ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

行き渋りの学校

どうも、メディアの報道にひっかかる点があります。

それは、児童や生徒たちが、通常通りの学校生活が遅れないことを重要視しすぎる点です。

 

確かに多くの児童や生徒は、「学校生活を楽しみにしている」「お友達に会えるのを心待ちにしている」という子どもたちが多いことは否めません。

しかし、学校に行き渋り、あるいは、登校拒否を示す子ども達にとっては、”学校がお休みである”ということが、どれほど、心の負担を軽減させていることか、ということを考えると、一概に学校再開を心から喜べない私がいます。

 

新型コロナ禍にあって、一人自室にこもり、自分自身を見つめる時間や、お友達との関係を見つめる時間が持てることで、家族や先生に言えなかった本心が、少しずつ解きほぐされて、ある日を境に、「自分らしさ」というとっても大切なことに気づける可能性が多いにあるということです。

 

すべてが他人のせいではない。あるいは、すべてが自分のせいではない。環境が、学校が、社会が、共に考えていくべき問題で、子どもたちに「堂々と休める」という静かな時間を与えることで、自信を取り戻すきっかけになってくれればと願わずにはいられません。そこには、心ある大人の手助けが必要なことは、言うまでもありませんが…。

 

勉強の遅れを気にしているばかりでは、決して解決できる問題ではありません。むしろ、自分自身と真っ正面から向き合える子どもの方が、将来にわたって、強く優しい大人に成長していけると私は信じています。

 

なぜ、こんなにも、学業の再開を急ぐ必要があるのか、このことをみんながもっともっと考えていく必要があるように思います。

 

学校の再開が1年や2年遅れたところで、長い人生において、どれほどの意味があるのか、私は誹謗中傷を恐れることなく、ここに書き記したいと決意しました。

 

戦争時代に青春時代を生きた方々は、満足な教育を受けることができなかったでしょう。でも、そういった諸先輩方が、すべて、その後の人生に「学校教育」という意味に限定したハンディを背負っているでしょうか?

戦友たちの死を通して、無念や切なさを抱え生きていくことを、きっと多くの方々は心の奥深くに秘めて、人生を歩んでこられたはずです。

それを、誰が、「不幸である」と断定できるでしようか。「幸せ」というものは、他人が決めるものではなく、「自分が決めるもの」ではないかと私は思うのです。

 

学校に行きたくない、という純粋な子どもたちの心を、今こそ、大人である私たちが真剣に受け止めて、

「行きたくないものに、無理してまで行く必要はないよ」

「今は、これから先の人生を決める大切な時期だから、あわてる必要はないし、学校に行くことだけが、えらいわけではない」

「勉強したいと思ったときに、そこからスタートすることだってできる」

「友達とうまくいかないと思い込んでいても、大人になったときに、本当の親友ができる人が本当にたくさんいるんだ」

ということを教えてあげる人が、ゼッタイに必要だと私は経験上、思っています。

 

尾木ママのことは、私は大好きだし、大ファンだけれど、尾木ママは、時として、「学校教育そのものにコンセントが刺さっていて」、「尾木ママらしくないな」とこの頃感じることがよくあります。

 

全国一斉に始まった学校再開のニュースに触れて、心を病んでしまっている子どもが、数知れずいるだろうことを思うと、悲しくて仕方がありません。新型コロナだけにスポットが当たってしまって、例年、この時期に自殺する子供たちが増加することを、決して忘れてはならないと思います。

 

お父さん、お母さん、今は、子どもの学校のことで頭がいっぱいですか?

仕事と子どもの世話の負担が重くのしかかって、お辛い気持ちは重々承知の上で敢えて言わせていただけます。

子どもの心を救えるのは、親だけにしかできないのです。

小さな子どもが「ママ~! ママ~!」と泣き叫んで、町をさまよっている時、お巡りさんがやってきても、決して子どもの心が冷静になれないように……。

自分が子ども時に考えていたことと、自分の子どもが常日頃心を痛めていることは「決定的に違う!」というもう一つの観点を忘れないでください。思い切って、「新型コロナで学校に行かなくて済んだとき、どんな気持ちで過ごしてた?  このまま学校が始まらなければいい、とちょっとだけでも思ったりした?」と聞いてみてほしいと思います。そのとき、子どもの表情を見てあげてください。子どもは、なかなか本心を言葉には出しません。ちょっとした表情から、気持ちの変化を読み取ってあげられるのは、学校でもスクールカウンセラーでも行政でも保健所でもありません。まずは親御さんが子どもの心の変化に気づくこと。そして、場合によっては、専門医に診てもらうことも必要になってきます。これだけは、声を大にして言っておきたいことです。

