その時の気持ち


外から飛んでくる気持ちを受ける時、

その時の心の浮き沈みに左右されることがある。

気持ちに余裕がある場合や、機嫌がよい時ならば、自分とは違う意見を聞かされたり、

同意を求められてもそういう考え方もあるなと思えるし、

とりあえず懐に入れておいて、後でじっくり検討するねと受け流すこともできる。



無闇に刺を刺したりしない。

自分に新たな視野やカードをもたらしてくれた事に対して素直に感謝できる。



反対に落ち込んでいたり、被害妄想にとらわれている時は、

すべての事柄が自分の人格否定をしているようで

より一層狭い見識に落ち込んでいく。

誰かや環境、何でもいいから他責にして放り出したくなる。



そんな狭くてジメジメして真っ暗闇の洞穴に、独りぼっちで取り残されたことが寂しくて。

悲しくて、悔しくて。

こんなの私じゃないと自分を虐めたくなったり、じたばたともがいてしまう。

もがけばもがくほど締め付けられ、底のない深みにはまるとわかっていながら、逃れることができない。



余裕があればと思う。

環境さえ、タイミングさえ整っていればこんなことにはと言い訳してみる。



ヒトには感情がある。

自分を想い、誰かを馳せる。

考えられるから、悩む、苦しむ。

辛いから、メンドクサイからと一時的に避けて通る方法もあるのかもしれない。



だけど、地球は丸い。

逃げて逃げつづければ、またもとの場所に戻ってしまう。

しょせんどこにも逃げられない。

カラダをすっぽり隠すマントもないし、

なかったことにしてしまう消しゴムもない。

一度きちんと向き合ってきっちりカタをつけてやらないことには、この負の連鎖からは逃げられない。

何度だって同じところで同じようにつっかえてしまう。



対峙することは、つっかえてグジグジしているよりも体力を使うし、神経をもすり減らす。

できれば好き好んでお手合わせなどしたくない。

グジグジも慣れれば、住めば都に感じるかも知れないし。



でも私は生きていたい。

ただ息をしているだけの、何にもない、何もしない感じない私ではなく。

苦しい、痛い。辛い、寂しい。

そのエネルギィの反対側に、実は寄り添っているかも知れない想いも大切にしたい。



何もかもから逃げ出すことも、硬い壁と殻に冷たく閉じこもることもできるのなら。

温かい血を汗を涙を流せる私でいたい。



だから、

衝突やすれ違いで激しく揺れる気持ちも。

接触による振動で突き刺さる感覚も。

妄想の悪魔に熱く吹き上がる激情も。

何度でも何度でも味わおう。



その時の気持ちは、その時限りの唯一の気持ちだから。

ご機嫌な時も、不機嫌な時も私が私を包んで守っていきたい。


異なるものと接触する


Phase-0 : 情報収集。恐怖。構想。

Phase-1 : 驚き。興味。疑問。

Phase-2 : 違和感。親近感。

Phase-3 : 検討。考察。

Phase-4 : 分類。理解。


前回の記事で
「私という個」 と 「私以外の異という個」 の遭遇。
そんな私がその異なるものと接触する時は、どのような段階を踏むだろうか?
と考え分類してみた。


各フェーズについて、少し詳細をいれてみたい。



Phase-0 : 情報収集。恐怖。構想。


これは、『異なるものと接触する』前段階、準備である。
私は臆病者で、できるだけ突発や唐突は避けて通りたい。
しかし逃げることができない事情に迫られた時。


情報収集。
不必要なほど情報を集め、シュミレーションを繰り返す。
どんなものなのか、どういうことなのか、相手を新しい場を少しでも想像の範囲に据えるため。
知らなかったら、見えないかもしれない。
認知できないかもしれない。
相手を正確に見ていない前知識、前勉強だからピントはズレ、使い物にならないかもしれない。
余計に迷ったり、いらないフィルターにしかならないかもしれない。
それでも、かすってでもいいから、予習。
実際にあまり役に立つことはないので、単なる自己満足でしかない。
時間と体力の無駄遣いでもあるだろう。
それでもつい調べたくなってしまう。
もう儀式みたいなものだ。


恐怖。
これも重要だ。
初めてのヘリスキー。
初めてのモトクロス。
新規のプロジェクト。
これらに挑む時。
無邪気に希望に胸を膨らますだけでは困り者である。
物事には陽と陰。正と負の部分がある。
危険を知っているからこそのチャレンジがある。
危険を知って無理だとしり込みすれば、今は時期ではないのだ。
またできる時まで封印なり、先送りも可能だ。
その危険感知には意味も理由もあるかもしれない。
何も知ろうとせず、考えず無邪気に推し進めてしまうより、結果として怪我をしなくて済むかもしれない。
ヒトは恐怖を感じ、それでもなおそれを乗り越えたい、怖さに先を知りたいと願い、勇気や気力を振り絞った時、
知識や知性を得られるチャンスに出逢えるように感じている。


