まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

ChatGPTは数字語呂合わせの文章を適切に作れない

ChatGPTに数字の語呂合わせになる文(「いい国」→1192のようなやつ)を作ってくれるように頼んだが、全然できなさそうなことがわかった。言語系のタスクは得意だと思っていたので(また語呂合わせになる文を作るプログラムを組むのは簡単だと思うので)意外だった。

数字語呂合わせのなんたるかをわかっていないchatGPT

不満研究事件・「『わが闘争』論文」について

さて以前のエントリで述べた不満研究事件だが、このプロジェクトのメンバーのプラックローズとリンゼイが書いた本が翻訳されるという(原著についてもわたしは未読)。この本が話題になる理由の一つには彼らがこの事件を起こしたからだろう。しかしわたしは、少なくとも不満研究事件に関するかぎり、彼らの主張の解釈にはかなり注意が必要で、きちんとした検討なしに額面通りうけとることはできないと考えている。このエントリではそれを一つの偽論文を題材にして述べる。

なおこのエントリは長くなってしまった(一万字を越えた)ので目次を付けた。

不満研究事件と偽論文の概要

事件全体については詳しくは以前のエントリを見てほしいが、簡単に説明すると上の二人にボゴシアンを加えた三人(以下BLP)が、彼らが「不満研究」と呼ぶ学問分野(ジェンダー研究など)を対象にして学術雑誌に偽論文を投稿し、その一部が採択されたというものだ。彼らによると、これらの偽論文は方法的・倫理的に大きな問題がある一方、不満研究が支持するイデオロギーに沿った主張をしている。したがって偽論文の採択はこうした分野がイデオロギーに駆動されて腐敗していることを示すとする。

とくに「フェミニストの『わが闘争』論文」(FMK)*1は、3600語近くがヒトラーの『わが闘争』からのリライトから構成されているにもかかわらず、Affiliaという女性学・ソーシャルワークの学術雑誌に採択されたという。

この論文が採択されたことは相当にインパクトのある事柄だと見なされているようで、日本語でこの事件について書かれている文章でも必ずといってよいほど言及されている*2。その意味でこの論文はBLPのプロジェクトのフラッグシップ論文の一つといってよいだろう。

しかしわたしはこの論文がBLPの主張を立証しているかはかなり微妙で、少なくとも彼らの主張を額面通り受け取ることは難しいと考える。

まずBLPの主張を整理しておこう。彼らはこの偽論文が採択されたことは不満研究(この場合はフェミニズム)の学術的腐敗を示すと主張する。その理由はおそらく〈『わが闘争』はどの部分をとっても検討に値しないほど倫理的・学術的に問題であるにもかかわらず、フェミニストは政治的な流行に乗った議論と学派内の文献を踏まえてさえいればヒトラーの本の叙述そのものであっても受け入れることを示す〉からだろう*3。問題はこの論文が採択されたことがこの結論を導くかどうかである。

偽論文は『わが闘争』とどこまで似ているか

まず問題になるのは、この論文の採択版と『わが闘争』*4がテキストの点でどのくらい似ているかだ。このためにわたしは両者を剽窃発見のための比較サイトで比較してみた。すると19個の段落で類似した部分が見つかった*5。その例をいくつか紹介する。

