お知らせ3つ

【お知らせ1】
ポレポレ東中野で2月18日から公開される映画作品、小森はるか「息の跡」のパンフレットに「厄災を書くこと、聞くこと」という文章を書いています。
http://ikinoato.com/


【お知らせ2】
また「息の跡」の上映に合わせて同館で期間限定上映される(2月18日〜3月10日)、小森はるか+瀬尾夏美「波のした、土のうえ」について論じた文章、≪波のした、土のうえ≫論をnoteの方に掲載しました。この文章は「引込線2015」のカタログに書いた文章です。
https://note.mu/yukihartista/n/n879233a28aaa

「息の跡」「波のした、土のうえ」は、もっといろんなアプローチ、解釈が可能な作品だと思いますので、是非、多くの方に観てもらい、そして論じてもらいたい作品です。


【お知らせ3】
ART CRITIQUEの方に「本当に消去されているのは誰か」というタイトルで、小泉明朗展「空気」についてのレビューが掲載されています。ちょっと前の展覧会ですが、こちらの方も宜しくお願いします。
https://note.mu/art_critique/n/ncbb262fae6a3

「≪波のした、土のうえ≫論」

「引込線 2015」のカタログに、「≪波のした、土のうえ≫論」という文章で参加しています。小森はるかと瀬尾夏美の映像作品について論じたものです。

小森はるか+瀬尾夏美「あたらしい地面/地底のうたを聴く」展/ギャラリー・ハシモト

ギャラリー・ハシモトで開催されていた小森はるか+瀬尾夏美「あたらしい地面/地底のうたを聴く」展について。前作(「波のした、土のうえ」)と比較すると、被写体となる人物たちとカメラの距離が一歩踏み込んだ距離、関係になっている印象を受けたが、それ以上に気になったのは嵩上げされた大地・高台が迫ってくる圧迫感である。被写体となる人物たちの背後には常に造成された高台が控えているので、作品は終始、浅い空間の中で進行して行くことになる。しかし、一瞬だけ奥行きのある光景が映し出される。それは造成された高台の上からの光景である。
「新しい地面」から見渡す光景はSFのようである。しかし、私にはそこから見える光景をどう理解したらよいのかが分からない。そこに「未来」や、或いは「崇高」なものを見るべきだろうか。「新しい地面」に立てば、迫りくる圧迫感から逃れることが出来るかも知れない。しかしそこは一体、何処なのだろう。
映像の画面を見ると、嵩上げされた大地は大別すると3段、細別すると15段の堆積土で形成されているように見える。将来において、この嵩上げ堆積土層がどのようにカウントされるかは分からないが、仮にこれを15層からなる堆積土層と見なしてみると、15層というのは、層位数だけでいえば、たとえば仙台市の沿岸部ならば2000年前の津波の堆積物が出土する層位数*1になる。「なにか大変なことが起きている」の「なにか」とは、こういうことである。もちろん地域や場所によって違いはあるだろうから、一概に「2000年」とは言えない。しかし、それが1000年であろうが、10年であろうが、造成された堆積土層には一切の記憶が刻まれていないのである。記憶を持たない層が堆積していく、これほど恐ろしいことがあるだろうか。正にSF的である。
こうした状況下で「地底のうたを聴く」という選択肢が出てくるのは至極当然だと言える。そこでどういう方法が選択され、どういう方向に向かうのかは、まだ分からないが、今後の展開を期待したい。

*1:あくまでも層位数であって、深さではない。深さでいうと、仙台市沿岸部で2000年前の津波堆積物が確認出来る深さは5メートル弱であるが、陸前高田の嵩上げ工事は3倍の15メートルになる。

新関淳の『フクシマと福島』について

新関淳の『フクシマと福島』について

新関淳の『フクシマと福島』(「6号線」のフリーペーパー)は、新関が両親の生まれ故郷である福島県伊達郡川俣町に、友人2人と車を走らせた記録で、写真と文章で構成されている。水平線が強調された写真(車窓の風景を感じさせる)と文章、共に好感が持てるが、自身のルーツである「福島」に車を走らせた記録としては、古川日出男の『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社)が先行してある。「先行してある」というより、様々な葛藤を抱えながらも福島に向かった人たちが幾人もいたという証の一つとして、新関の「フクシマと福島」もあると言うべきだろうか。両者に共通しているのは、たとえ帰還が叶わなくとも戻るべき場所として福島があり。その場所性から「フクシマ」ではなく、「福島」が語られていることである。しかし、ここで注視したいのは両者の共通点ではなく相違点である。