恐怖や畏怖に、鈍感にはなりたくはない。
その感覚が本能から喪失した時、関連するもろもろの感覚もまた眠り退化して
広がりを覚えることもできない、カチカチの凝り固まった思考や理念に縛られ、
身動きが取れずいたずらにもがき苦しんでしまいそうだから。
数センチの浅瀬でバタバタと溺れる。
冷静に立ち上がることを考えることのできる私でいたい。


同じように、今は無理と判断し撤退できる能力もまた、自己管理、制御が良くなされ適切な価値観だと思う。
後になればなるほど、状況は厳しくなることを覚悟して。
いつかは正面きって立ち向かうしかないことは、十分念頭において。


構想。
情報収集を経て、およそ私が陥り犯すであろう数々の異常終了を予測しだすと、後はテストデータ作りだ。
正常データは通って当然。またそうそう数も多くない。
逆に失敗に終わる異常終了は考えられるだけ列挙し、全ての思いつく事象をテストで通したとしても漏れが出ることが殆ど。
それが初めての『異なるものと接触する』でもある。
やらないよりはマシと言わんばかりに、テストを通して行くしかない。


一通りテストが終わっても、気休めにしかならない。
しかし、失敗データを幾つか出していく過程で、見えてくることもある。
これから挑むヒト、場所に対して、冷静に己を落ち着ける時間を持つこともできる。
今、私にできることはやったという自信も適度な開き直りもある。
自己暗示に近いかもしれない。


時間がない時は緻密に綿密にとはいかないが、考えられる最悪のパターンを想定し、そこでいかに行動するのか。
私が社会人になって厳しく教えられたことだ。
最悪のパターンを超えてもっと最悪な事態を引き起こすこともあるし、まったく異常なパターンに引っかからない場合もある。
それでも、ある程度シュミレーションすることで、私は突きつけられた危機的なパニックに迷走することなく、何度か救われたことがある。
実際、最悪の局面でパニックして呆けていることを許されるわけもないのだが。
少しずつ訓練して、私は仕事でも日常でもこの方法で挑むことが多くなった。

Phase-1 : 驚き。興味。疑問。


実際に『異なるものと接触する』場面の最初である。
「触れる」 よりは、観る、感じるといった段階だ。
少し野生児チックな私は、延髄を通って脳みその理性判断へ行かず、
第六感ではないが感性の部分が大きく揺さぶられる。


初めて火に手をかざした時のヒヤリとする気持ち。
氷が指にピッタリとへばりつく、皮膚の引っ張られる不思議。冷たいと聞いていたのに熱いと感じること。
風に頬や髪が揺れ、鼻をくすぐる季節の匂いを感じ取った時。
刃物を触って指を切ったときに、皮膚の切れ目、血の出方。痛いのに何が起こったのか分からずドキドキしてしまう。
初めて外で転んでアスファルトに打ち付けられたとき。膝の痛み。胸を打ち付けての息苦しさ。鼻がツーンとする感覚。
膝ががくがくと笑って力が入らない戸惑いと移って来るおかしさ。


何もかも知らないから。初めてだから。
びっくりする。
でもこれは何。あれは何。興味津々で質問攻めの方が先立ってしまう。

一度興味を持ち、疑問に思えばもう後は、次から次へと好奇心の矛先は縦横無尽に向けられる。
疑問がとめどなく湧き上がり、手当たり次第に試して、聞いて。
飽きるまで永遠に『異なるものと接触する』世界に浸っていたい。
「触れた」という事実よりも、身体で感じた感覚や感想が優先される。

Phase-2 : 違和感。親近感。


『異なるものと接触する』も数度(浅く、少なく)の逢瀬を経た段階。


最初のカテゴリ付けとでもいうのだろうか。。
りんごとみかんは果物という分野では同じ物だけれど、りんごとみかんは違う果物。
りんごも小石も同じ物体と判断することもできるから、
りんご5個と小石3個。合わせていくつ?
という算数の問題が出たりする。
私の感覚では、合わせてもりんご5個と小石3個。
もしくは、全部あわせるのだから1個。


算数という数式、また出題者の意図は私の世界とは違うところに存在する。
私は自分の世界をとても大切にしている。
しかし、出題者の意図、目的、気持ちもまた存在することも知らされてきた。
だから、8個。
という解答も用意するようになった。
こういう手持ちのカードをたくさん持ちたいと思っている。
たくさんのプロセス。たくさんの想い。
受験勉強のようにランクや点数。決め付けられた答えに解放された今だからこそ、
『いろいろあっていいよね』と微笑んでいたい。


似ているようで、違うもの。
違うようで、似ているもの。
詳しく見比べていくと感じてくる。


その結果がどうなのかは、次の段階。
ここでは現実のデータとして、ある見方をすれば同じ物なのに、
違う切り口、違う角度から見たら全く別物であることを思い知らされる。
円柱や三角錐
クルクル回して、いつまでも悩ましい想いにさせられたものだ。

Phase-3 : 検討。考察。


『異なるものと接触する』と自分自身の立ち位置や距離を考えはじめる。


知り合ったはじめてのもの。
自分の経験値、記憶というデータの中のどこに置いたらいいのだろう。
海馬の図書館にどのラベルを付けて保存しようか。
一元的に処理することはできない。
でも複雑に交錯させてしまえば、のちのち取り出す時にこんがらがって、せっかくのデータが意味をなさない。
紐付け、関連付けは?
実体験がいくつもの事象に重なる場合は?


