商業音楽はボカロ音楽に勝てないとして…

商業音楽がボカロ音楽に勝てない理由
http://d.hatena.ne.jp/kawango/20100916

を読んでなんかしっくり来ないのは、ひとつは多分「二次創作による延命」みたいなのはそこまで新しい事象ではない、というか割と古くからあることだと思うから、なのかな。
クラシック音楽は大昔の楽譜を解釈を加えつつ演奏することで価値を生むし、ジャズの世界では過去の曲のカバーは当たり前に多いし(スタンダードと呼ばれるような曲もたくさんあるし)、むしろ同じ曲をどう演奏するかで価値を競うような事をしている。

…が、別にだからといって人気があるかというとそういうわけでもないし。
もう少しだけ「理由」を深く考えてみたい気はする。




それと関係あるようなないような事で面白いと思うのは、そういう今のボカロ界隈のような、「楽曲」と「演奏家(歌い手・パフォーマー)」が疎結合してる状況って、どちらかというとわりと古い時代の状況に近いものなんだよね、という点。

前に書いた(http://d.hatena.ne.jp/zk3/20100715)ように

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クラシック時代:「楽曲」が価値の中心、オーケストラは再生装置
楽譜出版の時代:「楽曲」が価値の中心、楽譜が流通メディア、演奏家が再生装置
録音の時代:「楽曲」に加えて、「演奏内容」の価値が認知される
ビジュアル(写真/PV/テレビ等)の時代:「楽曲」「演奏内容」に加えて「外見・タレント性・カリスマ性」などにも価値が生まれる
ネットの時代:???

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という感じで、時代背景や伝えるメディアによって、同じ音楽周辺でも何に価値が置かれるか、というのはどんどん変わってきて今に至っていると思うのだけど、id:kawangoさんの書いているような状況は、ある意味ではこの中の「クラシック〜楽譜出版の時代」あたりに割と近い気がする。

これは、VOCALOIDというものの特殊性(歌い手はみんな同じで曲だけ作家によって違う)のおかげで、ビジュアルな時代の「タレント性」の部分が薄れたことによって、その分楽曲/演奏のほうにフォーカスが当たっている、ということなのかなと思う。また、今歌ってみたの歌い手さんにフォーカスが当たりやすくなっているのは、ニコニコ生放送という、ビジュアルやタレント性を伝えやすいメディアが生まれたことによってビジュアルな時代の要素が少し大きくなってきているということ、かもしれない。

…と考えてみると、見方によっては歴史が繰り返しているだけ(ただし超高速で)、ともとれなくはないのだけれども。

 

一番の問題は、ボカロ界隈はそれで確かに人気になっているかもしれないし、二次創作によるコンテンツの延命などはこのネットの時代において意味も価値もあるかもしれないが、じゃあその仕組みをボカロ界隈以外で成立させることができるか、応用できるか、どうだろうか、という点。

多分、普通のバンド/アーティスト作品にはちょっと応用しづらい。プロデューサー的立場で、feat.とかしてゲストを迎える体制で制作してる音楽家なら何か面白い事できるかもしれない。あとはたとえばあくまで中心はゲーム、な東方の音楽とか、あくまで中心はアニメ、なアニソンとか、そういう、別のところにコアがあるような、何かに付随する音楽だとさらにもう少し応用がききそうな気はするけど、いまいちまだイメージしきれてない。

なんか昨日寝る直前にふと思い浮かんだのでまとまってないけど書いておいてみる。

少し前に相方の連れられて吹奏楽の演奏会を聴きに行ったり、この間WOWOWで「アマデウス」やってたので見てて思ったことなのだけど。クラシック音楽のあの時代は、「楽譜」がメディア/記録媒体であって、オーケストラ、というのがそれを再生する装置であった、のかなと。

録音技術が発展する前は、共有できるものは「楽譜」であって、音そのものではなかった。演奏者というのは楽譜に書かれた音楽を再生する装置であって、大事なのは「楽譜」つまり「楽曲」。もちろん演奏者の善し悪しはあっただろうけど、多分それはある意味では今でいう「オーディオ機器の善し悪し」と近い感覚だったのかもしれない。

