2022年4月9日土曜日

私も幸せになりたい


私も普通に幸せになりたいんだよ、と言ったら、話してるそばから涙が出た。普通の幸せって何だろう。人のことを憎んだり恨んだり怒りで我をなくしたりすることなく、手首を切ったり頭を叩いたりアザを作ったり、そういう苦しみから少しばかり距離を置いて、私も普通に友達が欲しいし、普通に飲み会とか行きたいし、普通に恋人がいて普通に暮らしたい。いや、友達はいらないし酒は飲まないが、恋人はいるが、それでもやっぱり苦しみはあるが、もう少しそれを減らして、普通の日常を生きたい。

ある日恋人が言った。君は急変すると。君は月の3分の2は機嫌か体調かどちらかもしくは両方が悪いと。君は一定していないと。君が一定していないと、話すことも話せないと。だからもう少し一定になってほしいと。それは、無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ、できないよ。それは今すぐ寝起きの格好のまま8000メートル級の山に登って降りてこいって言ってるのと同じだよ。私が一定だった試しなんてない。私自身も一定で落ち着いている私なんて知らない。私が知らない私は出てこない、作りようがない、作り方が分からない。そんな人間を望まれても、だから何度も言うように、私の首から上だけをすげ替えたら立派なちゃんとした人になれるんだけど、それならもう私自身は不必要で死んだ方がいい。私はいらないのだ。だけどそれではあんまりだから、私が私のまま生き続けられるようにしたいのだ。私が私のまま、苦しんだり怒り狂ったり人を刺し殺したり自分に包丁を向けることなしに、私が人も自分も傷つけないように、普通に、本当に普通に生きたいのだ。だってそれが、普通の人の暮らしだから。周りの人はみんな、そうやっているようだから。だから、私がそうできるように、私の人生を少し良くするよう手伝ってよ、と言った。

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2020年10月21日午前1時36分に書いてそのままになっていた。そしてこの気持ちと現象は、今もあまり変わらない。

2020年8月23日日曜日

誰もいらない

 「あの時」なんてない。あの時なんて存在しない。

死んだ方がよかったんだろうかと思うことがある。まだ死なない、死にたくない、まだ死にたくない、きっとこれから良いことがある。そう思って、改めて考える。良いことって何だろう。良いことって、何が待っているんだろう。良いことを具体的に想定できない私に、良いことは、起こるんだろうか。

手首を切ったり髪の毛を切ったりガリガリにやせ細ったりすれば、誰かが私の辛さを分かってくれるんだろうか。10代の少女が好んで読むファンタジーな小説みたいに、いつか私の全てを分かってくれる人が現れて、理解者を得た私は幸せになってハッピーエンドを迎えるのだと思っていた。幸せを得て、ハッピーに暮らすのだと思っていた。ある程度大人になって大きくなった私が学習したことは、そもそも「幸せ」という定型や、「落ち着いた暮らし」という定型を持たない私が、どうやってそれを感知し得ることができるっていうんだ、ということ。神さま、そりゃないぜ。

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インド映画の音楽を流しながら、歌詞を見なくても諳んじて歌える自分、歌詞の意味を追いかけることが楽しくて一生懸命だった自分を思い出して、どうしようもなく泣けてきた。自分の好きなことや楽しいことに集中できたのは、私が非常に恵まれていて、健康でお金の苦労もせず、将来を憂えることもなく、自分の悩みや苦しみだけに真っ当に向き合うことができていたからだ。今の私には、そんな時間もない。殺してくれ、もしくは死にたい、あるいはよく眠りたい、と思う。ときどき外に出ると、包丁を持って誰かを刺し殺したら、私が辛かったって、みんな分かってくれるのかなって、思ったりする。SOSはいつも届かない。助けはいつも来ない。誰も助けてくれない。だから、私は、誰もいらない。

