古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」読了

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

図書館から。
ネットでタイトルをちらりと見て借りてみた。
どうも古川日出男にはヤられちゃうみたいである。
前回の「ロックンロール…」と比べると格段に読みやすく感じて、今回は文庫版にしたこともあってか、サクサク楽に読み終わってしまった。
やはりあれだけの大部を単行本で持ち歩き、車中で立ったまま読むのはつらい。
さて、では何を受け止めるべきなのか、についてはこれからよく考えることにする。
今度は「聖家族」に手を出してみる。

ティム・スペクター「双子の遺伝子−「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける」読了

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

図書館から。
エピジェネティクス」で紹介されていた本。
こちらは難しいことは一切書かず、多くの事例を整理して並べて章立てしてあり、とてもわかりやすい読み物になっている。
一卵性双生児は遺伝子的にはまったく同じである。
一般人としては、そうであれば少なくとも肉体的にはほぼ同一、身体能力とか病気耐性も同じではないか、ややもすると「不思議な共感」みたいな能力を持っているのではないか、というようなイメージを持ちがちだ。
しかし、研究者の間では「双子なのに違う」というのは常識で、遺伝子が同じなのになぜ違うのか、というところからいろいろなことがわかってくる、というお話。
基本的には「エピジェネティクス」と同じくメチル化とかヒストン修飾ということになるのだが、その機序となるともっと複雑で、父母、祖父母の環境、嗜好や性癖なども子や孫に影響を与えるという、いわゆる「獲得形質」の遺伝についても興味深く読んだ。
新たな知見で蒙を啓かれ、真摯に取り組むことによりさらに新たな地平に到達する、という科学的立場をきちんとベースにしながら、面白く読むことのできる一冊。

仲野徹「エピジェネティクス−新しい生命像をえがく」読了

図書館から。
毎日新聞の書評欄で気になって借りてみた。
わかりやすく書いてあるようで、けっこう専門用語も多く、理解するのに苦労しながら読んだ。
DNA、ゲノム、遺伝子というものが生物のおおかたを決定付けていて、例えば癌だとか他の疾病などに関わる遺伝子があればほぼ確実にそこから逃れられないのだと思っていたものだけれど、どうもそうではないらしい。
メチル化だとかヒストン修飾だとか何やらそんなものがDNAで蠢くことにより遺伝子の発現が制御され、同じ遺伝子を持ったものでも相違が生じるという。
推測としてはラマルクやダーウィンあたりからもあったものが、近年になって分子レベルで確認ができるようになり遺伝子観、進化観もずいぶんと変わってきたもののようだ。
まだまだ知らないことはたくさんあるのだと、改めて感じた一冊。

各紙の社説

社説「歯止めは国民がかける」(2014/7/2 毎日新聞)

第一次世界大戦の開戦から今月で100年。欧州列強間の戦争に、日本は日英同盟を根拠にした英国の要請に応じて参戦した。中国にあるドイツ権益を奪い、対中侵略の端緒としたのである。
その後の歴史は、一続きの流れの中だ。資源確保のため南部仏印に進駐し、対日石油禁輸で自暴自棄になった日本は、太平洋戦争に突入する。開戦の詔書には、「自存自衛のため」とあった。
集団的自衛権を行使可能にする憲法解釈の変更が、閣議決定された。行使の条件には「明白な危険」などと並び、「我が国の存立」という言葉が2度、出てくる。
いかようにでも解釈できる言葉である。遠い地の戦争での米国の軍事的劣勢も、イラクなど中東情勢の混乱も、日米同盟の威信低下や国際秩序の揺らぎが「我が国の存立」にかかわると、時の政権は考えるかもしれない。
「国の存立」が自在に解釈され、その名の下に他国の戦争への参加を正当化することは、あってはならない。同盟の約束から参戦し、「自存自衛」を叫んで滅んだ大正、昭和の戦争の過ちを、繰り返すことになるからだ。
むろん、歴史は同じように歩みはしない。あの戦争は国際的孤立の果てであり、今は日米同盟が基盤にある。孤立を避け、米国に「見捨てられないため」に集団的自衛権を行使するのだと、政府の関係者は説明してきた。
だがそれは、米国の要請に応じることで「国の存立」を全うする、という道につながる。日本を「普通の国」にするのではなく、米国の安全と日本の安全を密接不可分とする「特別な関係」の国にすることを意味しよう。
米国と「特別な関係」と呼ばれるのは英国だ。
その英国は、イラク戦争参戦の傷が癒えず、政治指導者の責任追及の声がやまない。イラク戦争を支持した反省と総括もないまま、米国に「見捨てられないため」集団的自衛権を行使するという日本の政治に、米国の間違った戦争とは一線を画す自制を望むことは、困難である。
ならばこそ、シビリアンコントロール文民統制)の本来のあり方を、考え直すことが必要ではないか。
文民統制は、軍の暴走を防ぐため政治や行政の優位を定めた近代民主国家の原則だ。だが、政治もしばしば暴走する。それを抑え、自制を課してきたのが憲法9条の縛りだった。縛りが外れた文民統制は、ただの政治家、官僚による統制にすぎない。
閣議決定で行使を容認したのは、国民の権利としての集団的自衛権であって、政治家や官僚の権利ではない。歯止めをかけるのも、国民だ。私たちの民主主義が試されるのはこれからである。



社説「集団的自衛権の容認 この暴挙を超えて」(2014/7/2 朝日新聞)