 

人生の1年2年を重んじるばかりに、一生をダメにしてしまう大人を私はたくさん見てきました。高校に入れなくて、大人になってから、高校に通い、大学まで出た人も大勢います。人よりもセンシティブで、他人の苦しみを察する能力に長けて、福祉の世界で活躍している人も数え切れないほどいます。子供の未来を、新型コロナの感染防止のステップによって、決定づけないでいただきたいと、切に願います。

 

そして、教育委員会をはじめ、政府の方々に、もう一度、子どもの心のあり様に注視していただきたい。校舎から飛び降りたり、人知れず命を絶つ子どもが毎年存在していたことを、思い出していただきたいのです。

クレイルの認識

精神障害を持っている人のなかには、高齢者に近い生活を送っている人がいらっしゃいます。

 

①家にひきこもりがちで、運動不足。筋力は衰え、一日中ゴロゴロして過ごす。あるいは、ゴロゴロしていなければいけない治療段階にある。

②精神状態が不安定で食欲がなかったり、ストレスや薬の副作用で、お菓子などを大量に食べてしまう。よって、栄養バランスが悪い食生活を送っている。

うつ状態など、気力が低下していて、今日が何月何日何曜日なのかさえ、おぼつかなくなっている。

 

最近、テレビなど(主にNHK)でも時々紹介されている、「クレイル」という状態にあるのは、何も高齢者だけでなく、精神障害者にも大勢いらっしゃるということです。

 

私も複雑性PTSD(昨年から「精神障害分類に入りましたよ」と承認された病気)と双極性感情障害、またこれは障害ではありませんが、HSP(high sensitive person)、HSS(high sensation seeking)という性格特性を持っています。この性格特性については、改めてここで紹介しますね。

 

1人でできることがとても少なくて、仕事に行くにも誰かの支援が必要な程、「日常生活に支障がある状態」の私です。ですから、私も「クレイル」なのです。

 

私は自分が「クレイルなのだ」ということを、ポジティブに受け止めています。なぜなら、自分のことをよく知らなければ、自分の身は護れないからです。もしNHKが「クレイル」のことを放送してくれなければ、私は知らなかったかもしれません。ありがとう、NHK! 受信料払っていて良かった(笑)。そして、自分で「クレイル」なのだと認知して、行動を変える! そういうことができれば、例え障害を持っていても、健康を維持していくことが可能なのです。

 

精神障害を持っているすべてのみなさんは、「病識」という言葉をご存じですよね。自分の障害を受け入れ、知識を持っているということですね。ですから、この「クレイル」ということに対しても、自分がそれに該当するのか、一度自己スキャンしてみてください。未来にある『不安』と『希望』。わずかであっても『希望』を持っているのなら、そのあなたの大切な『希望』に寄り添ってくれる周りの人達の助けを借りて、『不安』にばかり目を向けずに一歩ずつ歩いていきましょう。私は、ここで「書くこと」しかできませんが、ピアサポーターとして、寄り添っていきたいと思っています。

強迫性障害と手指の清潔

新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、私たち一人ひとりができることは、テレビやネットのニュースなどでも簡単に知ることができますが、私自身、今、一番苦しんでいるのが、手指の清潔を保つことです。

 

マスクは仕事柄、サージカルマスクをどうにか購入し、人と接するときはマスクをしていますが、手指の清潔を保つために、どのくらいの頻度で、あるいはどんなタイミングで、手洗いやアルコール消毒をしたら良いのか、わからなくなってきてしまいます。

 

こうしてPCに向かっていると、キーボードを触ります。その指でメガネを持ち上げたりすると、「えっと、これは大丈夫なのか?」と一瞬不安が頭をよぎります。

 

