選挙で選ばれた政治家が政策決定をするという意味での民主主義に対する失望や嫌悪は日本をはじめいろいろな国で聞かれます。しかし民主主義体制が世界の潮流となった現在、この政治のしくみをなんとかうまく使いこなすためのヒントを、「べき論」ではなく、比較政治学を中心とした社会科学における実証分析の蓄積から掘り出してきて一般の人に紹介しよう、というのがこのブログのねらいです。(1ヶ月に1回を目安に更新します)

2016年5月1日日曜日

「ガラスの天井」政治家バージョン


【ガラスの天井 (glass ceiling)
資質又は成果にかかわらずマイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる、見えないが打ち破れない障壁 (ウィキペディア) 

最近いろいろなところで、日本での女性政治家の割合が世界的にみて低いことが指摘されるようになってきました。国会議員のレベルでは女性議員は約1割で、これは世界約200カ国のうち下から数えて30数番目といった位置づけです。
 女性にとって選挙で当選できるかどうかは一つの大きな壁で、この点に関してクオータ制を導入しようという運動がおこっているのは周知のとおりです。でも、当選したらこんどは政治家として昇進できるのか、要するに「ガラスの天井」を突き破ることができるのかという問題は、世界的にみても体系的に現状がわかっていない重要な点といえます。
 オレ・フォルケとヨハンナ・リクネの研究は、スウェーデンの地方議員を対象にこの問題を分析しています。「ガラスの天井」という概念は比喩として使われがちですが、この研究では、実証分析を可能にするため次のように定義し直しています。(1)男女の別以外には(能力的な)違いがないにもかかわらず女性のほうが昇進しない、(2)組織の上層ポジションへの登用になるほど、女性が登用されにくい、(3)女性のほうが昇進のスピードが遅い、(4)女性の昇進のスピードの遅さは、上層ポジションになるほど顕著になる。彼らは、これらの状況が実際にどの程度存在するのかについて、1990年代から2010年代のスウェーデンにおける全地方議員に関するデータを用いて分析しています。その結果、性別以外の昇進に影響しそうな要因(学歴、職歴、収入、家族構成、サーベイ調査を使って測定した、政治家としてのキャリアを積みたいという意欲の程度、など)を除いた場合でも、女性であることが議長や委員長への昇進に不利なことは(1)から(4)においてすべて存在し、いずれの場合も男性を100とすると女性は約40%から50%程度の割合でしか昇進しない、と報告しています。
 なぜこのような結果になるのかに関しては、さまざまな解釈が存在します。一般的に言われているのは、登用を決めるのがそもそも男性のために自分と同じような資質(つまり、男性に多くみられる特徴)を「優秀」と思いがちである、男性のほうが先輩からキャリアに関する指導を受ける機会が多い、女性政治家はメディアなどにおいて容姿を強調されることが多く、能力ベースで評価されにくい、などがあります。
 男女平等が比較的進んでいるといわれているスウェーデンでさえこういった状況なので、日本の政界でのガラス天井はもっと厚いことが容易に推測できます。女性政治家を増やすこととあわせ、女性の登用についても「活用してますアピール」のための人事ではなく、能力を判断基準として役職に登用することが当然になって欲しいです。

[出典] Folke, Olle, and Johanna Rickne (2016) “The Glass Ceiling in Politics Formalization and Empirical Tests.” Comparative Political Studies (2016): 0010414015621073.

2016年3月27日日曜日

議員数削減は望ましいのか?