採択された論文(拙訳) 『わが闘争』の記述(平野・将積訳)*6
したがって、解放運動としてのフェミニズムの有効性の改善(あるいは、現時点では、有効性の回復)の問題は、根っこでは他の被抑圧者のグループとの団結を維持する問題なのである。これが正しいのは次のような理由からに他ならない。すなわち、運動の成功はパフォーマティビティに由来するのではなく、はっきりと認識できる道徳的方向性に由来するからである。*7 民族の政治的力の回復の問題は、第一に次のような理由からしてすでにわが国民の自己保存衝動を健全にする問題である。つまり、あらゆる準備されつつある外交政策や国家自体の評価というものは、経験からすれば、現在保有している武器によるよりも、認識されているか、あるいはとにかくも想像されている国民の精神的抵抗能力によって一層大きく左右されるものである。(433頁)*8
どんな人でも、自らの行動が他人の苦境を悪化させるかもしれない可能性を考慮せずに、自らの主張だけに資するような欲張りな要求を出す場合は、同胞性に基づく運動を「犯す」ことはたしかであるが、だが、チョイスフェミニストがその影響を自らの利益のために利己的・搾取的に用いるならば、彼女らもまた同胞との感情的絆を破壊するものである。[…] その時は、そうしたチョイスフェミニストは自身を抑圧に抗する者と考える本当の権利はなく、被抑圧者のコミュニティとの同胞性を主張する自らの権利を害するのである (Gibson, 2014)。むしろ彼女は自らの特権の扱いに失敗し、同胞性を損ない、社会的不正義を持ち込む (Greenberg, 2014)。そして彼女は同時に将来の対立を誘発し、ほとんどの場合に抑圧を改善する努力にとって損害をもたらすことになるのである。*9 (六) [...] もし労働者が公共の福祉や国民経済の存続を考慮せずに、自己の力に頼ってゆすりのように要求を出せば、かれらはほんとうの民族共同体の精神を犯すことはたしかであるが、だが、企業家が非人間的、搾取的な経営管理をして国民的労働力を濫費し、その汗の結晶から数百万の金をぼろもうけするならば、かれらもまたこの共同体をはなはだしく破壊するものである。その時は、かれらは自分が国民的であると振舞う権利も民族共同体について語る権利もなく、かれらは利己主義的なルンペンに過ぎない。というのも、かれらは社会的不和をもち込むことによって、どっちみち国民にとって損害になるに違いない後の闘争を誘発するからである。(442頁)*10
言い換えると、もし我々フェミニストが選択の誘惑や新自由主義の虚飾や男性からの承認に惑わされず、抑圧された人々(とくに人種差別、植民地主義帝国主義障碍者差別、同性愛者嫌悪、階級主義およびフェミニズムと交差するほかのすべての形の抑圧によって支配された人々)の利益を断固として守っていたならば、そしてまた、社会を作り替えるという関心事においてフェミニストが女性の選択への自らの意思を守るのと同じ強さでもってあらゆる形の抑圧に反対することにコミットすることを誓っておれば、そしておなじ意志の固さでもって抑圧されたすべての人々の解放を要求していれば、非常に高い確率で今日我々は平等であるだろう。*11 (一)[...] もし、ドイツ労働組合が戦時中に少しの容赦もなく労働者階級の利益を守ったとすれば、また、もし組合が戦時中でさえも当時の配当金に貧欲な企業家階級に対してひんぱんにストライキでもってかれらが代表している労働者の要求に同意することを強いていたならば、さらにまた、もし組合が国家の防衛という関心事についても同様に熱狂的に自分のドイツ主義信奉を公言し、また、もし組合が同じように他のことを顧慮せず祖国に属するものを祖国に与えていたとするならば、けっして戦争に負けていなかったことだろう。(437頁)*12

では両者はどのくらい似ているだろうか。わたしが最初に感じたのは「なんか微妙」ということである。両者は確かに似てなくもないが、フェミニズムの専門用語や引用などを入れ込んでいるお陰で両者の類似性はよくわからなくなっている。

ただしこの点については二点注釈が必要である。一つは、BLP自身もこの点をある程度認めて予防線を張っていることである*13

もう一つは、採択された論文における文章はAffilia誌に最初に投稿した際の草稿とは異なっている可能性があることである。査読報告を読めばわかるように、BLPはこの雑誌の査読者の求めに応じて元の草稿を(それなりに、あるいはかなり)改変している。BLPは査読報告のファイルの中で査読者への返答を載せているので、そこで改変が明らかになっている部分については上では引用しなかった。しかし査読者への返答でBLPは「全般的に書き方を見直した」と述べている箇所があるので、それでも元の草稿と同じかどうかはBLPがもとの原稿を公開していないため確言できない。ただし上の注でも述べたように、三番目の文章はAffilia誌の査読者が査読報告の中で引用しているので、こうした変更がなされる前の原稿であると推定できる。

ただ以下のことは言える。上の左の列だけを見てこれらが『わが闘争』の文章から由来することを見抜くのはほとんどの人にはほぼ不可能である。『わが闘争』を暗記するほど読み込んでいる人ならば気づくかもしれないが、そうでない人が両者の類似性に気づけると期待するのは全く現実的ではない。さらにBLPは『わが闘争』からの模倣文の間に自らが書いた文章を挟み込んでいるので(上の引用で「[...]」とした部分)、ますます気づくのは難しくなる*14

