Dai Tamesue

日々のつぶやき

33 notes

誰の問題か

スポーツ界に問題が幾つかある。ここ数年は指導文化の問題、体罰などが明るみに出て対応に終われた。行き過ぎた体罰で中には自分の命を断つ子供もいた。

体罰の問題は誰の問題か。スポーツ協会の誰かが悪いのか。日本体育協会か、JOCか、それとも文科省か。現役のアスリートは関係ないのか。引退したアスリートは関係ないのか。柔道の問題は陸上とは関係がないのか。親が解決すべき問題か、生徒が解決すべき問題か。それとも指導者の問題か。

当事者がいない問題は解決されない。メダルをとる事の当事者はいても、問題を解決する当事者がいない。現役時代、余計なことを口にするな競技に集中しろと叱られた。もしみんなが言う通りにしたら、アスリートは少なくともスポーツ界の問題の当事者ではなくなる。一体誰が問題を自分ごととして捉え解決するのか。アスリートの問題を誰が解決するのか。

世界で起きている問題は日本には関係ないのか。アフリカで飢餓に苦しむ人がいるらしいけれど、それは日本とは地理的に程遠い。関係ない生活をすれば関係がない。子供の虐待があるらしいけれど、少なくとも自分の家庭はうまくいっているから関係ないと言えば関係がない。

一方で、どの問題もなんとかしなければならないと意気込む正義もややこしい。変に介入すれば当事者で折り合っていたものも折り合いがつかなくなる。外部と内部、当事者と部外者、その線引きがうまくいかなくてこんがらがっている問題は多いように思える。

あれは誰の問題か。見守るべきか、介入すべきか。意見すべきか、沈黙すべきか。私の責任の範囲をどこにおくのか。

42 notes

実績と言葉

何かを成し遂げてきた人の言葉は重たいと言う。その最たるものがアスリートではないかと思う。僕も現役時代、記者の方から感心されたり、褒めてもらうこともよくあった。

一方で行き過ぎる例も見ることがある。実績があると何を言っても何か含蓄があるかのように持ち上げられる。今考えれば、本当はただこねくり回して難しく言っているだけのこともあったと思うけれど、結果が出ていると勝手に解釈してくれて持ち上げてもらえる。そうしているうちにそれに慣れていくと、なんだか自分でもわかっていないこともまるで深そうに言い切ればそれっぽく聞こえるテクニックを学ぶ。

ところが神通力はいつか切れる。アスリートであれば引退した後は、数年経ってただの人になる。現役時代は聞かれなかった追いかけ質問をされるようになる。つまりどういうことですか?何かに例えるとどんなことですか?ちゃんと自分でわかっていないことであればそれがばれていって次第に言葉に力がなくなっていく。

特に日本語ははっきりと具体的に説明せず話すとまるで深く聞こえる傾向にあると私は感じている。

”夢なんてないんです。僕には目標しかありません。つまり全ては行動なんですよ”

サラリーマンが言えば小馬鹿にされることでも、金メダリストが言えばみんな唸る。本当にその奥に意味があるかどうかは関係なく。何か言えば結果を出してから言えとつつかれる。

わかっているのかどうかを知るためには、質問し、またされることだと思う。手を変え品を変えたとえ話が出て、具体的な例が出て、そうして説明しきれるかどうか。本当に強い言葉を持つ人は60分でも説明できて、1分でも説明できる。

実績と言葉は切り離せないから、少し距離をとって眺めるぐらいがちょうどいいのだと思う。

61 notes

リテラシー

リテラシーという言葉が日本で出てきたのはここ数年だろうか。調べてみてもあまりピンと来るものはないのだけれど、昔は識字という意味で使われていたように何かの基礎的な知識ということになるだろうか。現在ではもう少し広義になっているように思う。メディアリテラシー、ITリテラシーなど様々に。

