自分を救済プロジェクト2

自分を救おう。
これって盲点だった。


役に立ってこそ価値がある、って家に生まれて
長年のクセが染み付いていたって理由もあるのだろう。
まあ、日本人の多くがそうなのかもね。
これが過剰だったんだと長いこと気がつかなかった。
怖いことだ。


但し、これは自分の良さでもあるわけだ。
自分がヘトヘトにやっているってのがまずいだけ。
その加減も分からなかったって点がアホちんだった。


あまりにも自分を消耗してしまった私。
何のために生きてるんだろうまで行き着いてしまった。


立て直すには、自分だけの力では難しい。
さて、どうしたもんか。


これまでも、心の師匠や占い師匠や石師匠にちょくちょく
助けて頂いていたが、余りにもカスカスになって
間に合わない感じ。


そこで、何となくそういうのはズルっぽいと良しと
しなかったのだが、ヒーリングやスピリチュアル
カウンセリングなどを頼ってみた。
つっても、これまでもヒーリングも受けていたし、
心の師匠はレイノウの方なので、何を今更って感じかな。
けれど、心の師匠はズバリとは教えてくれないので
ずーっと後になって気がつくのだ。


今回の取り組みは何となくカンペを見るような気持ちで
どうなのかしら?と思ったモノたちだったのだ。


結果、すごく良かった。


長年、何が足りてないのか分からなかった部分や
引っかかるものがよく分かった。
このタイミングだったから良かったんだと思う。


まずは、セミナーへ。
自己価値を測定してくれるってところが気になって参加。
自分がどれほどすり減っているのか、数値でみると
もっとピンとくるだろうと。
自分で思っているほどの低さではなかったけれど、
皆に提供している価値との開きがあり過ぎて、そりゃ
すり減るよねってレベル。これは知れてよかった。


次は、ガイドの声を聞くカウンセリング。
超怒鳴られて号泣。
なぜ、こんなに・・・と不本意な気持ちも起きたり、
かなりショックだったが、仰っていることはごもっとも。
インナーチャイルドの問題は思っているよりも根深く、
また自分を守るってことがからっきしできて
いないってことが分かった。
もっとうまく立ち回るってことをやる必要があるってこと。
これも分かってるようで分かってなかった。


早速、やってみると社長に立ち向かうことができたり、
苦手だった毅然と振る舞うってことができるように
なった気がする。


それから、ヒーリングを受けた。
これはかなり素晴らしく効果があった。
スカイプでこんなに何故分かるの?ってくらいに
腑に落ちた。


とっても面白かったのが前世の人の話。
今影響を与えている人がローマ時代の男の人で
職業が伝令者。
政治に関することなどたくさんの命に関わることを
走って伝える人だったとのこと。


異常に発達したふくらはぎを持っている、
何かが起きた時に、最善の状況を考えてから
取り組むというクセがあることなど、
この人から受け継いだことらしい。
ビックリした!!!