したがって、雑誌の編集者・査読者をこのテキストが『わが闘争』由来であることを見抜けなかったからといって非難することはできないし、偽論文のテキストを『わが闘争』とほぼ同じと考えるのもかなり微妙であるということができる。

偽論文が採択されたことはどこまで問題か

もしかしたら読者の中には「学術論文と『わが闘争』では文体が違うのだから、仮に模倣元を特定できなかったとしても、『何かがおかしい』ことは気づいてしかるべきだったのではないか」と考える人がいるかもしれない。

しかし雑誌の査読者の中にはまさにそのことに気づいていた人がいたのである。じつはこの論文はAffilia誌の前にFeminist Theoryという雑誌に投稿されて却下されている。そしてこの雑誌の査読報告を見ると、二人の査読者がともにこの草稿のトーンが学術論文とは合わないことを指摘しているのである。例えば一人の査読者は草稿中のあるフレーズが「アカデミックなテキストにしてはすこし大げさかもしれない」と指摘しており*15、(このことだけが理由ではないだろうが)この雑誌では却下されている。もちろんこの論文が別の雑誌で最終的に採択に至ったのは事実だが、査読者の中にトーンの違いに気づいていた者がいたこともまた事実である。

倫理的問題?

また「『わが闘争』は倫理的にきわめて深刻な問題のある著作なのだから、それを模して書かれた論文には倫理的にきわめて深刻な問題のある事柄が書かれているのではないか」と考える人もいるかもしれない。

しかし上の表の左の列を見てもらうとわかるが、偽論文の記述は――それに賛成するかどうかは別にして――(人種差別のような)きわめて深刻な倫理的問題がある主張にはなっていない。実のところ右の『わが闘争』からの記述もそれ自体で深刻な倫理的問題を含んだ記述にはなっていない。実際模倣元になった第一巻第12章ヒトラーがナチ党の最初の発展時代を描き、併せて党発展のために解決しなくてはならなかった問題を描写する章であり、例えばこの前の章(第11章=ヒトラーの人種思想が前面に出ておりユダヤ人蔑視に満ちあふれている)に比べると「どこをとってもきわめて深刻な倫理的問題がある」というような状態にはなっていない。

政治的アジテーション

もう一つの反論としては、「『わが闘争』というのは結局のところ政治的アジテーションの書なのであり、そこからの模倣文を含む論文はきちんとした議論を含まない単なるアジテーションに過ぎないのではないか」というものがあるだろう。

しかしこの点も複数の査読者によって指摘されていた部分なのである。例えばFeminist Theory誌の査読者はいくつかの鍵概念に十分な説明がされておらず、「○○すべし」と主張する言明がそこかしこでなされていると指摘する。Affilia誌の査読者の一人も偽論文の一つの節の記述は「非理論的過ぎる」と述べ、一般的な学術論文のカテゴリーではなくて「コメント」とか「論説」のセクションに投稿する可能性を示唆しているのである。

また採択された論文の中で『わが闘争』との類似点が見つかった部分は全体の1/5足らずであり(もちろんもっと見つかる可能性があるが)、その他の部分で議論を行っている可能性がある*16

さらに言うと、仮にこの論文がアジテーション的論文だったとしても、このことがただちにこの分野が腐敗していることを示すわけではない。というのは一般に腐敗してないとされている分野でも、アジテーション的論文は存在するからである。例えば日本の哲学者でいうと戸田山和久氏には自ら「政治的パンフレットに近い」と称した論文があるし*17、その他の論文・本についても「特定の哲学的立場をプロモートする」という性格が強い(そしてわたしはこのことを必ずしも悪いこととは考えていない)。

もし「アジテーション的論文が一篇あるだけでその分野が腐敗していると診断する」のが行き過ぎなら、「どういう時に(どういう頻度で)アジテーション的論文を書くのが許されるのか」というのが問題になる。しかしそれについて議論するには分野についての知識がもっともっと必要であり、簡単に「アジテーション的論文があるからこの分野は腐敗している」とは言えない。