新関の『フクシマと福島』も古川の『馬たちよ』も共に福島の記録である。しかし新関が最初に決められた「日帰り」という約束事をきちんと守り、東京の日常に戻っていくのに対して、古川の『馬たちよ』では、旅の途中で古川と古川の小説の登場人物との対話が始まり、現実の世界から架空の世界に流出していく。古川の選択は明らかにドキュメンタリーの逸脱である。しかし、そこには逸脱という言葉だけでは説明できないものがある気がする。何故なら、アライダ・アスマンが指摘するように「芸術の永遠願望は、核廃棄物において実現されている」(『想起の空間』、水声社)からである。

核廃棄物と芸術の相同関係を前提にすると、福島の被災地で人間の居ない世界の美しさ(或いは穏やかさ)を眼にした古川が、架空の、おそらく「時間を持たない」世界を選択したとしても不思議はない。何故なら時間性において芸術は核廃棄物に負けているからである。これに対抗する手立ては極めて少ない。造形芸術であればキーファーの様に鉛を素材として選択する手があるかも知れない(「二つの大河に挟まれた大地」)。しかし、保存力を優先した場合、「美」は何処にいくのだろうか。

致命的な死を齎すという理由から私たちはそれを恐れ醜いものと見なし表現する。特に「汚染」という言葉が好んで使われるが、人間の居ない世界の「美しさ」はどう説明されるのだろうか。眼には「見えない」が「汚染」されているとは、「美」においても、芸術は核廃棄物に負けていることではないのか。原発事故に言及した作品の大半が「不気味なもの」であるのは恐怖の反映だけでなく、人間の居ない世界の「美しさ」に対して、私たちが提示出来るものは(あるいは残されたもの)、それを「不気味なもの」と言い換えることだけなのだろうか。

新関の写真には震災の痕跡を読み取れるものと、そうでないものがある。土地勘があれば福島の風景だと気が付くかも知れないが、大半の人は文章による説明がなければ気づかないだろう。もちろん、それらの写真をただの「海」や「里山」として見ることも可能であるし、そうした受け取り方は間違いではない。しかし福島の記録としての文章と写真、つまり意味するものと、意味されるもの、との間にズレがあることはやはり重要だと思う。

「わが愛憎の画家たち‐針生一郎と戦後美術」展/宮城県美術館

宮城県美術館で開催されている「針生一郎と戦後美術」展について。「戦後美術」を語る時に気を付けなければならないのは、戦後を、それ以前の歴史、つまり戦中と断絶したものとして語ってしまうことだが、この展覧会から感じたのは戦中と戦後の連続性であった。もっとも歴史の連続性といっても、会場に戦中の作品は一点も展示されていない。全て戦後に制作された作品だけで構成されている。しかし不在であるが故に、その存在を強烈に意識させる作品があった。それは藤田嗣治の「アッツ島玉砕」である。

針生の藤田に対しての厳しい批判はよく知られている。「愛憎」ではなく、「憎悪」の対象であったと言っていいと思うのだが、藤田の名をここで持ち出すのは「ボディ・ホラー」という観点から見ると、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」と、ここで展示されている戦後絵画(例えば福沢一郎「敗戦群像」、鶴岡政男「夜の群像」、阿部展也「飢え」、丸木位理・俊「原爆の図」、河原温「浴室」などの作品)の間には、確かな連続性があると思えるからである。

もちろん、ここでいう「ボディ・ホラー」という連続性は、あくまでも藤田に対するアンチ・テーゼとして成立しているものであって、藤田の絵画に反戦的なメッセージが先取りされていという意味ではない。部隊の「全滅」を「玉砕」と政治的に美化することに貢献した藤田の「アッツ島玉砕」が戦争の審美化の極地だとしたら、戦後の絵画は「戦争を美しいものとしては描かない」という立ち位置から始まる。彼らは、戦中に戦争画を担った中心的な人物たちが、戦後になると何事もなかったかのように「ボディ・ホラー」を捨て、ただ美しいだけの凡庸な作品を描き始めるのと入れ替わるように登場し、「ボディ・ホラー」を描き始める。

