オリビアの指輪

帝国暦231年、ある小国のお姫様は悩んでいた。迫り来る15の誕生日は彼女が妃となる日。
隣国の王子との結婚の準備は国を挙げて騒がしく執り行われている。
城下町は10年に1度あるかないかの大行事に、町全体が活気付いていた。
窓から顔を出し眼下を望む姫君。
王女の左手にはめられた指輪の宝石が太陽に反射してきらりと光る。
澄み切った冬の風が熱くなった頬をひやりとなぞっていく。
「ユーシス様、わたしはあなたとの約束を守れません。7年前のあの約束…」
政治的に決められた結婚。真実の想いは心の奥底に鍵をかけて閉じ込めなければならない。
「私は結婚相手の顔すら見ていない。常に戦場を駆ける騎士の申し子なんて…ふふ、あなたと同じようですね」
「そうだよ、オリビア
振り返る王女。そこに立つのは7年前の想い人。見たことの無い艶かしい傷跡を顔に刻んだユーシス・テレジアが。
「あぁ、ユーシス様!!一体どうして!!!」
窓から離れユーシスへと走り寄る王女。
瞬間、突き出された大剣。滴り落ちる赤い美しい色をした血。
「ユーシス…さま…」
ずるりと抜かれる大剣。倒れゆく王女。
血糊を施された大剣からぬらぬらと赤い筋が垂れていく。
「…すまない、オリビア。くそ!!!この国は狂っている!!!」
ユーシスは王女を抱え挙げると部屋を立ち去るのだった。


隣国と小国は幸福の活気から戦乱の渦へと飲み込まれていく。
攻め入られた小国の閉ざされた地下室には、王族の幾多ものミイラが保管されていたという。
戦乱の渦中、騎士ユーシス・テレジアの瞳から涙が止まることはなかった。


以下は学者達の後の研究における手記からの抜粋である。
"あの指輪に触れてはならない。あれは神の宝物である。僕らが愛していたロビンが晩年を期した時、どうしてあのような子猫へと変貌したのであろうか。あれは命そのものだ。誰も、触ってはならない。"


土葬された王女の墓標。
そこには"帝国暦224年 オリビア・サウドここに眠る"そう刻まれていた。

第2話「いじめ」

吾潟己依がいじめを受けはじめたのは、思春期特有の少女の葛藤がきっかけだったと言えるだろう。同年代の中では大きく膨らんだ胸、それをクラス内の男子達が表立って囃し立て始めた時から、桂凛子の己依を見る目が変わった。これまで凛子はその端整で可愛らしい顔立ちと明朗で快活な性格から、学校内でも1,2を争うほどの人気を集めるほどの女子だった。クラス内にも凛子に想いを寄せる男子は少なくなく、これまでにも幾度と告白を受けてきた。もともと凛子は村内でも有力者の一家である良家生まれで、プライドが高く周囲に対しても自分に対しても敏感であり、周りからちやほやされることを1つのステータスとして考えていたのだろう。それがひとたび男子の色目の向く相手が、自分ではない他の誰かに変わってしまったこと、その事実は凛子の自尊心を大きく傷つける結果となってしまった。
凛子は自身の自我を保つ為には、己依を敵として認識するよりほかは無かったのだ。矜持としていた強い自意識を崩壊させない為に、凛子は己依をいじめ始めた。そしてクラスのバランスは、いじめによってでしか成り立たなくなっていくのだった。




「吾潟さん、早く食べなよそれ。そうしないと母乳出なくなっちゃうよ」
己依は机の上に置いてある自分の給食を見下ろすと、椅子からおもむろに立ち上がった。そのまま無言で足をドアへと向けて歩き出そうとするが、凛子にその腕を掴まれて動けなくなる。
「駄目じゃない吾潟さん、ちゃんと食べないと。それとも私がよそった給食は食べられないの?」
己依の机に据えられたお盆、そこには真っ白く彩られた器が並んでいた。今日の献立はカレーライスとシーザーサラダだったはずだ。しかし己依の机の上では白い液体がなみなみと器を包んでいる。
「ほら、吾潟さん最近また大きくなったでしょ。たくさんミルク飲まないといけないかと思って、今日はサービスしておいたから」
ケラケラと下品な笑いを振り撒きながら凛子がまくし立てる。周囲からもくすくすと嘲笑が響き渡っていた。
己依はそんな状況にうんざりするでもなく、怒りを見せるでもなく、悲しみを表すでもなく、ただ無表情に無感情に、凛子に掴まれた腕を振り払うとそのまま教室から退出していった。
「なによあいつ。最近面白くないわね。人形みたいに何も反応しないじゃない」
凛子は教室から出て行く己依を見やり、悔しげな表情を顔に浮かべる。既に彼女は自身のプライドに起因するのではなく、ただいじめるという行為を楽しもうとしていた。己依を一番の標的と定めてからは、その汚らしい快楽に飲まれてしまっていた。思い通りの反応を返す己依を自分の遊び道具として凛子は見ていたのだ。
ふと凛子が目を向けた先には、1人寂しそうに給食に手を付ける冴峰こころの姿があった。
醜悪な笑みを浮かべた凛子は己依の机からお盆を持ち上げ、つかつかとこころに歩み寄る。
「ねえ、冴峰さん。おかわりいらない?」