戦後日本が70年近くかけて築いてきた民主主義が、こうもあっさり踏みにじられるものか。
安倍首相が検討を表明してからわずかひと月半。集団的自衛権の行使を認める閣議決定までの経緯を振り返ると、そう思わざるを得ない。
法治国家としてとるべき憲法改正の手続きを省き、結論ありきの内輪の議論で押し切った過程は、目を疑うばかりだ。
解釈改憲そのもの
「東アジアで抑止力を高めるには集団的自衛権を認めた方がいい」「PKOで他国軍を助けられないとは信じがたい」
一連の議論のさなかで、欧米の識者や外交官から、こうした声を聞かされた。
だが、日本国憲法には9条がある。戦争への反省から自らの軍備にはめてきたタガである。占領政策に由来するとはいえ、欧米の軍事常識からすれば、不合理な制約と映るのだろう。
自衛隊がPKOなどで海外に出ていくようになり、国際社会からの要請との間で折り合いをつけるのが難しくなってきていることは否定しない。
それでも日本は9条を維持してきた。「不戦の国」への自らの誓いであり、アジアの国々をはじめ国際社会への宣言でもあるからだ。「改めるべきだ」という声はあっても、それは多数にはなっていない。
その大きな壁を、安倍政権は虚を突くように脇からすり抜けようとしている。
9条と安全保障の現実との溝が、もはや放置できないほど深まったというなら、国民合意をつくった上で埋めていく。それが政治の役割だ。その手続きは憲法96条に明記されている。
閣議決定は、「できない」と政府が繰り返してきたことを「できる」ことにする、クロをシロと言いくるめるような転換だ。まごうことなき「解釈改憲」である。
憲法の基本原理の一つである平和主義の根幹を、一握りの政治家だけで曲げてしまっていいはずがない。日本政治にとって極めて危険な前例になる。
自民党憲法改正草案とその解説には「公益及び公の秩序」が人権を制約することもありうると書いてある。多くの学者や法律家らが、個人の権利より国益が優先されることになると懸念する点だ。
極端な解釈変更が許されるなら、基本的人権すら有名無実にされかねない。個人の多様な価値観を認め、権力を縛る憲法が、その本質を失う。
自衛隊送り出す覚悟
安倍政権による安全保障政策の見直しや外交が、現実に即しているともいえない。
日本がまず警戒しなければならないのは、核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威だ。
朝鮮半島有事を想定した米軍との連携は必要だとしても、有事を防ぐには韓国や中国との協調が欠かせない。しかし両国との関係が冷え切ったまま、この閣議決定がより厳しい対立を招くという矛盾。
尖閣諸島周辺の緊張にしても、集団的自衛権は直接には関係しない。むしろ海上保安庁の権限を強めることが先との声が自衛隊の中にもあるのに、満足な議論はなされなかった。
集団的自衛権の行使とは、他国への武力攻撃に対し自衛隊が武力で反撃することだ。
それは、自衛隊が「自衛」隊ではなくなることを意味する。くしくもきのう創設60年を迎えたその歴史を通じても、最も大きな変化だ。
自衛隊は日本を守るために戦う。海外で武力は使わない。そんな「日本の常識」を覆すに足る議論がなされたという納得感は、国民にはない。
つまり、自衛隊員を海外の、殺し、殺されるという状況に送り込む覚悟が政治家にも国民にもできているとはいいがたい。
それは、密室での与党協議ではなく、国会のオープンな議論と専門家らによる十分な論争、そして国民投票での了承をへることなしにはあり得ない。
安倍政権はそこから逃げた。
首相はきのうの記者会見でも、「国民の命を守るべき責任がある」と強調した。
だが、責任があるからといって、憲法を実質的に変えてしまってもいいという理由にはならない。国民も、そこは見過ごすべきではない。
■9条は死んでいない
解釈は変更されても、9条は憲法の中に生きている。閣議決定がされても、自衛隊法はじめ関連法の改正や新たな法制定がない限り、自衛隊に新たな任務を課すことはできない。
議論の主舞台は、いまさらではあるが、国会に移る。ここでは与党協議で見られたような玉虫色の決着は許されない。
この政権の暴挙を、はね返すことができるかどうか。
国会論戦に臨む野党ばかりではない。草の根の異議申し立てやメディアも含めた、日本の民主主義そのものが、いま、ここから問われる。



社説「7・1官邸前―主権者が動き始める」(2014/7/3 朝日新聞)

「戦争反対 生きたい」。黒いペンで手書きした段ボールを持った男子高校生。「憲法壊すな」。体をくの字に折って、おなかから声を出す女子中学生のグループ。プラカードを掲げる若い女性の爪は、ネオンピンクに白の水玉。赤い鉢巻き、組織旗を持った集団の脇で、父親に抱っこされた幼児はぐったりとして。年配の参加者は、もはや立錐(りっすい)の余地もない前方を避け、下流の壁沿いに静かに腰を下ろす。作業着、ネクタイ、金髪、白髪、リュックサック、高級ブランドバッグ。地下鉄の出入り口からどんどん人が吐き出されてくる。
安倍内閣集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした当日と前夜。首相官邸前で「超緊急抗議」が行われ、それぞれ約1万人(主催者)が集まった。
若い世代が目立つ。「国民なめんな」「戦争させんな」を速いリズムにのせてコールし、年長者を引っ張っているのは大学生のグループ。デモに参加するのは初めて、ツイッターで知った、一人で来た、都外から来たという人も少なくない。主催者側によると「官邸前にはどうやって行けばいいのか」と多くの問い合わせがあったという。
「NO」と言わなければ「YES」に加担したことになる。戦場に行かされるのがこわい。「頭数」になるぐらいしか、今できることはないから――。多様な思いを胸に集まった人たちが、官邸に向けて声をあげた。
一方、官邸の主の記者会見は、棒読みのように始まった。「いかなる事態にあっても国民の命と平和な暮らしは守り抜いていく」。左横には、5月の会見でも用いられた、赤ちゃんを抱いた母親と不安そうな表情の子どもの絵。「非現実的だ」「情緒的に過ぎる」と強い批判を浴びたことを首相や周辺が知らないはずがない。それを再び使ったのは、批判に耳を傾けるつもりはないという意思表明だろう。説明も説得も放棄し、「思えません」「誤解があります」「あり得ない」と、気だるい感じで繰り返した。
「首相の言動がどんどん火に油を注いでいる状態です」。抗議の主催者のひとりは言う。2日間で最も多く叫ばれたコールのひとつは、「安倍は辞めろ」だ。官邸前で、これだけの規模で、公然と首相退陣を求める声があがるのは極めて異例のことだろう。
なるほど。安倍首相はこの国の民主主義を踏みつけにした。しかし、踏まれたら痛いということを主権者は知った。足をどけろと声をあげ始めている。



社説「9条破棄に等しい暴挙 集団的自衛権容認」(2014/7/2 東京新聞)