戦後の「ボディ・ホラー」が目指したのは、「美しくないものを、美しくないもの」として描くということである。しかしこのアンチ・テーゼも、何時しか過去との断絶と理解されるようになり、急激にその意義が失われ始める。この展覧会でいうと第8章以降の「環境彫刻」「環境造形」という言葉が登場し始める頃から、作品で言うと高松次郎の「影」シリーズ辺りを転機に、「ボディ・ホラー」という表現方法は消えていくことになる。そして平面から立体への動きが加速していき、代わりに病的に「衛生」的なオープン・スペースが登場してくるのである。


※補足
藤田の「アッツ島玉砕」には、関東大震災後に出回ったセンセーショナルな写真、死(体)の表象との類似性が確認出来るので、「ボディ・ホラー」の連続性は戦前からあると言うことが出来るかも知れない。

震災とリアリズム

震災とリアリズム

東日本大震災以降、震災と美術の関係を考える時に、関東大震災と美術の関係が参照されることが多くなりました。しかし、東日本大震災関東大震災を比較した時に気が付くのは類似点ではなく、相違点です。もちろん、ともに大きな犠牲と破壊をもたらした災害であることに変わりはありません。しかし関東大震災に直面した作家たちには二つの選択肢があったと言えます。一つは破壊された場所に「新しいモダニズム」を建設するという選択。もう一つは「日本回帰」という場所に避難するという選択です。これに対して東日本大震災に直面した私たちには、どのような選択肢があると言えるでしょうか。おそらく、私たちには「新しさ」も「回帰」する場所(歴史)もありません。私たちに「新しさ」が言えないのは、現代がモダニズムの終わった後の「ポスト・モダニズム」の時代であるということだけでなく、被害が集中した沿岸部が、大都市でなく過疎地であったことが大きく影響しています。「東京オリンピック」というアドバルーンがあげられるのは、震災や戦禍から何度も復興してきた東京の姿にあやかりたいからでしょうが、被災地の復興には何の関係はありません。

関東大震災後の東京に「新しいモダニズム」だけでなく、「日本回帰」というヴィジョンがありえたのは、震災で一掃されるまでの東京には、まだ「江戸」の面影が残っていた為、回帰するべき過去が比較的身近にあったと言うことが出来ます。しかし震災後の東京の復興は「江戸趣味者」たちを満足させるものではありませんでした。彼らの要求を慰めたたのは、むしろ東京ではなく、東京を離れた地方都市であったと言えます。代表的な例が関西に移住してから「古典回帰」に成功した谷崎潤一郎ですが、谷崎的な成功を美術の分野から見つけ出すのは難しい作業となります。たとえば震災後に関西に移住した岸田劉生。劉生も谷崎と同様に関西で「古典回帰」を模索していますが成功していません。震災後の劉生を比較するなら、谷崎よりも芥川龍之介の方が適任と言えます。つまり「新しいモダニズム」にも、「日本回帰」にも着地点を見出すことが出来なかった二人です。

芥川が「新しいモダニズム」にも「日本回帰」にも着地点を見出すことが出来なかったといのは、もちろんその末路から導き出された答えですが、芥川の末路を考える時に思い浮かぶのは、芥川が震災後の東京で「死体」を観察して歩いていた川端康成を案内人として、川端と一緒に「死体」を見て歩いたというエピソードです。「新しいモダニズム」の旗手となる川端康成が、震災後の東京で「死体」を観察して歩いていたという事実は、震災後に登場する「新しいモダニズム」が、「死体」観察というリアリズムに培われたものであったと言うことですが、ここで問題としたいのは、私たちは芥川の「ぼんやりとした不安」という言葉を、戦争へと向かっていく時代に対する不安と捉えがちですが、そうではなく震災というこの世の生き地獄を眼にしながら、それを「ぼんやり」としか言語化出来なかった故の、結末ではなかったのかということです。

