、今になって私は思う。缶詰であるためには均一な味でなければならないのだろうし、その必要により脂が抜かれているようでもあるのだが、それにしても魚肉ソーゼージに対するのと同様な冷淡さしか鮭には持つことができなかった。それが一変したのは、毎月小旅行をするという素敵な演習(一応は地理学2単位)のおかげ。4月は石狩浜で鮭の歴史を学び、6月は小樽でチャンチャン焼きを楽しんだ。そういう思い出と相まって、北海道の鮭のほとぼしる脂は、鮭フレークとは全く別物に昇華していった。
 富山、仙台、札幌、江差。わずか4都市だけでも、これほどに魚の味が違うのは、漁業が農業と異なり、自然にあるものを獲るという営みだからなのであろう。そして地理的な相違だけではなく、季節的な相違、旬ということも魚において重要となる。魚ごとに旬が異なり、その旬の味覚を味わいたいということは異論を待たないのだが、鳥瞰してみると夏が旬の魚は少数派であり、冬が旬の魚が多数派となる。
 畑の作物がめっきり減る冬。代わりといってはなんだが、冬の魚をこれからの季節、ぜひ味わってみたいものである。

スポーツの秋・読書の秋

 人に仕事のないときはいつも何をしているかと聞かれると、一週間を振り返り、われながらマンネリ化していることに呆れてしまう。「語学の勉強」という名目でひたすら海外ドラマを楽しんでいるだけなのだ。
 たしかに私の現在の中国語と英語の語学力は、海外ドラマなくしては有り得なかったものだし、次は韓流に手を出すことも検討しているなど、今後も延々と見続けることになるだろうが、しかしものには程度がある。そう思っていたこの秋、コナミスポーツクラブへ通い始めた。
 コナミが私の職場と提携している関係で、実は3年前の冬にも通っていたことはある。しかし夏が近づく頃、高い会費を払わなくとも暖かければ運動くらい一人でできると考え、退会した。しかし運動できるということと、実際に運動するということは別物で、減少しかけていた私の皮下脂肪は再び増加に転じて年々厚くなっていくということになってしまった。経済合理性を追求したい私の性向からすれば全く不本意なのだが、高い会費ゆえに勿体ないという感情が働き、それゆえにジムに通ってしまうという心理的な要素があることも否定することはできない。
 通い始めた当初は、水泳が主だった。折角なら体を動かすついでに泳法でも身につけたいと思ったのと、全身運動なのと、水着なら荷物が少なくて済むというのが動機だったのだが、今は延々とバイクをこいでいることが多い。バイクの利点は、こぎながら本が読めるということ。私は百冊読書と銘打って一年間に百冊の本を読むことをこころがけているけれど、体を動かしている時間も活字を追えば、体と脳に一石二鳥、得をした気分になれる。
 どんな本を読んでいるかって?多読を旨とするのでジャンルに拘りはないが、今は珍しく推理小説を重ねている。平成期の日本推理作家協会賞受賞作という縛りをかけてみたのだが、純文学志向の強い私としても、ついつい引き込まれる作品は多い。賞で縛りをかけること自体、自分の感性で作品を選べないのかという向きがあるだろうというのは承知の上だが、より多くの一流作家の作品に触れるためには効率的であり、やむをえないだろう。まぁ、テレビドラマの台本としてはいいのだろうと思いつつ全く興味をそそられなかった作品もあったけれど。
 そしてスポーツと読書の秋はいつのまにか暮れていき、いつしか冬に変わる。これからの季節も一層、スポーツや読書を楽しみたいものである。