政府がきのう閣議決定した「集団的自衛権の行使」容認は、海外での武力の行使を禁じた憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ。
再登板後の安倍晋三首相は、安全保障政策の抜本的な転換を進めてきた。政府の憲法解釈を変更する今回の閣議決定は一つの到達点なのだろう。
特に、国会の「ねじれ」状態解消後の動きは速かった。
昨年暮れには、外交・安保に関する首相官邸の司令塔機能を強化する国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法も成立させた。外交・安保の基本方針を示す国家安全保障戦略も初めて策定した。
◆軍事的な役割を拡大
今年に入って、原則禁じてきた武器輸出を一転拡大する新しい三原則を決定。今回の閣議決定を経て、年内には「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)も見直され、自衛隊と米軍の新しい役割分担に合意する段取りだ。
安倍内閣は安保政策見直しの背景に、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発などアジア・太平洋地域の情勢変化を挙げる。
しかし、それ以上に、憲法改正を目標に掲げ、「強い日本」を目指す首相の意向が強く働いていることは否定できない。
安保政策見直しは、いずれも自衛隊の軍事的役割と活動領域の拡大につながっている。
その先にあるのは、憲法九条の下、必要最小限度の実力しか持たず、通常の「軍隊」とは違うとされてきた自衛隊の「国軍」化であり、違憲とされてきた「海外での武力の行使」の拡大だろう。
一連の動きは、いずれ実現を目指す憲法改正を先取りし、自衛隊活動に厳しい制限を課してきた九条を骨抜きにするものだ。このことが見過ごされてはならない。
◆現実感が乏しい議論
安保政策見直しが、日本の平和と安全を守り、国民の命や暮らしを守るために必要不可欠なら、国民の「理解」も進んだはずだが、そうなっていないのが現実だ。
共同通信社が六月下旬に実施した全国電世論調査では「集団的自衛権の行使」容認への反対は55・4%と半数を超えている。無視し得ない数字である。
政府・与党内の議論が大詰めになっても国民の胸にすとんと落ちないのは、議論自体に現実感が乏しかったからではないか。
象徴的なのは、政府が集団的自衛権の行使などが必要な例として挙げた十五事例である。
首相がきのうの記者会見で重ねて例示した、紛争地から避難する邦人を輸送する米艦艇の防護は、当初から現実離れした極端な例と指摘され、米国に向かう弾道ミサイルは迎撃しようにも、撃ち落とす能力がそもそもない。
自民、公明両党だけの「密室」協議では、こうした事例の現実性は結局、問われず、「海外での武力の行使」を認める「解釈改憲」の技法だけが話し合われた。
政府の憲法解釈を変える「結論ありき」であり、与党協議も十五事例も、そのための舞台装置や小道具にすぎなかったのだ。
政府自身が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使や、海外での武力の行使を一転して認めることは、先の大戦の反省に立った専守防衛政策の抜本的な見直しだ。
正規の改正手続きを経て、国民に判断を委ねるのならまだしも、一内閣の解釈変更で行われたことは、憲法によって権力を縛る立憲主義の否定にほかならない。
繰り返し指摘してきた通りではあるが、それを阻止できなかったことには、忸怩(じくじ)たる思いがある。
ただ、安倍内閣による安保政策見直しの動きが、外交・防衛問題をわたしたち国民自身の問題としてとらえる機会になったことは、前向きに受け止めたい。
終戦から七十年近くがたって、戦争経験世代は少数派になった。戦争の悲惨さや教訓を受け継ぐのは、容易な作業ではない。
その中で例えば、首相官邸前をはじめ全国で多くの人たちが集団的自衛権の行使容認に抗議し、若い人たちの参加も少なくない。
抗議活動に直接は参加しなくても、戦争や日本の進むべき道について深く考えることが、政権の暴走を防ぎ、わたしたち自身の命や暮らしを守ることになる。
◆国会は気概を見せよ
自衛隊が実際に海外で武力が行使できるようになるには法整備が必要だ。早ければ秋に召集予定の臨時国会に法案が提出される。
そのときこそ国権の最高機関たる国会の出番である。政府に唯々諾々と従うだけの国会なら存在意義はない。与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい。
その議員を選ぶのは、わたしたち有権者自身である。閣議決定を機に、あらためて確認したい。



社説「安保関連法整備 平和主義の逸脱許さぬ」(2014/7/3 東京新聞)

政府が「集団的自衛権の行使」を容認したとはいえ、憲法の平和主義からの逸脱は許されない。自衛隊活動を拡大するための関連法整備が守るべき一線を越えるのなら、とても認められない。
集団的自衛権の行使を認める閣議決定を受けて、政府は関連法案を準備する作業チームを国家安全保障会議内と防衛省に設置した。法案化に向けた作業を急ぎ、今秋に召集を予定する臨時国会以降、準備できた法案から順次、提出する方針だ、という。
政府が自らの憲法解釈の変更を閣議決定したからといって、直ちに集団的自衛権を行使できるようになるわけではない。自衛隊が実際に活動するには、根拠法を国会で成立させる必要があるからだ。
行使容認に伴い、政府が改正を想定する法律は、自衛隊法や周辺事態法、国連平和維持活動(PKO)協力法など十本以上に上る。
法案は提出前、自民、公明両党の事前審査を経るだろう。その際、立法者の目で精査してほしい。戦後日本が歩んできた平和主義の道から外れてはいまいか、と。
「自存自衛」を掲げて派兵した先の大戦の反省に立つ平和主義の根幹は「海外での武力の行使」をしないということに尽きる。
集団的自衛権に基づいて他国同士の戦争に参戦すれば、それが「個別的自衛権に匹敵する事態」(山口那津男公明党代表)だったとしても日本は敵国とみなされるだろう。自衛隊も攻撃されて交戦状態に入れば、双方に戦死者を出す。
それでも「専守防衛は全く変わらない」と強弁できるのか。
安倍晋三首相は会見で「武力行使が許されるのは自衛のための必要最小限度でなければならない。従来の憲法解釈と基本的な考え方は何ら変わらない」と話した。
ならばなぜ、集団的自衛権行使の可否をめぐり、全く逆の結論が出てくるのか。理解に苦しむ。
政府の今回の解釈変更は、許容される自衛の措置の限界を示したそうだが、私たちは平和主義の限界をはるかに超えたと考える。
与野党は、七月中旬以降、衆参両院の予算委員会でそれぞれ、首相も出席して集中審議を行う方向で協議している。
政府が、一内閣の閣議決定で長年積み重ねた憲法解釈を変えてしまおうとするなら、それをまず止められるのは国会である。
限界を超えた法案なら政府に再考を促すか、自ら廃案、修正に動くべきだ。それこそが国権の最高機関としての見識ではないか。