モノをあっちかこっちかと動かして。
一度はめたピースをまた外して。
時には途中まで組み立てたものを根こそぎザザァーと振り払って。
まっさらのゼロに戻して、溜息をついて。
何度でも組み直す。


もどかしくて、埒があかなくてイライラすることもある。
何でもいいから結論付けて楽になりたい時もある。
実際、休憩と称して、しばらくほっぽり出してしまうこともある。
結局、新しいことを身に付けたくて好奇心に負けて、またテーブルにつくのだ。


試行錯誤のループは、メビウスリングのようにほどけたかと思うと更に遠く長く伸びてしまう。

Phase-4 : 分類。理解。


『異なるものと接触する』中で、ここは終着点と考える。


残念ながら、私はこれまでこの域に達することはなかったと思う。
血の繋がった両親といえども、「親」というカテゴリだけでは収められない部分はたくさんある。
私の父であり母であっても、独りの男性や女性であり、人であり生き方も感覚も価値観もまるで違う。
私にとっては、「親」であるが、両親にとっては、父と母は「夫婦」である。
男女の想いや絆は、たとえ娘であっても計りがたい。とても分かった気になどにはなれない。
そういう意味では、両親も常に今だもって『異なるものと接触する』になる。


理解する。なんて九九を丸暗記をするようなわかりやすくて単純なロジックではとけないなと感じる。




各フェーズについて、振り返ってみると、
フェーズが進むにつれ説明が少なくなっていることがわかる。
またふわふわで、夢物語のようだ。
それだけまだフェーズが0や1から進むことが少ないのが現状だ。
まだまだ分からないことがたくさんある。知りたいこともたくさんある。


『異なるものと接触する』といいながら、私の一方的な考えばかりじゃないか
という突っ込みもあると思う。


それで正解だと思うのだ。
私は私の価値の中で私自身の想いや位置、距離の取り方は語ることができる。
これすら実は気分により、日により変化したり折れ曲がったり歪んだりすることもある。
迂回してそのままどこかへ行ってしまったきりなんてこともしばしばだ。


私自身の想いや考えでこの不安定さだ。精度のなんと低いことよ。
なのに、私ではない誰かの気持ちを代弁できるはずなどない。先回りなんてもっての外だ。
勝手に自分の尺度で、相手を解釈し決め付けてどうなるというのだ。
決め付けた先に目的の相手などいないのだ。


私は心理学者ではない。
私は人の心が読める能力者でもない。
何が見える。何がわかる。
りんごの気持ちがわかるのか。
ジャングルの性格を把握するのか。
私の未熟な経験値から導き出される予想の範囲で、こんなはず、あんなはずと悶々とするのか。
外れたら裏切られたって言っちゃうのか。恨むなら自分のバカさ加減を恨むしかないだろう。


結局一人相撲。
勝手に自分で作り出した幻の相手が登場するのだから、シャドーボクシングだろうか。
誰かと交わることは、マットに沈めることではない。
二度と立ち上がれないように叩き潰して、顔面を踏みつけることではないだろう。


初めてのことって痛い思いをすることが多い。
怪我をして覚えることも多い。
接触は痛くて怪我をしてしまうけれど、不快なことなのだろうか?
ワクワクやドキドキ。もっともっとや次は次は。はないのだろうか?


敵は『異なるもの』なのか。
本当にそうなのか?
自分自身の臆病な弱い心。傷つけられたくない、かたくなな気持ち。
いつだって自分を攻撃するのも、甘やかすのも、誉めてくれるのも。
自分自身。
それ以外、誰もいないのではないのか。
やり場のない怒りを、自分可愛さのあまり自身に向けられず、
誰かできるだけ自分から遠そうな人に押し付けてはいないだろうか。
自問自答してしまう。
私は私なのだ。
誰かに接触するのも、そこで何かを感じるのも私なのだ。


こんにちはとにっこり笑って挨拶できただろうか。
差し出された手の温もりを感じながら、穏やかに握り返せただろうか。
私の緊張を乗り移らせてはいないだろうか。


『異なるものと接触する』
私は今まで生きてきて、たくさん出逢ってきた。
不用意に触って、錆びさせたり、腐らせたり、壊したものもあるかもしれない。


好きな人、嫌いな人。
いい人、悪い人。
都合がいい、都合が悪い。
これらを安直にふるい分ける便利な道具を、私は持ち合わせていない。
網目の広さは調節可能なのか。
全てが均等なのか。
誰がふるいのスタンダードを決めるんだ。