 昨今議論されている選挙制度改革の具体的内容のひとつが、議員定数削減です。自民党も民主党もここ数回の選挙での公約に議員定数削減を盛り込んでおり、この問題は2016年参議院選挙でも政策争点のひとつとなりそうな気配です。
 とはいえ、日本の国会議員の数が国際比較でみるとかなり少ないことは、すでにいろんなところで指摘されています[1]。他の先進国の下院議会では、例えば、ドイツでは約14万人につき1人、フランス、イタリア、イギリス、カナダでは約10万人につき1人の下院議員が存在しますが、日本では約26万人に1人となっています(ちなみに、アメリカ下院の場合は70万人に1人と例外的に議員数が少ないです)。 
 なぜ現在の日本では議員数が比較的少ないのでしょうか。国際比較の観点から議員数の規定要因を分析したジェイコブスらの研究結果から、その答えを類推できます。これまでの選挙制度研究では、議員数(S)は人口(P)1/3(S = P1/3)になるという一般的な傾向(キュービック法則)があることが知られています。ジェイコブズらによる約90カ国のデータ分析は、この法則は議会開設当初の時期における議員数と人口数の関係に妥当するが、その後の増減には他の政治・経済的要因が影響していると指摘しています。政治的要因としては、競合する政党数が少ない(主要政党の規模が大きい)場合には、議席数が増加しにくい傾向があります。その理由としては、議席数拡大は少数政党の参入に有利なため主要政党には拡大のインセンティブがないということや、議員数が増えると政党リーダーによる党員のコントロールがより困難になる、などが推測されています。議員数に影響を与える経済的な要因としては経済停滞・危機があり、このような経済状況の際には財政負担の軽減が重視されるため、議員数削減が行われやすいと分析されています。
 ジェイコブズらの研究知見を日本の場合に応用すると、次のようなことがいえます。まず、1989年(明治22年)に設定された衆議院議員定数は300人でしたが、当時の人口が約4千万人だったことから計算すると約13万人に1人の議員を設定しており、これはキュービック法則にほぼ則っています[2]。その後日本の人口は増加し、1980年代には現在の水準と同じ12千万人台となりますが、衆議院議席数は最大でも1986年公職選挙法改正での512議席までにしか増えず、その後の削減を経て現在では475議席となっています。人口の増加割合に比例する形で議席が増えてこなかった理由の一つには、自民党による長期政権があったといえるでしょう。ジェイコブズらがいうように、大政党が支配する政党システムにおいては(小規模政党がある程度影響力をもつ多党制の場合と比べ)、与党にとって議席を増やすインセンティブがあまり働かなかったと考えられるからです。  
 国際比較分析からは、人口規模に比べて議員数が少ないことは民主的規範に反する影響をもたらすことが知られています。例えば、各政党の得票率が議席率に適正に反映されにくくなる、少規模政党が議席を獲得にしにくくなる、少数民族や女性などのマイノリティ議員の議席獲得がより困難になる、などです。
 結論としては、衆議院においてこれ以上議員数を減らすのは日本の民主主義にとって望ましいこととはいえません。定数削減は昨今の財政難を踏まえると耳触りのよい、かつ、わかりやすい訴えですが、政治家も有権者も、長期的かつ規範的な観点からはこうした訴えを受け入れることには慎重になるべきでしょう。

[出典] Jacobs, Kristof, and Simon Otjes (2015) “Explaining the size of assemblies: A longitudinal analysis of the design and reform of assembly sizes in democracies around the world,” Electoral Studies 40: 280-292.



[1] 例えば、上脇博之『議員定数を削減していいの?―ゼロからわかる選挙のしくみ』日本機関紙出版センター, 2011.
[2] 40,000,0001/3 = 322.61

2016年3月5日土曜日

憲法の権利規定は「絵に描いた餅」なのか?