結論

こうした点から見ると、「『わが闘争』論文が採択されたことが不満研究の腐敗を示す」と考えるには重大な疑念が残るといわざるを得ない。もちろんこのことは――以前のエントリで述べたように――この事件に際して不満研究側の雑誌編集者・査読者に問題がないとわたしが考えていることを意味しない。例えば論文を採択する際にはもっと綿密な議論をすることを著者に求めるべきだっただろう。しかし「編集者などに問題がある」ということと「分野全体が腐敗している」ということはだいぶ異なる事柄であり、この偽論文から後者を論証されたと言うのはやはり言い過ぎに思えるのである。

*1:これはBLPが論文に付けた愛称・略称。実際の論文名は"Our Struggle Is My Struggle: Solidarity Feminism as an Intersectional Reply to Neoliberal and Choice Feminism"

*2:例えば、上の本の宣伝文でも言及されるようだ。

*3:Project Summary, p. 8.

*4:なお後に述べるように、BLPが模倣したのは『わが闘争』全体ではなくて、その第一巻第12章からである。Project Summary, p. 8.

*5:ただしこの比較は手作業でおこなったので、他にも類似点がある可能性がある。

*6:以下では訳文にある段落分けは省略している。

*7:原文:Thus, the question of improving (or, at this point, regaining) feminism's effectiveness as a liberatory movement is, at root, a question of maintaining solidarity with other oppressed groups. This is the case for no other reason than because movements derive their success less from performativity than from a clearly recognizable moral orientation (Reicher et al., 2006). (p. 8)

*8:以下英訳はここから。The question of regaining our people's political power is primarily a question of recovering our national instinct of self preservation, if for no other reason because experience shows that any preparatory foreign policy, as well as any evaluation of a state as such, takes its cue less from the existing weapons than from a nation's recognized or presumed moral capacity for resistance.

*9:原文:As certain as any given person "sins" against a movement predicated on allyship when, without considering the ways her actions may aggravate the plight of others, she raises acquisitive demands that serve her own causes narrowly, a choice feminist likewise breaks the affective threads of allyship when she applies influence to her own benefit in a selfish or exploiting way. [...]. Such a choice feminist has no real right, then, to designate herself champion against oppression and spoils her right to claim allyship with an oppressed community (Gibson, 2014). Rather, she mishandles her privilege, fails her allyship, and induces social injustice (Greenberg, 2014). And she does this while provoking future conflicts in such a way that too frequently end in harming the effort to remediate oppression. (p.11)

*10: (6) [...] Just as surely as a worker sins against the spirit of a real national community when, without regard for the common welfare and the survival of a national economy, he uses his power to raise extortionate demands, an employer breaks this community to the same extent when he conducts his business in an inhuman, exploiting way, misuses the national labor force and makes millions out of its sweat. He then has no right to designate himself as national, no right to speak of a national community; no, he is a selfish scoundrel who induces social unrest and provokes future conflicts which whatever happens must end in harming the nation.

*11:原文:Put another way, if we feminists had, rather than becoming distracted by seductions of choice, the baubles of neoliberalism, or male approval, implacably guarded the interests of oppressed people --- especially those dominated by racism, colonialism, imperialism, ableism, homophobia, classism, and all other manners of oppression that intersect with feminism --- and if in matters of remaking society feminists had avowed only their commitment against oppression of all forms with equal intensity as they defended their will to female choice, and if with equal firmness they had demanded emancipation for all those oppressed (cf. hooks, 2000), today we would very likely have equality. なおこの部分は採択された論文からではなく、Affilia誌の査読者が引用した部分、すなわちAffilia誌にBLPが投稿した際のもとの原稿から引用している。

*12:If during the War the German unions had ruthlessly guarded the interests of the working class, if even during the War they had struck a thousand times over and forced approval of the demands of the workers they represented on the dividend-hungry employers of those days; but if in matters of national defense they had avowed their Germanism with the same fanaticism; and if with equal ruthlessness they had given to the fatherland that which is the fatherland's, the War would not have been lost.