変化球も知らずストレート勝負ばかり。
壁を見つけては体当たりの連続。
この経験の中から、私の道具が生み出せるといいな。
美形じゃなくても、愛着のあるたくさんの人の想いが詰まったもの。


恐怖、畏怖が導いて、教えてくれる、興味、好奇心。
大きな宇宙の中の一つの星、地球に生息する私。
未知と異界。その中の遺伝子と遺伝子。
そこから形成された細胞と細胞がくっ付いて、ここにいる。
息絶えて、土に混ざるまで。
まだまだ『異なるものと接触する』は限りなく続く。

個と異。


初めての環境に出逢う時、良い意味でも悪い意味でもカルチャーショックを受けることが多い。
私は、新しい環境に馴染むのにとても時間がかかる。
人とのコミュニティにしろ、ツール、場所、習慣。
学校のクラス替えは、慣れてきたかなという時に、またクラス替え。
学校自体の空気も馴染めるかなと思う頃に卒業。
我ながら適応能力の遅さには、うんざりしてしまう。


それでも体験を積むと、過去に行った似たような環境を当てはめて
現状の環境が把握しやすくなってくる。
応用できる経験のカードを当てはめられるようになってくると、
未知で何もわからなかった環境も、
戸惑いから興味、恐怖心から好奇心へと変化していく。


好奇心とはもう、私にとっては遊び心の最たるもの。
知りたい、やってみたい。もっと、もっとの連続になる。
興味のあることの失敗や傷つく経験とはまた良くできたもので、
心の闇になる糧になるどころか、
将来手にできるかもしれない更に楽しいことのデータの一つとなって構成されていく。


もちろん、私のように不器用な者は100通りある組み合わせの中から、
たった一つの正解を導き出すのに、1回目でヒットすることは皆無に近い。
たいてい、90回以上のトライの末たどりつければよい方。
100回目でやっとわかったなどという、本当に全部のケースをトライすることが殆どである。
その中には、全通りの結果を知りたくて1つ1つ試してしまうことも多い。
また、100通り全て通してみても、100個の違いの見分けがつかず、
もう一度1からやり直しというループを何度も踏むこともしばしばだ。




【異文化】 というフレーズに惹かれた。*1


【異文化】 とはなんだろう。


文化ということは、独りの人の様式や感覚ではないのかな?と思った。
けれど、私は大勢の中での私の位置を見つけることが下手だ。
大勢といわれても私の許容は、私の目の前で私に直接語りかけてくれる人。関わる人。
2つの目、左右の耳、両手で感じ掴み取れるのは私とその相手1人2人が限界。
私 対 文化 での対応は難しい。


私も生活の中で、様々な文化の中の一員となって組み込まれているであろうに。
自分の所属する文化を理解していないのかと笑われるかもしれない。
身近では、家族で、職場で、友人関係で。
もっと広く、日本人として、地球人として、ヒトとして。
法律や道徳、様々な約束や決まりごとの中で生きているはず。
それでも個人というのか?


外で振舞う私は、なるべく周りの足並みを乱さないように気をつけてはいる。
子どもの頃からの想いや思考に基づくロジックと大人の世界の当然とされる事柄。
なんとかスイッチを切り替えながらあわせるようにしている。
社会ってそんなものなのかなと自分に言い聞かせて。


しかし、私の内なる感覚は社会性や協調性を切り離して進むことが多い。
時間はかかるが、あれこれ試さないと気が済まないのだ。
無駄でも野暮でも考えられるだけのケースを当たらないと理解できないのだ。
だから、大勢いっぺんには比べられない。
いつまでも幼い頃の想いを大切にするなんて、とあきれられてしまうと思うが、
私はこの何かによってフィルターのかからない素直に 「なんで、どうして」 という想いが
悪くないと感じている。
濁ったり混ざれない分、自意識が強すぎると判断されてしまうが、どうしても捨てたくない部分なのだ。


そんな私が感じる、異 ということ。
私と私ではない人が異なるのは当然のこと。
これも見えない大きな勢力や組織相手に異を唱えるのは難しそうであるが、
対人関係は 「私とは異の関係」 といえそうだ。
「私という個」 と 「私以外の異という個」 の遭遇。


そんな私がその異なるものと接触する時は、どのような段階を踏むだろうか?