 安倍首相が32日の国会で自らの任期中に憲法を改正したいとの希望を公言したことで、憲法改正問題が一層現実味を帯びてきました。自民党は党内に設置した憲法改正推進本部を中心に改正に向けて以前から活動しており、2012年には「憲法改正草案」を公表しています。自民党案への懸念は多岐に亘って指摘されていますが[1]、ここでは、人権保障に関する規定を取り上げます。
 そもそも、憲法における権利規定は実際に国民の権利保護につながっているのでしょうか。アメリカ憲法の父として知られるジェイムズ・マジソンは、これらは単なる「(羊皮)紙に書かれた障壁(parchment barriers)」(日本流にいうと絵に描いた餅)でしかないと言っています。実際の生活に影響がないのであれば、そもそも憲法改正議論のなかで取り上げる必要もないですよね。
 今回紹介するチルトンとヴァースティーグの研究は、人権規定の効果について実証的に検討したものです。彼らは、(1)政党を結成する権利、(2)労働組合を結成する権利、(3)集会の自由、(4)宗教の自由、(5)表現の自由、(6)移動の自由という6タイプの人権に関し、憲法条文が存在することで実際の当該分野での人権状況が向上するのかどうかを、186カ国の1946年から2012年の期間を対象に分析しています[2]。結論からいうと、「組織」に関連する権利の規定が含まれる場合には実際にもその分野の権利は守られやすく、一方で「個人」レベルの権利の場合には規定があっても実際には効果がみられない、というのが彼らの分析結果です。より具体的にいうと、上に挙げた6種の権利のうち、政党と労働組合結成に関する権利は実際にも政党・労組の保護を強く促し、表現および移動の自由に関する規定はほとんど効果がなく、集会および宗教の自由は政党・労働組合の場合ほど強くはないものの一定の効果がある、という結論です。これは、組織に関連する権利が侵害された際には市民による抵抗が(個人レベルの権利の場合よりも)社会問題となりやすく、結果として遵守されるよう働く、という理由によるものです。
 翻って自民党の2012年改憲案を読んでみると、チルトンらの論文で分析対象となっている6種類の人権はすでに盛り込まれているので、これらの権利に関しては憲法条文レベルでは特に不備はないといえるでしょう。
 一方、チルトンらの研究が日本に与える含意として、自民党案が「新しい人権」として掲げる規定についての指摘があります。自民党案では、個人情報の不当取得の禁止19条の2、国民への説明の責務(21条の2)、境保全の責務25条の2)、犯罪被害者等への配25条の4)が新しく盛り込まれています。これらは、個人レベルの権利という位置付けであり、チルトンらの理論を応用すると、仮にこれらの規定を含む新しい憲法が採択されても、実際の効果は低いのではないかと予測できます。国民のプライバシー権や知る権利を実効的に守るには、例えばですが、イギリス、インド、カナダ、ドイツ等で採用されている、これらの権利を保護する目的で設置された機関である情報委員会(information commission)の形成につながるような憲法規定を設けることが一案として挙げられます。

[出典] Chilton, Adam S. and Mila Versteeg (forthcoming) “Do Constitutional Rights Make a Difference?” American Journal of Political Science.



[1] 例えば以下が挙げられます。http://synodos.jp/politics/15542
[2] 分析手法としては傾向スコアを用いたマッチングによる回帰分析をしています。被説明変数のもととなっているのは、アメリカ国務省による世界各国での実際の人権保護状況に関する年次報告をもとにしたデータベースです。

2016年1月31日日曜日

政治におけるパワーシェアリングとは何か


 よい統治のためにはパワーシェアリング(権力の共有)が重要であると、政治学では半世紀以上にわたっていわれてきました。そしてこれが(机上の空論ではなく)実際にそうなのかどうか、多くの比較政治学者が実証分析をしています。
 しかし、そもそもパワーシェアリングとは何か、政治学者はもっとちゃんと考えたほうがよい、という重要な指摘をしているのがカーレ・ストロムらの研究です。彼らは、パワーシェアリングという非常に抽象的な概念に測定可能な定義を与えたうえで、これが民主主義の維持や武力紛争の防止に関係があるのかどうかを分析しています。
 彼らは、パワーシェアリングを(慣習ではなく)明文化された制度のレベルで捉えたうえで、なるべく多くの人・集団が政策決定に参加することを保証する「抱接型」、地理的な分権など、多くの人・集団に権限を分け与える「分散型」、そして、一部の集団の専政にならないよう権限を抑制する「抑制型」の3つがその構成要素であると提案しています。実際の制度としては、抱接型では、憲法で特定の集団に対して議席や行政ポジションの割当(クオータ)があるかどうか、軍隊に様々なタイプの集団が含まれることを規定しているかどうか、内戦後の和平協定で大連立の形成を規定しているかどうか、があります。分散型のパワーシェアリング制度としては、地方分権、地方自治体の首長が選挙で選ばれているかどうか、州・県などの地理的単位を代表する議院があるかどうか、によって測定しています。抑制型では、憲法が信教の自由を保証している、軍事は議員になれない規定がある、特定の宗教・民族を基盤とする政党を禁止している、司法審査の存在、憲法における判事の任期規定と司法権の明文化、を抑制型と捉えています。彼らはこうした操作的な定義をもとに、1975年から2010年の約180カ国におけるパワーシェアリングの制度に関するデータベースを作成したうえで、因子分析を用いて、これら3つの構成要素は実際に採用されている制度を分類するうえでも意味があることを示しています。
 これら3つのうち、(1) の抱接型の制度がパワーシェアリングの制度として一般的にイメージされているものですが、実際にはこれは内戦後の国において採用されることが多く、民主主義の国にはあまり存在しない、と報告しています。また、抱接型の制度は内戦後の社会においてのみ紛争防止効果がある一方で、抑制型の制度は、内戦を経験しているかどうかを問わず、武力紛争を防止する効果があるとのことです。
 この論文は、個別具体的な問題への解決策を提示できるタイプの論文ではないですし、実証研究では一般的な、因果効果を詳細に分析しているものでもありません。そういう意味でちょっと「地味」なのですが、とはいえこれはパワーシェアリングという政治を考えるうえでの根本的に重要な抽象概念を実証分析に落とし込んでいる、非常に重要な研究だと思います。また、全体的傾向としてみえてくるのは、抑制型の制度の重要性です。よい統治のためには、参加や分権よりも、国家権力の抑制が重要であり、政治学者はこの点についてもっと研究すべきだ、というのがこの論文の示唆するところなのだと思います。