リテラシーが低いと馬鹿にされる。ようはものを知らんということだろうと思う。またはリテラシーが低いと簡単に人に騙される。メディアリテラシーが低いから日本人はマスメディアにも踊らされるし、こんにゃくがいいと番組で紹介されたからといってこんにゃくが売り切れる。

私のおばあちゃんはよく人に騙された。例えばある日、これが売れないと会社に帰れないんですと泣きついてきた若者からすっごいでっかい業務用の掃除機を買ったりした。別の日なんかは、旅の途中で路頭に迷って家に帰れないからどうか1万円を貸して欲しい、必ず返すからと言われて貸した。もちろんお金は返ってきてない。平成の世に旅人が村の家を尋ねるなんてありえないんだろうと思うけれど、そういう話がたくさんある。

家族が集まるとおばあちゃんはそれをみんなにつっこまれて、いつも笑っていた。”あん時はこの人は本当のことを言うとると思ったんじゃけどのう”と言いながら、全く反省していなかった。そして時々そうは言ってもいつか若者が来るかもしれんし、とも言っていた。ああきっとこの人はまた同じことをしてしまうんだろうなと思って僕は聞いていた。

リテラシーを高めないとこれからの時代はダメだという。騙されない為には徹底的に知識で固めて、一つ一つしっかりと頭で検証するべきなのだと思う。本当にそうなんだろうかと疑いを持ちながら生きていることが大事なことだとリテラシーに関するブログに書いてあった。

おばあちゃんはリテラシーが低かったのかもしれない。僕もたぶん幾つかの分野のリテラシーが低い。だからなんでも感心してしまって、人に騙されやすいのかもしれない。きっと人生トータルでは損をするんだろう。それでもおばあちゃんは90を過ぎてとてもいい笑顔で笑う。僕はリテラシーが高くても低くてもいいけれど、最後はああいう笑顔になる人生を送りたい。

55 notes

たった一つだけのオリジナル

世界に一人だけの私、という言葉はとても響きがよく、コンセプトとしてはぜひ受け入れたいのだけれど、これを実現するのはとても難しい。

例えばあなたが長い間独り身だったとして、異性の友達に君は君のままで魅力的だ、あなたに似合う人がきっといるはずだ、と言われても納得しきれない。なぜなら目の前の相手がまずあなたを選んでいない。反対にあなたをオンリーワンだと褒め称えなくても、相手があなたに惚れ込んでいれば十分自分は特別だと思える。

オンリーワンになりたい言われたいという点で、人は似ている。私は私のままでいいと思えるためには、世の中からの評価は一切なくても構わないという覚悟がいる。人の評価で自分を認識するのであれば、すでに相手に選ばれたいという競争に乗っかってしまっている。人が誰かを選ぶ時そこに比較とランキングが存在する。

本当のオンリーワンには説明がない。説明している時点で比較がある。無人島で誰とも会わずに育てば、自分の背が高いのかどうかもわからない。人は人生で出会ったものとの比較によって自分の個性を説明する。”私は(今までの人生で出会った平均値より)やさしい”という風に。

人はみんなオリジナルでそれぞれに良さがある。ただし、あなたが会社や友人や、恋人に選ばれるには相手のランキングの上位に上がらないと選ばれない。選ばれたいという欲求と決別することでようやくオンリーワンという感覚が生まれる。その欲求が潜んでいるのにナンバーワンよりオンリーワンという人は、抑えつけた欲求がいつか人生で返ってくる。

110 notes

ぴったりくるもの

『人生の成功はどれだけ具体的なビジョンを描いたかによって決まる』

例えばスポーツであれば、本田選手やイチロー選手の子供時代の作文や、孫正義さんの人生50年計画など、早い時期にやるべきことを見つけそれに邁進することができる力は確かに大きい。

一方で、これが成功には必須であると信じすぎた人は、このぴったりくるビジョンを探すことに夢中になってしまい日常をおろそかにする。計画表を作ることに夢中で行動がない。行動がないから成長がない。皮肉だけれどビジョン作りに潔癖性な人は、未来に悩んで、今をおろそかにしてしまう。