Phase-0 : 情報収集。恐怖。構想。
Phase-1 : 驚き。興味。疑問。
Phase-2 : 違和感。親近感。
Phase-3 : 検討。考察。
Phase-4 : 分類。理解。




各フェーズについてと思ったが、長くなってしまったので、この先はまた日を改めてにしたいと思う。

*1:1day,1page のわたりとりさんの記事、 『5つのアクションを、50%メソッドで書いてみた。』 を拝見しました。こちらの記事は、 『異文化との接触』 について考察されていらっしゃいます。その 【異文化との接触】 というフレーズに惹かれこの記事を起こしました。思考構造の様式を真似させてはいただきましたが、どんどん私の内側、自己問答に入ってしまったので、直接本文内容に関われませんでした。そこで、ここで記事内リンクに留め、トラックバックは控えさせていただきました。

想いを言葉という形にして、目で客観的に確認するために


私が記事を書くきっかけの1つに、
他のブログで取り上げられているテーマを 『私だったらこう考える』
という立場からおこす場合があります。


その内容が、ブロガー同士の議論の題材である場合もあるし、
テーマが気に入って、そこから自分自身を掘り下げ意見発信する場合もあります。


私にとって私の記事は、たくさんの意見の中の1つの意見。
私個人の結論で誰かに賛成することも、反対の意見を表明している立場を取ることもあまりありません。
私個人の意見は、どこかや誰かに属するものではなく、単体のものだと捉えているからです。
万が一、個人に対して言及する場合はきちんと記事中に明記をしますし、トラックバックもさせていただくと思います。
こっそりだけど個人攻撃的な記事をあげることは、決していたしません。
いつでも胸を張ってやましいところ無く記事を上げているつもりです。




書き手の性質、経験、成分などはみなバラバラのはずです。
あえて奇をてらい、奇抜な意見を発言するつもりも毛頭ありません。
逆に意識して誰かの意見に合わせるように努力しないと、
異口同音に足並みを揃えることの方がよほど難しいこと。


自分の気持ちに正直に表現していくことも、オリジナリティの1部だと考えています。
大きく分類したり引いて遠くから見れば似ている意見として見られなくもないでしょうが、
どれ一つとして全く同じではないはずです。
私の経験に基づいた、身の丈にあった理解と解釈。
付け焼刃ではない私の言葉を綴っています。


それでも、人が2人以上が関わりあえば、そこは社会。
私個人の想いや考えがどの場面でも通用するはずもありません。
読み手には賛成派、反対派と2派のどちらかに属していると感じさせてしまうこともあります。
少数派というよりは、個人のそれぞれの意見とどんなにお断りしても、
読み手に不快な思いを与えてしまう場合があります。
表現がいたらなくて、伝えきれないのは書き手としての不徳。
誤解は誤解を招く発言をした書き手として、私が負いたいところです。


ただ、グループに属していたい帰属意識や多数に仲間に守られる安心のために記事を書くと、
気持ちは歪みます。
遠慮が出るし、常にあたりの様子を自分の気持ちとは裏腹でも従わなければならなくなり、
身動きが取れなくなります。
意に添わない言葉を吐く事に自己嫌悪で苦しむ事もでるでしょう。


大勢の賑やかさや華やかさ、楽しそうな雰囲気についフラフラと寄って行きたかったり、
羨ましかったり、魅せられたりします。
私を見失わない、踏ん張りどころ。
こんな時こそ試されます。




私にとって反対意見というと、180度対面の場合というイメージがあります。
強引に言ってしまうと、表と裏。
同じだからこそ反発し合う磁石の両極。
しかし、見知らぬ者同士、たとえ血の通った親兄弟であっても、
そうそう見事な磁場は持たないように感じます。
人それぞれな意見というものは批判対象を明確にしていない限り、
30度とか68度とか対面以外の場所からの意見がほとんどではないでしょうか。
小さな綻びや乱れにいちいち鬼軍曹のように目くじらを立てて監視しているのは、
身も心も疲労してしまいます。




一意見として、というお断りをする事があります。
これは、誰かに対する強要でも、強制でもありません。
自分の意見に自分自身がまだ自信が無い時。
今はこういう意見だけれど、今後環境や気持ちの持ち方、経験で代わる事がある時。
今は白と言う切り口からアプローチしたけれど、他の色でも試してみたい時。
意見や想いはいつでも即断即決では叶わない事もあります。
矛盾や迷いの中から導き出せる事もあるし、そのままズルズルぬかるみにはまってしまうこともあります。
そんなグズグズの想いだって、いや心の中で収めきれないからこそ素直に外に出して
見つめなおしたい。
私の掌にすくってじっと眺めて確認したいのです。


そういう批判の場所に立たない意見さえも、
意見の立ち位置が違うというだけで反対意見や批判意見であると捉えられてしまうと、
発言ということは難しいなぁと感じてしまいます。
ロジックの遊び、思考の旅行。
そんな楽しみもブログにはあり、魅力だと感じています。
『空気を読む』やしがらみ、集団での協調性を大事にするあまり、
個人の想いや考えを発言しにくい場となってしまいます。




人の存在がクローンでない限り、また無意識に洗脳されていない限り、
その人の数だけ個々の意見が存在することでしょう。
意見が食い違うのは息苦しい事ではないはずです。
それが自然の姿。


また、自分の意見を発信する事は、自分以外のいかなる誰かに対する人格否定でもないはず。
意見を敵、味方で区分して情報の取り込み先を浅く、また発言のフィールドを狭くしたくはありません。
多々あるはずの線引きを固定して、フィルタを幾重にもかけて身構えて
血なまぐさい、身動きの取れない不便な場所にもしたくありません。