*13:プロジェクトサマリーで「論文を出版可能にするため、『わが闘争』のもとの書き方と意図をかなり変更している」と書いている(8頁)。

*14:さらにBLPは、スムーズに『わが闘争』の模倣文の部分に移行するために、論文の最初1/3は『わが闘争』から借用していないと述べていることも忘れてはならない。

*15:FMK Reviewers Commnets, p. 18. 仮にBLPがこのコメントに対応してトーンを変えていたとしたら、Affilia誌投稿時には論文の文章は『わが闘争』の原文からさらに離れていたことになる。

*16:ただしこれを行うにはフェミニズムについての知見が必要になるので、現時点では検討できない。

*17:戸田山和久: 科学(者)の中の哲学(者). 哲学の探求29: 15-30, 2001

新刊(共著本)のご案内

論文を寄稿した本が刊行されました。

わたしの章ではこれまで刊行した拙論の議論を踏まえて「種問題がどこまで重要か」という問いを提起しています。ご笑覧ください。

不平不満研究事件について

不平不満研究事件(「フェミニズムソーカル事件」と呼ばれることもある)について、ラゲルスペッツ(Lagerspetz)という社会学者の論文を読んだので、それを簡単に紹介したい*1

事件の概要

不平不満研究事件(The Grievance Studies Affair)とは、2018年にピーター・ボゴシアン、ジェームス・リンジー、ヘレン・プラックローズの三人の研究者(以下BLP)が、彼らが「不平不満研究」(Grievance Studies)と呼ぶものを対象にしていくつかの学術雑誌に偽論文を投稿し、その一部が採択されたというものだ。

三人の説明では、「不平不満研究」とは具体的にはジェンダー研究・批判的人種理論・ポストコロニアル理論や、他の「〇〇理論」と呼ばれるものに基づく分野(人文系だけでなく、社会学や人類学を含めた社会科学にも存在する)のことを指す。これを彼らがなぜ「不平不満研究」と呼ぶかというと、こうした研究が自らを「〇〇スタディーズ(〇〇研究)」と呼ぶことが多く、加えてこうした研究が特定のアイデンティティを持つグループの不平不満に焦点を当ててそれをたきつけるからである。*2

このプロジェクトではBLPは不平不満研究を構成する様々な分野の学術雑誌を標的にして、わざと論理的・倫理的に深刻な問題を含めた、しかしその分野の先行研究を参照して分野の専門用語をちりばめた偽論文を作成して投稿した。

このプロジェクトで彼らが示そうとしたのは、不平不満研究では探究の方法や議論に深刻な論理的・倫理的問題があっても、引用や専門用語でその分野の論文の外見を繕ってかつ分野のイデオロギーに合致していれば採択されるということだ。そしてこれはこの分野が特定のイデオロギーに駆動されていて腐敗している(corrupted)ことを示すという。

BLPは不平不満研究の腐敗を証明したか?~ラゲルスペッツの議論

ラゲルスペッツの論文はBLPのこの主張を検討する。具体的には、三人が投稿した論文のうち採否がはっきりしている16論文・21件のケースを分析し、そこからBLPが主張していることが言えるかどうか検討した*3。そして検討の結果、彼はBLPの主張は額面通り受け取れないと述べる。

例えば彼は偽論文を採択した雑誌とリジェクトした雑誌のインパクトファクター(IF)を比較して、両者のIFの差が統計的に有意なことを見いだした(論文の表2)。*4

また論文の採択率は論文の分野や論文の種類によってことなる。BLPが投稿した偽論文は経験的データを集めてそこから考察した論文と、純理論的な論文に大別される。経験的な論文の例は``dog park''論文である*5。この論文では、著者は米オレゴン州ポートランドのドッグパークで一年間の間そこに集まるイヌ同士の性交/レイプ(humping/rape)を観察し、それが生じたイヌの性別ペア(雄/雌、雌/雌など)やそれに対する飼い主の性別と反応を記録し*6、飼い主がもつ男性中心主義やレイプカルチャー(レイプなどの性的暴力に寛容な態度を見せる社会傾向)がどのように飼い犬に対する態度に表れているかを明らかにしようとした。理論的な論文の一つは``HoH2''論文で、これは被抑圧者が抑圧者に対して行う冗談と抑圧者が被抑圧者をターゲットに行う冗談を比較して、前者がどのようにして抑圧者に対抗する役に立つか、そして後者がどのような意味で非難されるべきなのか問題なのかを論じた。

このように偽論文を区分した上で、ラゲルスペッツは経験的な論文の方が純理論的な論文よりも採択率が高いことを指摘する。例えば経験的論文では5回投稿中3回採択されたのに対して、理論的な論文では15回投稿中採択されたのは3回にすぎない。したがって新しい経験的データが得られたと主張することが偽論文の採否に大きく影響したことがうかがわれる。