2020年3月7日土曜日

幸せの裏側

ある時、急に、ぶん殴られる。急に、乱暴に腕を掴まれて、時空や次元を超えて、「本当の自分」とやらに、暴力的に向き合わされる。「本当の自分」は、暗い穴の底でうずくまって、横たわって、涙を流したり声をあげたりすることもなく、ただ無感情で死んだふりをしている。生きていても仕方がないから。待っていても誰も助けてくれないから。死んだところで救われないから。外に出たところで何もないから。どうしようもできないから。どうにもならないから。どうにも、ならないから、知らないふりを、する。薄汚れた身なりで何も構わず、死んだふりをして背を向けて横になってる。時間の概念はない。今も昔も将来もこの先も、私にはない。「あの時」に連れ戻される。「あの時」から身動きの取れない小さい汚い子供の自分が、死んだふりして、私を待ってる。私が来るのを待ってる。

2008年の写真を発掘した

2020年2月4日火曜日

お前が、同じ目に、遭え

大人になって段々分かったことは、結局どうにもならない、ということです。誰も助けてくれないし、何も救いがないということです。恋人がいようが、その人が私に起こったことを知ろうが、泣こうが、受け止めようが、そんなものでは自分の痛みや怒りは全然おさまらず、むしろ新たな怒りが沸いてきます。気安く同情してくれるな。私を可哀想だと思うな。いやむしろ、私を可哀想だと思うなら、お前が同じ目に遭え。そんなに可哀想だと思うなら、お前が同じ目に遭って、何の慰めにもならない言葉を嫌というほど浴びせられて、そして何も変わらない現実に絶望して死ね。穏やかな心で思います。

私は私に同情してくれる人たちを、私と同じくらい傷つけたいという欲望を抱きます。まともな良心があるので実行に移しませんし、口には出しませんが。口に出したところで、「サディストだね」なんて、脳みそにカビが生えているのでなかったら腐り始めているに違いないと断定して差し支えない程度に薄ら寒い言葉を投げ掛けられた私は、その腐り始めたトマト野郎の頭をぶん殴りたい気持ちを噛み殺して、ほらね、やっぱりね、と優しい笑顔が漏れるのです。ほらね、やっぱりね、痛い目を見ないと、分からないんだよね。同じ目に遭わないと、分からないんだよね。

それは多分、大人の私が、子供の私に対して思っていることなんだと思います。そもそも、子供の私が存在しなければ、こんな目に遭うこともなかった。そもそも、お前が、いなければ、私が苦しむこともなかった。(だから死んじまえ、ゴミクズ野郎が)頭の中で汚い言葉が繰り返し繰り返されますが、だけどもうそんなことは、どうでもいいんです。そんなことを言っても、どうにもならない。どうにもならない。何もならない。何も変わらない。誰も助けてくれないし、白馬に乗った王子様は来ないし、悪役は死なないし、私の人生は変わらないし、このままずっとずっと冷たくて平べったい水平線が、ずっとずっと退屈な道のりが、ずっとずっと。嘘です。私は老いるし、周囲も老いるし、それに伴って生活は苦しく現実味を帯び、お金のことばかり気にしはじめ、自分の子供の時の出来事なんてはっきり言ってもうどうでもよくて、全然頭の片隅になんか残っていません。そんなことより、生活。そんなことより、明日。早く、寝なくちゃ。一晩寝たら、すぐ忘れる。一晩寝たら、どうでもよくなって、もうどうでもよくなる。何があったかなんて、もう、思い出せない。もう、どうでもいい。

それは、大人の私が、よく理解しています。

絶望したり泣き喚いたりする時期は過ぎました。そんなことをしても何も変わらないし、どうにもならないとよく分かりました。今はただ色々なことが無味乾燥で、虚しいです。誰にもどこにも救いがないです。助けてほしいな、と、よく思います。だけど助けてもらうということが、どういうことなのか、よく分かりません。本当に助けてほしい時は、誰も助けてくれなかったし、大人になったら、色々なことが自分でできるようになっていて、助けてもらう機会を逸してしまいました、残念。それに今さら、助けてもらっても、お門違いに腹立たしいし、何をもってして自分が助かった、助けてもらったと言えるのか、そのイメージが抱けません。戦場にでも行って、明日をも知れぬ身になれば、幸せの実感が湧くでしょうか。余命宣告を受けて、もう幾日も残り時間がないと分かったら、その時はじめて、自分の人生がいかに無駄で幸せだったか、分かるでしょうか。