楽しく遊びたい


私の考える議論。

意見交換。もしくは意見共有。

共有とは口当たりのよいものだけを保有するとは限らない。

敢えて毒を最大限の武器、資料としてもつ場合もある。



私が議論をする場合。

複数人でするとしても、あくまでも私対1人の相手。

私対Aさん。

私対Bさん。

・・・

・・・

となる。



私たちは……という数の倫理で押すことはない。

複数の総意に惑わされない、基準は私。



これがオレ様で済ませたい場合は、議論はいらない。

拡声器を持ち高いところに立って、演説を繰り広げればよい。

それで「正しい」と同意してくれる人の中で、ぬるま湯に浸っている方が気分もよく気持ちもいい。



しかし、同じ血ばかりの交配は種を弱めていく。

違う外の血を入れなければ、偏ってしまう。

偏るということは、ウィークポイントを作ることになる。

だから議論をする。

意見を交換し、共有する。



考えも及ばない遠くの視点であればあるほど、魅惑的で強力な武器になる。

もちろんそのためには、その遠くの視点を受け入れ消化し肉や血に変えなければならない。

肉体改造とは辛いものだ。

もともと鍛えようと強い意志がない場合、

決して身に付けることができないことを無理やり行おうというのだから。



無駄。

そう切って捨ててしまうと身も蓋もない話だ。

キレイに言ってしまえば、人の好奇心や向上心。

もっと知りたい、もっと良くなりたいという欲のなせる業。



興味のない人から見れば、議論をしている姿なんて、

血に飢えた狼が牙をむき出して引っかき噛み付いている野蛮さか

なんでも手に入れたい強欲な下劣さ映ることだろう。



言葉を使って耳から入る情報を元に思考を巡らせ、口から言葉を使って伝える。

顔をつき合わせて行う場合はこうだ。

相手の目を見て、表情や雰囲気、呼吸や様子のアシストを最大限に利用しやり取りを深めていく。



ブログの場合。

背景の様子を伺うことは難しい。

寸止め。ここまではいけるけれど、これ以上はマズイという加減が掴みにくい。

読解力や自分の経験から相手にも配慮したくても、やりすぎて手遅れになってしまうことがある。

殴り合い(したことはないが)でも自己主張でも、相手を再起不能にしてしまっては、当初の目的は達せられない。



もし相手もそれなりに議論に慣れていて、同意の上ではじめたとしても、さじ加減は難しい。

ただ慣れているから、さじ加減の難しさや多少の怪我を覚悟しているし、受け入れる体勢もできている。

これが議論に慣れていない人やする気のない人を、自分のリングに上げてしまったらどうだろう。

こちらが一方的に持っている武器や技を繰り広げることになる。

たまたま私の見えるところにその人が存在していて、

『ここにいるってことは、それなりの覚悟はできているはず』

というこれまた私の一方的な価値判断で引きずり込む。



いきなり襟首つかまれて、誰だかわからないリングにあげられた人は、さぞかしパニックすることであろう。

かけられた技の意味もわからず、その回避方法も受け方もしらないのだ。

サンドバックよろしくただの殴られ損。

更に勝利宣言に跪かされる。

人生最大のツイていない日になることだろう。



同じフィールドに存在すれば、誰かれかまわず同じ価値基準を持っているのか。

だとすれば、電柱やポストにもお手合わせを願わなければならないし、

木々や風、雷に同じテーブルに着けと説得しなくてはならないことになる。

この例えが馬鹿馬鹿しいのならば、ブログ上で任意の相手にいきなり

「あなたの記事についてですが、私の意見も聞いてください」

と押しかけるのもまたいかがであろう。



私ははじめ、ブログとは

「あなたの記事についてですが、私の意見も聞いてください」

と押しかけていって、遊びを楽しむ場所であり、参加者はそういう相手をウズウズして待っていると思っていた。

好敵手を、いい汗のかける時間と思考を手ぐすね引いて探しているのだと考えていた。



実際、綺麗な思考や興味深い考察をなさるブロガーさんはたくさんいる。

私など手合わせどころか噛み付くことも恐れ多いと感じることも多い。



しかしブログというツールの使い方は、「あれとこれ」というように決まってはいないようだ。

記録。

物理的であったり、心の動きであったりの日々の動きを綴り、残すことに意義を見出す使い方もある。

他にもきっといろいろあるのだろう。

一つの方法論、ルールでは縛りきれない。



それなのに、私のいち使い方を他の利用者にまで巻き添えを食らわすのは迷惑千万だったのではと