[出典]Strøm, Kaare W., Scott Gates, Benjamin A.T. Graham and Håvard Strand (2016)"Inclusion, Dispersion, and Constraint: Powersharing in the World’s States, 1975–2010." British Journal of Political Science (published online).

2015年12月31日木曜日

憲法改正過程と民主主義の質



 201412の衆院選では、連立与党(自民・公明)が3分の2上の議席を獲得しました20167月の参院選でも与党が3分の2以上の議席をするとしたら、憲法改正が実現するかもしれません。というのも、憲96条では、憲法改正は両院の総議員3分の2以上の賛成で国会が発議でき、国民投票における過半数の賛成で可能であると規定しているからです。与党自民党は、憲法改正を結党以来党の使命」と掲げ、2012には憲法改正案を公式に発表しおり、改正に対し「やる気満々」のようです。自民党改正案に盛り込まれた内容が「ヤバイ」と政治ウォッチャーの間で話題になっていますが、今回は、改正内容ではなく、日本の憲法改正過程の特徴について、比較の観点ら考えてみたいと思います。 
 アイゼンシュタットらの研究は、憲法を制定する過程におる市民参加の程度の違いが、その後の民主主義の質に影響を与えることを1974年から2011年の期間に新しく憲法を制定した国118カ国(138憲法)を対象に分析しています。
 彼らの分析枠組みを表1に示しました。横軸は、憲法制定過程を(1)草案作成、(2)討議、(3)批准の3段階に分けています。縦軸は各段階においてどの程度市民の参加があるかを問題にしていて、最も市民参加の程度の低い「エリート主導型」、中程度の「中間型」、最も市民が参加する「市民参加型」に分けられます。例えば、ミャンマーの2008年憲法制定の過程はいずれの段階においてもエリート(軍)主導でしたし、南アフリカにおける1996年憲法はどの段階においても「市民参加型」でした。

表1 市民参加の程度でみた憲法改制定過程の類型


制定過程の諸段階

草案作成
討議
批准
市民参加の程度
エリート主導型
首相・大統領が任命した委員または与党による作成
エリートによる討議 / 非公開の討議
国民投票なし
中間型
議会内で作成 / エリートによる強い影響
エリートによる討議 / 討議は公開されていても市民の影響力なし
操作された国民投票による批准/ 間接的な批准
市民参加型
体系的な市民からのインプット/作成過程が一般公開/ 草案作成のために選ばれた委員による作成
討議は公開されている/ 市民の意見の草案への反映
自由で公正な国民投票による批准
出所:Eisenstadt et al. 2015をもとに筆者作成。