それが「録音」という手法の発見により、楽譜でなくて音そのものが記録媒体に乗って共有される。そうすると、「優れた楽曲」だけでなくて「優れた演奏」「優れた演奏家」「優れた歌い手」というのにも価値が生まれて、名演と呼ばれるものが記録されてシェアされる。今や場合によっては楽曲制作者の影は薄く、パフォーマーのほうがある意味では目立っている部分もある。実際、録音以前の世界では、名の残っているのは主に楽曲と作曲家であったのに対して、録音以後は演奏家パフォーマーがたくさん名を残している。

記録媒体の特性とかによって、なにに価値があるか、が変化するというのはあることなのだろうなーと。

…んで、今なのだけど。

とりあえず、インターネット時代になって、記録媒体としては音だけでなくて映像や文字情報なども追加でき、さらに後からでもどんどん追記したりできるようになって。生演奏という、本来その場に行ってその場で体感する以外になかったものが、生配信や疑似同期によって録音されたCDと同じような、共有しやすいコンテンツになってきたりして。

体験を通じて得た感動やなにやらを共有するところまで含めてひとつのコンテンツと呼ぶような時代になるのか、どんな人が脚光を浴びるのか。…とりあえず面白い時代になってまいりました。

芸も商品もサービスも客が育てる

芸(エンタテインメント的な)と芸術(アート的な)は別のものとして、あくまで「芸」についてのお話ですが。

これまで色んなものを見聞きしてきて思うのは、芸って言うのはやっぱりそれを見て評価する人によって育てられていくもんなんだな、ということ。大道芸を見ても落語を見ても、ニコニコ動画見ててもそう思う。

たとえば(これまでに何度か書いてる気がするけど)大道芸人の芸って都内で時々見かけるけど、毎度どの人もそれぞれほんとにすごいなーと思う。
技術ももちろんすごいけど、その技術をどう見せるかとか、その場にいる人をどうやって楽しませるか、どうやって足を止めてもらうか、失敗したときにどう面白くフォローするか、どうやって嫌な気分にならずに投げ銭してもらうか、全部娯楽としてきちんと磨かれてる。

あれってなんでなのかなと思うと、多分もう嫌と言うほど自分の芸の位置とか評価を目の当たりにして日々改善してるからなんだろうな、と。大道芸だったら、立ち止まってくれた人の数や投げ銭してくれた金額でもうはっきりと自分の芸の価値を思い知らされるだろうし。

落語家とか漫才師とかだったら観客にどれだけウケたのか、みたいな空気感とか、他の人に対する反応との比較とかで嫌というほど自分の芸の位置がわかるだろうし。

そうやって観客の生々しい反応を通じて「自分の芸の未熟さ、位置を思い知らされる」っていうのは、どれだけ、どういう方向に芸を磨かなきゃいけないのかを知って、試行錯誤を積み重ねていく上ですごく重要なことだと思う。

商業的な音楽シーンみたいなところにはそういう指標があまりないように思える。わかりやすい指標は多分「売り上げ」なんだろうけど、それはタイアップとかプロモーションとか、芸の質以外のところで左右されてしまって客観的な評価にならないだろうし。空気の読み方を間違えればすぐにお客さんの求めるものと違う方向に進んでしまって迷走することになってしまうだろうなと思う。

多分、ライブを繰り返すバンドがじわじわと動員増やしていくとか、ストリートライブで人が集まくるとか、そういうことをすごく地道に積み重ねていくみたいな形が本当はきっと正し(?)くて、たとえばプロがプロの目で売れる売れないとか判断するとか、そういうのは何かを狂わせてしまう、そんな気がする。きっとお客さんの喜ぶ顔だけが唯一信ずるに足る指標で、客観的に見える「数字」よりもその生々しい反応をどうやって知るか、そこが実は大事なところなんだろう、と。

以前お笑いのコアなファン(というかアマチュア芸人として舞台に立ってた人)と話をしたことがあって「テレビに出るようになると芸人ってつまんなくなるんだよねー」みたいなこと言っててそれがなんか妙に印象に残ってるんだけど、テレビみたいな観客との距離の遠いメディアは芸を狂わせる可能性をはらんでいるのかもしれない。