社説「集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」」(2014/7/2 読売新聞)

米国など国際社会との連携を強化し、日本の平和と安全をより確かなものにするうえで、歴史的な意義があろう。
政府が、集団的自衛権の行使を限定的に容認する新たな政府見解を閣議決定した。
安倍首相は記者会見で、「平和国家としての歩みを、さらに力強いものにする。国民の命と暮らしを守るため、切れ目のない安全保障法制を整備する」と語った。
行使容認に前向きな自民党と、慎重な公明党の立場は当初、隔たっていたが、両党が歩み寄り、合意に達したことを歓迎したい。
◆「解釈改憲」は的外れだ◆
安倍首相が憲法解釈の変更に強い意欲を示し、最後まで揺るぎない姿勢を貫いたことが、困難な合意形成を実現させたと言える。
公明党は、地方組織を含む党内調整に時間を要したが、責任ある結論を出せたのは連立政権の一翼を担った経験の賜物(たまもの)だろう。
政府見解は、密接な関係にある国が攻撃され、日本国民の権利が根底から覆される明白な危険がある場合、必要最小限度の実力行使が許容されると記した。
集団的自衛権は「保有するが、行使できない」とされてきた。その行使容認に転じたことは、長年の安全保障上の課題を克服したという意味で画期的である。
今回の政府見解には明記されていないが、米艦防護、機雷除去、ミサイル防衛など、政府が集団的自衛権を適用すべきとした8事例すべてに対応できるとされる。
国連決議による集団安全保障に基づく掃海などを可能にする余地を残したことも評価できる。行使の範囲を狭めすぎれば、自衛隊の活動が制約され、憲法解釈変更の意義が損なわれてしまう。
新解釈は、1972年の政府見解の根幹を踏襲し、過去の解釈との論理的整合性を維持しており、合理的な範囲内の変更である。
本来は憲法改正すべき内容なのに、解釈変更で対応する「解釈改憲」とは本質的に異なる。むしろ、国会対策上などの理由で過度に抑制的だった従来の憲法解釈を、より適正化したと言えよう。
今回の解釈変更は、内閣が持つ公権的解釈権に基づく。国会は今後、関連法案審議や、自衛権発動時の承認という形で関与する。司法も違憲立法審査権を有する。
いずれも憲法三権分立に沿った対応であり、「立憲主義に反する」との批判は理解し難い。
「戦争への道を開く」といった左翼・リベラル勢力による情緒的な扇動も見当違いだ。自国の防衛と無関係に、他の国を守るわけではない。イラク戦争のような例は完全に排除されている。
自衛隊恒久法の検討を◆
政府見解では、自衛隊の国際平和協力活動も拡充した。
憲法の禁じる「武力行使との一体化」の対象を「戦闘現場における活動」などに限定した。「駆けつけ警護」や任務遂行目的の武器使用も可能にしている。
自衛隊による他国部隊への補給・輸送・医療支援や、国連平和維持活動(PKO)で、より実効性ある活動が期待できよう。
武装集団による離島占拠などグレーゾーン事態の対処では、自衛隊海上警備行動などの手続きを迅速化することになった。
さらに、平時から有事へ「切れ目のない活動」を行うため、自衛隊に領域警備任務などを付与することも検討してはどうか。
政府・与党は秋の臨時国会から自衛隊法、武力攻撃事態法の改正など、関連法の整備を開始する。様々な事態に柔軟に対応できる仕組みにすることが大切だ。
PKOに限定せず、自衛隊の海外派遣全体に関する恒久法を制定することも検討に値しよう。
日米両政府は年末に、日米防衛協力の指針(ガイドライン)を改定する予定だ。集団的自衛権の行使容認や「武力行使との一体化」の見直しを、指針にきちんと反映させなければならない。
◆国民の理解を広げたい◆
自衛隊の対米支援を拡大する一方、離島など日本防衛への米軍の関与を強め、双方向で防衛協力を深化させたい。新たな指針に基づく有事の計画策定や共同訓練を重ねることが、日米同盟を強化し、抑止力を高めていく。
集団的自衛権の行使容認は、与党のほか、日本維新の会みんなの党や、さらに民主党の一部も賛成している。民主党執行部は、解釈変更を批判しながら、行使容認の是非は決め切れていない。
安倍首相は今後、国会の閉会中審査などの機会を利用し、行使容認の意義を説明して、国民の理解を広げる努力を尽くすべきだ。



主張「集団的自衛権容認 「助け合えぬ国」に決別を」(2014/7/2 産経新聞)