トイレに行き、手を洗い、トイレのドアを開けて廊下に出ると、「ドアノブ触ったから、もう一回手洗いしたほうがいいのかな?」と考え、結局洗面所に行って、石鹸で洗います。

 

車に乗るとき、やはりドアを手で開けます。すぐにアルコール消毒です。

 

 

このスパイラルに陥ると、強迫観念に取りつかれてしまい、ややもすると、もっと深いぬかるみに足を奪われそうな感覚になってきます。

 

ウイルスは見えない悪魔だけれども、むやみに武器を振り回して、自分自身が疲れ切ってしまっては、この長い闘いを闘い抜くことはできません。

 

強迫性障害をお持ちの方は、なおのこと安心できない日々を過ごしておいででしょう。ガマンするのも、とてもエネルギーが要ることです。

 

そんなときは、「闘ったら休息をとる」ということを思い出してください。戦士の休息です。

どーせ、ステイ・ホーム週間なんですから、いっそ本当に眠ってしまうとか、たっぷりお休みしてください。免疫力もアップして一石二鳥! 死ぬほどハンドソープを使い、高価なアルコール消毒液を購入し、ペーパータオルやウェットティッシュを大量買いするだけでも、ぐったりしちゃいますから、

 

♪手を洗ったら、すぐお布団~

 

ちょっとやってみてください。案外効果的です。

「自分の居場所を見つけよう」の巻

 ひさしぶりのブログです。ごぶさたしています。

 

 この数年で、私は弱者に寄り添い、心の内を理解・共感・受容するというトレーニングを積んできました。現在、市行政からの受託で、「就労支援者」として働いています。対象者は、生活保護受給者ならびに生活困窮者です。

 こういった方々の中には、精神疾患を抱えている当事者(あるいは家族が精神疾患を持っている)ケースも散見され、単に「仕事が欲しい」という要望だけに応えていても、結果が芳しくない場合が多々見られます。

 

 自分にとって仕事とは何か?

 自分が本当にしたい仕事は何か?

 自分にできることは何か?

 その仕事に就くために必要なものは何か?

といった観点から、目標設定をしていきますが、支援を利用する人(利用者さん)自身が、自分でも気づかないところで、さまざまな悩み事を抱えていたり、あるいは、気づいていても話してくれないケースもあります。

 

 自分がどうみても「社会的弱者」なのではないか? と感じている方にお願いしたいのは、〝自分の居場所”をさがしてみませんか? ということです。安心・安全基地を自分で見つけることが大切なんです。

 

 例えば、私の例で恐縮ですが、私には3つの安心・安全基地があります。

1)夫とくまのダッフィと柔らかい毛布

2)職場

3)喫茶店やカラオケ屋さん(今はカラオケは自粛していますが)

 

1)は「ぬくもり」がキーワードです。夫はニンゲンですから、体温があります。ツライときは、手をつないでもらったり、背中をさすってもらったり、ハグしてもらったりします。それだけで、幸せホルモン(=オキシトシン)が分泌されて、本当に安らぐのです。くまのダッフィは、ふわふわとしていて、抱きしめているだけで、独りぼっちを忘れさせてくれるような安心感をもたらしてくれます。毛布も同様で、ちょうど『PEANUTS(スヌーピーの出てくる漫画)』のライナスのように、自分の中にある子どもの感覚(インナーチャイルドと言います)を呼び覚ましてくれて、本当は自分はどうしたいのか、という自身の「わがまま」に気づかせてくれます。また、毛布にくるまっているだけで、ホッとして、眠くなってしまうこともあります。安心・安全だからこそ、眠気がくるんですね。

 

2)職場は、自分と社会とをつなぐ自分の居場所です。メンタルが弱っているときに、環境の良くない職場に居続けると、うつ病を発症してしまう人がいるように、職場選びは慎重に行うべき事柄のひとつです。お子さんの場合は、学校の環境が大切です。いじめに遭ったりしていると、学校そのものが、子どもにとって、安心・安全基地ではなくなってしまうからです。あらゆる誤解を恐れずに申し上げます。「心を護れないと感じたら、そんな職場や学校から、すぐに逃げてください!」

これは、「家庭」にも同じことが言えます。自分の心を護れないような家庭からは、今すぐ離れて! お子さんだったら、警察に行きましょう。大人の方なら、行政に行って相談してください。必ず、あなたを助けてくれる制度があります。

 

3)趣味を、自分の安心・安全基地にするというのも、とても楽しい方法です。集中できることや、夢中になれること、没頭できること、何か無いでしょうか? そのことに向き合っている間は、安全・安心基地に身を置いていることになります。

 

 「私はここにいます!」と言える場所。

 「私は今、ここにいるんだな~」と実感できる場所。

 「私はこれをしていると楽しいんだ!」と思える場所。

それが、あなたの居場所です。いっしょに居場所をさがしてみませんか?