この人は自分の考えが届かないという苦しさを
抱えて亡くなったそうだ。
今の私と一緒だーーーーー(涙)
まさに無念。


私、マラソンとか走ることがすっごく苦手な
意識が強かったのは、このせいだったのかな。
走ること=仕事的な。


この結果はかなり面白かった。


それから、体のあちこちの不調も遠隔でヒーリング
していただいて、特に長年苦しんでいた足首の不調が
ピタリと治ってビックリ。
こんなに簡単に治るんだ・・・


まあ、数々、苦しんできただけにこの有り難みが
染み入るってもんですね。


取り敢えず、これらを1ヶ月の間に受けてみたのである。


つづく

変化3

2で終わりのつもりだったが、続きを。


父がどんな風に振舞おうと自由だな、
と思った。
振る舞いや表現が私たちの望んだ
父親像じゃなかったってだけの話だ。


自分の不安でいっぱいな日となんだ。
ただ、それだけ。


だから、どちらも間違ってるとか
じゃない、私がそれが嫌なだけだ。
うん。
今朝、そう思ったので記録しておこう。

自分を救済プロジェクト1

思えば昨年数回も高熱を出した
ってのに、私はナゼ自分を救って
いなかったのだろうか?と気がついた
のは今年の春。


しかし、長年染み付いたアホちんな
考えはなかなか頑固。
何故にそんなに頑ななのだ…
単純に自分が不快ならしないと
いうそれだけのことを許してなかった。


だが、そこの不満が長年蓄積している
からおおごとに。
んで、体はガチガチ、背中はパンパン、
体調が良い日が少ないなどなど。


適応障害にまでなっておきながら、
それでも気がつかなかったって
自分のアホさ。


でも、どん底まで行ったんで
やっと気がついたのかもしれない。


そして、今年、全力で自分救済に
着手した。


つづく

変化2

前回の続き。


妹は、父が私に私の住む街に旅行に行ったことを
話したと知りショックを受けていた。


私は結構驚いた。


私は父にその話をされた時に、こんなにショックを
受けたことにビックリしたのだ。
単純に悲しかったというのに。


妹は私よりもストレートに感情を表した。
しかも、自分のことでもないのに。


それからは、ぶっちゃけ話のやりとり。


妹は結婚する時に、父と正反対の人を選んだこと。
結婚してホッとして新婚旅行先でパニック障害を発症したこと。
高校時代に父が再婚した時に、義母と父のやり取りが気持ちが
悪すぎて家出したこと。


私の知らないことばかりだった。
妹は妹でひとりで戦っていたのだ。


彼女が正常で頼もしい人間だと感じた。
私の中で、末っ子だし、甘やかされて育ってという
イメージを持っていたのだが、私は何も見えて
なかったのかもしれない。


分かっていて、父や実家に対して
私よりも大人の対応をしていたのだ。


一人で抱えていてバカみたいだったなぁ。
早く話せばよかったよ。
最も頼りになる味方が近くにいたよ。


お互い誤解があったのだなぁと話した。


様々な仔細は、当人同士でなければ分かり得ない
ことが多すぎるが、大まかなところは一致。


嫌なことは嫌なのだ。
父に期待をしても返ってこないのだと受け入れることにした。


家族なんてなかったことにと思っていたけれども、
妹はいることになった。

変化1

今年は随分といろんな感情を味わった
年だった気がする。


結果、自分がどうしたいのかが
浮かび上がりつつある。
(まだあと一押しなカンジだが)


スゴい人になりたいってのを
肩書きとか、職種で実現しようと
していた。
それしか方法を知らなかったのだと
思う。
自分の才能を認めさせたいって
気持ちがあったのかもしれない。


自分の中の空っぽな部分をそれで
埋めようとしていたのかも。


けれども、やればやるほど更に
空っぽになっていく自分を感じて
マズイと思ったのが今年の頭。
それ以前に昨年5度も高熱を出した
のなら、もっと早く気がつけよって。


私の父はものすごい癇癪持ちで、
私たち姉妹に多分自分の空っぽを
埋めさせようと無意識にした人だった。
母が早くに亡くなったため、それは
加速の一途。


私たち姉妹は、何が正しいか判断の
基準が分からなくなり、大人になって
その父の正しさに従うことが苦痛
だったのか三人共にウツ病
パニック障害適応障害を発症。


全てが父のせいとは思わないが
大きな要因だ。


けれども、実の父から愛情を受けて
当然、いや受けたいと熱望して
いたのだろう。
だから、そんな風に癇癪を起こす
ことも受け入れなきゃって思っちゃっ
たんだろうね。苦しいのに。


そして、それについて話をすること
はタブーだと三人共に思っていたの
だろう。


再婚してからは、義母に媚びている
父をみるのが気持ちが悪かった。
義母も人間的に気持ちが悪いと
感じる人だった。
(世間体が全ての人)


けれども、「家族は仲良く」という
何処かから探してきた言葉をなぞらな
きゃといい子発動の我々だったのだ。
そして、ジンワリと自分についた
嘘に侵食されてしまったのだろう。


次女が離婚して子どもがいたので
実家に帰るしか道がなく、それを
実施したが拗れて、縁を切ると
実家を飛び出した。


長女の私は先々月父に勘当された。


それについて、三人で話したことは
ない。(次女と私は、私がやいた
お節介に次女が腹を立てて以前の
ような親しさを保てていないのだ)


ふと、一昨日、三女に電話をした。
正直、家族問題にうんざりして
おり、自分もこのところ身の振り方
に悩んでスッキリしていないので
普段はしない行動だった。


最初は世間話を楽しくしていたが、
実家の話を妹が始めた。


こうなると、ネチネチと解決しようが
ない話を一方的に話し、私が「仕方が
ない」というのが冷たいといつも
気分が悪くなるので「あぁー
また来た。電話しなきなゃよかった」
と思い出した。