■日米指針と法整備へ対応急げ
戦後日本の国の守りが、ようやくあるべき国家の姿に近づいたといえよう。
政府が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を閣議決定した。日米同盟の絆を強め、抑止力が十分働くようにする。そのことにより、日本の平和と安全を確保する決意を示したものでもある。
自公両党が高い壁を乗り越えたというだけではない。長年政権を担いながら、自民党がやり残してきた懸案を解決した。その意義は極めて大きい。
《抑止力が平和の手段だ》
安倍晋三首相は会見で、「いかなる事態でも国民の命と平和な暮らしを守る」と重ねて表明した。行使容認を政権の重要課題と位置付け、大きく前進させた手腕を高く評価したい。
閣議決定は、自国が攻撃を受けていなくても他国への攻撃を実力で阻止する集団的自衛権の行使を容認するための条件を定めた。さらに、有事に至らない「グレーゾーン事態」への対応、他国軍への後方支援の拡大を含む安全保障法制を見直す方針もうたった。
一連の安全保障改革で、日本はどう変わるのか。
安倍首相が説明するように、今回の改革でも、日本がイラク戦争湾岸戦争での戦闘に参加することはない。だが、自衛隊が国外での武器使用や戦闘に直面する可能性はある。
自衛隊がより厳しい活動領域に踏み込むことも意味すると考えておかねばならない。どの国でも負うリスクといえる。積極的平和主義の下で、日本が平和構築に一層取り組もうとする観点からも、避けられない。
反対意見には、行使容認を「戦争への道」と結び付けたものも多かったが、これはおかしい。厳しい安全保障環境に目をつむり、抑止力が働かない現状を放置することはできない。
仲間の国と助け合う態勢をとって抑止力を高めることこそ、平和の確保に重要である。行使容認への国民の理解は不十分であり、政府与党には引き続き、その意義と必要性を丁寧に説明することが求められる。
重要なのは、今回の閣議決定に基づき、自衛隊の活動範囲や武器使用権限などを定めるなど、新たな安全保障法制の具体化を実現することだ。
関連法の整備は、解釈変更を肉付けし、具体化するために欠かせないものだ。政府は法案の提出時期を明確にしていないが、集団的自衛権への国民の理解を深めるためにも、できるだけ早く提出し、成立を目指してほしい。
自衛隊員は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」ると宣誓しているが、今後、さらに厳しい任務が増すだろう。合意に際してつけられた多くの条件、制限が過剰になって自衛隊の手足を縛り、その機能を損なうものとしてはならない。
《9条改正の必要は不変》
憲法解釈の変更という行使容認の方法について「憲法改正を避けた」という批判もある。だが、国家が当然に保有している自衛権について、従来の解釈を曖昧にしてきたことが問題なのであり、それを正すのは当然である。
同時に、今回解釈を変更したからといって、憲法改正の核心である9条改正の必要性が減じることはいささかもない。自衛権とともに、国を守る軍について憲法上、明確に位置付けておくべきだ。安全保障政策上の最重要課題として、引き続き実行に移さなければならない。



社説「助け合いで安全保障を固める道へ」(2014/7/2 日本経済新聞)

大国の力関係が変わるとき、紛争を封じ込めてきた重しが外れ、世界の安定が揺らぎやすくなる。歴史が物語る教訓だ。いまの世界は、まさにそうだろう。平和を保つために日本は何ができるか。問い直すときにきている。
安倍政権は政府の憲法解釈を変え、禁じられてきた集団的自衛権の行使をできるようにした。戦後の日本の安全保障政策を、大きく転換する決定である。
衰える米国の警察力
一部からは「海外での戦争に日本が巻き込まれかねない」といった不安も聞かれる。しかし、日本、そしてアジアの安定を守り、戦争を防いでいくうえで、今回の決定は適切といえる。国際環境が大きく変わり、いまの体制では域内の秩序を保ちきれなくなっているからだ。
自国が攻撃されなければ、決して武力を行使しない。親しい国が攻撃され、助けを求めてきても応戦しない。日本は戦後、こんな路線を貫いてきた。
これで平和を享受できたのは、同盟国である米国が突出した経済力と軍事力を持ち「世界の警察」を任じてきたことが大きい。日本の役割は米軍に基地を提供し、後方支援をするにとどまっていた。
ところが、この仕組みは金属疲労を起こしている。中国や他の新興国が台頭し、米国の影響力が弱まるなか、米国だけでは世界の警察役を担いきれなくなっているからだ。
すでに経済ではこの変化は明白だ。世界の国内総生産(GDP)に占める主要7カ国(G7)の割合は、2000年の66%から13年には47%に落ちた。米国は日欧と組んでも、世界の経済運営を主導するのが難しい。
軍事力ではなお、米国の力がずぬけているが、中国の軍拡によって、東シナ海南シナ海での米軍の絶対優位も崩れようとしている。米中の国防費が30年に逆転するとの予測もある。
米国の影響力の衰えを見計らったように、中国はアジアの海洋で強気な行動に出ている。北朝鮮が国連制裁を無視し、核やミサイルの開発を続けるのも、米国の威信の弱まりと無縁ではない。
だとすれば、米国の警察力が弱まった分だけ、他国がその役割を補い、平和を守るしかない。
米国の同盟国や友好国である日本や韓国、オーストラリア、インド、東南アジアなどの国々が手を携え、アジア太平洋に安全保障の協力網をつくる。この枠組みを足場に中国と向き合い、協調を探っていく――。
日本は米国と一緒にこんな構想を進め、他国と助け合い、平和を支える道を歩むときだ。そのためにも、集団的自衛権を使えるようにしておく必要がある。
世界では、サイバーやテロ組織による攻撃など、あっという間に国境を越える脅威も広がる。その意味でも、一国平和主義の発想は通用しなくなった。今回の決定はこうした流れに沿ったものだ。
だからといって、安倍政権の議論の運び方に問題がなかったわけではない。まず、集団的自衛権の行使を認める閣議決定を、ここまで急ぐべきだったのか疑問だ。
政府は行使の要件について「国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合などと定めた。慎重派の公明党との妥協を急ぐあまり、「過度に、制約が多い内容になってしまった」との批判がある。
行使基準もっと熟議を
さらに、実際の行使に当たり、「何を、どこまで認めるのか」といった事例ごとの議論は、ほとんど深まらなかった。これでは有権者の理解を得られないばかりか、不安が広がりかねない。公明党が難色を示し、先送りされた国連の集団安全保障への対応についても、検討を急ぐべきだ。
政府・与党は近く、行使の具体的な基準や歯止めを定める法律の整備にとりかかる。肝心なのは細部だ。抽象論ではなく具体的な事例を明示し、一般の有権者に分かるよう熟議を重ねてほしい。
この問題は10年、20年先の日本の行方も左右するテーマだ。政権が交代するたびに路線が変わるようなことは、あってはならない。与党は超党派の合意を得られるよう努力すべきだ。野党にも党利党略を離れた議論を求めたい。
そのうえで強調したいのは、他国との対立を外交力で解決することの大切さだ。集団的自衛権の行使に至らないようにする努力こそが肝心だ。日本と中韓との関係は対立が続いている。安倍政権は今こそ言葉だけでなく、緊張を和らげるための行動をとってほしい。