どうしたら幸せと思えるのか、幸せという感覚が、掴めません。掴みたい気持ちがあるのか、自分でも分かりません。ただもう人生を、終わらせたい。毎日そう思います。


2020年1月24日金曜日

誰も知らない

回復、など、したくない。許し、など、したくない。恨んでる。恨んでる。恨んでる。何を恨んでいるのかもう分からなくなった。回復なんかしたくない。そんなもの、望んでない。
私は、受け止めてもらいたいんじゃない。許してもらいたいんじゃない。許してもらいたいことなんかない。私に何も落ち度なんてない。私に何も落ち度なんてない!
私は、恨んでいる。誰も助けてくれなかった。誰も気づいてくれなかった。気づかなくて当たり前だ。私も自分が何をされたのか分からなかったし、だから助けも求めなかった。助けが必要なことだって、その時は、分からなかった。今はもう、助けも必要ない。何も助けにならないってことが、分かった。
もう疲れた。もう疲れた。もう疲れた。もう自分を傷つけるのは面倒くさい。もう人に自分の話をするのも面倒くさい。それは何の解決にもならない。何も解決してくれない。どうすれば解決するのか。何が解決となるのか。考えると何も出てこない。諦めて受け入れるか、この人生を降りるか、二つに一つしかない。どっちに転んでも、楽しくない。

2020年1月17日金曜日

私という犬小屋

幸せが何か分からない。多くの人が幸せと呼ぶ状態は、幸せというより平穏で、あったらあったで良いが、なかったらなかったで私には構わない。「まあまあしんどい」状態が、「マイルドにしんどい」状態に改善されるだけで、しんどさが続くという点で私にはあまり変わりがないからだ。私は、しんどい。生きていくことに向いてないんだと思う。かといってもう売春とか、そういうファンタジーを追いかける体力もない。ひたすら、面倒くさい。最近は、性行為もあまり好きじゃないってことに気がついてきた。相手が喜んでくれることが好きだっただけで、そういうモチベーションを持たない今、それは総じてサービス精神が欠けてきたということか。喜んでもらいたいという奉仕の精神よりも、ただ私の言うことを聞いてほしいという自己主張の精神が勝る。

鬱陶しい。分かっている。鬱陶しいから、抑えたい、こんな自分。鬱陶しいから、表に出したくない、こんな自分。だから私は白紙に向かってタイピングし続けるんだな。みっともないな。悲しいな。

自分のことを何でも話したくなる人に会った。あ、この人だ、と思ったのはやはり10年ぶりだったので、私は10年周期でしか人を好きになれないのではなかろうか、という仮説を秘密裏に立てて一人で楽しんでいる。10年ぶりに好きになった二人目の人はしかし、やはり、やっぱり、私のことを好きではない。いや、聞いてないから分からないが、そして多分に、「まあ悪くは思ってないんだろうな」と感じるのだが、お互いの年齢と立場と体裁を考えると、私もあまり明け透けなことはできないし、それは向こうも同じだろうと思う。私は今すぐその人に連絡を取り、自分が何をしているのか、どうしているのか、どう思っているのか、何が起こっているのかをつぶさに語りたい。

語りたい。鬱陶しい言葉、出ました。でも、そうなのだ。飾らずに書くと、思っていることをそのままその人に話して聞いてもらいたい。何のためらいもなく喋り続けたい。その人に、私の話を、聞いてほしい。その人の心や頭の中に、私という手作りの木製の犬小屋を作って置いておいてもらいたくなる。その犬小屋はきっと歓迎されないが、相手は大人なので、積極的に排除もしないだろうと思う。

その人と一緒にご飯を食べに行ったことが何度かある。そこでもやはり私は一生懸命喋り、居合わせた人に、「そんなに喋るんですね」と驚かれ、その人は「(犬さんは)いつもこうだよ」と言った。私はその人といる時はいつも大体ものすごく喋るので、逆に普段どれだけ喋ってないのかなと面白くなった。