やりたいことがない、運命の相手がいない。あんまりこれが長い時に、ふと自分を振り返ってみるとどうだろうか。愛せる相手に出会うことも大事だけれど、愛せる自分がいるかどうかも大事。今自分が抱えている問題を出会いだけで解決しようとしても、そんな出会いは本当はない。

与えるには自分が満たされていないといけない。愛されるために愛する人は取引をしている。愛を注ぐ相手を探しているのではなくて、自分を満たしてくれる相手を探している。自分が探しているものは自分の中にあることに気づかないから、外ばっかり探しに行っていて、どこにもないと嘆く。

運命の仕事を探しているという若者の目の奥を覗き込んでみると、時に本当に探しているのは運命の仕事ではないのではないかと思う。彼が求めているのは自分を満たす何か、自分を動かす何か。出会ってないから夢中になれないのではなく、夢中になれないから出会いがみえない。運命の出会いは確かにあるが、準備ができているものにだけ訪れる。

42 notes

役割

”毎日走るのですか”
最初の質問の3割はこう聞かれる。外から見てみれば僕は元アスリートなんだろうし、走る人だから当然といえば当然なのだけれど、とはいえ会社に行って仕事をしている側面もあるわけだから不思議な気分になるときもある。
少し前に障害者は人を感動させないといけないのかという動画があがっていた。私たちは普通に生きているだけで世の中が勝手に私たちに意味を押し付けてくるという動画だったから共感したのだけれど、一方でその押し付けは無くせないだろうなあとも思った。
一目で特徴を持った人、誰から見てもわかりやすいバックグラウンドを持った人は多かれ少なかれこんな経験をしている。僕も現役時代陸上選手という役割を与えられるのを嫌がって抵抗していたけれど、一通り抵抗し切ったら、結局外から見てそうなんだし、そもそも確かにそうでしかないのだからと思って抵抗をやめた。
はっきりとした配役が決まっていない人生の方が多いからこの悩みはどの程度共有されるかわからない。普通の人生では配役でも代わりがいたり、自分だけに用意された役柄がなくて人は悩む。それからすれば贅沢な悩みだろう。ただ配役が決まりすぎて、自分の意向が無視されてそれを押し付けられることに抵抗を感じる人も確かに一定数いる。抵抗し続ける人もいるだろうし、僕みたいにどうせ全部幻なんだからと割り切る人もいる。役割と一体化している人もいる。最後の人が一番幸せだと思う。
ある有名な方と一緒になった時に”大変な役柄ですね”と話かけたら、ふっと不思議な顔をして”私は私だから”という答えが返ってきた。そういう見方で生きられたらとても幸せなんだろうなと思って、質問するのはやめにした。
テレビは大体の流れがある。僕がするべき役割もだいたいわかる。でも時々全部すっ飛ばしてそのままになったらどうなっちゃうんだろうという気分にもなる。舞台を降りても舞台があって、どうせ逃げられないんだったら、おどらにゃそんそんである。

105 notes

全力について

人間には限界がある。できることとできないことがあり、努力してもなんともならないことがある。ただそう言い切る前に大事なことが一つあって、それは努力というのがどの程度を指すのかが人によって違うということだ。

長い間競技をやってきて思うのは、全力を出したことがある、または出すことができる人は案外と少ないということだ。中には7割の力のことを全力だと思っている人もいる。嘘をついているのではなく、人生で7割しか出したことがないから本当にそれが限界だと思っている。昔地球の端っこは崖だと信じられていた。行ってみるまではどこが端っこかわからない。ここまでが限界だと思っていたところを越える瞬間があった後、それまでは全力を出していなかったとようやくわかる。