社説ではないが、他社攻撃の記事をひとつ。
「解釈変更を「暴挙」と報じる朝日・東京 感情論、見透かされる扇動」(2014/7/3 産経新聞)

安倍内閣による集団的自衛権の行使容認をめぐる議論で目立ったのは、これに反対するメディアの感情的で恣意(しい)的な報道ぶりだった。2日付の在京各紙の社説を見ると、朝日新聞東京新聞が今回の閣議決定について、それぞれ次のように「暴挙」と断じていた。
「この暴挙を超えて」(朝日)「9条破棄に等しい暴挙」(東京)
この中で朝日は「民主主義が、こうもあっさり踏みにじられるものか」と嘆き、東京は「憲政史上に汚点を残す暴挙だ」と決めつけた。ともに、行使容認には憲法改正が必要だとの立場を取っている。
だが、憲法9条に関する政府解釈は、国際情勢の変化に伴い変遷してきたのが事実だ。
例えば、吉田茂首相(当時)は昭和21年6月、国会で「自衛権発動としての戦争も交戦権も放棄した」と答弁している。その後、29年7月に自衛隊が創設され、同年12月には大村清一防衛庁長官(同)が国会で「国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」と述べ、政府解釈を大きく転換した。もちろん、別に憲法は改正されていない。
両紙は昨年12月、特定秘密保護法が成立した際の社説でも「憲法を骨抜きにする愚挙」(朝日)「民主主義を取り戻せ」(東京)と厳しい論調で政権を非難していた。
とはいえ、こうした国民の不安と危機感をあおり、世論を動かして自社の主張に政府を従わせようという手法は、もう見透かされているのではないか。
朝日は第1次安倍内閣時代の平成18年12月に、改正教育基本法防衛庁「省」昇格法が成立したときの社説「『戦後』がまた変わった」ではこう記した。
「長く続いてきた戦後の体制が変わる。日本はこの先、どこへ行くのだろうか」「戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが」
東京もこのときの社説「行く先は未来か過去か」で朝日とそっくりな論調でこう訴えていた。
「悔いを残す思い出としないために、時代と教育に関心をもち続けたい」
まるで教育基本法改正で日本が暗黒社会に向かうか、戦前に回帰するかのような書きぶりだが、現実は当然のことながらそうはならなかった。そして同様の根拠の薄い感情論を、特定秘密保護法のときも今回の集団的自衛権をめぐっても繰り返しているのだ。
集団的自衛権に関しては、両紙はこんな手法も駆使している。先月24日、安倍晋三首相とフィリピンのアキノ大統領が会談した際のことだ。アキノ氏は共同記者会見で、日本の憲法解釈の見直し方針についてこう歓迎の意向を表明した。
「日本政府が能力を持って他者を救援することになることは必ずやメリットのあることだ。特に集団的自衛権という分野においてはそうではないか」
「それに対して警戒の念を抱くことは、私どもは全く思っていない」
産経新聞、読売新聞、毎日新聞日経新聞は翌25日付朝刊で、アキノ氏の行使容認支持について濃淡はあっても報じている。
ところが、朝日は「安全保障面で日比両国の連携を強化していくことで一致」とは書いたものの、アキノ氏の行使容認支持については触れていない。東京には日比首脳会談の記事自体が見当たらなかった。社論に都合が悪いので省いたとみられても仕方あるまい。
「日米同盟はこれまでと次元の異なる領域に入る。そのうち中国も『日本ともちゃんとうまくやりたい』と頭を下げてくるだろう」
今回の閣議決定を受け、ある外務省幹部はこう指摘した。主義・主張は各紙の自由だが、朝日、東京両紙ではこういう見解はまず読めない。(阿比留瑠比)


各紙の社説

社説「集団的自衛権 閣議決定に反対する」(2014/7/1 毎日新聞)