さらに論文の分野も採択率に影響を及ぼす。偽論文のトピックおよび投稿する学術雑誌の分野には歴史や成熟度において大きな差がある。例えば肥満研究と社会学を比べると、前者の方が歴史も浅く方法論も成熟していない(結果としてIFも前者の雑誌の方が低くなる)。それを反映してか、偽論文の採択率は前者の方が後者よりも高くなっている。

これは次の論点にも関係する。このプロジェクトでBLPは査読プロセスにおいて査読者のコメントに対応して論文を改訂している。例えば上の``dog park''論文では第一ラウンドの査読で「修正の上再投稿」(revise and resubmit)という判定が下ったものの、その際の査読者のコメントに対応することで、第二ラウンドで採択という判定を獲得している。このとき、査読者には少なくとも二つの役割がある。一つは学術雑誌に掲載される論文に一定のクオリティを保証するゲートキーパーの役割であり、もう一つは投稿された論文が多少荒削りであってもそのよい点を見つけ出し励ましていくことである。

この二つの役割のうち査読者がどちらを優先するかは状況によって異なるだろうが、今回の審査では査読者が第二の役割をより強く果たすと想像できる理由があった。一つは上で述べたように偽論文が投稿された雑誌は歴史の浅い・成熟していない分野が大きかったことである。こうした分野では、厳しい審査基準を敷いて多数の論文をはじいていくことよりも、多少あらがあっても新規性のある論文を伸ばしていくことに焦点が当たりがちになるのは想像に難くない。

もう一つの点は、BLPの偽論文の多くはそれぞれの分野で新しいトピックに取り組んでいたことである。例えば``dog park''論文の「レイプカルチャーをイヌの性交/レイプへの飼い主への反応の中に見いだす」という試みは、人と動物の関係をフェミニズム的な問題設定から分析するということで、当該の分野から見ると新規性が十分あるように見なされたと解釈できる。

すると偽論文の査読プロセスでは、査読者は論文の長所短所を認めつつクオリティを上げていくのを手伝おうとしたし(これは例えば査読報告の分量が大きいことに現れている)、BLPもそれに応えて論文を改訂した。するとこのプロセスを通じて真剣に書かれた論文と偽論文のちがいはしだいにはっきりしなくなったとラゲルスペッツは述べる。さらにこうした新規性のあるトピックについて書かれた論文は――たとえその完成度に改善できるところがあっても――新たな議論を引き起こすという意味で学術的に価値のあるものとも言える。

すると「偽論文を採択したのだから、こうした学術雑誌はクオリティコントロールができていないのだ」という判断は査読の一方の機能しか見ていないことになる、とラゲルスペッツは示唆する。

ゲートキーパーの役割

しかし「そうはいっても査読者はゲートキーパーの役割も果たすべきだったのではないか」と考える人もいるかもしれない。これに対してラゲルスペッツは査読者がそうした役割を果たした例もあることを指摘する。

一つは経験的な論文の例である。例えば上の``dog park''論文で述べられた「観察」の記述には怪しいところがある。BLPが挙げているのは、この論文では著者はドッグパークに集まったイヌの性器を一万匹近く精査(examine)したと述べるが、それについて査読者からは何も指摘されなかったとする点である*7。BLPはこれをもって不平不満研究では方法論についてのまともな吟味がなされていないと示唆しているように見える。

しかしラゲルスペッツは、実際には査読者は偽論文の観察の問題点を指摘していると述べる。例えば(ラゲルスペッツの論文には書いていないが)``dog park''論文の査読報告を見ると、第三査読者は次の点に問題があると述べている*8

  • 性交/レイプに際してイヌがいやがっていることがどうしてわかるのか。
  • 「いやがっている」と判定するための理由はなにか。
  • またそうした判定を誤りなく行うための専門知識や訓練の経験(例えば動物行動のトレーニング)を著者が持っていることを示していない。

その上でラゲルスペッツは偽論文の著者がこうしたコメントにきちんと対応しており、自分がこの論文の最終版を見せられたとしても、(こうしたデータがでっち上げであることを知らなければ)この論文の方法論を受け入れるだろうと述べる。