妹が私を責め出した時に、私は
いつもと違った行動に出た。
妹には話すまいと思っていた出来事を
話してみた。


それは、昨年、私が住んでいる県を
父が義母の兄弟からみで私に内緒で
訪れていたという話を電話をした
際にわざわざしたという寂しい話。


私は、その時、ショックだった。
いつも会いたいから実家に帰って
こいという父が、こちらに来たのに
一言もなかった。
それだけでなく、それを終わってから
私に話すとは…。


私がそれを聞いて悲しい思いをする
とは思わなかったのだろうか?


私はすごくショックだった。
同時に私の中での父は死んだ。


その話は、妹たちへはしてはいけない
気がして話していなかった。


それを話した。


妹は父から私に会いに行かなかった話を
聞いていて「なんで、行かないの?」と
父を責めていたらしい。
私が、その話を父から聞いて知って
いたことに猛烈に怒った。


私は、そんな人だと思うし、これまで
数々受けた言葉の暴力は嫌なので、
長女としてみんなの仲を取り持ったり
を父が望んでいてもできないのだと
初めて妹に話した。


私は、そんな話は、自分と父の問題、
つまりは私が相手をどう思うかだと
思っていたので、わざわざ説明を
してこなかった。


上の妹と拗れた問題も、私のした
ことがその時はそれしかできなかった
が、後からそれが正しいと思えず、
妹が心を閉ざしてしまって私を
許せなかったという事実しかない
のだからどうしようもできないし、
私がそれをベラベラ他のみんなに
話すのは違うと思って話さなかった。


それらは、「家族に冷たい」という
感じを与えていたらしい。
ことあるごとに責められた。


私は、様々、自分が苦しくなるなら
家族はなかったことにしていいと
思っていた。


ーつづく

卒業

適応障害で通っていたクリニックを
今日で卒業。
最後の通院と思い尋ねたら、診察が
終わっていて、薬を飲まずに済んだと
告げたら診察室に通されて先生と
話ができた。

9年半通った思い出と励ましの言葉、
もう会えなくなると思うと涙が
溢れてしまった。

薬がないと眠れないので、具合いが
悪くても泣きながら這って薬を
もらいに行っていた。
本当に苦しかった。

先生に御礼を言うと、あなたが
頑張ったからと温かい言葉をもらい
また涙が。

「楽しんで生きなさいね」って言葉
は、先生がずっと掛けてくれてた
言葉。
私は、最初、この意味が全く分から
なかった。
楽しんでいいんだって。
我ながら病んでいたな。
この年月でいくらかようやく分かって
きたと思う。
また、それを自分に許せるようにも
なったと思う。

この苦しい薄暗いトンネルを1人で
歩き続けながらも、遠くで明かりを
灯してくれたり、地図をみせて
くれたりと様々な方が手を差し伸べて
くれた。

いつも1人で歩いていたと思い込んで
いた私には、1人で生きてるんじゃない
ってことを分かるよいきっかけだった
んじゃないかと思う。

何だか、1人感極まってボロボロ泣き
ながらクリニックを後にした。

ってことで、心がちょっとスカスカ
しているのだ。

跳んでみる。

いやー、いろいろあったな。
この1ヶ月、すごかったわ。

転職活動は二つ受けて落ちる。
ヘタレなので、激しく凹む。

それと並行して自分の感覚を取り戻す
べく、様々取り組む。

他に注ぎ込むエネルギーに対して、
自己価値が低いってことを知る。
何十年も自分の世話が疎かに
なっちゃってんの。本末転倒だよ!
ったく。

自分でも感じてたけど、生き下手
なんで処世術を磨くべく勉強。
強かさってのは、自分守るために
大事なんだよって教えてもらう。

総じて、私ゃ、私しか守れない
自分を守ってやってなかったよ。
バカだね。
知らなかったから、仕方ない。
ゴメンね。

取り敢えず、今までやったことない
ことをビビりながらもやってみてる。

これもね、あんなスゴいライブ見せ
られたからね。
私もやんなきゃって思ったよ。
宮本さんありがとう!