そしてそれは、芸だけじゃなくて、多分広告の効果に右往左往してた企業とかいろんなものにもあてはまる気がする。

ステージでも演芸場でもストリートでも同人即売会でもニコニコ動画でもustreamでもなんでもいいんだ。
とにかくお客さんの声がはっきりと聞ける、お客さんの顔がはっきりと見えるところに出て行くことが、芸を高めて皆に喜んでもらえるようなものを作っていくためには大切なことなんだろうなって。芸に限らず商売やいろんな事含めて、なんかそんなことをここのところずっと考えている。

「生演奏」に"回帰"、ではないんじゃないかな

http://blog.livedoor.jp/domesaka/archives/1094378.html
http://www.su-gomori.com/2010/05/post-492.html

「音楽は再び「ライブ」へ回帰する」ってあって、世間的にもCDはもうだめだ、ライブじゃないと、みたいな事言う人もそれなりにいるけど、前からそれはちょっとばかし違うんじゃないかなと思ってる。

「生演奏」の意味の「ライブ」じゃなくて、要は「より直接的に、場/体験などを共有できる」ていう意味での「ライブ」に進んでいくってことなんじゃないかなと。「直接的に場/体験などを共有」ができれば、その中身はなんだっていい。

これは某ニコニコ動画周辺で音楽活動をして、同人文化に近いところであれこれやってみて思ったことなのだけど。

たとえば先日何かの間違いで一般流通のコンピレーションCDに自作曲を一曲を収録いただく機会があって、それを通じて、CDっていうのは作る側としてもあまり面白いメディアではないなと思った。なぜかというと、CDって曲を作ってから世に出て反応がもらえるまでが長いし、聴いた人の反応があまり作り手に届いてこないし、聴いてくれてる人との距離がすごく遠く感じたから。

ニコニコ動画だったら、曲を作って、できあがってすぐにアップして、twitterや動画のコメントでレスポンスがもらえる。すごいライブ感。これもある意味では「曲を公開する」ということが「ライブ」みたいになってる気もする。

同人イベントでCD作って出すっていうのもそう。作り手としては自分の曲を聴いてくれてる人の姿を見て声を聞けて。聴き手も好きな作り手さんに会ってその手から直接CDを受け取って。要するにCDを売るという「ライブ」。

twitterにしたってustにしたって、とにかく「直接つながって共有」できるものが今は愛されてる。間にあったちょっと余計だったものが取っ払われて、作り手と聴き手が直接に近いかたちでつながる。つながるためのいい手段もたくさんあるし、今後ももっと面白いものがどんどん出てくるだろう。

「音楽業界」というものが今後どうなるかは知らないけど、とりあえず個人的にはいち音楽バカとして、とても素敵で面白い時代が来たとワクワクしている。

音楽を買っている暇がない

なんか最近ふと気づくとわりと音楽を買って聴いていない。いや、一時期よりはDL購入量も増えているのだけど、買ってもじっくり聴きこむことがちょっと減った気がする。

ニコニコ動画にあがってる音楽聴いて、twitterでフォローしている人がオススメしてた音楽をYouTubeSoundCloud等々できいて、気になったアーティストのmyspace音源聴いて、音楽情報Blogに貼ってあったYouTube動画見て。無料で聴ける範囲に膨大な量の音楽があって、そこに到達するために必要な情報もたくさん集めやすくなって。

正直音楽を買っている暇がない。

…は言いすぎとしても、買う手が止まるくらい、それくらいの勢いで矢継ぎ早にたくさんの音楽聴いてる。
電子書籍方面の話で「本を読む量は減ったけど文章読む量は増えてるのでは」という話があったけど、自分の場合は「CD買う量は減ったけど音楽聴く量は膨大に増えた」。

何かが狂っているような気もするし、でもこれがインターネット時代のまっとうな姿という気もするし。いずれにしても、音楽「文化」の発展の意味ではこれからいろいろ面白い時代になっていきそうだけど、音楽「ビジネス」の方面は何かのイノベーションがない限りは引き続きしんどそうだなーとか思ったりしている。



で、個人的に今一番お金を払いたい相手がいるとしたら、この圧死しそうなほど膨大な世界中の音楽カタログの中で、自分に完璧にマッチする音楽を探し出してきて教えてくれる人、かな、とか。。。


っていう最近の雑感。