安倍政権は1日、集団的自衛権の行使容認を柱とする憲法解釈変更を閣議決定する。
憲法は、アジアや日本でおびただしい数の犠牲者を出した戦争の反省から、9条で海外での武力行使を禁じてきた。閣議決定は、その憲法9条を根幹から変え、「自衛の措置」の名のもと自衛隊の海外での武力行使を認めることを意味する。国のかたちまで変えてしまいかねない、戦後の安全保障政策の大転換だ。
これは解釈変更による憲法9条の改正だ。このような解釈改憲は認められない。私たちは閣議決定に反対する。
解釈改憲は認められぬ
安倍政権がこれほどの転換をするのなら、一内閣の判断でできる閣議決定ではなく、憲法9条改正を国民に問うべきだ。
そもそも、なぜいま集団的自衛権の行使容認が必要なのか。自衛隊員はじめ国民の命に関わる問題であり、安倍政権にはまずしっかりした理由の説明が求められたはずだ。
だが、安倍晋三首相は、安全保障環境の変化で国民の命と暮らしを守るため、集団的自衛権の行使容認が必要としか言ってこなかった。
なぜその方法が集団的自衛権でなければならないのか。現在の憲法解釈のもと、個別的自衛権の範囲内で安保法制を整備するだけでは足りないのか。そういう疑問への納得できる説明はいまだにない。
政府が与党協議で、集団的自衛権の行使が必要として示した、米艦防護や機雷掃海など8事例の検討は、その答えになるはずだった。
ところが、個別的自衛権や警察権で対応可能という公明党と政府・自民党との溝が埋まらなかったため、与党協議は、事例の検討を途中放棄し、閣議決定になだれ込んだ。性急な議論の背景には、自公両党とも大型選挙のない今のうちに決めたいという党利党略があったとみられる。
沖縄県尖閣諸島武装集団が上陸した場合を想定した「グレーゾーン事態」への対応の議論はあっという間に終わった。国連決議にもとづく多国籍軍などへの後方支援の拡大、国連平和維持活動(PKO)参加中の駆けつけ警護の議論も生煮えのまま、閣議決定に盛り込まれる。
安倍政権がやりたかったのは結局、安全保障論議を尽くして地道に政策を積み上げることよりも、首相の持論である「戦後レジーム(体制)からの脱却」を実現するため、集団的自衛権の行使容認という実績を作ることだったのではないか。
昨年末の特定秘密保護法の制定、今春の武器輸出三原則の緩和と合わせて、日米の軍事的一体化を進める狙いもあったとみられる。
これほど重要な問題なのに結論ありきで議論が深まらず、残念だ。
安倍政権は今回の決定は、限定的な行使容認だと強調する。だが実際には歯止めをどう解釈するかは時の政権にゆだねられる仕組みだ。
閣議決定の核となる新たな「自衛の措置としての武力行使の3要件」は、国民の「権利が根底から覆される明白な危険」がある場合に集団的自衛権行使が許されるとしている。政府の想定問答によれば、新3要件を満たすと判断されれば、集団的自衛権だけでなく、国連の集団安全保障での武力行使もできる。私たちは限定容認論はまやかしに過ぎないと主張してきたが、想定問答がそれを証明している。
◇語られなかったリスク
しかも、限定されるのは行使するケースであり、いったん行使すれば、その先の活動に限定はない。
首相は、集団的自衛権の行使を容認すれば、抑止力が高まり、戦争に巻き込まれなくなるという。
確かに日米同盟が強化されれば、一定の抑止力としての効果はあるだろう。だが逆に地域の緊張を高める懸念や、米国から派兵を求められて断り切れずに不当な戦争に巻き込まれる危険もある。自衛隊員が殺し、殺されるかもしれない。こうしたリスクについても首相は一度も語ろうとしなかった。
憲法解釈変更の根拠にも問題がある。政府は1972年の政府見解の一部を引用し、結論の部分だけを集団的自衛権の行使は「憲法上許されない」から「憲法上許容される」に逆転させた。
政府・自民党は「72年の政府見解の基本的論理の枠内で導いた論理的な帰結」「憲法解釈の適正化であり、解釈改憲ではない」というが、どう説明しようが、これは解釈改憲にほかならない。
日本は冷戦後、安全保障環境の変化に対応するため、PKO協力法、テロ対策特別措置法、イラク復興特別措置法などをその都度制定し、海外での自衛隊の活動を拡大してきた。海外で武力行使はしないという憲法9条の規範性を侵すことなく、日米同盟を強化し、国際貢献する道を模索してきたのだ。
安倍政権は、歴代内閣が踏み越えなかった一線を、たった1カ月余りの議論で、あっさり越えようとしている。行使容認の必要性、歯止め、リスク、法理論のいずれも国民に十分な説明をしないまま、このような安全保障政策の大転換を行うことは到底、納得できない。



社説「政治の言葉―首相の「慈悲深い圧政」」(2014/7/1 朝日新聞)

1950年代から60年代にかけて注目を集めた劇作家・ウージェーヌ・イヨネスコの「禿(はげ)の女歌手」は、ひとびとの対話から、言葉の意味や論理が抜け落ちていく不条理劇だ。
最初はその異様さに笑うが、無意味な「音」と化した言葉の応酬を聞くうちに、もしかしたら、おかしいのは言葉が通じると思い込んでいる自分の方ではないかという気分になってくる。不条理劇の妙味である。
いま集団的自衛権の行使容認をめぐり政治の世界で繰り広げられている事態はまさに、「安倍不条理劇場」とでも呼ぶにふさわしいものだろう。
なぜ憲法改正ではなく解釈改憲なのか。自衛隊員に命を捨てろというのか。この根本的な問いに、首相が真正面から答えたことがあるだろうか。代わりに発せられるのは「日本は戦後、平和国家としての道を歩んできた。この歩みが今後、変わることはない」「自衛隊の諸君に愛する家族がいることを私は知っている」。全く答えになっていない。対話や説得の意思を欠いているから、言葉は言葉として機能しない。言葉が最大の武器である、政治という舞台で。
「『必要最小限度』の集団的自衛権の行使」という概念は、「正直なうそつき」「慈悲深い圧政」と同じような語義矛盾である――。政治学者や憲法学者らが結成した「立憲デモクラシーの会」はこう指摘している。
だが首相は「必要最小限」の歯止めはある、私があると言うのだからある、という態度を崩さない。「批判があっても、現実と向き合うことが政治家に任された責任だ」と力を込める。
そうだろうか。「現実」は10人いれば10通りだ。だからこそ言葉を駆使して議論や対話を重ね、「現実」の大枠を決めていく。それが民主政治である。
首相はある種の全能感すら抱いているのではないか。「現実」は私が決める、私の現実に合わせて、解釈を変えればいいではないかと。そして、公明党は語義矛盾の世界に身を沈める覚悟を決め、いつの間にか国民は「時の内閣」の「総合的」「合理的」「主体的」判断に身を預けることにされている。
この不条理劇の幕が下ろされた時、外の光景は以前とは違ったものになるだろう。他国で戦争ができる国へ。時の政権が憲法を都合よく解釈できる国へ。
終幕は迫っている。観客ではなく主権者である私たちは声をあげ続ける。昨晩も首相官邸には多くの人が集まった。おかしい、認められないと。カーテンコールの、喝采の代わりに。



社説「自衛隊発足60年 時代に合った法整備が必要だ」(2014/7/1 読売新聞)