全力を出すことは怖い。まず全力を出し切ると疲弊して、くたくたになる。だから、ついペース配分をしてしまうが、その状態で全力を出すことはとても難しい。力を配分するということは余裕を残すということだからだ。一方で、全力は痛くも苦しくもある。自分が傷つくかもしれないという恐れがあって全力を出すことは怖い。そして全力はコントロールが効かない。

全力はなりふり構わない状態で出る。どう思われても構わない、どうなったって構わない。ある種の狂気の状態で全力は出る。本当の全力は、自分の身の安全すら二の次になる。一度でいいから人生でこの瞬間を経験している人がいう”努力でもなんともならないことがある”は信じられるが、一度も全力を出したことがない人は”努力しきったことがないから、努力でなんともならないことがあるかどうかもわからない”というのが正確なところだろう。

ずっと全力でなくても構わないが、一度でいいから本気で何かに力を出し切ることは限界がどこかを悟る上でも大事なことだと思う。スポーツはほとんどの人が勝者にはなれないが、この全力の出し方を覚えるという点でとても貴重な機会だと思う。私は全力の出し方は応用可能だと考えている。

自分には未だ見知らぬ自分がいる。全力とはその自分に出会うために必要な儀式といえる。

39 notes

ブランド保持の罠

数年ほど前、少しずつ世の中に自分の名前が認知され始め、イメージというものができつつある時だった。僕たちのような知名度を生かす職業はイメージが重要になる。その頃から、イメージが壊れるような仕事は避け、うまくいくかどうかわからないプロジェクトは避け、人と会うときや詳細なプロジェクトは事務所が管理していた。

今、考えてみれば少し自意識過剰だったかなと思うけれど、当時はせっかく手に入ったブランドを無くさないように必死だった。

2008年に日本を離れてからは露出も減り、それから競技での成績もでなくなり、日本に帰っても道を歩いていてもほとんどの人がこちらを見なくなった。スポンサーも離れ、仕事もないから収入も減り、車ではなく電車で移動するようになり、元々の普通の生活に戻っていった。自分で誰と会うかを決め、小さいプロジェクトを始め、仕事を断るときもやるときも、自分の意思決定でするようになっていった。しばらくするとちょっとずつ仕事がわかるようになっていった

チャレンジは失敗する確率がある一定以上ある計画実行のことをいう。成功が確定していることはチャレンジとは言わない。そして人はチャレンジの数だけある確率で失敗をし、学び深く理解する。

私たちの商売は、イメージが売り物みたいなもんだから、小さな仕事をしてなんだあいつはなんなもんかと思われたり、失敗してブランドイメージが落ちることを避けがちになる。ところが皮肉なことにブランドを守り、選手を守るということそのものが、選手自身の成長を阻害する側面がある。自分で意思決定をし、失敗した時は自分に跳ね返ってくる状況で、プロセスに身を置き、失敗を繰り返しながら工夫することほど学びになるものはない。

ブランドと信用がある程度ある中で、失敗したり、世の中にがっかりされる恐れのあるチャレンジをし続けることの難しさと大切さ。価値があればブランドを再構築できる。ブランドしかなければ一度崩れたら再構築するのが難しい。

80 notes

どの程度期待してもいいんですか?

Q.相手に期待するからしんどくなる。期待しない。と言う話を以前されていましたがどの程度期待しないですか? 奥様在宅、為末さん外出。為末さんの干した洗濯物が雨なのに洗濯物取り込まれていなくてもがっかりしませんか?