今さら疑問に感じている。

議論をやりたい人はすればいい。

そういう相手を見極めて探してくることだ。

広い大勢の中から運命の議論相手を見つけることもまた、議論というカテゴリの中で重要なプロセスの1つとも思える。

「議論はしたいが、目に付いた奴は片っ端からかみつくぜ」

となるとただの喧嘩っ早い愚か者になってしまう。





どちらにしても、人のためにしているわけではない。

どこまでいっても私のため。自己満足以上でも以下でもない。

あなたのためを思って……、などと虫唾が走りそうな台詞だけは吐きたくない。



火事だ、揉め事だと耳にするやいなや、袖をまくり、はちまき締めてとエネルギをみなぎらせていた私。

私が静かなる動じない広い懐と柔軟さ、
私にとっての清濁を気持ちよく飲むことのできる余裕が持てるその日まで

ブログで求められもしないのに、誰かに絡んでいくことは遠慮しようと思っている。


数 = 評価 = 価値 の刷り込みに迷わない


ここ数ヶ月、私の生活に突然大きな変化が生じてしまった。
それをこなすまでは、他の一切合切をストップさせてしまうしかなかった。
しばらく、はてブだけではなくネットから離れることを余儀なく強いられる結果になった。


それでも少しでも時間が取れれば、はてブを覗いていた。
私も立派なはてブ中毒だな、と内心笑ってしまった。
そういう時に限って、書きたいテーマがたくさん思い浮かぶ。
書けないジレンマに悶々とした。


更に時間が経過して、はてブを覗かない日が出てきた。
物理的だけではなく精神的に。
それと同時に、これまでとは違った気持ちがわいてくる。
少しずつ、はてブに評価されることに距離をもってみえるようになってくる。


私は、ブログで記事を書いて公開している。
しかし、誰かにみてもらうために書いているわけではない。
私の後々のメモのためであったり、自分自身の心の解析やたくさんの内在する私と対話を記すために書いている。
読み返して改めて見えてきたり、わかることもある。
ゴチャゴチャした気持ちを解きほぐすために、文字にして整理する事もある。


もちろん、自分自身のためならば、わざわざネットに公開しなくても、
オフラインでメモ帳に書いて溜めておけばよいのだ。
それをあえて公開する。
自分自身のためだが、人に見てもらってかまわないという気持ちで公開している。
この緊張感が大切だと思っているし、私は好きだ。


ただダラダラと愚痴っぽく書きなぐるのとは違う。
私の考えや想いを曲解されることもあるだろうし、
誤解から攻撃とみなされてバトルに発展するかもしれない覚悟はしている。
そんなリスクを抱えても、私はそのピンと張り詰めた空間で思考を探り、
時には防衛本能を最大限に発揮したり語りかけて書き連ねる。


私には何か形を作る時やまとめたい時、整理したい時。
ぬるいお風呂で風邪を引きそうになるよりは、時に熱湯を頭からかぶるくらいの緊迫の方があっている。
ヒトリゴトなのに大声で叫ぶなんてはた迷惑な話だが、
私はこうして私自身のためのツールとしてブログを使用している。


それでも、はてブをはじめてクリップをされるという中で、
少しずつ私の気持ちはブレはじめていった。
このブログでも何度か私自身を諌めようと記事にしてみたが、
《数 = 評価 = 価値》 という魔物に囚われた私の心はなかなか拭えなかった。


人の目を気にしないどころか、人の目ありきで存在をしようとさえしていた。
人の目と言ってはいるが、私の妄想する人の目はとても意地悪だ。
強く弱く波状攻撃で息もつかせぬ勢いで私に襲い掛かってくる。
そして妄想の中で足を付けている地面と感じている部分は、
底なし沼であったり、足場のない空の上であったりする。
不安定で危うい。どこまでも堕ちてしまう。


実際の人はこんなに無闇に人を追い詰めたりしないし、
そもそも私という存在にこれほど興味を持つこともない。
私自身だからこそ、こんなにも私をキリキリさせるのだ。


しかし、ここは私の弱い心が創り出した妄想の世界で、不安定で掴み所がない。
だからこそ、その暗闇の中、どんどん深みにはまっていく。
もっと知るには、奥に入りさえすれば何かを掴めるんじゃないか、と深みにはまっていく。
息ができなくなっても、もがきながらでも進んでしまったことであろう。


偶然とはいえ、はてブからもネットからも離れられたこの数ヶ月は新鮮だった。
開放。
妄想の中から、強制的に現実の世界にひっぱり出されたから。


何に縛られていたのかわからないが、のびのびしていた。
「記事を書かなきゃ」
なんて義務にでも感じていたのかな?