私が連絡を取り続ける限り、その人は返信をし続けてくれると思う。人間関係というものはどうやらそういうものらしい。私のように、思い立ったら返信するのではなく、基本的にやってきた連絡というものには真面目に返信するらしい。だから返事があったくらいで喜んではいけない。だけど、返事がないと不安で恥ずかしくていたたまれなくなるし、返事があったらあったで、その淡白さにまた苦しくなるし、どちらにしろ苦しいのは変わらないのだった。連絡してもしなくても苦しむのなら、恥ずかしさがない分、失敗しない分、関わらない方がいい。歳をとって世間体を身につけた私は、そう判断した。それで、毎日、悶々としている。ああ、あの人から連絡が来ないかなと思っている。連絡、なんか、来るわけ、ない。

死にたさが周期的にやってくることにもう慣れた。手首を切ったり知らない人と寝たりするのももう面倒くさい。とにかく死なない程度に、生活の品位を保てる程度に、働かなくては。そう思って、ある意味本当に、歯を食いしばるようにして働いている。いや、食いしばるほどでもないのだが、しんどい。私は人生を休みたい。人生を一回降りて、休みたい。だけど経済的にも社会的にも、そういうことはできない。いや、できるのかな。できるのかも知れないけれども、15歳や20歳と違うのだ、しっかりしなくては、社会の輪の中に入っていかなくては、というプレッシャーを、自分で自分に、ひしひしと掛けている。社会の輪の中にいない自分は、ひたすら自堕落で体調が悪かった。一方で社会の輪の中に組み込まれている自分も、それなりにしんどくて体調は悪いのだった。ほらね、安住の地はない。私が住める場所ってない。私に居場所がない。いつもそう思う。

デリー大学のサウスキャンパスにも犬はいる

2019年11月11日月曜日

幽霊からの接触

誰もいない部屋で繰り返し独り言を唱えている。イギリスやインドに住んで思ったことは、どこにいても自分の行動範囲と興味の範疇は狭く、私は必要がない限り外出を避けるということだ。偉そうに宣言できたことではないが、どちらにしろ、どこにいても、私は部屋にこもりがちだ。そして何年か十数年か前の思い出を、繰り返し、目の前に存在しない人々に向けて喋り続けている。目的は特にない。頭がおかしいとも思わない。他に特に娯楽がないし、そうしていると気が紛れるし、言いたいことが言えて楽しい。それだけだ。相手の反応を気にする必要もないし、話しすぎて相手の拘束時間を気にする必要もない。ただ何も考えず、自分の思う通りに振るまえるからだ。ということは、普段の私は、思い通りの生活を送っていないのだろうか。

一ヶ月に一回くらいの頻度でメンタルブレークダウンというのか、精神的に落ち込む時が来る。ここで変な横文字を混ぜてしまうのは、ちょうどいい日本語がだんだん分からなくなってきているからだ。精神的な不調というほど深刻でもなく、落ち込みというほど頻度の高いものでもない、ただ本当にメンタルがブレークダウンして働かなくなる感じがある。でも私の英語の発音はなかなかひどいので、横文字混じりにしか喋れなくなっている自分はなかなか可哀想ではある。

ツイッターをやっているのだが、そこで私が書いたことを、私の好きな人が見つけて読んでくれたら良いなといつも思っている。だけどその人は私の書き込みをそもそも見つけるはずもなく、私もその相手に直接的にコンタクトを取る勇気がない。だって、嫌われたり、疎まれたりするのが怖いから。その人にとっての私は過去の幽霊みたいなもので、過去のほんの一時期に接触のあった相手から、繰り返し繰り返し接触の要請と要求の暗示のようなものが来たら怖いだろうから、幽霊の私は大人しく相手が来るのを待っている。でも多分、来ないんだな。私が惹かれる人は、いつも私を好きにならない。そして私はいつも、私を大事にしてくれる人と一緒にいる。

ムンバイのThe National Museum of Indian Cinemaから見えた何か豪華なマンション