為末の答え

これはよくありますね。洗濯物を干すという行為は家庭内の仕事のどちらが責任かがはっきりしない場合に、状況から考えると対応して然るべき立場の人が対応しなかった場合の話かと思います。まあだいたい家庭の仕事は責任ははっきりしませんが。こういうことは家庭において結構とありまして、私なんかは随分と相手の想定通り動かなくて妻は腹を立ててきたのだろうと思います。

それでも数年妻といまして、このずれはずいぶんおさまってきました。言えば直るところと、言っても直らないところの線引きができてきたからだと思います。こういった問題の原因はお互いの当たり前という認識がずれていることからおきますので、時間があればある程度は解決するんだと思います。大事な点は認識のずれは把握することはできても、完全に解消することは不可能だという点です。じゃあその場合どうしたらいいかというと、そういうもんだと割り切るか、関係をやめるかのどちらかだと思います。

なにしろ私もそうですが、大人になって人はほとんど変わりません。考えてみると簡単で、人間はコントロールできると思ってしまいがちなのですが、例えば満員電車が気にくわないと思っている人でも、毎日怒っている人はいません。いつかは諦めてそういうもんだと割り切ってあとは自分が電車に乗るかどうか、乗らないといけない生活をするかどうかを判断するだけです。

期待の厄介なところは、取引の感情です。これだけやったのだから、これぐらいはやってくれて当たり前という取引の割合がうまくいかない時に、人は腹が立ちます。お皿を洗ったのに洗濯物を入れてくれなかったという怒りはどこかにあるのではないでしょうか。人間ですので完全に見返りを求めない善意はなかなか難しいですが、行き過ぎると常に何かを期待されている重圧を感じながらになってしまいます。

さてとりとめもない話でしたが、一つスポーツ心理学でよく言われる言葉があります。

”コントロールできないものではなく、できるものに意識を向ける”

他人はコントロールできないというのをまずは大前提にしておく方が、自分もいちいち苛立たなくて人生が豊かになるのではないかと思います。ちなみに期待に関してとても詳しく書いてある本がプレジデント社から”諦める力”という題で出ています。一度ごらんになってみてください。

92 notes

バッターボックスを待つ人々

僕はバッターボックスにたつ前のネクストバッターズサークルに座っている選手を見るのが好きだ。前のバッターがピッチャーと対峙するのを見ながら一体何を考えているのかを空想するのが好きだ。順番を待っている人の心理に興味がある。

人生において、社会においてネクストバッターズサークルはほぼない。いつチャンスがくるかもわからないし、そもそもチャンスと気づかずに見逃すことも多いだろう。それでも誰の人生にでも一度や二度はバッターボックスにたつチャンスが回ってくる。問題はいつ来るのかがだれにもわからないことだ。

世の中には、バッターボックスに立つことを想像しながら生きている人生と、そうではない人生がある。もし自分に番が回ってきたら。もし今のバッターが自分だったら。そう考えながら生きている人生と、ひたすらに傍観者、ないしはヤジを飛ばす観客になっている人生がある。

バッターボックスに立つことを想像している人かどうかを見分けるにはたった一つ質問したらいい。

”君ならどうする?”

普通はこうすべき、や、こうすることが正しいという返事が返ってくる人はバッターボックスに立つことを想像していない。今日見た野球の感想を言う観客であればそれでいいけれど、バッターボックスに立つ当事者としては正しい答えなんて役に立たない。バッターボックスに立つことを想像している人は、僕ならこうします、という答えを持っている。

小保方さんの会見を見て、自分だったらこう切り抜ける。マクドナルドの謝罪会見の担当者に自分がなっていたらこういう謝罪をする。紅白の司会にもし自分がなっていたらこう言おう。世の中のいろんな事象を見ながらもし自分の番がきたらこうしようと想像する。観客の人生は当事者としての想像がない。

ほとんどの想像している状況は自分の人生で起きないだろう。それでも具体的な対応を想像しておくことで、幾分か自分の思考のトレーニングにもなると思う。自分の人生の可能性を諦めた人はこのバッターボックスに立った時の想像訓練をやらなくなってしまう。だから本当にチャンスがこないし、来ても考えてもいなかったから見逃したり空振りしたり怖気付いて次の人に渡してしまう。

レース当日は今まで想像してきたものを出すだけだ、というのはよく我々の世界では言われている。順番が回ってきてから考える人は勝負に間に合わない。