 アイゼンシュタットらは分析対象となっている138の憲法を統計的に分析し、制定過程において市民の参加の程度が高いほど、その後の民主主義の質が向上するという全体的な傾向を報告しています。また、民主主義の質を向上させるにあたって特に重要なのが、草案作成段階における市民参加の程度であると指摘しています。言い換えると、市民参加型の草案作成過程がその後の民主主義の質向上に与える影響は、ほかの過程(討議・批准)よりも非常に重要である、ということです。
 彼らの分析対象は主に「第3の波」で民主化した新興民主主義国なので、その分析結果をそのまま(ある程度民主主義が定着している)日本に応用するのは無理があるかも知れません。それでもあえて、日本の憲法改正過程を彼らの枠組みに当てはめて考えると、草案作成段階はエリート主導型または中間型、討議・批准段階は間型または市民参加型となります。草案作成過程において市民の広い参加がない、言い換えると、議会における多数派政党の意向が強く反映されるということは、新憲法のもとでの民主主義の質が危ぶまれる、ということになります。現行憲法のもとでは与党が発議することは正統な手続きではありますが、自民党案が広く市民に認知され、市民の声が草案に反映されるよう求めていくことは(もしも憲法改正するのであれば)非常に重要だといえるでしょう。

[出典] Eisenstadt, Todd A., A. Carl LeVan, and Tofigh Maboudi (2015) “When Talk Trumps Text: The Democratizing Effects of Deliberation during Constitution-Making, 1974–2011,” American Political Science Review 109-3: 592-612.

2015年11月26日木曜日

女性政治家が党首になるとき


 先日、国連開発計画(UNDP)総裁のヘレン・クラークさんの講演会が慶応大学でありました。その際私が司会をした関係もあって彼女の経歴をいろいろと調べていたら、ニュージーランドの農家の出身で、議員として27年在職し、そのうち9年間を労働党の党首兼首相として過ごした後にUNDP総裁に就任された、とのこと。アジア諸国で女性がトップリーダーになる場合は有名政治家であった父親や兄弟の「世襲」という形いですが、彼女はそういうわでもなさそうだし[1]、すごなと思う反面なにか体系的な要因があるんだろうか?と思っていたところ、この疑問に答えてくれる研究がタイミングよく出版されていました。
 ダイアナ・オブライエンの研究は、女性が党首に選ばれやすい条件に、先進国10カ国の55の政党を対象とし1965年から2013年までのデータを用て明らかにしています。分析の結果、女性が党首として選出されやすいのは、小規模の野党の場合であること、そして、主要政党の場合ではその政党の議席数の減少が続いている場合であること、報告しています。ヘレン・クラークさんの場合では、所属政党である労働党がマイク・ムーア党首のもと2回連続選挙に勝てなかった(政権をとれなかった)際に党首に選ばれていますし、イギリスのサッチャー首相も同様に、エドワー・ヒース党首のもとで保守党2回連続して選挙に負けてしまった際に党首となっています。日本はオブライエンの研究での分析対象に含まれてはいませんが、社会党(現在の社会民主党)初の女性党首となった土井たか子さんの党首就任も、1986年の衆参同日選挙での大敗をうけてのことでした。
 オブライエンの研究では、党首を辞める状況が男女によって違うのかという点も分析していて、こちらのほうは、選挙での敗北をうけて党首が辞任する確率は、男性党首よりも女性党首のほうが高いという傾向がみられます。要するに、女性政治家は男性政治家の「尻拭い」として登用され、党の選挙パフォーマンスの責任は男性よりもシビアにとらされる、というなんとも割に合わない役どころ。とはいえ、リーダーとなるチャンスがきたらそれをがっちりつかんで、(クラークさんがUNDP総裁になったように)次のキャリアにつなげられたらよいですね。

[出典] O'Brien, Diana Z. (2015) “Rising to the Top: Gender, Political Performance, and Party Leadership in Parliamentary Democracies,” American Journal of Political Science, 59-4:1022-1039. 


[1] 例えば韓国のパク・クネ、フィリピンのコラソン・アキノとグロリア・マカパガル・アロヨ、タイのインラック・シナワトラなど。