ラーメンと蕎麦

 北海道の名物といえばカニジンギスカンそれにラーメンあたりをイメージする人が多いのだろうか。しかし、カニは地元でもそうそう食べるものではないし、寒さに弱い羊は畜産のさかんな北海道ではあるけど不得手な食肉の一つである。
 ご飯に味噌汁という合わせものを新天地風のこだわらなさでアレンジした札幌味噌ラーメンは、特に凍てつく冬場には、北海道の風土を体現しているともいえるが、その食材にはやはりヨソ者の感がある。麺の小麦も、味噌やモヤシの大豆も道内で生産できるものなのだが、観光ずれしすぎており、既にどさんこではなく、観光客の食べ物になっている感があるのだ。
 ただ、すすきのラーメン横丁が賑やかだった時代とは異なり、駅エスタ10階のラーメン共和国には新たな息吹も感じられる。道内の名店を集めてしかも定期的に店舗を入れ替えているから、札幌ラーメンだけではなくこんなにもバラエティーに富んだラーメンがあることを思い知らされる。私としては、醤油ラーメンがこれほど美味しいものであるとは知らなかった。醤油はインスタント麺の味付けに容易に使われてしまい、それが軽薄な印象を与えてしまうのであるが、魚醤の深さはチャーシューを超えるし、旭川の蜂屋などは味噌よりもコクがあったりする店の一つだ。
 ラーメンといえば残念な思い出があるのは中標津。酪農地帯の中標津ミルクラーメンなるものがあると聞いていたから、二度続きの出張の際にぜひ食べてみようと思っていた。しかし、一度目は町中の店舗が全て定休日になる火曜日にぶちあたってしまい、日帰りだった二度目は業務が立て込んでおり碌に昼食をとる時間もなかった。別に、ミルクラーメンが美味しいと思っているわけではない。しかし、バターラーメンがあるならばミルクラーメンがあってもよいのであり、想像するほど気持ちの悪いものではないと思うのだ。そういうラーメンが辺境の地にあるのであれば人生で一度くらいは賞味してみたかったということなのだが。
 麺類の中でも、北海道が蕎麦の名産地であることはあまり知られていない。全国の市町村別の蕎麦生産量では、1位が幌加内町、2位が深川市、3位が旭川市となる。要点は、どれも道内だということではなくこの二市一町が隣接しているということ。石狩川中流域にある寒暖の差著しいごく限られた地域が、日本の蕎麦の生産を支えている。
 深川に近い旭川の江丹別がこの地域の核になるのであり、以前、旭川で江丹別蕎麦を食べさせる古い店に連れて行ってもらったことがあるのだが、情けないことに私が頼んだのは天ぷら蕎麦。われながら、掛け蕎麦ともざる蕎麦とも言わなかった愚かしさ。
 好きに蕎麦屋となると話はさらに北へ飛ぶ。天北線稚内へ向かう途上の音威子府という人口千人弱の村があるのだが、ここの駅蕎麦が美味しい。蕎麦の色が黒いのは栄養あれど味覚なしとして敬遠される皮の部分を使っているのだが、ここの蕎麦は不思議なほどアクを感じない。そして掛け蕎麦のあっさりした汁に蕎麦の強い香りが溶け込んだとき、それは大平原にどこまでも広がる蕎麦の畑を想起させてくれる。

 その土地ならではの美味しいものを食べる。麺類のような日常的なものであっても、そのことでより旅や地域とのつながりを楽しめるようになるのだと思う。

とらべるとらぶる

 私の一番の趣味は年に一二度の海外旅行なのだが、一人旅ということもありこれまでにいろいろな事故に巻き込まれてきた。
 インドでは(2003年)激しい食中毒に悩まされた。今思えば、ガヤの屋台で飲んだサトウキビジュースがまずかったのだと思う。ジュースはフレッシュでも入っていた氷は生水からできていたのだから。亜大陸一週の旅も後半は冷房の効いた夜行列車で下痢を悪化させる悲惨なものでデリーへ帰還してそのまま通院することになった。たどたどしい英語で症状を説明した後に点滴をし、その間、便の色は紫になったり緑になったり閉口させられた。
 中国の西安では(2008年)スリにあった。上海からの夜行列車で西安に入ったのだが、どうやら日本人というよりは、国内経済格差により沿岸部から来る人が狙われるらしい。バスの切符売場の人ごみでやられてしまったのだが、盗難届やクレジットカードの停止手続きなどすみやかにでき被害は少額で済んだ。
 モロッコでは(2009年)警官から出国を拒否された。英語しかできない私とフランス語やスペイン語しかできない警官の行き違いだったのだが、日本大使館から電話をかけてもらい、何とかヨーロッパ大陸への船に乗ることができた。
 しかし何といっても強烈な(生涯忘れることのできない)トラブルは、フランスのパリで(2004年)睡眠薬強盗に遭ったことだろう。日本から到着した翌日、時差で目が冴えていた私はまだ真っ暗なのに街を徘徊していたところ、自称ブラジル人旅行者だという中年女に始発列車まで一緒に喫茶店で時間をつぶそうともちかけられた。うかうかとついていって紅茶を飲んでいたところ意識が遠くなり、気がついた時には昼近くになっていた。そして現金はまったくなし。
 途方にくれて街を歩いて、夕方くらいに警察署へたどりついた。警察署では、日本語のできる警官が明日出勤するから今日はここで泊まっていけと言われて案内されたのは拘置所のような柵のあるスペース。明かりもつけられたまま布団もなしで一晩を明かした。そしてその翌日、日本大使館で両親に国際電話で状況を伝えて送金してもらい、旅をつづけたのだった。睡眠薬を飲まされた時点で全く無防備になっていたのであり、命も悪人の手中にあったことを思えばゾッとするし、現金の他、パスポートなども残しておいてくれたことには謝意すら感じてしまう。

 旅のトラブル、とりわけパリでの睡眠薬強盗のような事件には二度と巻き込まれたくないし、旅行中はいつもそのことを心に置いている。しかし、これらの事件が私という人間の判断力に大きく寄与したという事実もまた認めざるをえまい。