芥川には川端のように「死体」を観察し表現するリアリズムはありません。芥川と同じように被災地を歩き回り新聞に『東京災難画信』を発表した竹下夢二にも、時代に対応したリアリズムがなかったということが出来るかも知れませんが、ここでリアリズムを問題とするのは、もし東日本大震災関東大震災の間に何らかの類似性があったとしても、そこから生まれるリアリズムには大きな差異があるだろうと考えるからです。つまり、今回の大震災後にリアリズム的な傾向の作品が生まれるとしても、それは川端の様な「死体」を観察するリアリズムとは違うものとなるだろうと言うことです。もちろんここで「死体」(あるいは「遺体」)を問題とするのは、諧謔趣味からではありません。リアリズムの「質」を問うときに、私たちの視線から「死体」が秘匿されていることを確認する必要があると考えるからです。

被災地を撮影した写真は膨大な数になるでしょうが、そこで犠牲となられた方々のご遺体を眼にすることはまずありません。また、そのことを疑問と思うこともないと思います。しかし写真と死の親和性(たとえばソンダクは「写真はいつも死と連れ立っていた」と述べている)を考えれば、秘匿の徹底さには驚きがあります。もちろん写真と死の親和性を確約するのは、「死体」を被写体としているかどうかではありませんが、リアリズムの「質」を問題にした場合、実際に自分がそれを眼にしているか、その場に立ったのかということは無視できない要素となります。たとえば石井光太の『遺体』の様な優れたルポルタージュを読んで分かるのは、死者に対する尊厳という以前に、私たちには指摘されなければ「遺体」が秘匿されていることを疑問と思う素地さえないということです。

死者に対する態度の違いはそれぞれの時代の倫理観の違いとも言えますが、ここで震災後のリアリズムの「質」の違いを問題とするのは、関東大震災後に台頭してくるリアリズムの一つに戦争画という問題があるからです。戦時中に藤田嗣治宮本三郎、中村研一、といった面々が特権的な地位を得たのはリアリズム的な技法の確かさによるものですが、彼らのリアリズムの「質」を問うと次のような疑問が生まれます。それは、たとえば藤田嗣治の経歴を見ると、彼は関東大震災を経験していないだけでなく、第一次世界大戦をパリで過ごしながら、大量破壊と大量殺戮の意味を全く理解していないことが分かりますが、もし藤田がこの二つのうちの一つでも自身の問題として経験し理解していたならば、あのような戦争画を描いたのかという疑問です。

戦時中の藤田がシュルレアリスムダダイズムを否定する発言をしていることはよく知られたことですが、藤田の発言は思想統制化の影響によるものではなく、シュールレアリスムダダイズムの持つ20世紀的な意味が全く理解出来なかったからだと私は考えます。私がそう考える根拠は、藤田には第一次世界大戦がヨーロッパに齎した精神的な危機の意味を全く理解出来ていないと思うからです。そして日本美術の不幸は、20世紀美術の意味を全く理解しなかった藤田を、ただ洋行帰りということだけで持て囃し、ヨーロッパを理解したと勘違いしたことです。藤田経由の勘違いは、今日でも眼にすることが出来ます。たとえば村上隆は藤田の作品に当時の世界性があるとする発言していますが(『美術手帳』2014年4月号)、村上の発言の的外れさは、藤田がもっとも活躍したパリでさえ、彼の作品が常時展示されているのはパリ市立近代美術館ぐらいだということからも分かります。

常設で展示されている藤田作品の少なさは、藤田の20世紀美術の理解の無さと関係しています。藤田は「ベル・エポック(古き良き時代)」の住人ではあっても、20世紀の芸術家ではないのです。アメリカ経由でフランスに舞い戻った藤田が日本に対する怨嗟を吐き続けたのは、「不遇の天才」という19世紀的な芸術家象を生きるには、「日本では理解されない」という不遇感が必要であったからです。戦争の悲惨さを身近なものとして経験しながら、そこから20世紀美術の意義を読み取る機会を逸した代償は大きかったと言えますが、日本における藤田の受容のされ方について考える時に重要なのは、保守画壇の方が藤田の非前衛性に気が付いていたと思われることです。