自衛隊は1日、創設60年を迎える。時代の変化に応じて拡大してきた役割をきちんと果たせるよう、必要な法整備を急ぐことが大切である。
この60年間、自衛隊を巡る政府の憲法解釈や、安全保障法制は、大きく変遷してきた。戦後間もない1946年、吉田茂首相は、戦力不保持を定めた憲法9条2項に関して、「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」との解釈を表明し、再軍備を否定した。
ところが、50年に朝鮮戦争が勃発すると、米国の要請もあり、政府は、警察予備隊、保安隊を経て54年に自衛隊を発足させた。自衛権自衛隊の存在を認めるという新たな憲法解釈も示した。独立国家として当然の対応だった。
ただ、国会での保革対立の下、自衛隊には「憲法違反」との批判があり、評価は高くなかった。
転機は、東西冷戦の終結だ。地域紛争が頻発する中、自衛隊は、国際平和協力活動という新たな任務を担うことになった。
91年に初めてペルシャ湾に掃海艇を派遣した後、カンボジアなど各地で国連平和維持活動(PKO)に参加した。特別措置法の制定により、インド洋での給油やイラクでの復興支援にも従事した。
国際貢献の実績を地道に重ねたことを、前向きに評価したい。
自衛隊の国際活動で常に制約となったのは、憲法の禁じる「武力行使との一体化」に当たるかどうかという点だった。インド洋やイラクでの活動は「非戦闘地域」に限定する、という日本独特の苦肉の論理で乗り切った。
95年の阪神大震災や2011年の東日本大震災では、自衛隊災害派遣の重要性が認識された。
最近は、北朝鮮の核・ミサイル開発や、中国による尖閣諸島周辺での挑発行為が続き、平時の警戒監視任務も重みを増している。
政府・与党は今、集団的自衛権の行使を限定容認する憲法解釈の見直し作業を進めている。日米同盟の強化に欠かせない対応だ。
武力行使との一体化と見なされる範囲は戦闘現場での行為などに限定され、他国部隊などへの「駆けつけ警護」も可能になる見通しだ。自衛隊の国際活動を拡大する上で、大きな意義を持つ。
自衛隊の活動には、憲法解釈の変更に加え、関連法の整備が不可欠だ。政府・与党は秋の臨時国会以降、着実に取り組むべきだ。
近い将来、憲法を改正し、自衛隊の存在を明記することも改めて胸に刻まなくてはなるまい。



主張「与党安保協議 合意の結実を歓迎したい」(2014/7/1 産経新聞)

厳しさを増す日本周辺情勢に応じて、国の存立と国民の生命財産を守る実効ある手立てを与党が講じることになった。
集団的自衛権行使の限定容認について、公明党の合同会議は対応を執行部に一任した。与党合意を事実上、承認したもので、歓迎したい。これを受けて政府は1日にも憲法解釈の変更を閣議決定する。
容認論自民党と慎重論の公明党の間には大きな隔たりがあり、5月に始まった与党協議の直前でも公明党山口那津男代表は「憲法の精神にもとる」と否定的だった。その溝を埋め、合意にこぎ着けた両党の努力は多としたい。
山口氏は与党協議の終盤を迎え、「国民の権利を守り、国の存立を全うすることは許される」との見解を表明した。その理由として、新たに定める「武力行使の3要件」が歯止めになることを挙げたのに加え、安全保障環境の激変について指摘したのは、現実的な判断といえよう。
一方、与党合意を得るために残された課題、新たに生じた問題が多いことも指摘しておきたい。
最大の懸念は、行使容認が過度に限定されると、抑止力の強化につながらないことである。
公明党自衛隊の活動範囲や集団的自衛権の対象国も極めて限定的にすべきだとした点は、関係国との連携を考えれば実効性を欠くと言わざるを得ない。
国際平和協力の分野では、自民党が主張した戦闘地域での後方支援について合意できなかった。
武力攻撃に至らない「グレーゾーン」と呼ばれる事態への対応で、自衛隊の出動を円滑にするために必要な法整備を見送っているのも問題だ。
与党協議で取り上げたテーマは、かつての自公連立政権でも明確にしなかった、安全保障政策の根幹にかかわるものだ。両党間にはなお考え方の開きもあるが、現実に政策を遂行していく上で基本認識を共有した意義は大きい。
問題は、こうした与党合意への国民の理解をどう取り付けていくかである。
中国の膨張と現状変更の動きに、日本一国だけで対峙(たいじ)するのは困難であり、共に守り合う関係を強める必要があることなどを訴えてほしい。現実的な安全保障観に立ち、さらに必要な政策を決定し、進めていくことが連立与党の責任だ。


どう動く:集団的自衛権 私の意見/1 戦う理屈、なぜか 作家・高村薫さん(61)(2014/6/14 毎日新聞)

集団的自衛権の行使を容認するとはどういうことか。戦争に参加することを可能にするということだ。自衛隊が戦場に行き、他国民を殺したり、自衛隊員が戦死する事態が起きる、ということだ。
日本は、戦争で1人の人間も殺すことなく、殺されることもなく戦後69年を過ごした。集団的自衛権の行使とは、そこから未知の次元に踏み出すことだ。私たちはそれに堪えられるのか。自問自答しなければならない。「集団的自衛権がなければ国民の生命財産が守れない」という安倍晋三首相の主張は、本当なのか。
日米安保とは、「日本は米国に駐留用地を提供する。代わりに米国はいざという時に日本を守る」という約束だ。日本には憲法があって、戦争はできない。他国に攻められたら米国が助ける。それが日米安保なのに、「日本は米国と一緒に戦わなければならない」という理屈がなぜ出てくるのか。根本的なところがおかしい。
自衛隊に戦死者が出た時、国民は政権を非難するだろう。だがその政権を支持したのも国民であることを忘れてはならない。政権は有権者を映す鏡だ。安倍氏を首相にしている有権者は、日本が戦争のできる国になろうとしていることにOKを与えているに等しい。そのことを自覚しなければならない。
私たちが優先すべきは、他国との争いでなく、平和のための外交だ。複雑な利害が絡む他国との間で、いま、歯止めとしての外交努力こそが必要なのだ。【聞き手・狩野智彦】
     ◇
安倍首相が、集団的自衛権を使えるようにするために、憲法解釈の変更を閣議決定しようとしている。自衛隊武力行使につながる安全保障の大転換が、憲法改正を経ずに行われようとしている。この動きをどうみるか。有識者の意見を聞いた。
==============
■人物略歴
◇たかむら・かおる
1953年大阪市生まれ。93年「マークスの山」で直木賞受賞。著書に「レディ・ジョーカー」「冷血」など。


アップデート3回目

ステータスバーにくるくるマークが出てたので確認したら、アップデートだった。
AQUOS PHONE SERIE SHL23 アップデート情報

以下の事象が改善されます。

  • 暗い場所でカメラのモバイルライト撮影を行った場合、撮影した画像が赤みがかるなど色合いが変わる場合があります。

 ※更新されるソフトウェアには、上記以外に、より快適にSHL23をご利用いただくための改善内容が含まれております。

ビルドは「01.00.06」から「01.00.07」になった。
Wi-Fi経由で7分で再起動して更新完了。