いつの間にか偏っていた、記事の読み方、感じ方。
興味の方向。
ガチガチで凝り固まっていた。


柔らかくいたいと思う。
アンテナを高く、広く張っていたいと思う。
もっと素直に、自由に。




でも、私はまたこうしてブログに記事を載せ始めた。
こうして私自身と対話をする場所。
誰かに私の気持ちを伝播させたいわけではない。
想いを伝えるなんておこがましい考えもない。


ただ書き連ねていきたい。
私が私に語る私の心の歩き方。
楽しいと思える遊びの空間がここからみつけられるといいな。

器を守るもの


誰かからの言葉が無闇に私の心に刺さる時がある。
それは、往々にしてコンプレックスなこと、
もしくは認めたくないけれど、欠点として図星なことに起因することが多いのではと思う。


もちろん、私のコンプレックスや欠点は私自身でさえも避けて通りたいこと。
ましてや誰かにあれこれと勝手に評価されて、受け入れることは容易くない。
少なくとも私は精神的に相当な余裕がある時ではなければ、
大人気ないとわかっていても不機嫌になってしまうと思う。


不機嫌の毒が私の内側にのみ巣食って、外への感染が抑えられる時ならばまだましだ。
これが外側に向いてしまうとタチが悪い。
反射でいかに自分が正しいか力説してわかってもらおう(正直に言うと、矛盾覚悟でねじ伏せ押し付けてやろう)とするかもしれないし、
地雷を踏まれたと悲観にくれて、相手に謝罪を求めて暴れまわってしまうかもしれない。
私が他者へ理解を求めるパフォーマンスをする場合、
自己矛盾で持ちきれずに戸惑う私自身への言い訳や演出だったりすることがあるので、本当に迷惑極まりない。


しかし、私がどんなに私の中のコンプレックスや欠点を認められなくても、事実はかわらない。
存在するものは、確実に存在するのだ。
たとえ自己認識では普通な部分と把握していたとしても、
ちょっと突付かれたくらいで動揺していたら、それはウィークポイントと思われても致しかたがない。
誰かに私のウィークポイントなフレーズを露呈してしまったことになる。
『このフレーズを浴びせかけると、私は簡単に折れてしまいます』 
と首から看板を下げて歩いているようなものだ。


ウィークポイントというのは、自然界の動物にとっては命取りになる場所だ。
敵が来襲してきたら、真っ先に餌食になってしまう。
ウィークポイントを防御もなしに、見せびらかすということはそういうことだ。
それに、動物は獲物の弱点を嗅ぎ分ける力は鋭い。
無邪気は可愛いが、餌になっては可愛さも台無しだ。


ヒトは捕食されにくいから、そんな心配はいらないだろうか。


 1. いちいち誰かの言葉がウィークポイントにあたらないか、びくびくと探る
 2. ウィークポイントを突かれたら、すかさず臨戦態勢を整えて対抗する
 3. 日ごろの防御策としてパトロール場所を広く持って、警戒する
こうなると、かなりの体力も精神力も消耗する


相手が竹の子なら、キリがない。
一瞬でも目を離すと、すぐに竹やぶになってとり囲まれてしまう。
相手がヒトであったとしても同じこと。
何かが変わらない限り、潰してもなぎ倒してもまた敵は現れる。
物理的に敵がいなくなっても、弱さが作り出す心の中の敵はいなくはならない。
一生小ばかにされ続けるもぐらたたきの連続だ。


これではどんなに健康自慢のヒトでも、過労死まっしぐらではないのか。
いろいろなものを消耗してからでは、体力や精神力を強化するのは難しい。


ウィークポイントを守ろうとすると、他の部分の防具を拝借して強化の手助けとすることもあるだろう。
そうなると、ウィークポイントではない部分にまでしわ寄せがいき、新たなウィークポイント予備軍を作りかねない。
結果として脇が甘い状態を増やしてしまうことになってしまう。
簡単に寝首をかかれてしまいそうだ。


誰かのフレーズが心に刺さるということは、そのフレーズが私のウィークポイントシグナルが点滅している証である。
現実逃避して私のその場しのぎな自己満足正義のために闘うこともあるだろうが、体力的にも時間的にも無駄が多すぎてキツ過ぎる。
やはり寿命は縮まるばかりのようだ。
ウィークポイントの根本を改善しない限り、命が絶えるまで乱暴な逃亡者になってしまう。


ウィークポイントをつく誰かの思いはどうだろう。
傷付けることを意図して?
傷つけたのは偶然?
相手と自分の空気の違和感?
相手と自分の距離を見定める提案?


いちいち私のために時間や精神力だけではなく、繊細な心を割いてくださる方々もいるだろう。
でも世の中私に都合のよいことばかりではない。
私の存在でさえどこまで私以外の人にとって都合がよいのか考えれば、答えはおのずと導き出される。
それでも、そうであったとしても。
せっかく私に向けられた誰かの意識を、ただ踏み潰して私自身をも潰してしまうのか。
貪欲に外部からの頂き物として、少々の腹立たしさは堪えて1つでも逃亡の芽を減らすことはできないのか。
どんな経緯であれ、私の元に飛んできた思いは偶然でももたらされた巡り合わせだ。


タダより高いものはないという。
そう。
簡単で、口当たりのよい表面ばかりを追いかけていると、本物やお気に入りは手に入れられない場合もある。
少しぐらい腹が立っても、手に入れておいた方がお買い得なものだってあるだろう。
少しといわず痛い思いをして手に入れたものの方が愛着もより深くなって、いい買い物だったということもあるかもしれない。
自分自身のための買い物。
どうせなら一生モノを手に入れて、大事にしていきたいものだ。