また理論的な考察についても査読者が疑念を呈した例がある。具体的には偽論文の中でしばしば呈示される過激な構築主義(radical constructivism)については、査読の中で批判される例が多かったという。例えば``Feminist Bodybuilding''という偽論文が専門誌から却下された際のコメントは以下のようである。

女性のボディビルダー(より広くは女性アスリート)と彼女らが筋肉を増強する能力が、女性らしさについての社会的基準によって制限を受けている、というのは妥当な議論である。しかしこれは、女性に枠をはめてきたのは社会化だけであって生物としてのあり方は何の役割も果たしていないと言うことではないし、これを支持する議論を作るのはもっとずっと難しい。著者の主張は後者のように見えるが、適切に立証されているわけではない。*9

結論として、こうした点からラゲルスペッツは、このプロジェクトにおいてBLPが示したかったことは示されなかったと主張する*10

*1:いうまでもないことだが、このエントリはラゲルスペッツの論文をわたしの興味に従って紹介するものであり、論文にはこのエントリに書かれていない論点も多数ある。興味のある人は論文を直接読んでほしい。また、最後の注で述べるように、わたし自身の立場とラゲルスペッツの立場は異なることにも注意してほしい。

*2:ここやBLPのプロジェクトサマリー(これは彼らが公開している草稿と査読記録の入ったグーグルドライブのフォルダで手に入る)を参照。なお日本のネットではこの事件を「フェミニズムソーカル事件」と呼ぶことが多いが、上で見たようにBLPの対象はジェンダー研究だけではない。

*3:BLP自身が述べているように、このプロジェクトはウォールストリートジャーナル紙の記事になったことで当初の予定よりも早く終了した。したがって、終了時時点で最終的な採否が確定していない草稿が四本存在する。

*4:ただしこれをもって雑誌のランクによるクオリティの選別が働いていると考えるのは危険だし、ラゲルスペッツもそうは述べていない。というのは(ラゲルスペッツは述べていないが)偽論文の投稿先には様々な分野の学術雑誌が含まれるが、分野によってインパクトファクター(IF)の「基準値」は異なるからである。論文の多い活発な分野ではIFは高くなる傾向があるし、そうでない分野ではIFは低くなる。そうすると「活発な分野のn流誌のIF(n>1)>そうでない分野の一流誌のIF」ということが起こりうる。例えばBLPの偽論文を採択したHypatiaという雑誌はフェミニズム哲学の分野では最もプレステージの高い雑誌の一つであるにもかかわらずIFは1以下で、多くの経験科学分野の非一流誌よりも低い。するとこの雑誌に採択されたことで、その分野ではランクの高い雑誌に採択されたのに「採択された雑誌」というカテゴリーではそのIFの平均値が下がるということが生じうる。したがって、採択された雑誌の分野の組成と不採択の雑誌の分野の組成をそろえない限り、こうした比較はできないことになる。

*5:論文の名前はBLPがつけた略称・愛称。

*6:念のため述べておくと、もちろんこうした観察は捏造である。

*7:ここのPart II下から二段落目。

*8:この意味で上のBLPの言はミスリーディングだとわたしは考える。

*9:ラゲルスペッツの論文(ファイル16頁、雑誌だと417頁)から再引用。

*10:なお、このエントリを準備するにあたりわたしはBLPの論説や偽論文・査読報告をいくつか読んだが、わたし自身の立場は、「BLPの主張を額面通り受け取ることはできないが、ラゲルスペッツよりは不平不満研究に批判的になる」というものである。例えばラゲルスペッツの分析では``dog park''論文が採択されたことには学問上の問題はほとんどないということになるが、わたしはこれには同意しない。ただこれを展開するにはもっと準備が必要なので、またの機会にしたい。

『現代思想』誌「進化論の現在」は看板倒れ

現代思想』誌2021年10月号は「現代思想 2021年10月号 特集=進化論の現在 ―ポスト・ヒューマン時代の人類と地球の未来―」と題された特集だった。わたしはこの特集全体の企画意図に問題があると考えるので、手短に述べたい。

わたしの不満は一言で言うと「この号の中身は『進化論の現在』という題名と釣り合っていない、とくにこの題名で生物学の哲学の成果をほぼ無視するのは問題ではないか」ということだ。

まず前半からいこう。哲学・思想系の雑誌が「進化論の現在」という特集を組むときにどういうことを扱うべきか。もちろん決まったルールがあるわけではないが、次のようなトピックが扱われると考えるのが自然だろう:

  • 進化論(進化生物学)の研究の現状
  • 進化論の種々の側面についての哲学的論争の現状(たとえばやや古い話だがここで触れられているような議論)
  • 進化論からの哲学研究へのインプリケーション(たとえば意識の進化的起源をめぐる研究は最近有卦に入っている分野であり、邦訳も次々と出版されている(これこれこれ)。こうした研究は心の哲学へのインプリケーションがあると期待されている)

実際、同誌の過去の進化論特集(これこれこれ)では、そうしたトピックについての寄稿が多くを占めていた。ところがこの特集ではそうしたトピックについての寄稿がほとんどない。代わりにあるのはスペンサーやベルクソン、グレーバーといった人たちや米国のニューソート運動についての思想史的考察や、肥満についての社会学的な考察である。これはある意味当然で、というのは執筆者の方の専門を調べると、思想史・文化人類学の研究をされている方がかなりの割合を占めているからである。

もちろんわたしはこうした論考の学術的価値を疑っているわけではない*1。しかしこれが「進化論の現在」を表しているかというと、それは疑わしい。こうした研究は進化論(の哲学的考察)そのものではなく、そのいわば周辺領域に属する議論であって(繰り返すが、だからといって各研究の学術的価値が減ぜられるわけでは全くない)、これで「進化論の現在」を名乗るのは麓の神社だけ参詣して本体に参拝しないようなものである。

もう一つ気になる点は、この特集における生物学の哲学の不在である。上で述べた〈思想系の雑誌が「進化論の現在」で扱うべきトピック〉の多くは生物学の哲学と呼ばれる分野が議論してきたものである。例えば日本における生物学の哲学者(だけでなく哲学的な側面に興味を持つ生物学者)が集まる生物学基礎論研究会のウェブサイトを見ると、こうしたトピックが恒常的に議論されていることがわかるだろう。にもかかわらず、今回の特集の寄稿者には生物学の哲学に関わる研究者がほとんどいない。例えば生物学の哲学の輸入期に出版された二つの教科書(『進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)』『セックス・アンド・デス―生物学の哲学への招待』)の翻訳者とこの特集の執筆者の間にはほとんど重なりがない*2

これが5年前ならこれも理解できる面がある。というのは生物学の哲学およびその研究者はほとんど知られていなかったからだ。しかし今となっては事情が異なる。例えば日本人の著作に限っても、『進化論はなぜ哲学の問題になるのか―生物学の哲学の現在“いま”』『生物学の哲学入門』『進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)』『創発の生命学 ―生命が1ギガバイトから抜け出すための30章―*3エントロピーから読み解く生物学―めぐりめぐむわきあがる生命』『The Role of Mathematics in Evolutionary Theory (Elements in the Philosophy of Biology) (English Edition)』『理性の起源 (河出ブックス)』『種を語ること、定義すること: 種問題の科学哲学』といった本が出版されている。

さらにこうした研究者は国際的な出版物も多い。例えばこれこれこれこれこれこれこれこれこれこれこれである。そうすると「進化論の現在」と銘打って思想誌が特集を組むのにどうやってこうした人たちを半ば無視することができるのか、わたしにはわからない。

こうして書くと、この問題は結局この特集の題名と内容のミスマッチに過ぎないと思う人もいるかもしれない。確かにその面もある。しかしわたしから見ると、内容にもう少し即した、それでいて売り上げに同程度の正の影響を与えるような題名を付けることができたはずである*4。それができなかったということは、編集部が「進化論の現在」が何を意味するかをこの分野の哲学的・思想的地図に位置づけないままに、この号を編集したように思えるのである。

*1:実際、米田氏や伊東氏、橋本氏などの議論には蒙を啓かされた。

*2:ただし美馬達哉氏の論考では"Biology and Philosophy"誌に掲載された論文について議論がある――これはわたしには哲学・思想誌で「進化論の現在」と銘打った特集を行う限り生物学の哲学から逃れるのは難しい(にもかかわらず編集部はその事実を無視した)ことを示しているように思える。

*3:なおこの本は『現代思想』誌と同じ出版社から出されている。

*4:例えば「進化論の文化学」とか「進化論と人類の未来」といったものが考えられる。