 

 

昇太は、ワタシが育てたんだゾ!

今日は、人生最大級にうれしいことがありました。「笑点」の時期司会者に、春風亭昇太が選ばれたことです。


実は、私、昇太がまだ二つ目だった頃から、ずっと追っかけをしていました。出世の早い噺家さんだったので、あっという間に真打になり、最初は簡単に取れていたチケットも次第に取りにくくなっていきましたが、それでも私は彼の高座に通いつづけました。


中でも忘れられない思い出は、今から20年以上も前のことですが、今は無き「ル・ピリエ」で、観客のじゃんけん大会になり、なんと私が勝ち残ってしまって、舞台に引きずり込まれて、そのときゲスト出演していた芸人さんの蝶々の衣装を背負わされたことです。無理やり舞台に上がらされたので、膝の上に載せていたバッグが床に落ちたのを、昇太さんが拾ってくれたのを、私は見逃しませんでした。思えば、とてもファンを大切にしてくれる人で、今回の司会抜擢も、そういうかわいげのあるキャラクターがあったからだと思います。


ファンの一人として、今回の司会発表の前に、「昇太の可能性もゼロではない」と私は思っていました。笑点の特番などで司会役をすることがあった昇太ですが、仕切りがとてもうまく、アドリブの利かせ方がうまくて、嫌味がないのがとても良いなぁ、と思っていたのです。


本当にうれしい今夜ですが、古いファンとしては、ちょっとだけ淋しい気持ちにもなります。池袋の北口を個性的な私服を着て、一般人に混じって歩き、電車に乗って家に帰っていた昇太を、もう見ることができないでしょう。だから、せめて、結婚しないでね、昇太さん!

最近、読んだ本【福祉5】

新書470発達障害 境界に立つ若者たち (平凡社新書)

新書470発達障害 境界に立つ若者たち (平凡社新書)


社会の中で、とかく疎外されがちな発達障害の人々。私の身近にも発達障害の人がいて、どう接したら良いかわからずにいました。


この本は、発達障害に類するさまざまな障害者ひとりひとりにスポットをあてて、かつてA学院という発達障害の若者たちに学習の場を与えてきた学校の元教師が著した本です。


初めは熱血教師だった彼が、経験を重ねるうちに、「克服できない障害」の現実を知り、あきらめるのではなく、彼らに合わせた社会の在り方を考えるようになっていきます。残念ながら、少子化の影響を受けて、A学院は閉校してしまいますが、この本が世に出たという事実だけは、永遠に残ります。


一見ふつうの人に見えるのに、簡単な計算問題がとけなかったり、漢字が書けなかったり、空気を読めなくて人に迷惑をかけてしまったり、健常者にとっては簡単にできること、たとえば「この仕事とこの仕事とこの仕事をお願い」と頼まれると、もうそれだけで頭の中が混乱してしまうような、そういった人たちが、発達障害者です。自閉症と呼ばれるものや、ADHDなども発達障害で、さまざまな症状があります。トム・クルーズも「ディスクレシア=難読症」といって文章を読んでも意味が理解できず頭が混乱してしまうという発達障害を持った人の一人です。でも、彼は俳優として大活躍していますよね。日本にも、ごく一握りではありますが、東大だとか一流の研究所などで、突出した才能を活かして、人生の壁を乗り越えている人がいます。


しかし、この本に出てくる人びとは、皆、職を転々とし、健常者から無用の人として扱われ続けてきた「ごく一般的な発達障害者」なのです。私たちは、根本的な部分で彼らを救うことはできないかもしれませんが、手伝えることくらいならありそうだな、と思いました。