教室を退出した己依は内心の動揺をなんとか隠しながら、女子トイレの一室に駆け込んだ。
「また、あの黒い靄が…」
先ほどの体育の授業中と同じように、己依は凛子の周りを暈す様に黒い靄が立ち込めていたのを見たのだった。
「うっ…」
そして同時に襲い掛かる強烈な吐き気。己依は嗚咽を漏らしながら吐瀉物を口から吐き出した。精神的な耐久不全によるノイローゼである。
凛子に執拗ないじめを受けるようになって既に2ヶ月。己依は自分の感情を消そうという努力をはじめた。相手の思うとおりの反応を示すからエスカレートしていくのだ、という文献を新聞で読んだことがきっかけだった。己依は気づいていないが効果は確実に出ていた。凛子の注意は既に己依からこころへと移ろうとしていたのだ。
しかしその事実を未だ知らぬ己依は、むせ返るような匂いの中でうな垂れていた。無理やり自身の感情を殺した成果は得られず、我慢を重ねるたびにその苦しみは増していくのだった。
「もう…いやだ…」
己依は便座に肘を乗せながら呟く。汚れるのも厭わず、彼女はトイレの床にへたり込み嗚咽をもらすのだった。

第1話「あがたみよのかくせい」

北陸の寂れた寒村に住む吾潟己依が"その力"に気づいた時は、彼女の心は既に荒廃しきった不毛の大地と化していた。それにも関わらず、状況を変えるべく力を行使しはじめた彼女は底知れない強さを持つ少女であると言えるだろう。もしくは自棄的な思惑があったのか否かは、今になっては知る術もない。力に気づいてしまったことが幸せだったのか、不幸だったのか。深遠の眠りにつく彼女に問うても答えは返ってこない。


始まりはそう、いつものように保健室で眠っていた彼女が目を覚ますありきたりの日常からだ。棺に納められる白磁のような肌とは違い、目の周りを赤く腫らした己依は顔を上気させながら保健室の天井を眺めていた。
彼女はおもむろに片腕を顔の上に持ち上げると、手首を返して刻まれた無数の傷を眺める。また死ねなかった。いつもと同じ言葉をいつもと同じように呟く。日常。
「己依ちゃん、起きたの?大丈夫?もう少し寝てた方がいいんじゃない?」
保健室で庶務を片付けていた山ノ辺が声をかける。今や週の3回は己依の専門女医となっている彼女は、学校の生徒からも絶大な支持を得る先生だ。決して生徒を無下に扱うことなく、対等な目線で対話をしてくれる彼女は、良き相談役としても校内では一役買っている。己依にとっても山ノ辺は心を許せる数少ない人間の1人であった。
「先生…。はい、もう、大丈夫です」
出来合いの笑みを作ると己依は体を起こし、すぐ横にある窓から校庭に目を向ける。校庭では女子生徒がソフトボールをプレイしているが、拙いにも関わらず喧しいその全体の動きは、教室で戯れ合う光景となんら変わりが無く見える。
「私は…、意気地がないんです。死ぬことすら出来ない。本当に死にたいと思っていたら、手首なんて切らずに首を吊るべきなのに…」
山ノ辺は生々しい傷が刻印される彼女の手首を見ると、言葉を返すことが出来なくなる。まだ年若い山ノ辺にはいじめの問題に対してどう向き合えば良いのか判断がつかず、己依についてもただ話を聞くことで、捌け口として己依の役に立てればと思っているのだ。自身の無力さに歯噛みしながら、山ノ辺はありていの解答でなんとか取り繕うとするが、己依の様子がおかしいことに気づいた。
「先生、あれ、なんですか?」
窓の外を指差しながら己依が呟く。その指先にはバッターボックスにいる生徒、桂凛子の姿があった。クラスの女子の中心人物、桂凛子は己依をいじめるグループの中心人物でもあった。求心力のある凛子の周囲を取り巻く女子は多く、凛子に目をつけられた生徒は腫れ物扱いになるのがクラス内のルールになっていた。
「黒いもやが、桂さんを覆っているんです。あの、なんだろう…煙?影?」
目を擦りながら外を見やる己依に倣い、山ノ辺も凛子に目を向けた。しかしそこにはバットを握り締め意気揚々とピッチャーを睨み付ける姿しか映らなかった。
「靄?どこにあるの?今日はこんなに晴れているし、校内の焚き火は裏庭でしかやれないのよ?」
不自然でない校庭の様子を確認すると山ノ辺は己依の額に手を乗せ、逆の手を自らの額にも同じように添える。
「…熱は無いみたいね。貧血かもしれないわ。もう少しゆっくりしていきなさい」
山ノ辺はそう言うとやりかけの庶務に手を伸ばし始めた、その時である。
「先生、怪我人が…」
大きな悲鳴が校庭に響き渡り、1人の女生徒が校庭に足を押さえて倒れていた。近くには先ほどまで凛子が握っていた金属バットが、音を立てながら転がっている。
「ごめんなさい!手が滑ってバットが…」
凛子が慌てて生徒の元へ駆け寄り、他の女生徒達もそれに倣い集まってきた。三塁方向に飛んだバットは守備についていた生徒、冴峯こころの足首を掠めていったのだ。
「た、大変!!!」
己依の言葉で外の様子に気づいた山ノ辺は保健室を飛び出していった。幸いこころの怪我は打撲程度の軽症で済み大事には至らなかったのだが、己依は見てしまった。こころの元に駆け寄る瞬間、凛子の顔に浮かんだ厭らしい笑みを。