終戦後の文献に眼を通すと、戦争画の責任云々と言う前に、保守画壇の方が藤田の非前衛性に気が付いていた節が確認出来るのですが、興味深いのは藤田の非前衛性を無視して、藤田を「不遇の天才」として積極的に神話化していくのが『美術手帳』という現代美術を標榜する雑誌だったということです。現代美術を謳う雑誌が「不遇の天才」という19世紀的な芸術家像を重宝するのは、何とも奇妙な話ですが、「日本では理解されない」という不遇さをもって、自己を特権化する物語が今日まで温存されていることは見逃せません。なぜなら「藤田は本当は戦争に反対していた」という19世紀的な悲劇的理解が成立するには、藤田の20世紀美術に対する無理解を無視しなければならないからです。ここ見られる藤田理解の差は、リアリズムの「質」の違いによるものだということは言うまでもありませんが、残念ながらこのことが広く理解されているとは思えません。

「バルティス」展/東京都美術館

少女愛」や「古典」との関係性が強調されて語られることが多い作家だが、種村季弘が『魔術的リアリズム』(PARUKO出版)の中で、マネキンを描いたデ・キリコの絵画の延長線上に、バルティスの硬直した人物たちを見ていたことを思い出せば、バルティスの絵画から20世紀の同時代性を読み取ることは、それほど難しいことではない。日本でバルティスの同時代性が無視され、反時代性(反近代)という観点から作品が受容、神話化されようとするのは、おそらく種村が言うところの「魔術的リアリズム」。つまり、人間であろうと風景であろうと、全てが「機械」として描かれていくリアリズムが生まれる背景に、ヨーロッパにおける第一次世界大戦後の人形ブームがあることが、日本ではほとんど理解されていないからである。

エリック・ホブズホーム(『20世紀の歴史‐極端な時代』)に倣って、20世紀の始まりを第一次世界大戦に求めて、美術史を見直してみると、キリコの形而上絵画や、マルセル・デュシャンの「大ガラス」といった人形、機械に対する趣向性の強い作品がいずれも一次世界大戦が勃発した後に制作され始めていることに気が付く。さながら20世紀美術は人形の世紀であるのだが、ここで20世紀を人形の世紀として規定するのは、笠井潔(『人間の消失・小説の変貌』)が指摘するように、第一次世界大戦による大量破壊と大量虐殺によって、19世紀的な人間観(啓蒙主義)に終わりが告げられたからである。しかし第一次世界大戦を「対岸の火事」としてしか理解しなかった日本では、第一次世界大戦がもたらした精神的危機は今日でも理解されているとは言い難い。

バルティスの描く無表情な人物たちは「機械人形」である。問題の「少女」たちも、「人形」(操り人形)と理解すれば、そのアクロバティックな姿勢も理解し易い。たとえば『夢見るテレーズ』において、壁面のストライプ(縞模様)と、少女の動作が重なり合い、操り人形のように見えるのは偶然だろうか。「少女=人形」という図式には、何処かデカルトの人形(フランシーヌ)を想起させるものがあるが、画家の「宗教画」という言葉に反応して反時代性(反近代)を言う人たちは、デカルトにおいては合理的思考の追求と信仰が矛盾していなかったことを思い出すべきではないのか。

「宗教」を排除したところに、「近代」が成立しているというのは、日本の近代化過程の中で作られた意図的な神話である。排除ではなく、両者は棲み分けしていると考えなければ、たとえば戦後のアメリカ美術も理解出来ないだろう。もし、「カトリック」「宗教画」という画家の言葉を問題とするのなら、バルティスの作品には、反宗教改革後のカトリック美術の特徴である「演劇的感受性」のうち、演劇性しか認められないことだろう。バルティスの演劇との親和性は、その経歴や作品から十分に読み取れることが出来るが、機械のように描かれる無表情な人物から感受性を読み取ることは難しい。

たとえばバロックの代表的な彫刻家であるベルニーニの『福者ルドヴィカ・アルベルトーニ』と、バルティスの描く少女たちを比較すると、際立つのは肉体の貧弱さよりも表情の無さである。驚くのは、バルティスの絵画では、場合によっては「光」によって表情が描き消され、表情を描くことが回避されていることである。バルティスの表情を描くことを回避する姿勢は、プロテスタント圏の画家、たとえばフリードリヒが後ろ向きの人物を描くことで、人物の表情を描くリスクを避けていた姿勢に通じるものがあると感じるのだが、バロック美術の恍惚な表情よりも、無表情な少女(人形)の裸体がスキャンダルと感じるのは、現代が人形の時代であるからなのか、それともそれが人形であると気づかれていないからなのか、どちらであるのだろうか。